四、将軍
「此処、良いかしら、」
突如響いた綺麗な鈴の音の様な声、だけど、何処か攻撃的な声。
三人の視線が一斉にその声主に集中した。
近付いて来る音、この広い甲板で気配すらしなかった声主を見て、思わずカムカヌカは唾を呑んだ。
「・・・・夜無空の・・・、歌手・・、」
前頭部分の大きな赤い薔薇細工から幾重にも頭部を覆う、細やかで美しい刺繍布。
それは鼻の辺りまでを隠し、顔は良く見えないが、紅いルージュが引かれた口元は微笑んでいる。
そこかしこに縫い付けられた金細工はきらきら揺れて、白いドレスと真紅の長い髪を強調した。
そう、それは紛れも無い、夜無空の台で歌っていた、歌手だった。
近くで見ると、その細さ、白さ、冷たさを一気に感じる事が出来た。
先程、街を後にする際、歌手がヨル達に接触してきたのを、カムカヌカは思い出していた。
あの状況は、、穏やかとは言えなかった筈だ。
少しの間、ヨルもネインも彼女も、まったく微動だにしなかった。
みなヨルが何か言うのを待っていた。
ヨルは腕を組んだまま、じっとりと歌手を見つめるだけだった。
睨み合い、沈黙・・・。
星の流れる音が、小さいながらも耳に痛い。
ふと、カムカヌカは歌手が手にしている、黒いハンケチに気が付いた。
(ああ、そういえば、黒い涙を流していたっけ、)
ぼんやりと見つめるその視線に気付いて、沈黙を破り、歌手が口を開く。
「ああ、御免なさい、今夜のわたくしの涙の雫は、こんなにも黒く濁ってしまった、」
「如何して、」
自然に口をついて声を出してしまったカムカヌカは、直ぐに何かいけない事をしてしまった様な気持ちに襲われた。
ヨルとネインの冷たい視線を無視し、彼女は回答した。
「信じられない、淡闇夜なのに魂がひっつかまれてしまったの、
わたくしたち天体団は光彩に弾かれてしまうから、お役目も果たせずに、
罪の無い緑が、また舟に喰われてしまうのだわ、」
彼女はわざとらしく、黒いハンケチを目に押し当てた。
その時、実に瞬間的に、銀河の星々を絵の具で塗り潰した如く、全く別の景色が舟を包んだ。
舟が、停まった。
淡夕色に沈む太陽、飛蟲の鳴き声・・・
見渡す限り山と草原の、我令暖の夕暮れだった。
静寂に頬を照らす陽光は力無く、生暖かい風が、カムカヌカの肌を撫でる。
舟の外には点滅光球ででかでかと、「東和夕焼港」と映し出され、ネインも物珍しそうに景色を見渡していた。
しかし、ヨルと歌手は、お互い目を逸らす事は無かった。
此処で降りてみたい、少し歩きたい、カムカヌカは状況に反し、心を躍らせていた。
しかし僅かな停泊を終え、舟はゆっくりと滑り出す。
余韻を噛み締めたい所だが、そんな隙も無いまま、また一瞬にして世界は銀河に彩られた。
「・・・そういう事、」
港を抜けるのを待っていた様に、ヨルが静かに口を開いた。
腕組みをしたまま不適な笑みで、ゆっくりと立ち上がる。
歌手は黙ってヨルを見据えた。
「天体団自ら僕に侵入とは、徘徊する暇も無かったのかな、
将軍」
「随分苦労しましたよ、堕帝、
このリュヌの天舟、実に良く出来ているわ。
位球ですら感知出来なかったもの、神の慈愛よ」
将軍と呼ばれた彼女は、嬉々として応対した。
まるでヨルの事を、好いているかの様に。
その後ろでネインは、怯えと言うより、憎悪を押し殺した表情をしていた。
「誉めてあげよう、将軍、
よくこの舟に近付けたものだ、天体団には呆れ返る。
黙って聖母の床で眠っておれば良いものを、」
心の無い拍手をし乍らヨルは目を見開いて将軍にそう吐いた。
その台詞はどうやら癪に障ったらしい。
彼女は歯を見せたと思うと、胸の前で何かを渡す仕草をした。
刹那の出来事だったが、その動作は実に優雅で、優しさと慈悲に満ちていた。
何をしたのか咄嗟にはカムカヌカには理解出来なかったが、それは攻撃であった。
彼女が優雅な動作をしたと思うやいなや、ぎらぎらと艶めくヨルの眼帯目掛けて、光の矢が放たれた。
キン、、
ヨルは避ける事もせず、円状の金細工を縫い付けた眼帯に、まともに矢を受けた。
眼帯には何か術が施されているのか、矢はヨルの脳を貫く事無く、光は行き場を失くして滞り、有り余る光原力は彼の被っている豪華な帽子を引き裂いて宙に散った。
眼帯を軽く擦って余裕の笑みを見せるヨルの紅い瞳は煌々と燃え上がる。
出会ってから初めてあらわになった銀の髪の全貌は、恐ろしく眩しいものだった。
あっけにとられたカムカヌカを他所に、ヨルは素早くネインと包帯人間を掴み、足元にいつの間にか開けた空間の裂け目へ消えていった。
咄嗟にネインがカムカヌカの手を取ったので、三人は再び裂け目による転送へと廻舞していく事と成った。