二十三、出立
雨が激しく本降りを始めた。
音を立てて甲板を打ち付ける雨に、身じろぐ者はひとつも居ない。
たった今起こった出来事に目を疑い、全員、脚に根が生えたみたいに佇んでいた。
まるで刻が止まった世界、。
「・・・・・・・・・・・」
ネインを抱き、ぽかんと口を開いたまま無言で床を見つめていたヨルが、向かいに立ち竦むハイドに瞳を上げた。
目が合ったハイドはびくりと姿勢を正し、構えていた銃を下げつつ、視線を逸らす。
ヨルは次に背面を振り返った。
すぐ後ろで事の全てを見てしまったダンテが、これまた視線を外す。
其の遠くに居る専属魔術師達も、示し合わせた様に、順番にヨルからの空虚な視線をかわしていく。
ヨルはもう一度、カムカヌカが吸い込まれて行った床を眺めた。
雨が激しく肩を叩き、ヨルの足元へ薄めた血の溜まりを成す。
「ユイルアロウ殿、!」
急に声がして、棒立ちの将軍三名の頭上と足許に、瞬時に青白い円陣が出現した。
それぞれを天と地で挟む様に造形されたそれは、中央の標的に対し、重力を増す。
三名が鈍い悲鳴を上げたのと、ほぼ同時に舟上に降り立ったのは、天球法議会専属魔術師、小蓮だった。
「晩くなり、申し訳ありません、」
長上着をはためかせてヨルの隣に現れた小蓮は、相変わらず目許を和ませたまま、軽く頭を垂れた。
小蓮の登場に、硬直していたヨルの意識がはっと、我に戻される。
「・・不手際だったな、小蓮、だから僕は出席を拒絶してやったのに、」
ヨルはネインの身を胸中に、長身の魔術師を見やった。
「過ぎてしまった出来事を戻す力が貴方に御有りですか、?
下ばかり気にかける、皇帝として玉座を手離してしまった、貴方の悪い癖です、」
小蓮はにっこり微笑んでみせると、傷だらけのヨルを下がらせた。
遠くに居た藍煌達が飛び寄り、小蓮の傍を固める。
ヨルとネインの盾に立つ、四人の魔術師を見て、円陣が生み出す重力場にもがいていた将軍ダンテが、口端を吊り上げて目を細めた。
「貴様ら、此の儘では済まさぬぞ、緑を携え我等は穢れたこの舟を
冥月もろとも石炭袋にて、葬儀を辱めたもう、!」
ダンテは鋭くそう唸ると、小蓮が展開した円陣の壁を叩き割り、空間の歪みの向こうへ消えて行った。
ハイドと、女も、同時に姿を晦ましていた。
小蓮の魔方陣が、硝子の様に、床に散らばる。
肩の荷が降りたみたいに、ヨルが深い溜め息を吐いた。
魔術師達もそれに習って緊張を解くと、水を吸って重くなった長上着を払う。
静寂を取り戻した甲板で、再び雨音が跳ねていた。
黒い煙を上げる宮殿を悲しげに見つめる藍煌の頭を、頭布を被ったままの魔術師が優しく撫でる。
気絶しているネインを支え舟の外を見渡していたヨルが、急激な眩暈を感じ、体勢を崩した。
青い顔のヨルが地へ雪崩れる前に、小蓮が素早くその身体を、受け止める。
「議会衛星はもう駄目です、我々をお乗せください、」
小蓮がヨルに懇願し、頭を下げた。
ヨルは支えにと回された彼の腕を押し退け、好きにしろ、と呟いた。
銀の髪が水に濡れ、疲労を映すその紅い眼差しを透かして、顎を伝う水滴が涙の様に甲板を濡らした。
「大将、」
藍煌がもう駄目、と言った小蓮を見上げた。
何かを訴える切なその瞳に、小蓮は無言で首を横に振る。
藍煌も幼いが、れっきとした専属魔術師だ、従うべき事柄には、従うしかない。
それを理解している彼は、唇を噛むと、黙って一礼し、背を向けた。
「戦争、無能な天体団を潰す良い機会だ、後を追うぞ、」
出血多量のヨルはふらつき乍ら縁に摑まり立ち上がると、もう一度、舵を創り出し、せせら笑った。
瞳孔は開き、全身から苛立ちが渦を巻いて立ち昇っていた。
「成りません、」
小蓮が、怒気の割りに力無く舵を握る、ヨルを制止した。
「此の儘追えば、一瞬で沈みます、早急な全快が先決でしょう、
さきの戦闘での緑による蝕撃が効いています、遠回りですが、医療合の集中治療室へ舵を取るべきです、」
諭す様に宥める小蓮に、ヨルは口を尖らせた。
「おい、黙って乗れないなら、降りろよ、船長は僕だ、追うと云ったら、追う、」
紅い瞳をきっ、と、眇めるヨルの顔色は悪く、去勢であることが明らかに見て取れた。
先頭を向き直り、颯爽と舵を取るヨルを見て、やがて黙っていた小蓮が、溜め息を吐いた。
その彼が深々と頭を垂れているのに気付いたヨルは、その一礼が何を意味するのかに息を呑み、慌てて歩を退く、、、
・・・・が、遅かった。
あっという間にヨルの眼前に移動した小蓮はその手刀を、再びどくどくと血の溢るる彼の脇腹へ、情け容赦無く食い込ませた。
声にならない悶絶を押し殺し、ヨルは床へくずおれた。
「手荒な真似をお許し下さい、僭越ながら、この舟の舵はわたしが執らせて戴きます、」
飄飄と微笑む小蓮に、藍煌が惜しみ無い拍手を贈った。
「舟の、・・燃料に、して、やる・・っ、、、、、、」
頬を雨で濡れそぼる床に押し付け、脂汗を滲ませて、ヨルが呻いた。
聖母の様な優しい笑みを浮かべ、先程の対戦闘主砲によって開けられた風穴へ舵を進める小蓮は、ふ、と、五明があらぬ方向を眺めている事に気が付いた。
「、五明、如何しました、」
雨の所為でうねりの更に強くなった髪を強風に無造作に遊ばせた五明は、緑の瞳を巡らせてぽつりと溢す。
「蝶が、いない、」
ヨルと魔術師たちは、一瞬考え、目を瞬かせた。
そして軽く小刻みに幾度か頷き合うと、何事も無かったかのように、舟の行く先を見据えた。