十二、女王
懐かしい、油絵の匂い・・・
何処かから漂ってくるその香りを追って、カムカヌカは議会衛星の宮殿をうろついていた。
油の匂いは意外に強いもので、中庭の花壇の甘い香りすら掻い潜って鼻に届く。
カムカヌカは何度目かの足元のふらつきを感じ、一旦、壁にもたれて歩を休めた。
半日程前に、首を刺され体内の緑が多量に失われたカムカヌカは、胸から心臓の鼓動が失われていた事に気付き、肺を押さえた。
芯から息を吐き出して呼吸を整える。
そうしなければ何処までも今の自分の存在に疑問を抱き、這い上がれぬ深い深い後悔に苛まれてしまいそうだったからだ、。
眉を顰めたまま顔を上げたカムカヌカはその視線の先に、ついに開け放たれた一枚の扉を発見した。
油の匂いは如何やらそこからのものらしい。
カムカヌカは息を潜め、足音に気を配って、ゆっくりと扉との距離を詰めた。
途中にあった人の背丈ほどの彫刻に隠れ、また一息つく。
そっと首を伸ばし、部屋の中を覗くと、その中央で誰かが背を向けて座っていた。
腰まである真白の髪は豊かで、複雑な髪飾りが幾つも頭脳を彩っていた。
肌も服も白いその少女が向かっている白板には、黒い何かが荒々しく描かれている。
あまりにも儚いその後ろ姿に、カムカヌカは寒気を覚えた。
と、白板の向こうの窓布が揺れたほんのその刹那、カムカヌカの見ている目の前で、少女は消えた。
カムカヌカは反射的に、部屋の中へ駆け込んでいた。
(、、、居ない、)
窓からの爽やかな通り風が髪を撫で、傾きかけた陽光が不気味さを募らせる。
部屋は殺風景で、此処だけ議会衛星お得意の蒼基調では無く、壁も床も、真白で有った。
カムカヌカは部屋全体を伺う様にして白板に近付いた。
低い机の上には散らかった濃色の絵の具と、開けっ放しの油壺が載っている。
カムカヌカは描きかけの油絵を興味深そうに見つめた。
黒と紺で塗られている此れは、・・・・・・・
「、蝶?」
カムカヌカは首を傾げて呟いた。
「それ以外に如何う観えると申す、」
突然振って来た偉そうな声に、カムカヌカは飛び上がった。
白板の向こう側に白い脚を見つけ、声にならない声を呑み込んだカムカヌカは机に当たり、絵の具と油壺を派手にぶち撒けた上に尻餅をついた。
白板の陰から先程消えた少女が姿を現す。
白い身体は向こう側が透け、窓の外の青い空との対比が見事だった。
「、、キ、・・・幽霊、、」
腰を抜かし唇を震わせるカムカヌカを見下ろし、少女が憤慨した。
「失礼な輩め、驚いたのは此方だ、勝手に部屋に侵った上に、幽霊などと、何処まで無礼を働く、阿呆が!」
カムカヌカと同年程の見た目の少女は、光り輝ける大きな金の瞳をしていた。
この眼には見覚えがある---
気の強そうな彼女は身体の透け浮きの点滅を繰り返し乍ら、ふ、と目を細めた。
「・・・お主、、緑、か?」
カムカヌカは無言で頷くと、机に摑まって立ち上がった。
尻面を軽く払うと、ひとつ咳をしてから口を開いた。
「勝手に入って、悪かった・・です。油絵の匂いがしたから、此処まで来ました、」
「、・・・こんな場所で精神の有る緑に出遭うとはな、」
少し驚いた様子で、少女は金の瞳をみはった。
彼女の瞳は人間のものでは無い、黒い小さめの瞳孔は、横に一直線にのびていた。
少女はつまらなさそうに続けた。
「どうせ月の舟の客人だろう、?」
「はい、カムカヌカといいます、」
「魂魄のみとは云え、此処に居るだけお主は幸運だ。魂は直ぐに呑まれ、舟を燃やす糧と成る。
堕帝は冷血な壊鬼、誰も良く想っていない」
少女はふん、と鼻を鳴らし、落ちた絵の具を拾い出した。
カムカヌカも慌てて手を伸ばす。
(そういえばヨルを良く言っているのは今のところネインだけだな、)
カムカヌカは少しヨルが哀れに思えた。
どんな理由で今が在るのかは解らないから、それ以上の感情は持ち出せない。
「あの、貴女は、誰ですか、」
絵の具を拾い乍らカムカヌカは少女に目をやった。
今まで居たその場所に、彼女は居なかった。
カムカヌカは机に拾った絵の具を丁寧に載せ、呆然と立ち竦む。
また、消えた------
窓布が風に揺れ、カタカタ音を立てた。
「済まない、陽の在る内は如何にも駄目なのだ、」
また急に声がして、少女は透け乍ら窓際に姿を現した。
豊かな白髪が揺れる風の中で、彼女はカムカヌカを見据えた。
「わたしは夜葬の蝶の女王・アマカケルオボロノコハク、」
名乗った彼女からは近寄り難い、神気とでも呼ぶべき純粋な力が放たれていた。
(夜葬の蝶・・・・、)
彼女の神々しさを肌に染み感じつつ、カムカヌカは瞬時にあの蟲籠の双子を思い出していた。
目を丸くするカムカヌカを見て、コハクは薄く笑ってみせた。
「、緑刻で生まれ育ったお主に夜葬の蝶などと名乗っても解せぬまい。
我々、夜葬の蝶は陽光差す日中は姿形を保つ事が不可能な存在。
保つ、というと語弊が有るな、昼間は存在亡き者なのだ、そして月の煌く夜の間だけ、其の命が許されて居る、」
コハクは顔を曇らせ、透け浮きを繰り返す掌に目を落とす。
「最も力の強いわたしですら、このざまなのだがな、」
不満そうに眉を顰める彼女に、カムカヌカはあの双子の事を話そうと思った。
だが、話して良いものか否かの判断がカムカヌカには出来なかった。
あの双子はたぶん、あそこに捕らえられているのだ。
「まあ、お主には関係無い存在なのだがな、
其れより何だ、油絵に興味が------、」
彼女が白板のもとに居るカムカヌカに近付いた時、足音が聞こえた。
それはだんだんこちらに向かっている。
廊下をひた走る静かな足音に二人は耳を澄まし、人影が部屋の前を通るのを待った。
開いている扉が此処にしか無い事はカムカヌカも知っていた。
きっと息遣いを殺してこの部屋に飛び込んでくる。
ば、っ!
思っていた以上の速度で侵って来た人影が、既に部屋にカムカヌカ達が居るのを察知し、懐から何かを構えた、。
ほぼ同時に、カムカヌカの脇をコハクが飛ぶ様にすり抜け、両手を大きくかざし、相手の胸元に魔法を構えた、。
ほんの、刹那の出来事だった。
瞬きする間にカムカヌカの少し遠く、部屋の入り口で、コハクと侵入者が向かい合い、お互いの急所を狙ったまま睨みあっていた。
「、げっ、、、蟲、、!!!」
「ユイルアロウ、!?」
「・・・・・ヨル、」
カムカヌカは無駄に緊張した胸を撫で下ろし、ヨルに対して少し恨みがましい怒りを覚えた。