十一、退出
そろりと、カムカヌカは寝台を降り、ネインを起こさぬよう抜き足差し足で部屋を出た。
閉扉時の消音に神経を巡らせ、一息ついてカムカヌカは辺りを伺った。
-------誰も居ない。
広い広い廊下が前方と左右に広がっている。
如何やら今居た部屋は通路の突き当たりにあるようだ。
カムカヌカは鼻をひくつかせ乍ら自分に頷くと、匂いの漂う方へ歩き出した。
ぴかぴかに深い蒼に輝く廊下は右手に幾つも扉が並び、左手は壁を規則的に曲線状に刳り貫いた風通しの良い造りに成っていた。
中庭と見られるその外には青々と若葉が茂り、カムカヌカが見た事の無い花で溢れている。
時折風に乗ってむんわりと甘い香りが胸を満たし、中央に僅かに見える豪華な噴水からの飛沫も届く事があった。
歩けば歩くだけ等間隔に飾られた彫刻や絵画が静かにカムカヌカを出迎えてゆく。
(此処は楽園なのだ、)
カムカヌカは美しい美術品に目を細めて油の香りを追跡した。
通路の天井に描かれた星図と神神が、彷徨うカムカヌカを見詰めていた。
「もう良いって、言ってるだろう、!」
ヨルは怒鳴った。
途端に眩暈が襲い、座り込む。
其れを見て怒鳴られた男は穏やかに話す。
「大人しくして下さい、貴方は血を流し過ぎています。舟がその灯火を鈍らせているのを、港係が訴えておりましたよ、」
「僕が大丈夫と言えば大丈夫なんだよ、全く、一体何時からそんなに世話焼きに成ったのだ小蓮、」
ヨルは痛みで苛立ちを抑制された事に更に腹を立て、噛み付いた。
小蓮、と呼ばれた長身の男は宥める様に促した。
「血墓に迷われては冥月が悲しみますよ、我儘も大概に。」
「・・・天球法議会を百刻中に天獄へ突き出してくれよう、」
困った様に笑う小蓮の後方で、扉に斜に構えていたもう一人が口を割った。
「懐に風穴を開けられて何とする、弱り切ったプヴェル・トロンタよろしく、
今のお前には天体団も価値を見出すまい、」
舟上に現れた時の長上着のまま、刺す様な口調で男は言った。
怒りを瞳に押し込んで小蓮越しに目を細めたヨルは、首を傾げた。
「・・、小蓮、あいつ、誰?」
「ああ!初対面ですか、彼は貴方が議会にお越しにならなく成った後に、専属魔術師へ入属した、五明です。」
「へぇー・・・・」
ヨルは興味無さそうな返事をして寝台を降りると、五明と紹介された男の前に立った。
腕組みして五明をじろじろ見詰めるヨルを前に、小蓮が挨拶を、と促すと、彼は長上着の頭布を捲って床に方膝をつき、深々と一礼した。
初めて顔を見せた五明は小蓮より若く、強く波立つ濃い黒の髪と緑の澄んだ瞳をしていた。
「冥月の天舟に乗せてやるよ、五明、特等席だ、」
不適な笑みで紅い眼光をぎらつかせ、銀の髪を風も無いのにざわざわと浮き上がらせたヨルを見て、小蓮はやれやれと小さく首を振った。
五明は無言で立ち上がり再び一礼すると、蒼い壁に吸い込まれて退出した。
常に目元を和ませている小蓮は息をつくと、肩で一括りにしている焦茶色の髪を手で払い声をかけた。
「彼には後で言っておきます、さあユイルアロウ殿、点滴が未だですよ。」
薬品の詰まった袋をがさがさする小蓮を見て、ヨルはしばし考え、にやりと笑った。
「緑が貴方に与える蝕撃はそれはそれは恐ろしいものです。
吐く程に受けたのですから、この様な議会衛星の小さな集中治療室では充分ではありません。
今迄に受胎した取引の事も有りますし、一度、医癒合へお出向きに成り、精密な検証を・・・・」
小蓮が点滴の針を手に振り向いた時には、既にヨルはそこに居なかった。
優しかった小蓮のこめかみに、小さく青筋が浮かんでいた。