一、夜無空
光彩を囲う銀闇の刻
夜を乗せて舟が来る
月を廻るリュヌの天舟
沈んだ魂をひっつかんで
終曲の旅へ出る
守二四、冷え込みが増し八花初降りしきるこの本日に
如何いう訳かカムカヌカは星線香を全て失くしてしまった。
星線香はリュヌの声を聴き入れる苗床として本日の夜無空には
欠かせぬ持ち物であった。
(つくづく運無き腕・・・)
白い息を吐き出した彼は、適当に羽織ってきた薄っぺらな上着をひとしきりガサゴソしてみるも、あったはずの数本の星線香は何処にも見付からない。
落とした覚えを詮索するも、不透明でもやもやしたものに阻まれた不思議な感覚にぶつかり
記憶が曖昧で脳が凍っている。
(・・?)
カムカヌカは脳の異変を深く考えまいと頭を軽く振り、首もとの毛暖を
一層きつく巻きなおすと、回れ右で降り止まぬ八花の中を銀十路とは逆に歩き出した。
カムカヌカは最近常に何かしら煩わしさを感じるようになっていた。
小さなこの街でひとりで暮らす彼は、同年代の子達とは違って現実に冷めていた。
黒いバサバサな髪に、何事も冷ややかに映す蒼い瞳。
そしていつも目立たない上着を適当に着て、牛乳を配る仕事をしていた。
今年で18になる。
毎日が退屈な繰り返し、孤独も嫌というほど食い込んでくるもので、家の灯りや夕食の香りが
カムカヌカにとっては毒であった。
この退屈と孤独と決別出来るなら何だってする。死、より、消滅を望んだ。
そういう意味では現実に冷めているというよりも、ただの夢見がちな人間なのかもしれない。
きっといつか、見たことも聞いたことも無い世界に行けるはずだ、
そう強く望むことで、不可能はきっと免れる、僕は信じることを辞めはしない
カムカヌカはいつもこんなことをぼんやり考えては、絵を描くことに没頭していた。
暇を見つけては白板に向かい、不鮮明な硝子のようなものをひたすら描いていた。
夜無空は街を上げてのイベントなので、丸三日仕事が休みになる。
これを利用して配達寮に篭り、今日も描きかけの油絵を仕上げる予定だったのだが、人恋しさが勝ってか気が付けば街に来ていたというわけだ。
この小さな街の中心広場に真っ直ぐに突き刺さるどの家よりも巨大な剣、銀十路。
遥か太古にやって来た月の舟の使徒の剣とかで、この街の印点となっている。
夕焼けは銀十路に跳ね返り、カムカヌカの背中を焼いた。
すれ違う楽しそうな若者や家族は、みな祭りの中心である銀十路へ向かっている。
夜無空の灯は間も無く街を照らすだろう。
賑わう声が心を蝕む。
・・・・嫌だ。
ト。 「!」
古十路の曲がり角、小さな衝撃。
「逆光を飲み込む薄闇に、逆境を吐き出す白昼夢よ、
何処かで自らに捧ぐ偽岸華を見かけませんでしたか」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・は」
少年だった。
街一番の名門校・世勉の制服を着た十にもなっていないであろう、幼子。
澄んだ黒い瞳に、ベレエ帽から少しずつ覗く栗色の髪は夕日を受けて
ところどころ金に光って見えた。
逆光を飲み込む薄闇の・・・・なに?
「急いでいるんです、僕」
焦った様子で彼は一歩、目が点のカムカヌカに近付いた。
そのとき、カムカヌカは少年の手の星線香に気付いた。
「夜無空はきっかけです、信号です、」
「・・・・・・・」
「夜が来るんです、舟で」
「・・・・・・・」
意味は、わからなかった。
だけどもカムカヌカには何か確信があった。
寒気に頬を赤く染めたこの不思議なことを言う少年に、
ガラス玉の様に煌びやかな夢への入り口を診る気がする。
自分でもよくわからない、何を犠牲にしてもここではない何処かへ還りたい、という純粋な欲望を抱くカムカヌカを縛る、この世界では誰にとっても当たり前のつまらない鎖。
それが今まさに断ち切られんとしている、という予感がカムカヌカの背筋をこわばらせた。
それは本当にただの直感で思いつきだったが、カムカヌカは自分を信じて疑わなかった。
ほんの少しの沈黙が流れた。
じっと言葉を待っていた少年に、カムカヌカは慎重に声をかけた。
「・・・君の偽岸華は、見ていないな、」
偽岸華は死んだ者に送る花。
この花の名前を口にするのを忌み嫌う者は多いが、カムカヌカはそんな事思ったりしない。
なのに何故、こんなにも心臓が激しく脈打つのか、自分でもわからなかった。
「もしかして葬儀にでも行くのかい」
カムカヌカの言葉に少年は首を振り、「葬儀だなんて、贅沢です、」と小さく呟いた。
その意味を詮索せずにカムカヌカは続けて口を開いた。
「じゃあ、きっかけだと言うのなら、夜無空を見に行ってみる?
一緒に、探してあげる、」
手の汗を感じながら、カムカヌカは慌てて付け足した。
「迷惑かい」
どぎまぎするカムカヌカをぱっと見上げ、少年は嬉しそうに微笑んで「いいえ」と言った。
そして手にしていた星線香を一本差し出した。
「あげます、星線香が無いと帰れなくなってしまいますから・・・」
「有難う、」
カムカヌカは星線香を受け取って、ポケットに入れた。
一瞬触れた少年の手の異常な冷たさと、ちら、と自分を見た哀れむような彼の眼差しになにか恐ろしい妄想を抱き始めている自分がいた。
それでも気付かないふりをした。
----僕は何処にも帰らない
僕の帰りたい場所など命を燃やしてみたところで
この次元の何処にも在りはしないのだから。
カムカヌカはポケットの中の星線香を粉々に折り、謎の少年と連れ立って、
銀十路へと歩き出した。
底の見えない不安と、初めて味わうふつふつと沸き上がる希望が同居した、
何処か気味の悪い心持ちに対する不安に静かに蓋をして。
すっかり日が暮れた銀十路は、明紫と蜜柑色の風船球で幻想郷と化していた。
星線香に灯った緑色の柔らかな光が、点々と人々の位置を強調する。
広場から街じゅうへ伸びる四本の大通りはそれらで揺らめき、吐く息も白いというのに、守二四ではなく我令暖の熱夜を連想させた。
「ネイン」と名乗ったこの謎の世勉の少年は三本もの星線香を揺らし、静かに俯けていた。
二人はとりあえず大剣の真下の台の緩階段に腰掛けていた。
(もう花のこと、いいのかな、)
カムカヌカは横目に、星線香をただ見つめ続けるネインを見て、決心したように口を開いた。
「舟、」
「えっ?」 ネインは敏感に目を上げた。
「言ったろ、先刻。」カムカヌカはネインの反応の良さに驚き、動揺しながら続けた。
「舟って如何いう事、いったいこの街の何処に来るの」
「光彩を囲う銀闇の刻です、とっても巨きな舟!
輪廻の線です、何時までも続く終曲の旅に出ます。
今夜、です、」
弾かれた様に立ち上がり、空を見上げたネインは、不気味なほどうっとりとした表情を浮かべてそう言った。
「・・・・・・・・・・」
「月を廻るんです、リュヌの天舟」
「ぼく、如何しても乗らなければ」
本物だ、カムカヌカは未知なる混沌へ足を踏み入れんとするこの現状に、
ただただ鼓動を高鳴らせるばかりだった。
ネインの黒い瞳が、静かに哀しみで満ちていた。
-------夜無空は魂を失くす日だと云う。
この世界、緑刻とそれを周遊する天体、冥月。
そして全てを照らす絶対のひかり、盟天搭。
この三つの天体の動きと反射によって、緑刻のこの街では一年に一度、
決まって闇の無い夜が訪れる。
白夜だ。
これが夜無空の科学的でつまらないまことの正体である。
しかし、そんな解明がなされる以前から、夜無空に纏わる神話のようなものが存在した。
夜無空は魂を失くす日だと云う。
星線香無しで白夜を徘徊すれば、命灯を目下感知出来ぬ魔物に引っ掴まれ、
喰われるのだと云う。
星線香を手にしていれば、冥月の声が届き、もっとも強力な命灯、
緑に護られ帰ることが出来るのだと云う。
この話を詳しく知る者はもういない。
しかし伝統だけは脈々と続いていた。
ここではない、何処かへ・・・・・
そう求めるカムカヌカは、勿論この逸話を心の底から信じていた。
臆病なカムカヌカにとって、星線香無しでこの夜を向かうのは初めてのことだった。
別に魂を失うのが怖かったわけではない。
ただ、皆と同じことがしたかっただけだった。
でも、今年は違う。
何かが違う。いや、何もかも違うのかもしれない。
疎ましい自己と他とを否定し、すべて投げ捨ててここから発ちたい。
カムカヌカは心にずっと暖めていた言葉を、ついに口にした。
「俺も舟に、乗れる、?」
無言で夜無空の人波をふらつきたしばらく、突然立ち止まったカムカヌカから
これまた唐突に発せられた呪文にも似た言葉。
真後ろを歩いていたネインは、急に立ち止まったカムカヌカに追突し、
慌てて星線香が消灯していないか確認した。
カムカヌカはネインを振り向き、込められる限りの願望の念を注入して力強く言った。
「舟に、乗りたい」
その言葉にネインは少し困ったような表情をした。
しかし悟られまいとする様に、さっと笑顔を作って見せ、カムカヌカの手をとった。
風船球で蜜柑色に染められたネインは、じっとカムカヌカを見つめた。
その手は相も変わらず冷えていた。
人波は不思議と二人を避けて進んでゆく。
黙って応えを待つカムカヌカにネインは今にも泣き出しそうな顔で微笑み、何か言おうとして口を開いた。
その時だった。
「歌・・・・」
二人は目を上げた。
心地の良い速度でゆったりと流れ来る。
如何やら大剣直下の台で歌っているらしい。
流れる人波に乗って、吸い寄せられるように、カムカヌカとネインも夜無空の中心部へと移動した。
銀十路には幾つもの星線香の灯りがゆらめき、まるで緑の大海原を予感させた。
カムカヌカとネインはだいぶ遠くから爪先立ちで歌手を見た。
台から垂れるほど長い鮮やかな真紅髪の女は、蝶細工の拡声器の前で両腕を広げ、
天を仰いで歌っていた。
頭頂から幾重にも上乗せされた白い刺繍布で顔は見えない。
ドレスのいたるところに縫いつけられている金属の飾りが、光を反射して休むことなく輝いていた。
不気味な歌手は歌う。
ちかづいてみては はなれてゆく
つながってみては ほどけてゆく
つきをまわるるふねに
どうぞのせてください
みえないの
あのときしったこたえ
はなれてもわかるの
あのときのつみだけ
ゆめのなか あとかたもなく きえる
つめたいの あたしのて
つきのふね どうぞ のせて
-----如何かしている、カムカヌカは冷静にそう思った。
ちらりと見えた歌手の眼は、淡白闇の空の一点を見つめたまま、まばたきもせずに黒い涙を流していた。
天に伸ばされた白くほっそりとした腕先が、やけに彼女の髪の紅さを強調していた。
(今年の夜無空はおかしい)
カムカヌカは歌手から目を逸らし、隣で化け物と対面したのかという程に怯え石化しているネインを向いた。
その顔は恐怖より、憎悪をうつしていた。
(やっぱり、何か得体の知れない門が開いたのだ、)
得体の知れない少年、ネインのその曇りきった表情は気にも止めず、カムカヌカはただ静かに興奮するばかりだった。
氷の様に冷えきった、不思議な興奮だった。
二番目の歌詞と思いきや、繰り返しを歌い始めた歌手に視線を戻した瞬間。
カムカヌカのごく背後に、誰かが立った---------
「舟への権利を有するのならば、如何ぞこの病的な脳裏を以って
拒絶と愛しみに欺瞞してみせるがいい。絶対的な自由を、僕は拒みはしない、」
「ヨル!」
謎の言葉を発した声主を振り向くカムカヌカより数段はやく、ネインが背面の人影に飛びついた。
「やっと来た、行きましょう、すぐに」
「まだだよ。勿体無いぢゃないか、せっかくの夜無空なのに。
僕は緑刻へ降りたのも久々なんだ、」
「貴方が来たら終わりでしょう、ヨル」
ネインがとても懐くその人物は、カムカヌカより若干年上と見受けられる、少年だった。
発光綿の様に白く透き通る肌に、少し伸びた髪は、幻鳥・羅=シルヴに勝るとも劣らぬ美しい銀色をしていた。
右目にはなにかの紋章が彫り込まれた金細工の眼帯をしていたが、空気に触れる左の瞳は、燃える様な紅だった。
痩せた身体にきっちりとした臙脂色の軍服の様な上着をぴしっと着ている。
その頭には、上着と同じ色の、海賊帽に似た煌びやかに金細工された、大きめの被り物が深めに乗っていた。
その整った顔立ち、普通では無い薄い色素、誰がどう見ても、文句無しの美少年だった。
・・・・しかし、ただひとつ狂しい点があった。
それは立て続けに起こる不思議な出来事に希望を持ち、慣れや余裕さえ産まれ始めていたカムカヌカにも無関心ではいられないものであった。
美少年は、人間らしきものを背負っていた。
如何なる肌も見えぬ程ぐるりに巻かれた包帯は、その「人らしきもの」の輪郭さえ隠している。
死体としか思えぬそれを、彼はリュックでも背負うみたいに平然とおぶっていた。
重みはあまり無い様にみえた。
「乗客、?」
ヨル、と呼ばれたその美少年はカムカヌカの穴を開ける様な視線に気付き、包帯人間を背中から下ろしながら目を上げた。
綺麗な紅い瞳。闇が燃えている。
右目の眼帯の金細工が、細かく揺れて光を反射する。
じっと正面から見つめられると、精神が硬直し、肺が萎むのを感じた。
「カムカヌカです、ヨル。緑賭し者です、」
ネインはカムカヌカを振り向き、紹介する仕草をした。
カムカヌカは、緑賭し者って、何だろう、と考えるよりも、ヨルの鋭い眼光に怯み、弐・参歩下がった。
「ふーん」ヨルはつまらなさそうにじろじろとカムカヌカを見つめ、ニヤっと笑った。
「変な名前」
ヨルは吐き捨てる様に言い、腕を組んだ。
ネインは黙って顔を逸らし、肩を小刻みに揺らしだした。恐らく笑っている。
カムカヌカは微塵も気にしていない風を装い、ヨルに言った。
「・・・君が、月の舟の船長かい、」
「ああ、」
ヨルは短くそう応えた。
カムカヌカの言いたい事は全て解っているという瞳をして、すらりと立っている。
「沈んだ魂を、引っ掴む、
そして再び、永い永い旅に出るのだ、」
ヨルは自嘲の笑みを浮かべ、ほんの少しだけ辛そうにそう言った。
何か感情を押し殺している様な装いに、カムカヌカは気付いていた。
ネインはヨルの腕にしがみついたまま、心配そうにヨルを見上げる。
しかしもう、何も考えたくなかった。
彼らの瞳を曇らせる不安定な何かが存在する意味や、深まる所の神髄や事情など、もう、そんなもの、何だって良い。
異次元への、脱出を---------!!!!
カムカヌカは意を決してその言葉を口にした。
「、俺を、月の舟に、乗せてくれ」
・・・少しの沈黙が流れた。
言ってしまったすぐ後に、急に二人の反応が恐く成り、カムカヌカを冷や汗がつたった。
あまりにも長く感じられるこの沈黙に耐えられなくなったカムカヌカはゆっくりと身を捩り、あの狂しな歌手を視界に捕らえる事に成功した。
夜無空の灯に星線香の緑色が浮かんで幻想的な広場では、相変わらず真紅髪の女が黒い涙を流して歌っていた。
なんとなくその涙が台から溢れるのを見ていたカムカヌカは、歌手の歌が八回目の繰返に入ったとき、声を発せぬ二人に再び向き合うべく、視線を戻した。
「夢映像、負いて昴鳥」
「------------------------」
先刻は数間はなれていたヨルの顔が、鼻が擦るか擦らぬかの距離にあった。
その整った顔も、綺麗な紅い瞳も、近くで観るには、刺激が強すぎる。
カムカヌカは反射的に歩を引き、距離をとった。
「解る?月食の眠りに、濃闇夜を飛翔する昴鳥が、
何故、僕の意識を蝕むのか、」
「・・・・・解らない」
君の全言葉が、と喉まで出かかったがカムカヌカはそれを飲み込む事にした。
解る、僕にきいてという顔をしたネインが、ヨルの上着を引っ張っている。
ヨルは詰め寄っていた身を引いて、薄く笑った。
「当然だね、」
然して邪魔に成らぬ前髪をわざとらしく手で払いながら、ヨルは肩で溜め息をついた。
白い息が空気に消える。
「解らないだろう、うん、
何故灯り無き窓辺に、招く白き手が見えるのか、
何故血を枯らし骨を剥き出しても尚、明日に輝く黄泉を求むのか、
何故禁じられし術と共に封印された骨髄を捜し歩くのか、
ねぇ、如何してなのだか、解らないだろう、カムカルナ、」
「カムカヌカ、」
間違いの訂正をしたのは、カムカヌカもネインも寸分の狂いも無く同時だった。
二人は目を合わせた後、ヨルの顔を見た。
ヨルは腕を組んだまま不機嫌な表情をして、カムカヌカを見、ネインをねめつけた。
「御免なさい、」小さく呟くと、ネインはヨルの死角の真後ろへと身を引いた。
その時突然、拍手が鳴り響いた。
歌手が終曲したらしく、辺りの人波がゆっくり蠢きだす。
ヨルは素早く後ろのネインの手を掴み、カムカヌカに囁いた。
「何処まで行く、」
「えっ、」
ヨルの急な早口に、カムカヌカは戸惑った。
ヨルは一瞬、台で深く頭を垂れる歌手に目をやった。
そして再び囁いた。
「舟に乗り、何処まで行くのかと、」
一層冷え込みが増したのを感じながら、カムカヌカは目を閉じ、考えた。
培った下らない自尊心と孤独、無意味な朝。
全てを捨ててでも、この世界を断てるなら。
どんな事がこの身に起ころうとも一向に構わない。
至って正常な精神を持て余している自分をもう抑えなくても良いと、そう云われている様な気がする。
呼ばれている・・・・・
「何処までも、」
カムカヌカは静かに答えた。
自らに語りかける様な穏やかな口調だった。
「行ける限り、何処までも行く」
「帰るつもりは、」
ヨルが急ぐ如く即言する。
ネインは心配そうに上目遣いでヨルとカムカヌカを交互に見た。
カムカヌカはポケットの粉状の星線香に触れ、意を決してヨルを見た。
「無い、帰らない---------絶対」
ヨルは浅く頷き、意味深に微笑んだ。
目深にかぶられた帽子の奥で、真紅の瞳は無表情だった。
「急ぎましょう、ヨル。濃闇夜に呑まれます、!」
ネインが声を上げた。何かに怯えて左右を見回している。
ふ、と目をやった台からは歌手が消えていた。
「もう少し居よう、接触がある筈だ」
「駄目です!これ以上は憑かれます、さぁ行きましょう、」
肩を竦ませながら忙しなく視線を走らせるネイン。
その手を握るヨルの視線も、人波を泳いでいた。
それは獲物を探す狩人の様に、鋭いものだった。
状況が解らないカムカヌカも何か有るのかと視線を動かしたその時だった。
「見つけましたよ、堕帝」
凛とした声が聴こえた。
ありとあらゆる雑音を縫って、脳に届いた反響する声。
ネインが息を飲んだ瞬間、その人はカムカヌカの真後ろに現れた。
それは先刻まで台に居た、あの不気味な歌手だった。
カムカヌカが振り向くより早く、ヨルがその腕を引き寄せた。
余りの勢いに体勢を崩したカムカヌカは、ヨルが下に置いたままの包帯人間の隣にしりもちをついた。
そんなものに近付きたくないカムカヌカは慌てて腰を上げる。
入れ替わる様に歌手の前に立ったヨルは、背中でネインに言った。
「舟を呼ぶ、カムカヌカと遺証を頼む」
ネインは跳ねる様に姿勢を正し大きく頷くと、右手でカムカヌカ、左手に包帯人間を掴み、
唾を飲んだ。
歌手の細く白い手が、ヨルの頬に触れかけた。
瞬間、光の風が三人を包んだ。
凄まじい光源力を感じる。
歌手はヨルとの間に出現した光の壁に弾かれ、見えなくなった。
これだけの光なのに、夜無空の人々は一人としてこちらを向かなかった。
ああ、見えていないのだな、単純に自分達はいま、存在しないのかもしれない、興奮の裏側の冷めた観点で、カムカヌカはそんな事を考えていた。
歌手が消えていった方向を凝視したまま、ヨルが言った。
「行くよ、」
ネインは「はい」と答え、目を閉じた。
ヨルはちらとカムカヌカを見た。
「・・・・別れを、カムカヌカ。
必要無き後悔を覚悟せよ、最期の忠告だよ、月は寒い、」
「良いから」
カムカヌカは念を押すと、目を閉じてみせた。
ヨルはその様子に目を細めると、黙って光の壁の向こうを睨んだ。
あの女が来たという事は・・・
「もう時間が無い、さようなら、緑刻」
ヨルはそう小さく呟き、海賊帽を深くかぶり直した。
少しだけ、カムカヌカを羨ましく思う自分が憎かった。
「死んだ街へ、病んだ天宙へ」