回想一 地獄を求める糞袋
いつの間にか寝ていたようだ。
いつまで寝ていたのか、三十分だろうか三日だろうか、記憶にはないが、とにかく寝ていたことだけは確からしい。
ベッドに寝転ぶ俺の上で、古い巨大な扇風機がガタガタと音を立てながら部屋の空気をかき混ぜている。
当然そんなもので、この七月の熱帯の空気を冷やすことはできない。
裸の俺の上半身は、ぐっしょりと汗にぬれていた。
しかし、その汗は熱帯の暑さによるものだけではない。
汗からは、アルコールの不快なにおいが鼻をつく。
朝起きて出撃命令が下りないことを知るや、酒をあおって気を失う。
その繰り返しでどれくらいの時が過ぎたのか、そのときの俺にも記憶がなかった。
からからになった口の中に、ベッドわきのテーブルに置きっぱなしになっていたカットグラスから酒を流し込む。
胃が焼けるような感覚にも、もう慣れた。
いつから飲み続けていたのか、俺自身にも記憶がない。
酒瓶の数を勘定する気力すらない。
俺はベッドから立ち上がり、窓の外を確認する。
N領域二三四五地区R-三一。
共和国の最前線の都市。
その昔、インドネシアのジャカルタと呼ばれていたその都市。
そこで俺は、もう何か月も出撃命令を待っている。
出撃を求める嘆願書を、上層部にこれまで何通も書き送っている。
しかし、待てど暮らせど、出撃命令が俺に下ることはない。
なんでも、兵士のPTSDを予防するために、何年間かのうちに半年は完全に軍務から引き離されなければならないらしい。
「はっ」
俺は酒瓶から直に、火の酒をいら立ちとともに胃の中に流し込んだ。
ガキのころからアサルトライフルを抱えて、砲撃を子守唄に育ってきたこの俺だ。
そんな俺の、いまさら何を心配するっていうんだ。
くそったれめ。
《《俺の心は、もうとっくに壊れているんだ》》。
不思議なものだ。
最前線に立てばこの地獄から一刻も早く解放されることを願い、その一方で前線から離れればまた地獄の縁を覗きたくなる。
俺は地獄の縁を覗きすぎたせいで、もう完全に、地獄という存在に心の底からとらわれてしまったんだ。
地獄だ。
俺の心は、地獄を求めている。
俺はベッドに戻り、再びグラスからではなく直接ボトルから酒をあおる。
テーブルの上の、軍の広報誌に目を通す。
東の戦線で、味方が大々的な戦果を挙げたらしいが、俺には関係ない。
これで、共和国側の勝利と正義の実現にまた一歩近づいたとあるが、俺にとってはどうでもいい。
そもそも、何十年も続いているこの戦争が、何がきっかけで勃発し、どちらに大義名分があるのか、俺のような一兵士には何の意味もない話だ。
戦場に帰還できさえすればそれでいい、それだけが俺の願いだ。
俺は広報紙を投げ捨てると、また酒をあおった。
いつから残っているのかわからない酔いが胃あたりをぐるぐる渦巻き、俺は軽い吐き気を覚える。
その吐き気をさらなるアルコールで押さえれば、また更なる不快感が俺の胃のあたりを襲う。
戦争しかキャリアのない俺から戦争を取り上げる、それは、上層部による俺の存在の否定といってもいい。
くそったれ、こんなことをしていれば、俺の勘はますます鈍るばかりだ。
俺は、この薄汚れた部屋の片隅で、ますますやわになっていく。
その間に、敵は戦闘経験を積みますます強くなる。
俺は上半身裸になり、鏡の前に立つ。
小指からゆっくり拳を作り、右手を引くと左拳を前に出す。
そして全身の生命を絞り出すような気合を入れ、俺は右の拳を突き出す。
そして、子供のころから身に沁みついたカラテの基本動作と、型を繰り返した。
一通り終わると、俺の胃から胃液が昇ってきた。
俺は、トイレに駆け込むと、便器に向かい盛大に吐いた。
やれやれだ、俺は戦場にいなければ、クソとゲロを垂れ流して酒を代わりに詰め込む肉の塊でしかないらしい。
俺は口をゆすぐと、再びベッドに寝ころんだ。
シャワーを浴びる気も起きない。
出撃命令は、まだおりない。
―――――
「キャプテン、ですね」
体をゆすられた俺がうっすらとまぶたを明けると、軍服を着た男が折り目正しくたっていた。
「ようやく出撃命令が下ったのか」
俺は上体を起こし、ベッドに腰掛ける。
脳みそを絞り上げるような痛みが俺の頭を襲う。
考えるまでもない、飲みすぎだ。
自分自身の体臭に混じる酒の匂いに、軽い吐き気がこみ上げてくる。
テーブル、そして床に散乱する酒瓶。
「いえ」
お上品な制服組は首を振ると、表情一つ変えずにいった。
「今から二十四地区参謀本部に向かっていただきます、キャプテン。三十分で支度を済ませてください」
「参謀本部だと?」
戦場ではなく?
俺のような一兵卒に、上役さんが一体何の用だ?
くそったれめ、上半身裸のまま、俺は頭を抑えて酒臭いため息をついた。
「罪状は何だ」
「失礼?」
「罪状は何だと聞いているんだ。礼状も出せ」
「軍法会議への出席命令ではありません」
「だったら何だってんだ!」
いらだった俺は立ち上がるが、足がもつれて制服組の胸倉をすがりつくようにして掴んだ。
「とにかく一分一秒でも早く俺を戦場に連れて行け! 早く俺の引き金を引かせろ! 硝煙の匂いをかがせろ! この制服組みのタマナシどもが!」
「お、おい! た、助けてくれ!」
「落ち着け、酔っ払ってるんだ。手荒になるが――」
その瞬間、それ以降の記憶はない。
おそらくは、スタンガンか何かを背中に突きつけられたんだろう。
―――――
「手荒な真似をして申し訳ありませんでした、キャプテン」
目を覚ました俺の横に、相変わらずの折り目正しさで制服野郎が立っていた。
「いや、いいさ。これもあんたの役目だ。だろ?」
制服は頷いた。
「それより、あっと――」
「今から三十分後、出発いたします」
二日酔いにぼやける俺の頭に、制服の言葉がぴしゃりと叩きつけられた。
「キャプテンが気を失っていたため、あまり時間はなくなってしまいました。申し訳なくは思いますが、命令です」
「わかった。すぐ支度をする」
目を覚ました俺はシャワーを浴びて着替えた。
いったいなぜ俺が地区参謀本部に呼び出される必要があるのか、その疑問が俺の頭の中から離れなかった。
しかしそれでも、その命令には軍人として従うよりほかはあるまい。
さっきは取り乱してしまたが、俺はどこから切っても文句のつけようのない、くそったれのいまいましい軍人なんだ。
もしこの時点で俺に命令された任務の内容を知っていたとしても、俺に拒否をする権限はない。
そしてあいつらの操縦するヘリコプターで一時間ほど移動させられた。
途中、二日酔いで盛大に東南アジアのジャングルに向かって吐しゃ物を撒き散らした。