α [アルファ] ~終わらない終末
世界は消えた。跡形もなく。
隕石の墜落でも、核戦争でもない。
ただ忽然と世界は消えた。
生物がとか、地球がとか、銀河系がということではない。
ただ忽然と世界は消えた。
前触れも痛みも苦しみもない終わり。その先にある虚無。
その誰も知らないはずの世界の終末を知る人々がいる。
彼らは滅亡の前の三日間を繰り返していた。何度も何度も。
その意味は誰も知らない。世界の消滅の意味を誰も知らないように。
▼ Episode n
「やっぱ無理。次にするよ」
「うん。また次があるよ」
何度目の挫折だろう。男は成しえなかったことに執着するでもなく、何気なく口元に寄せたカップのコーヒーが空だった時の失望に似た表情を浮かべる。答える女の方にも慰めや励ましの意は感じられず、ただ与えられた台詞をおざなりに口にしただけのようである。
朱に染まっていく西の空を鳥の影が横切る。
「そろそろかな」
「そろそろね」
「じゃあ、またな」
「うん。またね」
「三日前にまた会おう」
二人は声をそろえた。もうすっかり慣れきった挨拶の言葉だった。
輪郭が薄れ、周囲との境界が曖昧になる。身体が空間に溶け込んでいく。世界と一体化する。感情の熱が冷めていく。思考が緩やかになり、やがて――
▼ Repeat 0
漂う。
虚無の世界。
光も闇もない。明も暗もない。静も動もない。
なぜこんなことになっているのだろう――
いつからこんなことになっているのだろう――
どれだけの人がこのことに気付いているのだろう――
やめよう。こんな思考は無駄だ。無駄だと考えているこの思いさえ溶けていく。
肉体は溶け、意識は漂う。
漂いながら虚無に紛れ、やがて――
パァーンッ……!
弾ける。無数の光が砕ける。細かな粒子となって飛び散る。
点が線となり、線が面となり、面が立体となる。
辺りを漂う粒子たちが急速に引き寄せられ形づくる。
意識の容れ物を――。
▼ Episode n′
「で、なぁに? タロウくん」
「あ、いや、俺の名前、タロウじゃないからね」
「うん。知ってる。同じゼミだもの」
「……そっか。どうせあいつが言ったんだろ。まったく。変なあだ名つけやがって」
タロウが投げた視線の先には校舎の壁に寄り掛かりこちらを見つめる女子学生の姿がある。
キャンパス裏の緑地公園から飛んできたカワウが三号館の三角屋根のてっぺんにとまった。バサリと翼をひとつ大きく羽ばたかせ、ストンと腰を落とす。朱のにじむ西の空に浮かび上がる静止した黒い影はとても生あるものの気配はなく、ガーゴイルかグロテスクのような石像にしか見えない。その光景を見てタロウは思う。
――そろそろだ。今回もタイムリミットだな。
「タロウくん? それで話って……?」
「あー……やっぱ無理。次にするわ」
「……?」
もう何度こんな風に未達成のまま終わったことだろう。いまや達成してはいけないことのような気持ちにすらなっている。未達成であることを達成するために。それは緊張から逃れるための言い訳なのかもしれない。それでもたった一言を告げられずにこの日を繰り返すのは、未達成であることの意味を見出したくもなる。
カワウが頭上を飛んでいく。顎を上げ、その姿を目で追う。
ふと校舎の壁に寄り掛かる姿を見れば、彼女もまた飛んでいくカワウを眺めていた。
輪郭が薄れ、周囲との境界が曖昧になる。身体が空間に溶け込んでいく。世界と一体化する。感情の熱が冷めていく。思考が緩やかになり、やがて――
▼ Repeat 0
漂う。
虚無の世界。
光も闇もない。明も暗もない。静も動もない。
私という存在もひどく曖昧で頼りない。
いや、頼りなくはないか。不安や心細さは微塵も感じないのだから、むしろ満たされていると言ってもいいだろう。満たされている? なにによって? もしくは満たしているのは私自身だろうか。満たしている? なにを?
やめよう。こんな思考は無駄だ。無駄だと考えているこの思いさえ溶けていく。
肉体は溶け、意識は漂う。
漂いながら虚無に紛れ、やがて――
パァーンッ……!
弾ける。無数の光が砕ける。細かな粒子となって飛び散る。
点が線となり、線が面となり、面が立体となる。
辺りを漂う粒子たちが急速に引き寄せられ形づくる。
意識の容れ物を――。
▼ Episode n″
ピピピピ……
スマートフォンのアラームが鳴る。
瞼を閉じようとする本能とこじ開けようとする理性のせめぎ合いに楓の表情が歪みながら震える。
……ピッ。
アラーム音が鳴りやんだスマートフォンを握ったまま、楓は仰向けで大きく伸びをする。いつもの日課だ。毎日の、ではない。今日この日の日課。もう何度目かわからない終末三日前の朝の日課。
日常とは同じ日々の連なりだと思っていた。それが思い違いだと気付いたのはいつだったか。日にちすら繰り返される毎日に時間の観念は意味をなさない。とにかく、気付いたのだ。“同じような日々”は、けして“同じ日々”ではないということに。
どれほど似通っていようともわずかな違いがある日々は奇跡の連なりだったのだ。
今更気付いても遅い。既に三日間のループに取り込まれてしまった今となっては。
なぜこんなことになったのか、なぜこのことに気付く者と気付かない者がいるのか、そんな疑問に頭を悩ませるのはもうやめた。わかるはずもないし、わかったところで一介の女子大生にどうにかできる事柄とは思えない。もしかしたら、楓が気付く前からこの三日間は繰り返されていた可能性も高い。現に今、楓の知る限りこの事態に気付いているのは自分のほかはタロウだけだ。
なにが起こるかわかっている日々を過ごすのは苦痛だ。変わり映えのしない毎日に退屈していた頃が実はいかに刺激的だったかが身に沁みる。
三日目は一限からゼミがある。
目を閉じれば自然に映像が再生される。五分遅れでドアを開け平謝りのタロウの姿、まだ午前中の早い時間だというのに何度もおなかが鳴って赤面する桃、上空を通り抜ける戦闘機の轟音に一時中断する先生の声。
遅刻者に同情することも、おなかの虫を笑うことも、迷惑な騒音に文句を言うことも、とっくに飽きてしまった。もう数えきれないほど繰り返したシーンなのだから当然だ。
なぜだかわからないが、今日から三日間はもう何度も繰り返されている。十回を超えるくらいまで数えていた気もするが、もうその何倍も回数を繰り返す三日間になんの興味も持てなくなった。たとえ楓が前回と異なる行動をとろうとも、あらゆる出来事はわずかに迂回するだけで元の道へと戻っていく。起こるべきことは起こるし、起こらざるべきことは起こらないのだ。要所要所は抑えつつ淡々と時は流れる。
痛々しい思春期の感傷的な思いとは比べ物にならないほどの重みをもって自分という存在の軽さを突きつけられる。こんなループに嵌る前ならば、わずかでも希望を持てたのに。明日を埋め尽くす不可能を感じながらも今日と明日の継ぎ目にあるわずかな隙間に潜む未確定要素に希望を見出すことができた。希望を見出したと自分を誤魔化し、前に進むことができた。日々はそうやって流れていた。
定められた道など本当はないのだと今になって知る。
選ぶことなどできないと思い込んでいた。つまりは流されたのだ。社会でも他人でもなく、自分自身の思い込みに流されたのだ。
選べたのに。選べないと思い込んでしまっていた。
本当に選ぶことのできない道はこの三日間のようなことをいうのだ。時の流れに囚われて前にも後ろにも進めない。ただ同じところをグルグルと回る。喜びや楽しみが待つ明日を期待することもできず、苦しみや怒りが待つ明日に不安を抱くこともできず。そう、傷つく自由でさえ奪われる。
今回もまた今までと変わらない三日目が展開する。
ゼミが終わり、みんながガタガタと椅子を引き立ち上がりはじめると、タロウが桃にそっと耳打ちする。楓のほかは誰も気付かない。桃は小さく頷いて、そのまま俯いてしまう。タロウはさりげなくその場を離れる。
タロウがこの自然な態度を習得する過程を楓は見てきた。この繰り返される三日間の中で唯一といっていい変化だ。初めの数回は桃に話しかけるタイミングすら掴めなかったタロウ。それがついに呼び出すところまでできるようになった。
経験の積み重ねが見られるただ一人の人。彼もまた三日間のループに囚われた一人だった。
いや、囚われているのは誰しもそうなのかもしれない。だから囚われたことに気付いている、というべきなのかもしれない。
楓は思う。正気を保っていられるのは、同じように三日間に囚われたことを自覚している人に出会ったからなのだと。タロウがいなかったら――ちらりと思い描いただけで体の芯が凍るような寒気に震えた。
キャンパスの片隅で今回こそタロウは桃に想いを告げるのかもしれない。
趣味が悪いと自覚しつつも楓は二人を見守ることをやめられない。それはこの無限のループを抜け出す瞬間を目にしたいためなのか、二人の行く末に期待と不安を感じずにいられないからなのか。楓自身にも理由はわからない。
毎回楓が見つめていることにタロウは知っている。初めの頃は「やっぱ無理。次にするよ」「うん。また次があるよ」なんて会話をしていたくらいだ。それが回を重ね、タロウは桃と対峙するまでになった。変わらない三日間の中で唯一といってもいい変化だ。
楓もタロウも今までの記憶は引き継がれていく。このループに気付いていない人たちはきっと前回までの記憶が失われているのだろう。それとも別の人物なのだろうか。考えてもわからない。わかったところでどうにもならない。
だから楓は今回も二人の行く末を見つめる。
燃え立つ夕空にカワウが飛び立つその瞬間まで。
▼ Repeat α
漂う。
虚無の世界。
光も闇もない。明も暗もない。静も動もない。
繰り返される時の中で引き継がれる記憶があるならば、それは繰り返しとはいえないのではないだろうか。重ねられていく記憶。積まれていく記憶。蓄えられていく記憶。それらがあるならば、自分たちは時を進んでいるといえるのではないだろうか。たとえ幾度となく同じ日が訪れようとも前回までの記憶を引き継いだ二人は連なる日々の先にあるのだから。
やめよう。こんな思考は無駄だ。無駄だと考えているこの思いさえ溶けていく。
肉体は溶け、意識は漂う。
漂いながら虚無に紛れ、やがて――
パァーンッ……!
弾ける。無数の光が砕ける。細かな粒子となって飛び散る。
点が線となり、線が面となり、面が立体となる。
辺りを漂う粒子たちが急速に引き寄せられ形づくる。
意識の容れ物を――。
真新しい意識の容れ物を。
からっぽの今日を。まっさらな明日を。
はじめての三日間を。
▼ Episode n+
「楓、俺、やっぱ今回も無理だわ。また次にするわ」
タロウはせっかく呼び出した桃に想いを告げずに手を振ると、校舎の壁に寄り掛かる楓の前にやってきたのだった。楓はタロウの肩越しに歩き去る桃と笑顔で手を振り合ってから、タロウを見上げた。
「ねぇ、前から思っていたんだけど」
「ん?」
「どうせ明日は来ないのにタロウはどうしてそんなことするの? どんな返事をもらったって、また一昨日からのやり直しなのに」
タロウは「う~ん」と唸って、楓と並んで校舎の壁に背を預けた。
二人は並んで色づき始めた西の空をぼんやり眺める。
「そうだなぁ……楓はさぁ、なんで次もあるなんて思うの?」
「え? それはずっと繰り返されているからこれからだって……」
「でもその前は繰り返しなんてなかっただろ? そうじゃない?」
「うん。たぶん」
「今日の次には明日があって、明日の次には明後日があった。今日の次に一昨日が来るなんて考えたこともなかった。あ、俺は、ってことだけど」
「まあ、そうね。私も考えたことなかった。ってか、誰もそんなこと考えないんじゃない?」
「そうかもな。でも突然明日はなくなったじゃん。だからまた突然明日があってもおかしくないと思うんだよね。……違う?」
楓は曖昧な笑みを浮かべ首を傾げた。タロウも深い考えがあって発した言葉ではなかったらしく、口を閉ざした。
また突然明日があってもおかしくない――。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。今日の次は明日かもしれないし、一昨日かもしれない。
確かなのは“今”だけ。今この瞬間に在って、感じて、思っていることだけが揺るぎないこと。
三号館の三角屋根の上にとまっていた鳥が伸びをするように双翼を広げる。前傾姿勢になると同時に夕暮れのやわらかな光の中を滑りゆく。朱に染まっていく西の空を鳥の白い影が横切る。
二人はシラサギの姿を見つめながら、もうすっかり慣れきった挨拶の言葉を交わす。
「そろそろかな」
「そろそろね」
「じゃあ、またな」
「うん。またね」
「三日前にまた会おう」
二人は声をそろえた。
「はじめての三日前でもまた会おう」
どちらかがそう言ったように聞こえた。不思議そうに顔を見合わせる二人。けれどもそれ以上問うことも答えることもないままに輪郭が薄れ、周囲との境界が曖昧になる。身体が空間に溶け込んでいく。世界と一体化する。感情の熱が冷めていく。思考が緩やかになり、やがて――
▼ Episode α
適当に提出した選考用レポートは第三希望のゼミにしか通らなかった。まさか第一希望も第二希望も外されることはないだろうと高をくくっていたため、第三希望のゼミでの研究テーマさえよくわかっていない。
楓は新学期からやる気のない足取りで指定された教室を探していた。ゼミ用の小教室が並ぶ廊下を歩いていると、見覚えのある男子学生が向こうからやってくるのが見えた。いくつかの授業で見かけたことがある。いつも誰かしらと笑っているから目を引くのだった。
彼も教室を探しているようだ。楓が目当ての教室番号を見つけ、ドアに手をかけると同時に「あっ!」と息遣いを感じられるほどの耳元で声がした。飛び退くようにして振り向くと、先ほどの男子学生が満面の笑みを浮かべていた。
「ねぇねぇ、このゼミなの?」
「う、うん」
「俺も俺も~」
「そ、そうなんだ……」
「あのさ~、ここだけの話、実は俺、このゼミってなにやるかよくわかっていないんだよね。なんだかんだ言って第一希望か第二希望を通してくれると思っていたからさぁ、第三希望なんて適当に埋めただけだったんだよね」
楓はフッと笑顔になる。初対面とは思えないこの親しげな様子はどうだろう。しかもちっとも不快ではなく、心がほぐれる。そう、まるで、なんていうか――
「なんかさ、俺たち、どこかで会っていたような気がしない?」
今まさに感じていたことを言われて楓は真顔で見返す。
「あ、いや、違うんだって! これはその、陳腐なナンパの台詞とかじゃなくて!」
はしゃいだり、慌てたり、なんとも忙しい人だ。
「あ、そうだ、自己紹介。俺はね」
「――タロウ」
楓の口が勝手に名前を呼んだ。
「え?」
二人の声が重なる。
「いやいやいや……。呼んだ本人が“え?”はないでしょ~」
「あ……ごめん。思わず口をついて出ちゃって。なんか犬っぽかったから」
「犬っぽい名前っていったら、普通ポチだろ」
「ポチって呼んでほしいの?」
「そういうことじゃねーよっ! だいたい、タロウでもねーし」
そしてタロウもふと真顔になる。
「なんだろうな。俺、タロウって呼ばれていたことがあったような気がする」
「私も誰かをタロウって呼んでいたような気がする」
知らないはずなのに知っている。知っているけど知らないはず。記憶の欠片が心に刺さっているようなそんな感覚。
チャイムが鳴る。急ぎ足に教室を移動する学生たちで廊下が賑わう。
「そろそろかな」
「そろそろね」
「じゃあ、またな」
「うん。またね」
二人は同じ教室に入り、離れた席に座る。コの字型に並べられた反対側の席で向かい合っている。次々と学生が集まり、席が埋まっていく。
桃が楓の隣の席に着き、一緒のゼミでよかった~と嬉しそうに笑う。あれほど元気に騒いでいたタロウは授業開始と同時にウトウトし始め、先生に注意されて平謝りしている。まだ午前中の早い時間だというのに何度もおなかが鳴って赤面する桃、上空を通り抜ける戦闘機の轟音に一時中断する先生の声。
いつかどこかで見た風景のようでもあり、まだどこにもない風景のようでもあり。たとえ今と似た“時”があったとしてもそれは“今”ではないから。どれほど似ていても同じではないから。かけがえのない――
次のチャイムが鳴ったら声をかけよう。躊躇っている暇はない。
今話したい。今一緒にいたい。一日でも、一時間でも、一分でも、一瞬でも長く一緒にいたいと思うから。今そう思うから。
出会って間もないのにずっと同じ時間を過ごしてきた気がする。きっとそれは未来の記憶――。
終業のチャイムが鳴る。
タロウと楓は顔を見合わせてくすぐったそうに微笑み合った。
* fin *