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(8)

 人影がまだらな帰り道。夕陽は残り僅かとなり、涼しさと暗闇が遠い空から落ちてくる。学校を出たばかりの頃は生きた心地がしなかった静樹だが、数分も歩けば二人並んでの帰路はなかなか心地よかった。

 両手でカバンを持ち、静かに歩くみのり。ときおりその麦わら帽子が静樹の肩に当たり、微かな麦の香りを上げる。そのたびに申し訳なさそうに、でもどこか楽しそうにこちらの顔を伺うみのりは、油断すれば抱きしめたくなるくらい可愛かった。

 ――いやいや、自重しろよ、俺っ! 煩悩滅殺! ノコとツカサのことが、まだ終わってないだろう。

 みのりに気付かれないように頭を振り、静樹が自分の為すべきことを思い出す。確かに、みのりは三人の中で一番静樹の好みの女の子かもしれない。けれど、今はどちらか分からないにしろ、静樹が約束した帽子の女の子はノコかツカサのどちらかなのだ。そのことを知っていながら浮気するなんて、ノコに対しても、ツカサに対しても、そしてみのりに対しても失礼すぎる。

 そう、今がチャンスなのだ。静樹はみのりに言わなければならない。静樹が約束したのは、ノコかツカサで、みのりではないということを。

「みの……」

 口を開いた瞬間、学校の正門での出来事が静樹の脳裏を掠めた。みのりの言葉が、鮮明に静樹の耳に蘇る。


「殺しちゃうよ」


 静樹の手からカバンがずり落ち、地面とぶつかって――ボトッ――と音を立てる。

「あら、静樹。どうしました? 顔が真っ青ですよ」

「あ、いや。気にするな……ちょっと怖いこと思い出しただけだ」

 声を震わせながら答える静樹に、みのりが怪訝な顔をして首を傾げる。

静樹は慌てて落としたカバンを拾い上げると、誤魔化すように笑いながら、路地の隙間に構えるソフトクリームの看板を掲げた駄菓子屋を指差した。

「なぁ、みのり。アイス食べていかないか? 俺、おごるからさ」

「え……」

 みのりが驚いたように目を開き、口に手を当てながらおずおずと聞き返す。

「本当、ですか」

「ああ。あれ、もしかして、迷惑だっ……」

「嬉しいです。早く行きましょう、すぐ行きましょう。今行きましょう。さぁ、さあ、さあっ!」

 感極まったように叫びながら、みのりが静樹の腕を引く。いや、アイス一つでこの喜びようはなんだ? 日頃みのりはアイス禁止令でも布かれているのか?

 戸惑いながら駄菓子屋の前に連れてこられると、店の中から顔に深い笑い皺を刻んだ人の良さそうなお婆ちゃんが現れた。その優しげな目を細めて柔らかく微笑み、温かみのある声で二人に声を掛ける。

「いらっしゃい。あら、今日はめんこいお二人さんだね。何を買うんだい?」

「ソフトクリームのバニラを二つ」

 静樹が指を二本立ててお婆ちゃんに注文すると、隣からみのりの意外そうな声が漏れた。

「え……二つ、ですか?」

「俺とみのりで二つだけど……。なんだ、みのりまだ食べたいのか? じゃあ、お婆ちゃん、もう一個追……」

「あ、そうじゃなくて。一個で大丈夫です。はい。お願いします」

 慌てて取り繕うみのりに、静樹は首を傾げながら改めてソフトクリームを二つ注文する。にっこりと笑みを浮かべたお婆ちゃんが頷き、ゆっくりとアイスを出す機械の前へ移動。明らかに三世代くらい前の年代物の機械を動かし、年季の入った動きで綺麗なソフトクリームを作り始める。

 その様子を見ていると、みのりがぼそっと呟いた。

「そうですよね。静樹も、もう高校生でした」

「なんか言ったか? みのり」

「何でもありません」

 ほのかに頬を赤らめて、恥ずかしそうにみのりが首を横に振る。その仕草に静樹が思わず見とれていると、二つの白い塔を作ったお婆ちゃんが、「お待ちどう」と言って甘い香りを放つソフトクリームを二人に差し出した。

「二つで200円だよ」

「あ、はい。どうぞ」

「毎度あり」

 お金を払ってアイスを受け取った二人は、駄菓子屋の脇に置かれた赤いベンチに並んで腰掛けた。

 静樹が手に収まったアイスの先を一口舐める。口の中に広がる冷たさと甘さ。どこか懐かしい味に、さらにもうひと舐め。あまり帰宅途中で買い食いをしない静樹だが、純朴な味のこのソフトクリームはまた食べに来たいと思う。

 そんなことを考えていると、隣でまったくアイスに口を着けようとしないみのりが目に飛び込んできた。どこか上の空で、じっとアイスを見つめているのに一向に口に運ぼうとしない。

「みのり、どうした。食べないのか?」

「え、あ、すみません。ボーっとしちゃって。いただきます」

 思い出したようにアイスを口に近づけ、みのりがチロリと小さくアイスに舌を伸ばす。アイスの先端が丸く削り取られ、口の中に消えていく。みのりのファンクラブのメンバーが見たなら、悶絶ものの光景だろう。

 まず一口、アイスを口に含んだみのりは、どこか懐かしそうに微笑みながら目を細めて呟いた。

「おいしい」

「それは良かった」

 アイス一つでこれだけ喜んでもらえたなら御の字だ。

 心地よい雰囲気が二人を包み込む。この期に乗じて約束のことを話そうかとも思ったが、静樹は話さなかった。わざわざ、この雰囲気を壊したくない。もう少し、みのりとこうしていたい。そう思ってしまったら、もう切りだすことが出来なくなっていた。

 また一口、今度は大きく被りつきながら、静樹は別の話題を口にした。

「それにしても、みのりは本当に字が綺麗だな。実家が書道家なんだっけ」

「はい、そうです。あの……静樹は私の字をどう思いますか?」

「ん? ああ。さっきも言ったけど、メチャクチャ上手いと思うぞ。それに、なんかこう……温かいよな。みのりの字って。字に対して自信があると言うか、なんて言うか。『字が好き』って気持ちが出てるって言うか。――って、ええっ!? みのり!?」

 静樹が隣を見て声を張り上げる。もう少しで、手に持っていたアイスを落とす所だった。

 みのりは両目から涙を流しながら静樹の話しを聞き入っていた。怒っているわけじゃない。悲しいわけじゃない。これは、感動して泣いているんだ。

「みのり、ど、どうした?」

「あ、いえ。あまりに嬉しくて。私、私……」

 感極まったとばかりに涙を流すみのりに、静樹はどうしていいか分からずオロオロ。これでは完全に、静樹がみのりを泣かしたみたいじゃないか。こんなことが、もしファンクラブのメンバーに知れたら……

「静樹ぃぃぃいいいいー。貴様ぁぁあああ――っ!」

「知られたっ!」

 雄叫びと共に、十数人のラグビーの恰好をした集団が現れる。狭い路地、逃げ場はない。とても、話しあいで解決できるような雰囲気じゃない。スクラムを組んだ一段が、蟻の這い出る隙間も作らず路地を疾走してくる。

 ――しょうがねぇっ! 迎え撃つかっ!?

 静樹が迎撃に構えた、その時。

「静樹。ちょっとこれ持っていてください」

 みのりが自分のアイスを静樹に預け、一段の前に立ちふさがった。

「おい、みの……り」

 みのりに声を掛けようとした静樹の声が、尻すぼみに小さくなる。

 ユラユラと揺れるみのりの黒髪。立ち上がるオーラが目に見える。これは気か? 気なのか? ザワザワとみのりの被る麦わら帽子が不自然に波打つ。ゴゴゴゴゴとおかしな地鳴りが鳴り響き、まだ橙色が残っていた空が漆黒に染まり暗雲が立ち込めた。

「何これ? 魔王降臨っ?」

 全力疾走していたラグビーの一団が止まる。その顔は、何かこの世ならざる者を見たかのように強張った。怯えるように抱き合う男たち。そんな彼らに向けて、みのりが静かに宣言する。

「失せなさい」

 その一言が終わる時。突如、辺りに突風が吹き荒れ、静樹に目の前からラグビーの一団が消え去っていた。

「それで、何の話しでしたっけ」

 それまでの禍禍しさが収まり、みのりがにこやかに振り返る。唖然とする静樹からアイスを受け取ると、「ああ、習字の話しでしたね」と話しを再開した。

 アイスに視線を落としたみのりが、懐かしそうに頬を緩ませる。

「でも、これも全部。静樹が私を勇気づけてくれたおかげですよ」

「え……」

「静樹が、私の字を好きだって言ってくれたから。私は……」

 キョトンとする静樹をよそに、頬を赤く染めたみのりが誤魔化すようにペロリとアイスを舐める。

 一陣の風が吹き、みのりの麦わら帽子を靡かせる。溶けたアイスがぽたりと静樹の指先に落ち――古ぼけた記憶を呼び覚ました。


 一段と日差しが強い夏の日。

 いつも遊んでいた帽子の子は静樹の家に来るなり、その小さな手に持っていた紙をクシャクシャにして言った。

「家に、帰りたくない」

 弱弱しく静樹に頼む女の子。理由を聞いたが、当時の静樹には難しくて分からなかった。

 どうすれば分からない。静樹の家の人には言わないでと頼まれる。

 でも、男の子なら悲しそうな女の子を慰めないといけない。

 強く思った静樹は少女を家から連れ出した。

 行くあてはなかった。辿り着いたのは、小さな駄菓子屋さんだった。

 ポケットには、当時好きだったカードゲームを買うために溜めていたお金が100円分

「おばちゃーん。アイスクリームくださーい」

「はいはい」

 優しそうなおばちゃんが、出来たてのアイスを渡してくれる。

 静樹は唾を飲んで、そのアイスを帽子の子に渡した。

 しずしずとアイスをついばみ始める女の子。

 静樹は食べにくそうだったので、彼女が持っていた紙を持って上げることにした。

「見ちゃ……ダメだよ」

 念を押して、紙を渡す少女。見たらダメと言われたら、子ども心にはやっぱり見たくなる。

 少女がアイスに夢中になっているのを確認した静樹は、こっそりとクシャクシャになった紙を開いた。

 皺くちゃの紙に、墨で書かれた難しい字。なんて書いてあるかは読めない。ただ……

「カッコいいっ!」

 その字を見た瞬間、静樹は思わず叫んでいた。

「何これ、すごくカッコいい。これ書いたの!?」

「あ、う、うん。ホントに、この字でいいと思う」

 紙を見られて怒るわけじゃなく、少女は縋るように静樹に訊ねる。

 静樹は、キラキラと目を輝かせて答えた。

「うんっ! オレ、この字好きだよ!」

 その日、帽子の子は自信に満ちた顔をして、家に帰っていった。


 ぽとりと、アイスの大きな塊が静樹の手を濡らす。

「みのり、俺……ぅ」

 静樹の開いた口を、あどけない笑みを浮かべたみのりがそっと指先で塞ぐ。

「今の私があるのは、静樹のおかげ。静樹が私の字を好きって言ってくれたから、私も自分の字が好きになれました。家の厳しい躾や辛いお稽古に耐えられたのも、静樹の言葉があったから。だから……」

 静樹の唇から指先を放し、みのりが自分のアイスと静樹のアイスを取り替える。

「私を選んでくださいね。静樹」

 静樹がさっきまで舐めていたアイスを舐め取り、顔を真っ赤にしたみのりがその場から駆けだす。

 麦わら帽子の背中が路地から飛び出し見えなくなる。

「参ったな。これで、三人ともかよ……」

 せっかく二つ目の課題が終わったのに、代わりに謎は大きくなる。

 ぐるぐると回る思考。ほとんど無意識のうちに、静樹の舌が残されたアイスを掬う。

 舐め取ったアイスは、さっきまで自分が食べていたものよりもほんのりと甘かった。


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