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 金曜日。新学期おめでとうテストまで、すでにあと土曜日と日曜日を残すのみとなっていた。

 最後の授業を終わらせる鐘の音とともに、生徒たちはそれぞれの目的のために動き出す。あるものは授業が終わったというのにノートを取り出し勉強を始め、また今まで勉強の「べ」の字も気にかけなかった筋肉バカたちが我先にと塾へ向かって走り去っていく。

 ここ数日、町ではいくつかの異常現象が起きていた。本屋の参考書棚は連日完売。新刊を取り寄せても、予約ですべてなくなってしまうという異常ぶり発揮している。町の塾では入校者が定員の200%越えとなり、異例のくじ引きが開始されるまでに。

 教育関係者はこの異例の事態を『深山静樹現象』と呼び慎重に見守っていた。

 一方、自分が知らないところで事態がそれほどまでに肥大化しているとは知りもしない本人は、授業が終わるなり重い溜息を吐きながら机につっ伏していた。

「これは……予想以上だな」

 京介がさすがに同情したように声を落としながら眼鏡のフレームを押し上げる。よくよく見ると、半開きになった口から何か白い靄のようなものが漏れていた。

「京介ぇ。俺、やばいかも」

「まぁ、その認識は正しいな。僕の調べた情報では、今回のテストでトップ10入りするには全教科95点以上が必須条件だ」

「はぁ……ウソだろ? この前は90点以上って言ってたじゃねぇか」

「状況が変わった。というか、君が変えたんだよ、静樹。まぁ、僕に言わせれば一日を一年に延ばしてくれる不思議空間にでも入らないと無理だね」

「神の神殿で修行して来いってか?」

「ちなみ、僕の見立てでは、今の静樹は平均85点てところだね。これでも頑張ったほうだろうけど」

 京介が手に持っていたスマートフォンをしまいながら肩をすくめる。

「今から全教科を10点以上アップかよ。……まっ、やるしかねえわな」

 ぐっと体に力を込めると、静樹は重い体を机から引っぺがした。勉強道具をかばんに詰め込み、帰り支度を整える。

 一緒に教室を出ると、京介が思い出したように言った。

「そういえば、静樹。勉強もそうだけど、例の件は解決したのかい?」

「例の件?」

「とぼけるなよ。雷道たちのことだ」

「ああ、そのことか。それなら解決したぞ。俺が約束した子はノコだったみたいだ」

「えっ!?」

 静樹の返答に、京介は柄にもなく素っ頓狂な声を上げた。

「どうしたんだよ、京介。……メガネ、ずれてんぞ」

「い、いや。そうか……雷道が、ね。それで、どうしてわかったんだい?」

「ああ、それがさ。火曜日にノコと一緒にゴミ捨てに行っただろ。そん時に思い出したんだよ。おれ、昔の山でノコが蛇を怖がって動けなくなったのを助けたことがあったんだ。てーことは、俺がむかし遊んでた帽子の女の子はノコだ」

 京介は黙って静樹の話を聞き続けると、「あ~……」とどこか気の抜けた声を漏らした。

「まぁ、それだけだとそうなるか」

「それだけ?」

「いや、気にするな。こっちのことだ。で、それは野々市や野永には?」

「ああ、それがさ。早めに言おうと思ったんだけど、あれから一回も二人に会えないんだよ。あいつらも勉強で忙しいんじゃないのか」

 適当に予想を立てながら静樹が階段を下りる。しかし、その予想は外れていることを京介は知っていた。

 ツカサやみのり、そして教室で顔を合わせているから気づかないかもしれないが、ノコがここ数日静樹に近づけないのは、彼女たちのファンクラブが全力で阻止しているからだ。初日こそ潰し合いをしていたが、静樹が三人と昼ご飯を食べてからというもの、その連携は見事なものだった。その接触防止策はファンクラブの垣根を越えている。

 静樹の知らないところで、ファンクラブ戦国時代は新しい時代へと突入していた。

「なんにしろ。まずはテスト突破だな」

 片手に歴史の教科書を見ながら、静樹が首の後ろで腕を組む。そのとき、階段の上から野太い声が二人にかけられた。

「おお、そこの二人。ちょっと待ってくれ」

「「ん?」」

 階段の踊り場で振り向くと、小太りの先生が両手に本を抱えながら苦しそうに息を吐いていた。

「京介、誰だっけ?」

「地理担当教員の大野先生だろ。本当に相変わらずだな」

 耳打ちして尋ねると、京介が呆れ気味に説明する。そうしている間にも、大野先生の息がどんどん荒くなっていった。

「うぉーい、助けてくれー」

「あ、はいはい。んじゃ、こっち持ちますね。ほら、京介も」

「君は人の都合はお構いなしかい?」

 無理やり京介も手伝いに引き入れ、静樹は本を受け取ると資料室までやってきた。

うず高く積み上げられた本、本、本。少しかび臭い部屋の端に置かれた机に、静樹たちが手に持った本を積み重ねる。

「いや~、助かったよ。ありがとうありがとう」

 ぽっこりと膨らんだお腹を撫でながら、大野先生が礼を言う。改めてみると狸みたいな先生だ。ただ、ノコの狸帽子と違って、こっちは信楽焼きの方。何となく蓑傘と酒瓶を渡したくなる。

「それにしてもすごい量ですね。これ、全部先生が管理してるんですか?」

「まぁね。いや、管理というよりも整理かな」

「整理?」

「そ。ここの本は基本的に貸し出し自由なんだけど、その時に貸出帳にサインが必要でね。でも、こんだけ散らかってると、みんな適当に本を置いて句だけなんだよ。まったく……。あ~あ、だれか貸出帳にある本がちゃんと返されているか調べてくれないかな~」

 後半は完全に棒読みだった。後ろ髪を書きながら、大野先生がチラチラと二人を見る。

 もちろん、こんななんの得にもならないことを、『八斗高校の守銭奴』と呼ばれる京介が受けるはずもなかった。

「僕は予定があるので失礼します」

 きっぱりと断り、京介が踵を返す。まさに取りつく暇もない。その足は、一目散に出口へと向かっている。

「わかりました、いいッスよ」

「静樹っ!?」

 その足を止めたのは、二つ返事で首を縦に振った静樹だった。正気か? というような表情を浮かべ、「すみません、先生」と大野先生に一言断りを入れた京介が静樹の襟を掴み、部屋の隅へと引きずり込む。

「君は馬鹿か? バカか? 大バカなのか? ただでさえ点数が足りないのに、こんなところで浪費している場合じゃないだろう」

「だからって言って、困ってる人を見捨てていけるかよ。助けを求められたのなら応じるのは、男として当たり前だろ」

 まっすぐな目で答える静樹に、京介は頭痛でもするように顔を手で覆った。そして、なぜか仕事を頼んだはずの大野先生の顔も引き攣っている。まるで、とてつもない大犯罪を犯しているように。

 そんな二人をよそに、静樹はすでに仕事の算段を考え始めていた。

「先生、ちょっとその貸出帳ってやつ見せてもらえますか?」

「え? あ、ああ。はい、これだよ」

「えーっと……。帰ってきてない奴は20冊ぐらいッスね。要は、これがこの部屋にあるかどうかを探せばいいんでしょ?」

「そうだね。あと、もしできれば~~っで、いいんだけど。番号順に並べておいてくれると、と~っても助かるな……なんて。あは、あはははは」

「もとからそのつもりですよ。その方が、早く確認できそうですからね」

 すでに、静樹はやる気満々だった。そんな静樹を見て、京介が呆れたらいいのか感心したらいいのかといった微妙な表情を浮かべて首を横に振る。自分が騙されているということに、まるで気が付いていない。

 まぁ、その原因がどこにあるかといえば、大道寺校長に進言した京介にあるのだが。まさか、ここまでバカ正直とは……。

 最後の忠告。無駄だとわかっていながらも、京介は静樹に言った。

「静樹、僕は手伝わないよ」

「五00円出してもだめか?」

「五千円」

「足元見やがって。いいよ、このくらいなら一・二時間で出来そう……」

 ――タン、タカ、タカタカ。ッタンタン――

 静樹が時計に目を向けると、不意に日曜五時半のメロディーが流れだした。「おや、誰だ?」と大野先生がポケットから携帯を出す。

「はい……。え? あ、今からですか。今からはちょっと……いや、すみません。はい……わかりました」

 疲れたため息を吐きながら電話をポケットにしまった大野先生は、本当に申し訳なさそうに静樹に向けて両手を合わせた。

「ごめん、深山君。急用が入った。悪いが、この場は任せてもいいかい。そ、それじゃ」

 その巨体からは想像できないフットワークで、大野先生が資料室から駆け出していく。

「京介、二五00円じゃダメか?」

「まぁ、頑張りな」

 手をひらひらと振りながら、京介も資料から立ち去っていく。わずかに開いた窓から吹き込んだ風が、呆然とする静樹の肩を撫でて、無情に開かれたドアから抜けて行った。




 資料室から飛び出した大野先生は、あまり生徒の来ない階段の踊り場に逃げ込むと、携帯のリダイアルボタンを押した。数回の発信音の後に――ガチャ――と先ほど電話をかけてきた相手が出る。

 相手が話し出す前に、大野先生が良心の呵責に耐えかね声を吐き出した。

「校長~。やっぱり本当のこと言ってあげましょうよ~。深山君はいい子ですよ。こんなのかわいそうです。テストの課題だって、もう少し優しくしてあげても……」

「一昨日、宝香和菓子屋のプラチナ羊羹」

 電話から洩れた大道寺校長の声に、大野先生の大きな体が小さく萎縮した。

「二週間前、メープルロマンス堂の冬季限定ミルフィーユ。二か月と十日前、岡町先生が買ってきてくれた温泉まんじゅう二八個入り……」

「す、すみませんんんん」

 過去の盗み食いを質に取られた大野先生は、涙ながらに電話を耳につけながら何度もお辞儀をした。

「ぐずん。でも、これで最後にしてくださいね。もう、申し訳なさすぎて……痩せちゃったかと思いましたよ」

「それなら大丈夫ですよ。大野先生、全然痩せてませんから」

「ビクゥゥッ! き、君は戸口君っ!? なんでここに」

 突然背後に現れた京介に、大野先生が顔中から大粒の汗を流す。京介はやれやれと首を横に振ると、大野先生ではなく、電話の向こうにいる大道寺校長に話しかけた。

「さすがに、これはずるくないですか?」

「先に情報を売り込んできたのは、戸口二年生の方であったと記憶しているのであるが?」

「返す言葉もありません。でも、その代わり。ここからは僕も全面的に静樹の味方をさせてもらいますよ?」

「ふむぅ。貴重な情報屋を手放すのは口惜しいが、しょうがないのである」

「では、今後はそういう形でお願いします」

 京介が話を終えると大野先生の持つ携帯電話から「ツーツー」と電話の切れた音が漏れだした。どうやら、校長先生の方が受話器を置いたらしい。いい金ヅルを手放すのは惜しかったが、今回は静樹を嵌めてしまったのだ。やりすぎた自分への戒め、仕方ない。

 自分の失態に京介が苦笑いを浮かべていると、ことの成行きを掴めない大野先生が、恐る恐るといった様子で声を掛けた。

「あ、あの。戸口君、その……深山君には」

「ああ、気にしないでください。静樹にはチクったりしませんよ。この件に関しては、僕の認識不足でしたから。大野先生はむしろ被害者ですね。ご愁傷様です。……さてと」

 大野先生を軽く慰めながら、京介がアイフォンを操作する。

 今回は、慰謝料替わりでタダにしておくよ。静樹。

 数通のメールを一気に書き上げた京介は、心の中で静樹に詫びながら送信ボタンを押した。


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