婚約破棄で離宮軟禁と言われましたが、前世が社畜だったので天国にしか見えません
「——リディア・フォン・エルヴィレット。君との婚約は、本日をもって破棄する」
王城の謁見の間に、アレクシス・フォン・アルトリア第一王太子の声が響いた。
周囲を埋め尽くす貴族たちが、一斉に息を呑む。私——リディア・フォン・エルヴィレットは、その言葉を無表情で聞いていた。
「理由を述べよう」
アレクシスは、まるで演説でもするかのように胸を張る。
「君は確かに、三年間私の婚約者として尽くしてくれた。学園入学の手配、社交界での根回し、政務書類の整理……感謝している」
ああ、そう。感謝はしているのね。
「だが——」
来た。
「実を言うと、私は君を『利用していた』のだ」
周囲がざわめく。私は相変わらず無表情だった。
「君は地味で目立たない。だが、有能だ。だから、私の補佐役として『使える』と判断した。学園に入るため、社交界で地盤を固めるため、政務の実務を任せるため——全て計画的だった」
(……やっぱりね)
私は内心で小さく溜息をついた。
(前世のブラック企業の上司と、全く同じタイプだわ)
そう。私には前世の記憶がある。過労死したブラック企業の経理職。月残業二百時間、手取り十八万円、ワンルーム六畳。あの地獄のような日々を思えば、この程度の裏切りなど——。
「そして今、私には新しい婚約者がいる。フローラ・ド・ラヴァレット伯爵令嬢だ。彼女は美しく、社交界の華だ。王太子妃にふさわしい」
フローラが、アレクシスの隣で得意げに微笑む。
(ああ、見た目だけは確かに華やかね)
「よって、君との婚約は本日をもって解消する。君には離宮での生活を命じる。王城への出入りは禁止だ」
要するに、軟禁。
周囲の貴族たちが「かわいそうに」「酷い仕打ちだ」とひそひそ囁く。
けれど、私は——。
「……承知いたしました」
淡々と、頭を下げた。
「え?」
アレクシスが、明らかに驚いた顔をする。泣き崩れるとでも思ったのだろうか。
「では、失礼いたします」
私は踵を返し、謁見の間を後にした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
廊下を歩きながら、私は懐から小さな魔石を取り出した。
これは記録魔石。この三年間、私が行った全ての業務を日報形式で記録したものだ。
「XX年X月X日、予算案作成八時間。王太子殿下は社交会にて不在」
「XX年X月X日、外交文書翻訳十二時間。王太子殿下は狩猟にて不在」
前世で身につけた習慣——業務記録を残すこと——が、こんな形で役立つとは。
「リディア様……」
廊下の隅で、老齢の大臣が声をかけてきた。王国の財務を統括するグレン大臣だ。
「大臣閣下」
「その……お気の毒なことで……」
「いえ。これも運命かと」
私は記録魔石を、そっと大臣の手に滑り込ませた。
「これは?」
「三年間の業務記録です。もし、必要になったら——お使いください」
「……!」
大臣は、魔石を握りしめて深く頷いた。
「……分かりました」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
離宮に到着した私は、部屋に入るなり——。
「……っ、最高!」
思わず声を上げた。
広い。明るい。豪華。専属メイドまでいる。
(これが、罰……?)
前世を思い出す。
手取り十八万円。家賃六万円のワンルーム六畳。隙間風が入る古いアパート。月残業二百時間。上司のパワハラ。取引先のクレーム。そして——過労死。
それに比べたら。
「定時退社! 残業なし! 衣食住無料! 天国じゃないですか!」
思わずベッドに倒れ込む。ふかふかだ。前世の煎餅布団とは大違いだ。
「リディア様、お食事の準備が整いました」
メイドが声をかけてくる。
「ありがとう。すぐ行くわ」
食堂に向かうと、豪華な料理が並んでいた。
(これ、全部私一人で?)
前世では、スーパーの見切り品弁当が定番だった。たまに食べる牛丼が最高のご馳走だった。
それが今は——。
「いただきます」
幸せだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
離宮での生活が始まって一週間。
暇だった。
(やることが、ない)
前世では、毎日が嵐のように忙しかった。書類の山。電話の嵐。上司の罵声。それが今は——何もない。
(……退屈ね)
ふと、執務室の棚に目が留まった。離宮の家計簿が並んでいる。
(見てもいいかしら)
手に取って開いてみる。
——瞬間、違和感。
「……これ、おかしいわ」
食材費が、明らかに高すぎる。市場価格の一・五倍。しかも、実際の食事内容と帳簿が合わない。
(これは……横領ね)
前世の経理職としての勘が働く。
「具体的に調べてみましょう」
私は本格的な監査を開始した。
三日後。
「……やっぱり」
使用人の一人が、食材費を水増しして差額を着服していた。総額は金貨三十枚。離宮の年間予算の一割だ。
「どうしましょう」
告発すれば、その使用人は処刑されるかもしれない。でも——。
(面倒ね)
前世の経験から学んだことがある。問題は、穏便に処理した方が後腐れがない。
私は使用人を呼び出した。
「これ、見覚えは?」
帳簿を見せる。使用人は青ざめた。
「も、申し訳ございません! 家族の病気で、どうしても……!」
「分かったわ。解雇はしない。その代わり、月々少しずつ返済してちょうだい。それと——」
私は契約書を差し出した。
「今後、食材の調達は市場価格で統一。差額は離宮の改修費に回す。これで同意できる?」
「……! あ、ありがとうございます!」
使用人は涙を流して頭を下げた。
(これで、離宮の運営も改善されるわね)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから二週間後。
離宮に、客人が訪れた。
「失礼する」
低く、冷たい声。
振り返ると、そこには——セバスチャン・フォン・レーヴェンシュタイン宰相が立っていた。
「宰相閣下……?」
「定期視察だ。問題はないか」
「はい。特には」
セバスチャンは、執務室を見回す。そして——棚に並ぶ、整理された帳簿に目を留めた。
「……これは?」
「ああ、離宮の会計記録です。少し整理しまして」
「整理?」
セバスチャンは帳簿を手に取り、ページをめくる。
その表情が——変わった。
「……これを、君が?」
「はい。暇だったので」
「暇、だと……?」
セバスチャンは、信じられないという顔で私を見た。
「この精度の監査を、『暇つぶし』でやったのか?」
「え、ええ。前世——いえ、以前から数字を扱うのは得意でしたので」
(危ない、前世って言いそうになった)
セバスチャンはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……リディア・フォン・エルヴィレット。一つ、頼みたいことがある」
「はい?」
「国の会計も、見てもらえないか」
「……は?」
「王国の財政には、問題が山積している。だが、信頼できる監査人材がいない。君なら——」
セバスチャンは、真剣な目で私を見た。
「——できる」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから、セバスチャンは週に一度、離宮を訪れるようになった。
持ち込まれる書類は、国家予算、貴族の会計報告、軍事費の内訳……膨大だった。
「これ、明らかにおかしいわね」
「何か見つけたか」
「ええ。この軍事費、実際の支出と合わない。差額は——」
私は計算する。
「金貨五万枚。年間でいえば——」
「五十万枚か」
セバスチャンの声が、低く沈む。
「国家予算の一割だ」
「しかも、支出先が——」
私は書類を指差す。
「王太子周辺に集中しています」
「……そうか」
セバスチャンは、険しい表情で頷いた。
「証拠を固めろ。徹底的に」
「承知しました」
私は、前世の経理スキルを総動員して監査を続けた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ある日の夕暮れ。
執務を終えた私とセバスチャンは、窓辺で紅茶を飲んでいた。
「……なぜ、そこまで冷静でいられる?」
セバスチャンが、唐突に尋ねてきた。
「え?」
「婚約を破棄され、利用されていたと公言され、軟禁された。普通なら、泣き崩れるか、怒り狂うはずだ」
「ああ……」
私は紅茶を一口飲んで、答えた。
「前世——いえ、以前の私は、もっと酷い環境にいましたから」
「もっと酷い?」
「ええ。毎日深夜まで働かされ、休日もなく、罵声を浴びせられ——それでも、生きるために耐えるしかなかった」
セバスチャンは、黙って聞いていた。
「それに比べたら、この離宮は天国です。定時で終わる仕事、快適な住居、美味しい食事。そして——」
私は、セバスチャンを見た。
「——私の仕事を、評価してくれる人がいる」
「……」
セバスチャンは、何か言いかけて——黙った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
三ヶ月後。
王城の評議会が開かれた。
私は出席できないが、セバスチャンが全てを報告してくれた。
「グレン大臣が、記録魔石を提出しました」
「私の?」
「ああ。三年間の業務記録だ」
セバスチャンは、苦い顔をした。
「会議室が、凍りついた」
「そうでしょうね」
「『XX年X月X日、予算案作成八時間、王太子殿下は社交会にて不在』——この記録が、延々と続く」
「事実ですから」
「貴族たちは激怒した。『王太子は、婚約者に全てを押し付けていたのか』と」
「当然の反応ですね」
「そして——」
セバスチャンは、書類を広げた。
「君の監査結果も、提出された」
「……!」
「王太子周辺の不正。総額、金貨五十万枚」
「証拠は完璧です」
「ああ。完璧すぎて、弁護の余地がない」
セバスチャンは、私を見た。
「王太子は、王太子位を剥奪される。おそらく、平民に降格だ」
「……そうですか」
「君は——後悔していないか?」
「後悔?」
私は首を傾げた。
「どうして?」
「君が愛した男が——」
「愛してなんかいませんよ」
きっぱりと答える。
「最初から、『利用されている』と分かっていました。だから——感情なんて、動かしませんでした」
「……そうか」
セバスチャンは、何か安堵したような顔をした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから一週間後。
セバスチャンが、いつもより早い時間に離宮を訪れた。
「どうかしましたか?」
「……リディア」
セバスチャンは、珍しく緊張した面持ちだった。
「私の宰相補佐になってくれないか」
「……は?」
「いや、違う——」
セバスチャンは、深呼吸して。
「——妻になってほしい」
「……え?」
私は、思考が停止した。
「君のような人材を、二度と手放すつもりはない」
セバスチャンは、一歩近づく。
「君がいない政務は、もう考えられない」
「あの、宰相閣下——」
「——いや、政務だけじゃない」
セバスチャンは、私の手を取った。
「君のいない生活が、だ」
「……っ」
「この三ヶ月、君と過ごした時間が——私にとって、唯一の安らぎだった」
セバスチャンの声が、震えている。
「君は冷静で、有能で、そして——誰よりも強い」
「強い……?」
「ああ。裏切られても、軟禁されても、君は折れなかった。それどころか、この国を救った」
セバスチャンは、私の目を見た。
「だから——頼む。私の隣にいてほしい」
私は——。
(前世では、誰も私を評価してくれなかった)
(『お前の代わりはいくらでもいる』と言われた)
(でも、今は——)
「……本当に、私でいいんですか?」
「君以外にいない」
その言葉に、私は——。
「……では、お言葉に甘えます」
初めて、笑顔を見せた。
セバスチャンは、驚いたように目を見開いて——。
「……ああ、やっと笑ったな」
そう言って、私を抱きしめた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その後の展開は、あっという間だった。
アレクシスは王太子位を剥奪され、平民に降格。
フローラも共犯として、社交界から追放された。
横領に関わった側近たちは、全財産を没収された。
そして——私とセバスチャンの婚約が発表された。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
三年後。
私は宰相夫人として、王国の財政を管理していた。
定時——十七時になると、退庁の鐘が鳴る。
(この鐘、前世では夢だったわね)
「リディア、帰るぞ」
セバスチャンが、執務室に迎えに来る。
「はい」
私たちは、馬車に乗り込んだ。
「今日は、どうだった?」
「順調です。新しい税制も、貴族たちに受け入れられました」
「さすがだな」
セバスチャンは、嬉しそうに笑う。
「君がいなければ、この国はとっくに破綻していた」
「大げさですよ」
馬車が、宰相府邸に到着——する直前。
「……あ」
門の前に、見覚えのある人物がいた。
アレクシス。
平民の服を着て、やつれた姿で立っている。
「リディア……!」
アレクシスが、こちらに駆け寄ろうとする。
セバスチャンが、冷たい声で制止する。
「下がれ」
「頼む、話だけでも——!」
「リディア様は、もう君の婚約者ではない。私の妻だ」
「分かっている! だが——!」
アレクシスは、必死の形相で私を見た。
「もう一度、やり直させてくれ! あの時の僕が間違っていた! 君がどれだけ大切な存在だったか、今なら分かる!」
「……」
私は、馬車から降りた。
そして——微笑んだ。
「ええ、私は貴方を許しますよ」
「……! 本当か!?」
「ですが——」
私の背後から、セバスチャンが腕を回す。
「——私は許さん」
「え……?」
「私の妻を、三年間も利用した罪。忘れたとは言わせない」
そして、もう一つ。
「それに——」
馬車の中から、私の父——エルヴィレット侯爵が顔を出した。
「娘を侮辱した罪、法廷で争わせてもらう」
「そ、そんな……!」
アレクシスは、絶望の表情で崩れ落ちた。
「も、もう遅いのか……?」
「ええ」
私は、変わらぬ笑顔で答えた。
「——もう、遅いのです」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
馬車は、宰相府邸に到着した。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
メイドたちが出迎える。
私とセバスチャンは、執務室でゆっくりと紅茶を飲んだ。
「……今日も、美味しいな」
「ええ」
窓の外には、夕日が沈んでいく。
(前世では、誰も私を評価してくれなかった)
(残業の嵐で、紅茶を飲む余裕もなかった)
(でも今は——)
私は、隣で微笑む夫を見た。
(評価してくれる人がいる)
(幸せな時間がある)
(そして——)
「リディア」
「はい?」
「愛している」
セバスチャンが、そっと私の手を握った。
「……私も、愛しています」
私は、静かに幸せを噛み締めた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
社畜の皆様、お疲れ様です。リディアのように「価値を認めてくれる場所」に出会えますように。
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