序章:令(ゼロ)の誕生と加速する秒針
観測者・加納の手記は、一冊の記録文学へと変貌します。
彼らの肌の粟立ち、空気の震え、そして「建築」という名の人間の虚栄が崩れ去るまでの軌跡を、
再構築します。
伊藤令。
その誕生は、祝福というよりは、物理法則の特異点が発生したような、奇妙な静けさを伴っていた。
令は「空っぽの器」として生まれた。
しかし、その器の底には、世界の理知を際限なく吸い込み続けるための、底知れぬ亀裂が入っていたのだ。
生後三ヶ月、他の乳児が母親の乳房を求める頃、令の瞳は天井を走るライティングレールの平行線を、まるで設計図を検品する検査官のような冷徹さで追っていた。
三歳で言葉を覚えるよりも先に、彼は空間の力学を独学で構築した。
加納は甥である令の軌跡を生まれて間もない時期から目の当たりにしていた。
令の母親から発達相談を受けた私は その家で起こった事に衝撃を受けた。
五歳の誕生日、母が贈った知育玩具を彼は数分で解体し、部屋の気流さえ計算に入れた、完璧な「垂直の塔」を組み上げた。
唖然とする私に
「加納さん。あなたのネクタイの結び目は、三度右に傾いている。それはあなたが、この家庭の空気に怯えている証拠だ」
五歳の子供に本質を射抜かれ、加納は戦慄した。
しかし同時に、この少年が背負わされた「知性という名の呪い」に深い同情を覚えた。
加納だけが、令を「天才」として崇めるのではなく、「欠陥のある構造物」として、その崩壊の予兆を正しく危惧していた。
令の知性は、実の両親さえも「構造上のノイズ」に変えた。
父は令の冷徹な正しさに耐えかねて蒸発し、母は息子の瞳に棲む「賢者の影」に恐怖して失踪した。
家族という最小単位の構造体は、令の知性が全能に達する前に、自重で粉々に砕け散った。
七歳のとき、彼は自分の中に浮かぶ砂時計の存在に気づいた。
知識を吸い込む速度が速ければ速いほど、砂時計のくびれを通る砂は熱を帯び、激しく摩擦音を立てる。
「頂点は、十四歳だ」
七歳の令が私に告げたその予言は、自らの脳が肉体を追い越し、自重で崩落するという残酷な計算結果だった。
ただ、あまりに速く知識を詰め込みすぎた脳が、自らの限界を、自らの死期を、計算し尽くしてしまったのだ。
頂上に辿り着いた瞬間に、すべてが崩落する。
知性が最高潮に達したとき、彼の肉体は知性の質量に耐えきれず、一気に老いへと舵を切るだろう。
十歳。令はすでに、世界を支配できるほどの英知を手にしていた。
だが、彼は夜な夜な、自分の小さな掌を見つめて震えていた。
この手が、いつか鉛筆を握れなくなるほど震え、皺に覆われる日が来る。
獲得の速度は、そのまま喪失へのカウントダウンだった。
令は、吹き荒れる知識の嵐の中で、静かに目を閉じた。
まだ見ぬ「十四歳」という崖っぷちを目指して。
彼がこれから出会うはずの、時間を止めた少女と、時間を逆走する男。
歪な三人の歯車が噛み合うまで、あと、わずか数年。




