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名の有る地

 イリスはその後、しばらく演奏会の予定を入れなかった。断ったわけではなく、「入れなかった」のだ。マルコから届く企画書に返事をしないまま、数日が過ぎた。


 街では選挙戦が本格化していた。駅前の大型ビジョンから、野党の過激なスローガンが流れる。イリスの曲が、その映像の後ろで使われているのを見たのは、ほんの偶然だった。通りすがりに顔を上げただけで、すぐに視線を逸らしてしまった。


 音楽自体は何も変わっていなかった。

 変わったのは、使われている場所だけだ。


 その夜、マルコから電話が来た。


「見た?」


「……何を」


「例の野党が、広報用にイリスの曲を使ってたって件さ。もちろん僕の方では許可していない。レコード会社の仕業かどうかは明日確かめるとして、君のメンタルが大丈夫かと」


 イリスは、受話器を握る指先がわずかに震えているのに気づいた。画面の中で怒号のようなスローガンが叫ばれる背後、自分のピアノが流れている。


「別に……なんとも」


 自分で言っていても、嘘か本当か分からなかった。それくらいに平坦な声色が出ていた。何かひどく疲れたような、そんな重みが背に乗っかっていた。


「なら良かったが……ちょっと話題になってたから。アルノーさんは怒ってなさそうだったけど」


「そう」


 それ以上、言葉が続かなかった。マルコは通話口の向こうで、何か飲み物を口に含む音を立てた。


「……本当に申し訳ない。僕に怒ってるかい」


「怒るほど整理できてない」


「じゃあ、安心してる?」


「それも違う」


 マルコは少し間を置いた。


「……正直に言うとさ、俺も全部分かってやってるわけじゃないんだ。政治の駆け引きとか、美大で習わないだろ」


「分かってる」


「君が止めなかったのも美大のせいか」


 イリスは答えなかった。否定もしなかった。


「まあ……今回の件で、君の音楽が誰かを傷つけたとは考えづらい」


「傷つけてないなら、いいの?」


 マルコは即答しなかった。


「少なくとも、炎上はしてないよ」


「炎上してないって、守ることと同じ?」


「今は、それで十分だと思ってる人が多いだろうな」


 イリスは、リビングにあるピアノの蓋に指を置いた。閉じたままの黒い表面に、自分の顔が薄く映っている。


「マルコ……私、これから何すればいい?」


 彼は少しほっとしたように答えた。


「何もしないでいい。今まで通りで」


「今まで通りって、何?」


「曲を作る。弾く。余計なこと言わない」


「……私が余計なこと言いそうって?」


「ノーコメントで」


 電話はそれ以上続かなかった。


 数日後、レイナの展示が中止になったというニュースを、イリスはネットで知った。理由は曖昧だった。規定に合わない表現が含まれている可能性、助成金の再審査、観客の安全への配慮。どれも、単体では否定しにくいものだ。


 連絡を取ろうとして、しばらく画面を見つめた後、イリスは携帯の電源を落としてしまった。……何を言えばいいのか、分からなかった。


 イリスの曲は、さらに広く使われるようになった。選挙関連だけでなく、公共施設の映像、式典、追悼イベント。どれも「穏やかさ」を求めている場だった。


 彼女はそれを止めなかった。止めるための理由を、相変わらず言語化できないでいた。


 ある夜、イリス自身の要望で、久しぶりに小さなホールで弾いた。告知は最低限で、客は数十人ほどだった。誰かの紹介で来たらしい、高級そうな召物を着た年配の夫婦が最前列に座っていた。


 演奏後、拍手は控えめだった。だが、帰り際、その夫婦の女性が声をかけてきた。


「さっきの曲、とても安心しました」


「……ありがとうございます」


「最近、ニュースを見るのがつらくて。でも、ああいう音を聴くと、大丈夫な気がするんです」


 イリスはふとうなずいた。

 それ以上、何も言えなかった。


 その夜、帰宅してから、久々にピアノへと向かった。音を鳴らそうとして、やめていた。代わりに、鍵盤の上に手を置いたまま、しばらく動かなかった。


 考えていたのは音楽の意味ではない。

 責任でも、立場でもない。


 ——自分はいつから、誰かの「安心」を引き受ける側になったのか。


 数週間後、アルノーから短いメールが届いた。協力への礼と、今後も変わらぬ活動への期待。彼らしい端的な内容である。


 イリスは返信をマルコに任せて、それっきりだった。


 ……音楽は、今日もどこかで流れている。彼女が知らない場所で、彼女が知らない意味を与えられながら。


 それが良いのか悪いのか、イリスにはまだ分からない。分からないまま、彼女は次の音を考えている。


 まだ、耕されていない音を。

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