安全な音楽
転機は思っていたより静かに訪れた。マルコを通じ、文化政策部門の官僚、アルノーから連絡が来たのだった。
前回、政府系のイベントでBGMとして許可した曲を、選挙戦のテーマ曲として使わせて欲しいのだと言う。
イリスはレイナの言葉を思い出し、断ろうと首を振りかけた。しかし、マルコの眉の角度と、「会うだけでもいい」という譲歩の言葉に、上手く反論することができなかった。
──アルノーと会ったのは、政府主催の音楽フォーラムの控室だった。格式ばった会場の裏側にある、カーペットの色だけがやけに新しい小部屋。窓はなく、空調の音が静かに満ちている。
彼は五十代半ばくらいに見えた。背広は地味で、ネクタイの色も記憶に残らない。だが、言葉の選び方だけは異様に丁寧だった。
「お時間ありがとうございます、イリスさん」
彼は深く頭を下げた。政治家というより、長く大学にいた研究者のような身振りだった。
「あなたの音楽を以前から聴いています。特に、休符の扱いが印象的だ」
具体的な褒め方に、イリスは一瞬だけ身構えた。
「……ありがとうございます」
「押し付けがましくない曲調もいい。今の時代では珍しい姿勢ですよ」
アルノーは椅子に腰掛けながら、穏やかに続けた。
「それで……正直に言いましょう。我々は今、社会の分断を非常に危惧しています」
その「我々」が誰を含んでいるのかは言わなかった。もちろん、いちいち咎める勇気などなかったが。
「人々は疲れている。怒り続けるにも、敵を探し続けるにも限界がある。そんなときに必要なのは……考える前の静けさです」
イリスは、胸の奥が小さくざわめくのを感じた。
「それで私の音楽ですか」
「ええ」
アルノーは否定も肯定もせず、ゆっくり頷いた。
「あなたの音楽には、誰かを直接説得する力はない。しかし、感情を鎮める力はある」
「……それは、いいことですか」
「状況によります」
彼は即答した。
「少なくとも今は、必要とされています」
イリスは指先を組み、何かを結ぶように弄り始めた。
「私の曲に特定のメッセージはありません」
「承知しています」
「それでも選挙なんかで使われれば、変な文脈が付きかねないでしょう?」
「意味は、必ず付与されます」
アルノーは穏やかに言った。
「人は意味のないものに耐えられない。だから、あなたが与えなくても、誰かが与える」
その言葉は、マルコやレイナのものと重なった。
「なら、私は距離を取るべきじゃないですか」
「距離を取っても、音楽は流通しています」
「……もしや、私が断っても?」
「録音はすでに存在しています。……それがどう扱われるかは、私の知ったことではないですが。世間には『グレーゾーン』というフレーズがありますから」
アルノーは淡々と言った。その声に、勝ち誇った響きはなかった。
「イリスさん。ここだけの話……あなたの音楽は官僚たちの間で、政治的に『無害』だと言われています」
イリスは、その言葉にわずかに眉をひそめた。
「無害、ですか」
「決して非難しているのではありません。刺激が少ない、という意味です。怒りを煽らない。敵を名指ししない」
「だから利用しやすいと?」
アルノーは少しだけ考え、正直に答えた。
「ええ」
沈黙が落ちる。
「……私は、プロパガンダのつもりで作っていません」
「存じ上げています」
「私の音楽が、誰かを納得させる道具になるのは……」
「納得ではありません」
アルノーは柔らかく遮った。
「安心です」
その一言が、イリスの中で嫌な音を立てた。
「安心は悪いことじゃないでしょう」
「でも、考えなくなりますよ。私は音楽を通して、立ち止まって考える時間を作りたいんです」
「考えすぎて壊れている人もいる。先日のデモのニュースはご覧になりましたか。幸い死者こそいませんでしたが、負傷者が何人か搬送されたようです。……抗議活動なんぞに踏み切らなければ、怪我することもなかったのに」
アルノーの声は、彼らを責める調子ではなかった。むしろ、誰かをかばうようだった。
「イリスさん、あなたは文化を信じている。長い時間をかけて、人を育てるものだとお思いですね」
彼は、イリスの内心を正確になぞった。
「…………その通りです」
「ですが、短い時間で人を守る文化があっても良いのでは? どちらも人間のためでしょう」
イリスは、すぐに答えられなかった。
「あなたの音楽は思想を植え付けない。だからこそ、安全です」
「……安全、ですか」
「ええ。危険なのは、答えを持つ音楽です」
レイナの顔が脳裏をよぎる。
同時に、彼女の心配そうな表情も。
「あなたの音楽は未開拓のままだ。何も育っていないかもしれないが、暴走もしない」
アルノーはそう言って、静かに微笑んだ。
「ですから、協力していただきたい」
「協力というのは」
「あなたは、今まで通り音楽を作る。それだけでいい。使用許可さえいただければ、解釈はこちらで引き受けます」
イリスは、喉の奥が乾いてゆくのを感じた。
「……それって」
言葉を探しながら、彼女は言った。
「私が責任を負えない、ってことですよね」
アルノーは、少しだけ首を傾けた。
「責任は常に聴き手にあります」
「でも、使うのはあなたたちだ」
「使われない音楽は、存在しないのと同じです」
それは、残酷なほど率直な言葉だった。
「あなたは何も変えなくていい。ただ、拒まないでほしい。俗な言い方をすれば……『売れる』機会ですよ」
イリスはゆっくり息を吸った。
「……拒まなかったら、私は何者になりますか」
アルノーはすぐには答えなかった。ただ虚空を見つめた後、何かが腑に落ちたように頷き、口を開いた。
「文化の一部です」
「それだけ?」
「それ以上でも以下でもない」
イリスは視線を落とし、カーペットの模様を見つめた。放射状の花柄は、均一で方向を持たない。どこから見ても同じだった。
「……考えさせてください」
「もちろん」
アルノーは立ち上がり、再び丁寧に頭を下げた。
「ただ、一つだけ」
ドアの前で彼は振り返った。
「あなたが沈黙している間にも、誰かはあなたの音楽を聴き、安心し、納得します。それを止める方法はありません」
ドアが閉まり、空調の音だけが残った。
イリスはしばらく動けなかった。
「……またそれか」
──音楽は土地だ。
だが、一度だけ。誰かが柵を立て、看板を置き、名前を付けてしまったら。そこはもう、単なる土地ではなくなってしまう。権利が生じ、使用目的が貼られ、価値がつけられる。
彼女は逃げるように、頭の中で和音を鳴らした。……不協和音とは、このことを言うのだろうと思った。




