表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

安全な音楽

 転機は思っていたより静かに訪れた。マルコを通じ、文化政策部門の官僚、アルノーから連絡が来たのだった。


 前回、政府系のイベントでBGMとして許可した曲を、選挙戦のテーマ曲として使わせて欲しいのだと言う。


 イリスはレイナの言葉を思い出し、断ろうと首を振りかけた。しかし、マルコの眉の角度と、「会うだけでもいい」という譲歩の言葉に、上手く反論することができなかった。


 ──アルノーと会ったのは、政府主催の音楽フォーラムの控室だった。格式ばった会場の裏側にある、カーペットの色だけがやけに新しい小部屋。窓はなく、空調の音が静かに満ちている。


 彼は五十代半ばくらいに見えた。背広は地味で、ネクタイの色も記憶に残らない。だが、言葉の選び方だけは異様に丁寧だった。


「お時間ありがとうございます、イリスさん」


 彼は深く頭を下げた。政治家というより、長く大学にいた研究者のような身振りだった。


「あなたの音楽を以前から聴いています。特に、休符の扱いが印象的だ」


 具体的な褒め方に、イリスは一瞬だけ身構えた。


「……ありがとうございます」


「押し付けがましくない曲調もいい。今の時代では珍しい姿勢ですよ」


 アルノーは椅子に腰掛けながら、穏やかに続けた。


「それで……正直に言いましょう。我々は今、社会の分断を非常に危惧しています」


 その「我々」が誰を含んでいるのかは言わなかった。もちろん、いちいち咎める勇気などなかったが。


「人々は疲れている。怒り続けるにも、敵を探し続けるにも限界がある。そんなときに必要なのは……考える前の静けさです」


 イリスは、胸の奥が小さくざわめくのを感じた。


「それで私の音楽ですか」


「ええ」


 アルノーは否定も肯定もせず、ゆっくり頷いた。


「あなたの音楽には、誰かを直接説得する力はない。しかし、感情を鎮める力はある」


「……それは、いいことですか」


「状況によります」


 彼は即答した。


「少なくとも今は、必要とされています」


 イリスは指先を組み、何かを結ぶように弄り始めた。


「私の曲に特定のメッセージはありません」


「承知しています」


「それでも選挙なんかで使われれば、変な文脈が付きかねないでしょう?」


「意味は、必ず付与されます」


 アルノーは穏やかに言った。


「人は意味のないものに耐えられない。だから、あなたが与えなくても、誰かが与える」


 その言葉は、マルコやレイナのものと重なった。


「なら、私は距離を取るべきじゃないですか」


「距離を取っても、音楽は流通しています」


「……もしや、私が断っても?」


「録音はすでに存在しています。……それがどう扱われるかは、私の知ったことではないですが。世間には『グレーゾーン』というフレーズがありますから」


 アルノーは淡々と言った。その声に、勝ち誇った響きはなかった。


「イリスさん。ここだけの話……あなたの音楽は官僚たちの間で、政治的に『無害』だと言われています」


 イリスは、その言葉にわずかに眉をひそめた。


「無害、ですか」


「決して非難しているのではありません。刺激が少ない、という意味です。怒りを煽らない。敵を名指ししない」


「だから利用しやすいと?」


 アルノーは少しだけ考え、正直に答えた。


「ええ」


 沈黙が落ちる。


「……私は、プロパガンダのつもりで作っていません」


「存じ上げています」


「私の音楽が、誰かを納得させる道具になるのは……」


「納得ではありません」


 アルノーは柔らかく遮った。


「安心です」


 その一言が、イリスの中で嫌な音を立てた。


「安心は悪いことじゃないでしょう」


「でも、考えなくなりますよ。私は音楽を通して、立ち止まって考える時間を作りたいんです」


「考えすぎて壊れている人もいる。先日のデモのニュースはご覧になりましたか。幸い死者こそいませんでしたが、負傷者が何人か搬送されたようです。……抗議活動なんぞに踏み切らなければ、怪我することもなかったのに」


 アルノーの声は、彼らを責める調子ではなかった。むしろ、誰かをかばうようだった。


「イリスさん、あなたは文化を信じている。長い時間をかけて、人を育てるものだとお思いですね」


 彼は、イリスの内心を正確になぞった。


「…………その通りです」


「ですが、短い時間で人を守る文化があっても良いのでは? どちらも人間のためでしょう」


 イリスは、すぐに答えられなかった。


「あなたの音楽は思想を植え付けない。だからこそ、安全です」


「……安全、ですか」


「ええ。危険なのは、答えを持つ音楽です」


 レイナの顔が脳裏をよぎる。

 同時に、彼女の心配そうな表情も。


「あなたの音楽は未開拓のままだ。何も育っていないかもしれないが、暴走もしない」


 アルノーはそう言って、静かに微笑んだ。


「ですから、協力していただきたい」


「協力というのは」


「あなたは、今まで通り音楽を作る。それだけでいい。使用許可さえいただければ、解釈はこちらで引き受けます」


 イリスは、喉の奥が乾いてゆくのを感じた。


「……それって」


 言葉を探しながら、彼女は言った。


「私が責任を負えない、ってことですよね」


 アルノーは、少しだけ首を傾けた。


「責任は常に聴き手にあります」


「でも、使うのはあなたたちだ」


「使われない音楽は、存在しないのと同じです」


 それは、残酷なほど率直な言葉だった。


「あなたは何も変えなくていい。ただ、拒まないでほしい。俗な言い方をすれば……『売れる』機会ですよ」


 イリスはゆっくり息を吸った。


「……拒まなかったら、私は何者になりますか」


 アルノーはすぐには答えなかった。ただ虚空を見つめた後、何かが腑に落ちたように頷き、口を開いた。


「文化の一部です」


「それだけ?」


「それ以上でも以下でもない」


 イリスは視線を落とし、カーペットの模様を見つめた。放射状の花柄は、均一で方向を持たない。どこから見ても同じだった。


「……考えさせてください」


「もちろん」


 アルノーは立ち上がり、再び丁寧に頭を下げた。


「ただ、一つだけ」


 ドアの前で彼は振り返った。


「あなたが沈黙している間にも、誰かはあなたの音楽を聴き、安心し、納得します。それを止める方法はありません」


 ドアが閉まり、空調の音だけが残った。

 イリスはしばらく動けなかった。


「……またそれか」


 ──音楽は土地だ。


 だが、一度だけ。誰かが柵を立て、看板を置き、名前を付けてしまったら。そこはもう、単なる土地ではなくなってしまう。権利が生じ、使用目的が貼られ、価値がつけられる。


 彼女は逃げるように、頭の中で和音を鳴らした。……不協和音とは、このことを言うのだろうと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ