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名もなき音

 音楽とは、種を蒔く前の土地みたいだ。

 イリスはそう思っていた。


 乾いているとも、肥えているとも言えない。ただ、何かが育つかもしれない場所。そこに何を植えるかは音楽の側では決められない。決めるのはリスナーか、あるいは歴史家だ。


 だから彼女は、自分の音楽に意味を押し込めないようにしてきた。ピアノを主に用い、一般的にはクラシック寄りのポップスと評されるが、旋律は短く、和声は曖昧で、リズムは脈拍のように揺れる。歌詞には、解釈が入り込む余地を意図的に残している。


 それは逃げではなく、聞き手への信頼だった。


 ……だが、街は急いでいた。


 何か大事件があったわけでもないが、不景気やら移民問題やらが続き、政府への不満は積もりに積もっていた。説明のつかない不安が生活を蝕み、人々は明確なキャッチフレーズを求めていた。陰謀論と排外主義を掲げる野党は、「分かりやすさ」を武器に支持を伸ばしている。


 芸術家たちもまた、一目で分かる怒りや敵意を作品に刻み始めた。誰が悪いのか、何を拒むべきか。答えを持つ表現ばかりが、音楽配信サービスで上位を占めていた。


 イリスは小さなホールで演奏を続けていた。満席になることは少なく、演奏後の沈黙が拍手より長い夜もあった。それでも彼女は、土地を耕すように音を奏でた。


「今のままだと、もったいないよ」


 そう言ったのは、プロデューサーのマルコだった。昔からの知り合いで、現実を直視することに長けた男だ。大学のフォークソング研究会にいた頃、先んじてレコード会社に就職していた彼から、イリスはスカウトを受けたのだった。


 二十三時を回ったスタジオにて。

 彼は剃り残した顎ひげを撫でながら、少し詰まったように言葉を置いた。


「時代が欲しがってるのはメッセージだ。イリスの音楽には力がある。でも、歌詞やメロディーが何に向けられてるのか分からない」


 イリスは鍵盤の前に座りながら、肩をすくめた。


「向ける必要、ある?」


「あるさ。今は特に」


「私の音楽はそういうのじゃないでしょ」


「今を転換期にしないと。どのアーティストだって変化は必要だろう」


「……売れるために?」


 イリスの声は、挑発というより確認に近かった。マルコはすぐには答えず、スタジオの壁に貼られた古いポスターに視線を逃がした。学生時代、二人で演奏した小さなライブハウスの名前が、色あせて残っている。


「『売れる』って言い方は好きじゃないな」


 彼は苦笑した。


「『届く』だよ。ちゃんと」


「今だって、届いてる人はいる」


「少ないだろ」


 否定は早かった。マルコは事実を並べるのが得意だ。再生数、フォロワー、アルゴリズム。彼の頭の中には、イリスの音楽がどこで止まっているか、地図のように見えているのだろう。


「ねえ、イリス。君の曲を聴いた人にさ、『これって結局、何が言いたいの?』って聞かれたことあるだろ」


「…………母さんに」


「そのとき、どう答えた?」


 イリスは鍵盤に指を置いたまま、少し考えた。


「答えられなかった」


「だろ?」


「でも、それでいいと思ってる」


 マルコはため息をついた。それは苛立ちというより、積み上げてきたジェンガを崩してしまった人の呼吸だった。


「今はね、余白が嫌われる時代なんだ。考えさせる表現は親切じゃないって言われる。みんな疲れてる」


「だから、答えを置いてあげる?」


「そうじゃない。でも、せめて方向くらいは示してもいい」


 イリスは低く一音、ピアノを鳴らした。そろそろ調律が必要そうな、不安定な黒鍵の音だった。


「……方向を示した途端にさ、そこに行く人と、行かない人が分かれるじゃん」


「分かれるのが悪いことか?」


「悪くないけど、私がやりたいことじゃない。こっちの采配で、リスナーを選別したくはないの。彼らの自由意志を大事にしなきゃ」


 マルコは一瞬、言葉に詰まった。

 そして、少し声の調子を落とす。


「……正直に言うよ。今、色んな業界が分かりやすい音楽を欲しがってる。社会的に『正しい』って言えるものを。君の音楽は使いようによっては、そのストリームに乗せられる。聴かれる機会を増やせるんだ」


「使う、って言い方」


「現実的な話だ」


 イリスは振り返って、初めて彼の顔を見た。


「……ねえ、マルコはさ。私の音楽が『何に使えるか』考えたことはあっても、『何を育てるか』考えたことある?」


 マルコは答えなかった。否定もしなかった。


 ──沈黙が落ちる。

 スタジオの換気音だけが、一定のリズムを刻んでいた。


「私ね」


 イリスは視線を鍵盤に戻した。


「自分の音楽が、誰かの何かを変えるとは思ってない。でも、考える時間を奪わない音でありたいの」


「それが、今の社会に合ってないって言ってるんだ」


「合わなくていい。あなたは商売だろうから困らせちゃうかもだけど……分かりやすさって一番危険じゃない?」


 マルコはしばらく黙り込み、やがて苦笑した。


「相変わらずだな。昔から」


「そう?」


「フォーク研の頃もさ。みんなで反戦だの何だの歌ってる横で、君だけ意味の分からないコード弾いてた」


「意味はあったよ。まだ名前がなかっただけ」


 その言葉に、マルコは何も返さなかった。

 ただ、最後にこう言った。


「覚えておいてほしい。意味のない音楽は、誰かが意味を与えるものさ。僕しかり、レコード会社しかり、リスナーしかり。君が与えなくても、だ」


 イリスは返事をせず、もう一度、音を置いた。あたかも、耕されていない土の感触を確かめるように。

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