第九話
サンセント・シルヴァ公国魔法学園の朝は、
いつも決まりきった音から始まる。
鐘の低い響き。
中庭を渡る生徒たちの足音。
制御を誤った魔力が、どこかで小さく爆ぜる音。
この国では、それが「普通」だ。
俺はその中を歩きながら、
相変わらず何も感じていなかった。
魔力の濃淡も、
結界の圧も、
この世界に満ちているはずの力は、
俺にとってただの背景にすぎない。
「なあ善太郎」
隣を歩くレオンが、
肩に腕を回してくる。
「最近さ、学園の空気、ちょっと重くね?」
「お前が朝弱いだけだろ」
「違う違う、そういうのじゃなくて」
レオンは声を潜めた。
「結界の点検、増えたし。
監査官みたいなの、うろついてるし。
それに——」
ちらりと、俺を見る。
「お前の周り、明らかに変だ」
否定しなかった。
変なのは事実だ。
俺が来てから、
術式が止まる。
結界が沈黙する。
魔法が「成立しない」瞬間が増えた。
原因は、分かっている。
——俺だ。
教室に入ると、
すでにミレイが席に座っていた。
「おはよう」
声をかけると、
彼女は本を閉じ、少し考えるような間を置いてから言った。
「ねえ、この前の授業のこと、覚えてる?」
忘れるわけがない。
黒衣の講師。
淡々とした口調。
魔法理論を語りながら、
俺だけを意図的に視界から外していた女性。
——姉。
そう呼べばいいのか、
もう分からない存在。
「覚えてるよ」
「やっぱり」
ミレイは静かに息を吐いた。
「あの人、変だった。
異常が起きてるのに、驚きもしなかった」
「……知ってたんだろ」
「ええ。
最初から“そういう結果が出る”と分かってた」
それが、
何より怖い。
授業開始の鐘が鳴り、
教室の扉が開く。
入ってきたのは、
あの日と同じ黒衣の女性だった。
「本日は、理論実技を行います」
ミーシャ・ハロルド。
それが、彼女の今の名前。
「魔法とは、魔力と世界の合意によって成立します」
淡々とした説明。
生徒たちは真剣に耳を傾ける。
「では、問いましょう」
彼女は教壇から教室を見渡す。
「世界が、魔法を拒否した場合。
術式はどうなると思いますか?」
誰も答えられない。
——拒否される、という発想自体がない。
実技が始まり、
生徒たちは結界の中で術式を展開する。
光。
詠唱。
魔力の流れ。
俺は、
その外側に立っていた。
いつも通り、
何もしない。
すると、
結界が音もなく沈黙した。
壊れない。
暴走しない。
ただ、
「成立しない」。
教室が静まり返る。
ミーシャは、
その様子をじっと見つめていた。
驚きも、焦りもない。
「記録してください」
補助教員に向けて、そう言う。
「これは事故ではありません。
観測された、正しい結果です」
観測。
その言葉が、
俺の胸に重く落ちる。
授業が終わり、
生徒たちが教室を出ていく。
俺も立ち上がろうとした、その時。
「榊善太郎」
名前を呼ばれ、
足が止まる。
「あなたは、この学園の日常を壊す力を持っています」
「……俺は、何もしてない」
「ええ。だからこそです」
彼女は視線を合わせない。
「あなたは、日常を知っている。
魔法がなくても成立する世界を、知っている」
それは、
この国では最大の異端だった。
「お願いがあります」
小さく、しかしはっきりと。
「ここでは、
私を姉だと思わないでください」
言葉の裏にある感情を、
俺は読み取れなかった。
魔力ゼロの魔法使いは、
今日も何事もなかったように教室を出る。
日常は続く。
壊れるその瞬間まで。




