第二話
扉の向こうから吹いてくる風は、冷たくもなく、暖かくもなかった。
それなのに、はっきりと分かる。
日本の空港で感じていた空気とは、決定的に違う。
石の匂い。
湿った土の匂い。
それに混じって、どこか甘く、鼻の奥に残る香草のような香り。
「……」
一歩、足を踏み出す。
躊躇はあった。
でも、戻る理由も、戻る場所も、もうない気がしていた。
次の瞬間、視界が白く弾けた。
⸻
足元の感覚が消える。
落ちているのか、浮いているのかも分からない。
耳鳴りのような音がして、頭の奥がじんわりと熱くなる。
「……っ」
反射的に目を閉じ、そして――
「ようこそ」
声が、すぐ隣で聞こえた。
目を開けると、僕は石畳の上に立っていた。
⸻
空は高く、澄んでいる。
雲はゆっくりと流れ、太陽の光は柔らかく、どこか色が淡い。
視線を下ろすと、灰色と白が混ざった石畳の道が、街の奥へと続いていた。
建物はどれも古く、美しい。
白い石壁に、尖った屋根。
窓枠には細かな装飾が施され、壁の一部には幾何学模様のような紋様が刻まれている。
「……すごい」
思わず、声が漏れた。
ゲームや映画で見たことのある“ファンタジーの街”に、現実感を与えたような光景。
でも、それ以上に違和感を覚えたのは――人々だった。
「……」
通りを歩く人たちは、誰一人として驚いていない。
扉から現れた僕を一瞥する者はいる。
けれど、その視線は短く、すぐに逸らされる。
まるで、
「また来たのか」
と言わんばかりに。
「……あの」
我慢できず、ミーシャさんに声をかける。
「ここ、普通に……受け入れられすぎじゃないですか?」
彼女は歩きながら、あっさりと言った。
「ええ。
この国では、異世界から人が来ること自体は、珍しくありません」
「……それ、さらっと言うことですか?」
「慣れです」
即答だった。
街を進むにつれて、僕は一つのことに気づいた。
人々の目が、どこか静かすぎる。
笑っている人はいる。
会話も、行き交っている。
それなのに、感情が薄い。
表情の奥に、何かが欠けているような、妙な印象。
「……ミーシャさん」
「はい」
「この国の人たち、なんというか……」
言葉を探していると、彼女は少しだけ視線を落とした。
「魔法の代償、です」
「代償?」
「この国では、魔法は“力”ではありません。
“交換”です」
胸の奥が、ひやりとした。
「強い魔法を使うほど、
大切なものを、少しずつ失います」
「……例えば?」
「感情。
記憶。
人によっては――名前」
冗談じゃない。
そう言いたかったが、彼女の表情は真剣だった。
⸻
やがて、開けた広場に出た。
中央には、巨大な水晶が浮かんでいる。
正確には、無数の光の線に支えられて、宙に固定されていた。
近づくだけで、肌がぴり、と痺れる。
「魔力測定水晶です」
ミーシャさんは言った。
「この国に来た人は、必ず通ります」
嫌な予感しかしない。
「……拒否権は?」
「ありません」
やっぱり。
⸻
水晶の前に立たされ、周囲の視線が集まる。
貴族らしき服装の人。
学園の制服を着た若者。
兵士のような者までいる。
全員が、僕を見ていた。
「手を、かざしてください」
深呼吸して、手を伸ばす。
触れた瞬間――
水晶が、微かに震えた。
だが、光らない。
普通なら、淡い光が灯るらしい。
それが、まったくない。
ざわめきが起こる。
「……反応がない?」
「魔力、ゼロ……?」
「いや、そんなはず……」
「……静かに」
ミーシャさんの声で、広場が静まる。
彼女は水晶を睨みつけるように見つめ、低くつぶやいた。
「……違う」
「え?」
「魔力が、ないんじゃありません」
彼女は、僕を見た。
「魔力が、外に出ていない」
「それって……」
「完全に、閉じている」
その言葉に、周囲がざわつく。
「あり得ない……」
「そんな制御、聞いたことが……」
ミーシャさんは、はっきりと言った。
「――異常です」
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
⸻
そのとき、水晶が低く唸った。
一瞬だけ、内部に光が走る。
その瞬間。
――懐かしい。
頭の奥に、感覚が流れ込んできた。
石畳を踏む足音。
高い塔。
誰かの笑い声。
知らないはずの記憶。
「……っ」
思わず、頭を押さえる。
「善太郎さん?」
ミーシャさんの声が、遠い。
「……やっぱり」
彼女は、小さく息を吐いた。
「……やっぱり」
彼女は、小さく息を吐いた。
「あなたは、予定通りですね」
「予定……?」
問い返す前に、彼女は背を向けた。
「案内します」
「どこへ……」
「決まっているでしょう」
彼女は振り返り、静かに告げた。
「魔法学園です。
あなたが、この国で生きるための場所」
「……生きる、って」
「安心してください」
そう言って、彼女は微笑んだ。
「あなたは、歓迎されています」
その言葉が、
なぜか、ひどく怖かった。
この国は、
僕を偶然迎え入れたわけじゃない。
最初から、
――来ることを、知っていた。
そう確信しながら、
僕はミーシャさんの背中を追った




