第十三話
朝から空気が重かった。
今日も特別クラスの演習場で、俺は白線の内側に立っていた。
息を一定に整え、視線を落とし、手を動かさない。
周囲の魔力を壊さないために、ただ存在する。
「榊、集中」
教官の声が背中に届く。
集中……している。
でも、やはりゼロはゼロだ。
どう頑張っても、魔力は出せない。
午前中の演習では、結界の揺れを最小限に抑えた。
完璧ではないが、目立った異常はなかった。
それだけで、自分を少しだけ誇らしく思った。
昼過ぎ、資料室で理論を読み込み、午後の実技に挑む頃には、疲労が体に重くのしかかる。
頭がぼんやりし、呼吸のリズムがわずかに乱れる。
小さなズレは、結界に確実に影響を与える。
「榊、準備はいいか」
教官が声をかける。
振り向かず、うなずく。
緊張で手が震えても、魔法は出せない。
だからこそ、周囲の魔法を壊さないことに全神経を集中する。
その時、目の端に光が揺れた。
街と学園を結ぶ魔力ネットワークの小さな結節点。
普段は微動だにしない場所だ。
「……まずい」
思わず声に出す。
でも、止められない。
疲労で体が言うことをきかず、無意識に一歩踏み出してしまった。
白線の外に出た瞬間、結界が微かに波打った。
小さな振動だ。
だが、それは初めての本格的な事故の始まりだった。
演習場の遠く、学園外の街でも異変は始まっていた。
魔力灯が瞬く。
使い魔の制御が一瞬だけ乱れる。
道行く人々が、空気の揺れに目を見開く。
しかし、魔力のある者は誰もその理由に気づかない。
一人の市民が空を見上げる。
そこには、学園から伝わった微かな魔力の歪みが、街の一部を揺らしていた。
噴水の水流が突然止まり、流れが逆になりかける。
小さな炎の魔法で温められたパンが、奇妙に温度を変えた。
誰も怪我はしていないが、異様な違和感が街全体を覆う。
演習場に戻ると、教官の視線が刺さる。
結界の変形は目に見えて明らかだった。
手を動かさず、詠唱もしていないのに、歪みが発生している。
「榊……!」
補助教員の声に振り向くと、その顔には驚きと恐怖が混ざっていた。
「どういうことだ……? 誰か、説明しろ」
しかし誰も説明できない。
原因は、俺しかありえない。
けれども、俺は魔力ゼロだ。
「……俺のせいだ」
思わず口にする。
教官も、一瞬目を見張る。
「君の……存在が、結界に干渉した?」
「……そうだ」
教室全体に沈黙が落ちた。
その空気が、俺の心臓を締め付ける。
その場に現れたミーシャ・ハロルド。
姉は冷静そのものだ。
だが、瞳の奥に僅かな動揺が見えた。
「被害は最小限で済んでいます」
声は落ち着いていた。
「だが、これは警告です。
無自覚でいることの代償が、こうして現れた」
俺は震える手を握りしめる。
努力しても、ゼロはゼロ。
存在するだけで、世界を揺らしてしまう。
「……ごめん」
言葉は自然に出た。
でも、姉は首を振る。
「謝る必要はありません。
大事なのは理解することです」
理解しても、被害は起きた。
その矛盾に、頭がぐらぐらする。
夕方、街を見下ろす高台に立つ。
市民たちは何も知らず、普通に日常を過ごしている。
でも、街灯の光は微かに歪み、使い魔はぎこちなく動く。
「俺……」
自分の足元で、空気が震える。
体が重く、心も重い。
初めて、自分が世界にとって危険そのものだと肌で理解した。
努力しても、魔力は出せない。
でも、存在するだけで影響がある。
ゼロはゼロなのに、世界は反応する。
その夜、俺は初めて泣きそうになった。
魔力ゼロの魔法使いは、努力しても世界に影響を与える。
だからこそ、立ち続けなければならない。
明日も、また、歯を食いしばる。




