第一話
一月某日、日本。
僕は空港にいた。
ガラス張りの壁一面に、夕焼けが広がっている。
オレンジ色と紫色が混ざり合った空の下、飛行機がゆっくりと滑走路を進み、あるものは飛び立ち、あるものは帰ってきていた。
あの中のどれかに、僕も乗る――はずだった。
「……」
腕時計を見る。
まだ時間はある。
ありすぎるくらいだ。
空港という場所は不思議だ。
人は多いのに、誰もがどこか一人で、誰もが「ここではないどこか」を見ている。
僕も、その一人だった。
「はぁ……」
ため息をつくと、ガラスに白く曇りが残った。
正直、今すぐ帰ってしまいたかった。
改札を抜けて、電車に乗って、いつもの駅に戻る。
叔母の作る少し薄味の夕飯を食べて、テレビを見て、寝る。
――それが、僕の日常だった。
でも、それはもう終わったのだと、心のどこかで分かっていた。
⸻
両親が海外へ渡航したまま行方不明になったのは、僕が小学生の頃だった。
事故なのか、事件なのか。
何も分からないまま、時間だけが過ぎていった。
泣いた記憶は、あまりない。
泣くより先に、叔母が抱きしめてくれたからだ。
「大丈夫。善ちゃんは、うちの子だよ」
そう言ってくれた言葉を、今でも覚えている。
それからの生活は、驚くほど普通だった。
学校に行き、友達と話し、家に帰る。
叔父は口数が少なかったけれど、毎朝きちんと「行ってこい」と言ってくれたし、
叔母はいつも僕の好きな料理を覚えていてくれた。
本当に、家族だと思っていた。
疑ったことなんて、一度もなかった。
――あの手紙が届くまでは。
⸻
郵便受けに入っていた、見慣れない封筒。
外国の消印。
中には、短い手紙と、航空券が一枚。
《善太郎へ
突然でごめんなさい。
あなたに会いたい。
話さなければならないことがあります》
差出人の名前を見た瞬間、心臓が跳ねた。
姉。
記憶の中では、ほとんど顔も思い出せない存在。
それでも、確かに「姉」という言葉だけが胸に残っていた。
叔母は、何も言わずに手紙を読んだ。
そして、しばらく動かなかった。
「……そうだったわね」
ぽつりと、独り言のように。
「ごめんなさい……」
次の瞬間、強く抱きしめられた。
驚くほど、力がこもっていた。
まるで、離したら消えてしまうみたいに。
叔母は泣いていた。
でも、なぜ泣いているのか、僕には分からなかった。
「そっか……」
涙声で、叔母は言った。
「善ちゃんのお姉さん……生きてたんだね」
そして。
「今日でね……善ちゃんのお母さんは、終わり。
本当の家族のところに、行きなさい」
頭の中が、真っ白になった。
拒否した。
反射的に、必死に。
ここが家だ。
ここが、僕の居場所だ。
そう言った。
でも叔母は、ただ悲しそうに微笑んで、
「そっか……ごめんね」
それ以上、何も言わなかった。
その夜、叔父は多くを語らなかった。
「善太郎」
低い声で呼ばれ、
「お前は、お前の姉のところへ行け」
一度、言葉を切り、
「……すごい人だ。あの人は」
それだけ言って、席を立った。
⸻
そして今、僕は空港にいる。
姉の住む国――
チェコ、プラハ。
名前を聞いたとき、なぜか胸がざわついた。
知らない場所のはずなのに、遠い夢の続きみたいな感覚。
「……」
受付でチケットを出す。
係員は、困ったように端末を操作し、首をかしげた。
「申し訳ありません。こちらの航空会社は存在しません」
「……え?」
何度見ても、どこにも載っていない。
偽物?
冗談?
悪質な詐欺?
頭がぐちゃぐちゃになる。
結局、僕はまた窓際に戻り、夕焼けを眺めていた。
そのときだった。
「あの……少しよろしいでしょうか」
声をかけられ、振り返る。
そこに立っていたのは、落ち着いた雰囲気の女性だった。
「あなた様は、榊様でしょうか?」
「……はい」
「やっと見つけました」
彼女は軽く息をつく。
「私、ミーシャ・ハロルドです」
「……ミーシャさん?」
「はい」
僕の持つチケットを見ると、彼女は小さく頷いた。
「それ、普通のものじゃありません」
「え……」
「魔法のチケットなんです」
冗談だと思った。
けれど、彼女の目は真剣だった。
「矢印が三つありますよね。
それを、破いてください」
戸惑いながら、チケットを破る。
次の瞬間。
空間が、音もなく歪んだ。
扉が――現れた。
「この先が、サンセント・シルヴァ公国です」
「あの……それは……」
「魔法使いと魔法のある国ですよ」
ミーシャはそう言って、先に扉をくぐった。
「……魔法の国、か」
信じられない。
でも。
扉の向こうから吹いてくる風は、
確かに――ここではない世界の匂いがした。
これが、すべての始まりだった。
今思えば、この瞬間こそが――
僕の人生で、一番穏やかな時間だったのかもしれない。




