9話 少し気まずい空気から
驚いてそちらを見ると、彼女は膝を抱えたまま、ほんの少しだけ俺の隣にスペースを空けていた。
その金髪はふわりと揺れて、部屋の明かりを受けてやさしく輝いている。頬はまだ少し赤く、けれどもうスマホを盾にはしていなかった。
「……別に、変な意味じゃないから。ただ……」
彼女の声は、小さな声で、でもどこか震えていた。
「ユウが黙ってると、なんか不安になるの。……わたし、また嫌われたのかなって……」
その一言で、胸が締めつけられる。
俺はゆっくりとユイの隣に腰を下ろした。肩が触れるほど近くはない。けれど、ソファの中央に寄ったその距離は、ユイなりの精一杯の“勇気”なんだとわかる。
「嫌うわけないよ」
「……ほんと?」
「ほんと。むしろ……」
口元まで出かかった言葉を、ユイが先にふさぐ。
「……だったら、ちゃんと言ってよ。そういうの」
ユイの手が、そっと俺の袖をつまんだ。
それはまるで、離れないでという小さなサインみたいだった。
沈黙の中、俺はゆっくりとその手を包み込んだ。
ユイが驚いて見上げてくる。
その瞳は、怯えて、でも嬉しそうで。
「……俺、ユイのこと、ちゃんと大事に思ってる」
「…………」
ユイは何も言わなかった。
ただ、袖をつまむ指に少し力が入って、そして――俺の肩に、そっと額を寄せた。
肩に額を寄せてきたユイは、しばらくそのままだった。
俺は何も言えず、ただそのぬくもりを感じることしかできなかった。
テレビもスマホも止まったまま、部屋には時計の針が進む音と、かすかな呼吸だけが響いている。
やがてユイが、そっと体を離した。けれどその瞳は、まだ俺のことをまっすぐに見ていた。
「……ねえ、ユウ」
「うん?」
「今夜は……なんか、眠れなさそうかも」
小さな声で、そんなことを言う。
俺も、たぶん同じだった。
隣にいるはずなのに、妙に遠く感じたり、逆にやけに近すぎる気がして――落ち着かない。
「……俺も、なんか……変な感じ」
「うん、変なの」
ユイが笑う。
照れくさそうに、でもちょっとだけ嬉しそうに。
さっきの涙ぐんだ顔とは、まるで別人のようだった。
俺たちはゆっくりと立ち上がり、それぞれの部屋に向かおうとした。
……けれど。
ユイがふと、足を止めて振り返った。
「……おやすみ、ユウ」
「……ああ。おやすみ、ユイ」
静かに扉が閉まる音。
部屋に戻ったあとも、胸の鼓動だけがうるさく響いていた。
――なんで、ただの「おやすみ」だけで、こんなにドキドキしてるんだろう。
夜の静寂が、家の中を包み込んでいた。
時計の針の音が心の中まで響き、あの「おやすみ」の言葉が、今も頭の中でぐるぐる回っている。
ユイが言った言葉、あの照れた顔。
まだその余韻が、胸に残っている。
深く息を吸って目を閉じる。
そして、再び目を開けた瞬間、どこかで微かな音が聞こえた。
それは、壁越しに聞こえたユイの寝息。
ただの寝息なのに、なんだかやけに気になってしまった。
どうしてこんなに、心がざわついているんだろう。
それとも――
俺もまた、まだ寝ていなかったのかもしれない。
眠ろうと思っても、何度も目を開けてしまって。
ふと、ユイのことが頭に浮かんだ。
目を閉じて、ユイが寝ている姿を思い浮かべる。
その瞬間、また不安が胸に広がる。
俺はこんなにもユイを気にかけているけれど、それって――
「ユウ?」
突然、低い声が暗闇の中で響いた。
息が止まり、視線が部屋の扉へと向かう。
ユイだ。
寝室から出てきて、まるで何かを言いたいように、俺を見つめていた。
「……何か、あったか?」
思わず声をかけるが、ユイは何も言わず、少しだけ震えるように歩み寄ってきた。
そして、少し恥ずかしそうに、けれどどこか心細げに言った。
「……ちょっと、怖かった……」
その言葉に、俺の胸はぎゅっと締め付けられた。
こんなことで不安にさせてしまうなんて。
でも、俺が言葉をかける前に、ユイが俺の前に来て、そっと腕を伸ばした。
「……ここ、で寝てもいい?」
小さな声で、お願いをしてきたユイ。
その瞳は、まだ少し濡れたように輝いていて。
俺は、少し驚きながらも、すぐに頷いた。
「もちろん、寝かせてあげるよ」
ユイはほんの少しだけ、安心した表情を浮かべると、そっと俺の隣に座り込んだ。
そのまま、肩を並べるようにして、ゆっくりと体を寄せ合う。
ああ、こんなにも近くにいるのに、心が少しだけ落ち着く。
でも、その心地よさの中に、また少しだけのドキドキが混じっている。
ユイが寝息を立てるまで、しばらく静かな時間が流れた。
その隣で、俺もまた、心の中の迷いを少しずつ解いていくように、ゆっくりと目を閉じた。