8話 オムライスと小さなアプローチ
──昼過ぎ。
買い物を終えて帰宅し、俺はエプロン姿でキッチンに立っていた。テーブルの上には玉ねぎ、鶏もも肉、たまご、そして……ケチャップ。
「ユウ、なに作ってるの?」
ユイがぴょこっと顔を出してくる。今日は髪をゆるく一つに結んでいて、首筋がちらっと見えた。その小さな変化にちょっとだけドキッとする。
「オムライス。さっきの約束、覚えてるだろ?」
「うん。……あのね」
ユイがそわそわと足をもじもじさせながら、手に何かを持っていた。
「これ……ケチャップ。初めてだけど……名前、書くの、わたしがやってもいい?」
「えっ、俺の?」
彼女はコクンと小さく頷いた。顔は真っ赤。けど目は真剣だ。
「ユウに……もらってばかりだから。わたしからも、なんか……したいの」
そんな風に言われて、断れるはずがなかった。
オムライスが出来上がり、皿を差し出すと、ユイは真剣な顔で「ユウへ♡」と、震える手で描いてくれた。
ハートマークの形は少し崩れていて、でも、どこかとても優しい。
「……さっきも言ったけど。こういうの、初めてなの……」 どこか戸惑いを含んだ声色で、視線を僅かにそらしながら彼女は俺の反応をうかがうように目を上げた。
俺は笑って、「ありがとう。すげー嬉しい」と答えた。
「じゃあ、今度は俺がユイの番な?」
「……うん。でも、あんまり変なこと書かないでよ?」
そう言いつつ、ユイの口元は緩んでいた。
日常の、ほんの些細なアプローチ。けれどその一つひとつが、確かに心の距離を縮めていく。
休日の午後。
外はやわらかな春の日差しが差し込み、ぽかぽかとした空気が部屋の中にも満ちていた。
「ユイ、ちょっと出かけないか? 近くの商店街でイベントやってるらしい。たこ焼きフェアだってさ」
声をかけると、ユイはソファの上でくるんと体を丸めたままこちらを見た。お気に入りのクッションを抱えて、少しだけ不満げな顔。
「えぇ……人、多いんじゃない?」
「大丈夫、午前でピークは過ぎてるって。ほら、いい気分転換になるかもよ?」
渋るかと思いきや、彼女はふいに顔を背けて、小さな声で呟いた。
「……ユウが一緒なら、行ってもいいよ」
その言葉に、俺は少しだけ笑ってしまった。
商店街は思ったよりもにぎわっていて、屋台の匂いや人の声に包まれていた。
ユイは珍しく髪をハーフアップにしていて、春らしい淡いピンクのパーカーにデニムスカートという軽やかな服装。歩くたびに金髪がふわっと揺れる。
「ほら、たこ焼き。熱いから気をつけろよ」
「ん……あちっ……でも美味しい!」
ホクホクした顔で頬張るユイ。その口元についたソースを指で拭ってやると――
「も、もう……勝手に触らないでよ」
と頬を赤らめて抗議してきた。けど、その視線はどこかうれしそうだった。
帰り道、公園のベンチに並んで座りながら、桜のつぼみを見上げる。
「ねえ、今日……楽しかった」
「そりゃよかった。たこ焼きだけでこんなに喜んでもらえるとは」
「ちがうもん。たこ焼きじゃなくて……ユウと一緒だったから」
不意にそんなことを言われて、胸が一瞬だけ高鳴った。
「……ユイ、顔、赤いぞ?」
「う、うるさいっ! 気のせいっ!」
じれったくも甘く、心が少しずつ近づいていく午後のひととき。
夕方、少し赤く染まり始めた空の下、二人は帰宅した。
玄関で靴を脱ぎながら、どちらからともなく、口数が減っていた。
リビングに入ると、ユイはさっとソファに腰を下ろし、スマホをいじるふりを始める。俺はキッチンへ行き、無言のまま冷蔵庫を開ける。
けれど、頭の中はさっきの言葉でいっぱいだった。
――「ユウと一緒だったから」
そんなこと言われて、何も感じないわけがない。でも、意識しすぎて、どう振る舞えばいいのか分からなくなっていた。
「……楽しかったな、今日」
何気なくかけた言葉に、ユイはピクリと肩を揺らした。
「……うん。でも……」
「でも?」
「……なんでもない」
ソファの上、ユイは小さく背を丸めてスマホの画面から目を離そうとしない。その表情はどこかもどかしげで、頬には微かな赤みが残っていた。
俺も少しだけ距離を取るように、離れた場所に腰を下ろす。
ほんの数時間前まで、あんなに自然だったのに。今は言葉を選びすぎて、何も言えなくなる。
「……さっきのこと、気にしてる?」
ふいにユイがぽつりと聞いた。
──目が合う。
その瞳には、不安と少しの勇気が浮かんでいた。
「いや……うれしかったよ。正直」
「……そっか」
それだけ言って、また目をそらしたユイの横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
俺が返事をしたあとの沈黙は、たぶん数秒――けれど、やけに長く感じた。
ふと、ソファが沈む音がした。
「……ユウ、こっち、座って」
ユイがぽつりと言った。