6話 名前を呼ばれるたびに
夜のリビングには、穏やかな照明が灯っていた。
ソファの上、ユイとユウはいつものように並んで座っていた。テレビはついているけれど、互いにそちらを見るでもなく、どこか気まずい空気が漂っている。
──あの風呂場での出来事から、まだ数日。
ユイはちらりとユウの横顔を見つめ、ためらいがちに口を開いた。
「ねぇ、ユウくん……」
その呼びかけに、思わず鼓動が跳ねる。
「……今、名前で呼んだ?」
「うん……。なんか、ちゃんと名前で呼びたくなったの。これからも、呼んでいい?」
ユウは言葉に詰まる。
彼女の瞳はまっすぐで、どこか不安げで、それでいて期待も込められているようだった。
「もちろん。俺も、ユイのこと……名前で呼んでもいい?」(すでに呼んでるけど、改めて話の流れでね……)
「うん……っ」
たったそれだけの会話なのに、空気がふわっと変わった気がした。
名前を呼ぶという行為が、こんなにも心の距離を近づけるものだとは思わなかった。
しばらくの沈黙のあと、ユウは思い切って口を開いた。
「……ユイ。お前のこと、ちゃんと守ってやりたいって思ってる。ずっと」
ユイは驚いたように目を見開き、そして頬をほんのり赤らめながら、そっと寄りかかってきた。
金色の髪がユウの肩にふわりと触れ、湯上がりのように温かいぬくもりが伝わる。
「わたしも……ユウくんといると、安心する。もっと一緒にいたいな」
それは、まだ「好き」とは言えないけれど、確かに恋に触れた瞬間だった。
午後の買い物帰り、ユウとユイはスーパーの袋をぶら下げながら歩いていた。今日はユイの希望でカレーを作る予定だ。そんな他愛もない日常に、ふとした出来事が混ざり込んだ。
「ユウくん?あれ、誰?」
ユイが立ち止まって指差したのは、通りを挟んだ向こう側。
そこには、地元のカフェで働く若い女性が手を振っていた。
「えっ、ああ……中学の同級生だよ。久しぶりだな~」
ユウが笑って手を振り返すと、相手の女性は軽く駆け寄ってきた。
「ユウ~!元気そうじゃん。今も近くに住んでるの?彼女と一緒?」
彼女は明るく話しかけてきた。ユウは少し戸惑いながらも応じる。
「ああ、まあ……一緒に住んでるっていうか……」
その「曖昧な返し」に、ユイの眉がピクリと動いた。
「そうなんだ~。ユウって昔から優しかったし、絶対モテてると思ったよ」
その言葉に、ユイはぴたりとユウの袖を掴んだ。小さな手が、ぐいっと。
「……ユウくん、そろそろ帰ろう?カレーの材料、冷えちゃうよ」
少し不機嫌そうな表情。その青い瞳には、かすかな不安とやきもちが揺れていた。
「あ、ごめんごめん。じゃあ、またなー」
手短に挨拶をしてその場を後にする。
帰り道、ユイは口をつぐんだまま歩いていた。頬をふくらませ、ちらちらとユウを見ては目を逸らす。
「……もしかして、怒ってる?」
「怒ってないもん。ただ、ちょっと……」
「ちょっと?」
「……“彼女”って聞かれて、はっきり言わなかったから……」
その言葉に、ユウの胸がぎゅっと締めつけられる。
無意識のうちに、彼女を不安にさせていたことに気づいた。
「ごめん。次からちゃんと“ユイが大事な子だ”って言うからさ」
その言葉に、ユイはふっと視線を上げて、わずかに笑った。
「……ほんとに?」
「ほんと」
「じゃあ……今日のカレー、がんばって作ってくれる?」
「もちろん!」
二人の間の空気が、ほんの少しだけやわらかくなった。
家に帰りつくと、ユウはすぐにエプロンをつけて、キッチンに立った。ユイも手伝うと言って、早速調味料を用意し始める。カレーの香りが家中に広がる中、二人の間に流れるのは穏やかな時間だった。
「ユイ、これ切ってくれる?」
「うん、分かった!」
ユイは楽しそうに玉ねぎを切り始めるが、その手つきはどこかぎこちない。普段は手際よく料理しているユイが、今日はちょっとだけ不安げだ。それをユウは見逃さなかった。
「どうした? 何か気になることでも?」
ユイはちらっとユウを見て、少し照れくさそうに言った。
「さっきの……その、なんでもないんだけど……」
ユウが目を細めて、心配そうに聞き返す。
「何だよ、そんなに気になること?」
ユイは息を深く吸ってから、ゆっくりと口を開く。
「……あんなふうに、他の女の人と話してるの、なんだか嫌だった」
ユウは驚きながらも、すぐにユイの顔を見て少しだけ笑った。
「そっか。そういう風に思ってたんだね」
ユイは恥ずかしそうに顔を赤らめ、玉ねぎを切りながら声をひそめた。
「だって……ユウはすごく優しいし、モテるし、みんなが寄ってくるんだもん。わたし、そんなの見たくないよ」
ユウは少し考えてから、ユイの肩に手を置いた。
「ユイ、俺だってユイのことが一番大事なんだよ。誰かと話してたって、ユイが一番だからな!」
その言葉を聞いたユイは、少し驚いた顔をしてから、ほんのりと頬を赤らめた。
「……ほ、ほんとに?」
「うん、もちろん。だってユイがいなきゃ、俺の毎日は成り立たないしな」