5話 はじめての、ひとりで。
その日、朝からユイは落ち着かない様子だった。
そわそわとリビングを行ったり来たりしては、何かを言いたげにこちらを見てくる。
「……なんか、あった?」
声をかけると、彼女はぴたりと動きを止め、小さくうなずいた。
「えっと……ね。今日は、わたし……ひとりで、出かけてみようかなって」
「ひとりで? どこへ?」
「この前、通った商店街のパン屋さん……すごく美味しかったから、また食べたくて。場所も、たぶん覚えてる……と思う」
そう言うユイの瞳は、不安と決意が交じり合っていた。
金色の髪が朝の光を受けてやわらかく輝き、白い頬が少し緊張でこわばっている。
ほんの数日前まで、ひとりで外に出ることすら躊躇していたユイが、自分の意志で行動しようとしている――その変化が、胸に沁みた。
「……分かった。でも、スマホはちゃんと持って、何かあったらすぐ連絡して」
俺がそう言うと、ユイはぱっと顔を明るくした。
「うんっ! ありがとう……いってきます!」
ぎこちないけれど嬉しそうに手を振って、彼女は玄関の扉を開けた。
その小さな背中を見送りながら、俺は気づかぬうちに微笑んでいた。
パン屋へ向かって歩いていたユイは、少しだけ道を間違えたことに気づいた。
見覚えのある建物が見当たらず、角を曲がるたびにどこか違う風景が広がっている。
(……あれ? こっちじゃなかったかも)
胸がきゅっと締め付けられるような不安が押し寄せてきて、ユイは立ち止まった。
手にしたスマホを取り出して地図を見ようとするが、微妙に圏外で読み込みが遅い。
その時だった。
「……う、うぅ……」
ふと近くから、しゃがみ込んで泣いている小さな女の子が目に入った。
年の頃は五歳くらいだろうか。迷子のようで、通行人の誰も気づかないまま通り過ぎていく。
ユイは迷った。自分も迷っているのに、誰かを助けられるのだろうか。
……でも、気づいたのなら、見過ごしたくなかった。
「……だ、大丈夫?」
そっと声をかけると、女の子がこちらを見上げる。その顔は涙でぐしゃぐしゃだったが、ユイの姿を見ると少し驚いたように目を見開いた。
「おねえちゃん……」
ユイはしゃがみ込み、やさしく微笑んで言った。
「一緒におかあさん、探しに行こっか?」
その後、通行人に協力をあおぎ、近くの交番で母親と無事に再会できた女の子。
母親は涙ながらに何度もお礼を言い、ユイも照れくさそうに「よかった……」と小さく呟いた。
(……わたし、ちゃんとできた)
小さな達成感とともに、再び地図を開いたユイの手が、ほんの少しだけ震えていたのを、彼女自身も気づいていなかった。
夕暮れの空が橙色に染まりはじめた頃、玄関のドアが開いて「ただいま」と小さな声が聞こえた。
リビングにいた俺が振り返ると、そこには少しほこりをかぶったユイの姿。
「おかえり。……大丈夫だったか?」
声をかけると、ユイはきょとんとした顔をしてから、ふわっと笑みを浮かべた。
その笑顔は、どこか自信に満ちていて、ほんの少しだけ大人びて見えた。
「うん。……ちょっとだけ迷ったけどね」
「え?」
俺が眉を上げると、ユイは靴を脱ぎながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
知らない道に入り込んでしまったこと、そこで泣いていた迷子の女の子を見つけたこと、そして自分なりに勇気を出して助けたこと。
「交番に連れていったらね、お母さんがすごく泣いちゃって……あたし、なんて言っていいかわかんなかったけど」
少し頬を赤らめて、視線を伏せながら続けた。
「……でも、すっごく『ありがとう』って言ってもらえて、なんだか……嬉しかった」
その言葉を聞いて、俺は小さく笑った。
「そりゃあ偉いな。初めての外出で、ちゃんと誰かを助けられるなんてさ」
ほめると、ユイは照れくさそうに頬を指先でつつきながら、ちょっぴりぷいっとそっぽを向いた。
「べ、べつに……当然のことしただけだもん……!」
……でも、その小さく膨れたほっぺは、明らかに嬉しそうだった。
そして夕食後、あの日の本の続きを一緒に読みながら、ユイは言った。
「わたしも……ちょっとずつ、冒険できてるかな?」
その声は、どこか誇らしげで、俺の胸にもじんわりと温かいものが広がった。
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