ガイコツ歌姫と月光楽団
町外れの丘の上、涼しい風とともに僕の奏でるヴァイオリンの音が遠くの方へと流れていく。誰に聴かせる訳でもなく、その音色は時に激しく、時に静かに、僕の感情のままに奏でられる。
楽器を持っているというだけで酒場の店主に声をかけられ、客引きに一日中弾かされた。しかも、難癖付けられて、客が来ないことを僕のせいにし、挙げ句の果てには店の借金まで僕に支払わせようとするなんて、世も末か。そもそも初めから客足なんてほとんど無かっただろうに。
先刻の理不尽を思い出し、楽器を弾く手に余計な力が入ったが、それも次第に穏やかな音色へと変わる。音楽は良い。音で感情を吐き出せ、気持ちも次第に落ち着いてくる。
さて、お気に入りの曲でも弾こうか。
「ワンっ!」
鼻歌交じりにヴァイオリンを弾いていると、後ろの方から不意に犬の鳴き声が聞こえた。
「……きれいな音色」
続けて若い女性の声。町に近いし、犬の散歩でもしてるのかな。そう思いながら振り向いた時、僕の思考は止まった。
そこに立って居たのは、白骨化した人骨そのものであった。もはや布と呼べるのかも分からない古汚れた衣装を身に纏い、眼球の代わりに夕暮れの影に現れた深淵は僕を深い恐怖に落とし込む。
瞬間的に気絶したのか、あるいはこの現実を夢としたいのか、一瞬だけ視界が暗くなった。強く気を持ち、再び我に返るも取り戻した視界からその光景が変わることはなかった。
「っはあ!」
思考の追い付かない脳が意味の無い声を発し、僕の腰を抜かせる。産まれてからの二十年間で魔物に会ったのは初めてだった。
街中で平和に暮らす皆がそう思うように、どこかで物語の中の話だと思っていた。自分の人生には関係ないものだと、そうどこかで思っていたんだ。
「――さい、――がらな――」
魔物は何か声を発するが、脳が受け付けない。心臓の音がまるで死神の足音のように鳴り響き、絶望が世界を支配する。まだ日が沈んでもいないのに魔物なんて出るはずがない。出るはずがないんだ。僕は涙で歪んだ視界の中でその思考にしがみついた。
絶望の中、楽器の音色が突如聴こえた。それは僕が腰を抜かした時に落としたヴァイオリンの音。
死神はこの世から姿を消し、色彩を取り戻した僕の視界は、ヴァイオリンを奏でる骨のみで構成されるその奏者の姿を正確に映した。その乱れの無い立ち姿と音色に、僕の音楽家としての感性は美しさすら覚えた。
音唱魔法『静穏』
音により他者の心を平常へと呼び戻す。音楽そのものが広く認知されていないこの世の中で、楽器を用いて発動する異色の魔法――音唱魔法。
「落ち着いた? 脅かしてごめんなさい」
見た目からは想像もできないほど澄んだ声だった。ヴァイオリンを返そうとするその所作に敵意は無く、僕は自然とそれを受け取った。
「ワン!」
彼女の足元で白く長い体毛をなびかせながら、犬が近寄ってきた。犬の方は普通の小型犬に見える。人懐っこく尻尾を降っている。
「あんた、その、何なんだ?」
聞きたいことは沢山あるはずだが、何を質問したら良いのか分からない。骨が擦れる渇いた音を立てて微笑する様子は、やはり不気味と言わざるを得ない。
「まずは自己紹介をさせて。私の名前はナビリール。呪いのせいで骸骨の姿になったの」
「呪い……ってことは元々人だったのか?」
「うん。もうこの姿になってからどれだけの月日が経ったか分からないわ」
呪いには多々あるが、その多くは非人道的と聞く。慰めの言葉を探したが、自分がこの呪いを掛けられたと思うと、言葉が見つからない。
「ねえ、一曲弾いてもらえるかしら」
「え?」
「珍しいでしょ? 楽器を弾ける人なんて。普段、私も人には接しないようにしてきたけど、その楽器の音を聴いて、思わず声を掛けたの」
「たしかに、楽器を弾ける人なんて自分以外に会ったことないけど……」
この状況で何をするのが正解かも良く分からない。とはいえ、この骸骨を信用したわけでもない。下手に刺激しないように従うのが懸命だろう。
僕はヴァイオリンを構え、先ほど弾くつもりだったお気に入りの曲を演奏する。自分で作った曲だ。
演奏の節々で彼女の様子を確認する。表情など無いはずだが、不思議とどこか嬉しそうな様子が読み取れた。
そして、この異常な状況で、どこか幸福を感じている自分がいることに気付く。誰も彼も音楽に関心の無いこの世間の中、人に音楽を聴いてもらっている。この骸骨が人かどうかはさておき、僕はたしかに今、音楽を楽しんでいる。
「すごい! こんなに上手に弾ける人初めて! どうしてそんなに弾けるの!?」
「……家が金持ちで、変わったものを集めていたんだ。このヴァイオリンもそのひとつさ。物心着いたときから、興味本位で弾いてたんだ。家は他の貴族からの圧力で衰退してしまったけどね。今じゃこのヴァイオリン以外に僕には何もない」
つい聞かれてもいないことを口走った。音楽だけじゃなく、これも誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
「――ねえ」
しばらくの沈黙の後で、彼女は言った。
「もし良かったら、今晩、私たちの演奏を聴いてみない?」
「演奏?」
「うん、ここから西の祭壇跡地で演奏会をするの。きっとあなたなら気に入ってくれると思う。月が一番高く昇る時間よ」
少し考えた後、僕は答えた。
「……分かった。行ってみるよ」
「本当? じゃあ待ってるからね!」
彼女はそう言い残して犬とともにカラカラと走り去って行った。まだ、どこかで夢を見ているんじゃないかと思えるほど、不思議な時間だった。
西の祭壇跡地。
町の噂では、その昔は豊作を願って、神へ捧げ物をするために使っていたらしい。浅い森の中にあり、普段は用事こそないが、訪れるのは難しくない。
もう数刻で月が高く昇る。今夜は月明かりが眩しく、幸い夜道は砂利が引かれており歩きやすい。
しかし、祭壇跡地に近付くにつれ、何やら獣のような声が辺りから聞こえてくる。浅いとはいえ、夜の森。演奏会という響きから楽観視していたが、危険なことに今さら気付いた。
しばらく森を進むと、木々の隙間から、開けた場所が見えてきた。目的地だ。ただ、もうひとつ僕には考えたくない疑問があった。
――演奏会って、誰が聴くんだろう?
木の後ろに隠れ、会場に目をやる。僕は息を飲んだ。
月明かりを反射し、闇夜に光る眼光の獣。カラスを両肩に従えた岩の巨兵。根を地に這い移動する食肉植物。いずれも森に住む魔物たちの姿だ。
恐ろしい光景に腰を抜かし、ゆっくりとその場に座り込んだ。本当に演奏会なんてあるのだろうか。もしかすると騙されたのかもしれない。
そんな疑問を抱いてると、夜空に浮かぶクラゲのような生物たちが月明かりを反射させ、祭壇へと光を集めた。魔物たちの視線が祭壇に向けられる。
祭壇にはそれぞれ楽器を持つ五体の骸骨たちが見えた。
最初に聞こえたのは緩やかなピアノの音。夜風にざわめいていたはずの森は、まるでそのピアノの音に聞き入るかのように静かになった。それに弦楽器と管楽器の音が続き、音楽に彩りを与えた。そして、巨体な骸骨が奏でるコントラバスが全体の音を支え、それぞれの音を力強くまとめる。
「すごい……」
他人が奏でる楽器を聴ける機会なんて、今まで一度もなかった。しかも、目の前の合奏は息を飲むほど洗礼されており、一歩、二歩と木の後ろに隠れていた体が自然と前へ進む。そうすると美しい音色を耳だけなく、体に伝わる振動として、より一層感じることができた。
前奏が終わる時、唯一楽器を持たない骸骨――ナビリールが少し顔を上げ、演奏にその歌声を織り混ぜる。どこまでも透き通るような声が合奏に意味を持たせる。
殺伐とした祭壇で髑髏たちが生み出す月夜の五重奏。欠けたシルエットが奏でる完成された音色。肉体無き者が歌う魂の込められた歌声。その全てに僕の心が躍動した。
そして、合奏は次第に盛り上がり、クラゲたちはさらに強く月明かりを灯し、まるで昼間のような明るさとなった。いよいよ合奏が最高潮となる瞬間、その奇跡は起こった。
それは幻覚か、それまで骸骨の姿だった彼女らはその瞬間、まるで時が遡ったかのように肉体を取り戻したのだった。
その奇跡の中、月光のような青髪を揺らし、華やかな衣装に身を包んだ華奢な体で、その歌姫は魂を歌った。
この一瞬一瞬を僕は忘れない。忘れられるはずがない。そんな時間だった。
「どうだった?」
演奏が終わった時、彼女らの姿は、骸骨に戻っていた。一方、隠れていたはずの僕はというと、気付けば祭壇のすぐ前に立っていた。僕は涙を流していたことに気付き、それを慌てて拭って答える。
「もうすご過ぎて、最高の演奏だったよ」
彼女が笑ったように見えた。
「グルルルッ」
突如聞こえた獣の威嚇音。振り替えると魔物たちの視線が自分に向けられていることに気付いた。人間というのは、魔物にとって非力で栄養価の高いご馳走だという子供のときの教えを思い出す。
「眠れ。良い子たち」
彼女は小さなベルを懐から取り出し、それを一度だけ鳴らした。
音唱魔法『子守唄』
まるで寝かし付けられた赤子のように、魔物たちは少しずつその場に腰を下ろし、それぞれ独特の寝息をかく。
元来、魔法というのは戦闘技術であり、殺傷能力の高いものほど価値があるとされる。一方で音唱魔法には攻撃魔法は一切無く、無価値とされている。ゆえに、音楽というハードルもあり、ここまでの使い手がいることに僕は目を丸くした。
「ねえ、もし良かったら一緒に演奏しない?」
「え?」
祭壇の方に目を向けると、彼女は壇上から手を伸ばしていた。
「私たち、月夜に奏でる月光楽団。何にも縛られず、音楽を楽しみ続ける集まりよ。素敵だと思わない? ……えっと、あなた、名前は?」
その時、音楽を楽しむという彼女の言葉が、たしかに僕の止まっていた時計を動かすのを感じた。
音楽なんて、これまでの人生で何の役にも立たなかった。家から出ていく時、誰よりも能力の無い自分を憎んだ。もっと自分に他に頼れるものがあれば良いなと思っていた。
でも――
「ルナ・シャルルーグ。シャルルと呼んでくれ」
本当は誰よりも音楽が好きなんだ。
彼女の骨だけの腕は、どこか座り込んで立ち止まっていたはずの僕の手を、誰よりも力強く引いてくれた。
☆ ☆ ☆ ☆
今より数百年も昔。東と西の大国がまだ戦争を始めていない頃、両国の国境付近に、小さな国があった。その国は、音楽の起源があるとされ、世界中から音楽を愛する者が集まっていた。
ここはそんな者の一人が経営する楽器屋のひとつ。
ーーコンコン。
カウンターで開店までの間、楽器の修理をしていた店主は、裏口をノックする音に作業の手を止める。
「ワン! ワン!」
外から聞こえる犬の声。それは店主にとって聞き慣れたものであった。
「鍵開けてるから、入って良いぞ」
店主が外にも聞こえる声でそう言うと、ゆっくりと扉が開き、隙間から一匹の子犬が飛び込んできた。
「うわっ、ははっ、やめろこいつ」
子犬は店主に飛び掛かると、尻尾を振りながら顔をなめ回した。
「こら! ごめんなさい。またこの子勝手に」
裏口から青髪の少女が慌てて入ってくる。
「いつもことさ。今日もこんな朝早くから城を抜け出してきたのかい? ナビリールお嬢さん」
「うん。楽器触っても良いですか?」
「もちろん。ここにあるものは好きなだけ触って構わないよ。きっと気に入るものがある。うちはこの城下町でも一番品揃えが良いからね」
「ありがとう!おじさん」
国の姫、ナビリールは幼い頃から毎朝城を抜け出し、楽器屋に入り浸ったという。それはこの国の人々にとって微笑ましい日常であり、平和の証でもあった。
「ありがとうございました。また明日」
「おう、帰り道気を付けろよ」
「行こう。あっ! ちょっと待って!」
ある夕暮れ時、ナビリールが楽器屋から帰ろうと
すると、飼い犬が路地に走り込んでいった。
「どこいくの! 待って!」
慌てて追いかけると、路地裏では飼い犬と他の猫が威嚇し合っており、一触即発の状況となっていた。側には一人の少年が居たが、偶然この場に鉢合わせただけのようだ。
「ど、どうしよう」
ナビリールが困惑していると、二匹は少しずつ距離を詰め、まさにどちらかが飛び掛かろうとした時、どこからか音楽の音色が聞こえた。
ふと音源を辿ると、近くにいた少年が弦楽器を弾いている。その音は空気中の魔力に干渉する特別な音色となり、魔法を生み出す詠唱として作用した。
音唱魔法『静穏』
柔らかい音色がその場の張り詰めた空気を緩め、二匹はまるで何事もなかったかのように歩き始めた。
「すごい……」
ナビリールは足元に戻ってきた飼い犬のことよりも、その少年の演奏ことが気掛かりだった。
「ふぅ」
「ねえ! もっと弾いて!」
「え?」
ひと息付いていたところに食い入るようにして迫ってきた少女に、少年はたじろいだ。
「今の魔法!? 初めて見た! ううん、それよりもすごくきれいな演奏! お城の先生たちでもあなたより上手に弾けないよ」
「はは、そんなことないよ」
「そんなことあるよ! もう一回聴かせて!」
少年は困惑しながらも、悪い気はしないように、楽器を再び構えた。
「じゃあお気に入りの曲を弾いてあげる」
それは遠い昔の日々。ナビリールは吟遊詩人の少年と出会い、毎日少年と楽器を奏で、音唱魔法の使い方を学び、音楽を心から楽しんだ。
湖の辺りで、二人だけでコンサートを開いた。ナビリールは歌を歌い、少年は弦楽器を弾いた。楽器を弾き疲れた後、少年は花で冠を作った。
「これ、あげるね」
ナビリールの頭にそっと花の冠をのせる少年。ナビリールは冠を乗せたまま笑顔を見せた。
「ずっと一緒に居ようね」
「うん、ずっと一緒!」
それは約束の言葉。決して叶うことのない、幼き日々の約束の言葉であった。
それから十年の歳月は国境の状況を変えた。西の大国は戦争を始めようと軍を整えていた。東の大国はそれを受け、音楽の小国付近へと兵を構える。
西と東の間には巨大な山脈が連なっていたが、唯一の通り道があった。ただ、その道には音楽の小国があった。小国は比較的友好であった東の大国と同盟を結ぶことに決めた。
「国の聖歌隊として、あなたを迎え入れられることを光栄に思います。今後益々の研鑽を以て、より国のためにーー」
吟遊詩人の少年は立派な青年となり、その日、正式に国の聖歌隊として任命された。任命式の後、青年はしばらく城内を歩き回り、窓際で佇む一人の青髪の女性を見つけた。
「久しぶりだなナビリール。探したよ」
母である王女によく似ているといわれる翡翠色の瞳が青年に向けられる。王室の衣装は、遠くからでもその者がこの国の姫君であると理解させる気品を放っていた。
「あら。その制服、よく似合っているわ」
ナビリールの言葉からは昔のような親しみが感じられなかった。
「ああ、なあ。その……」
言葉を詰まらせる青年に、窓から遠くを見ながらナビリールは語る。
「あなたも分かっているでしょう。変えられないの。きっと運命なのよ。東の国と同盟を結ばなければ、この国は簡単に滅びる。そして、同盟を組むということは、私は東の国へ血縁関係を結ぶために行かなくてはならない」
「でも、それは君が望んだことか?」
「望んだかどうかは重要ではないの。国の姫として、私がやるべきことは何か。それが大事よ」
「……君の決意が固いことは分かった。僕からはこれについて何も言わない。西側の魔法の壁を張り直したら、近々出発するんだろう?」
「ええ、最後にあなたを聖歌隊に任命できて良かった。これで仕事には困らないわ」
「そうか……ところで、あの約束、覚えているかい?」
「なんのことかしら」
「いや、なんでもない。ありがとう。さようなら。ナビリール」
「ええ、さようなら」
数日後、ナビリールは城の屋上に四人の音楽隊を集めた。彼らは昔からのナビリールの先生であり、信頼できる人物たちであった。
天気は悪く、いつ雨が降ってもおかしくないほど、濃い雲が空を覆っていた。
「今回も四重奏に私の歌声を乗せ、音唱魔法を発動させます。西側の国境に巨大な魔法の壁を張り直し、敵軍が進行できないようにします。先生方、よろしくお願いします」
四人の演奏者はそれぞれの楽器を弾き始め、次第により洗練された演奏へと進んでいく。
演奏者たちが目で合図を送り合い、ナビリールが歌を織り交ぜようとした時、その視界の端に何かが見えた。
「あれは……一体?」
王城の上空、それは空間を歪めるようにして、突如現れた巨大な扉。重厚で禍々しいそれは、音楽隊に今までにない不吉を感じさせた。
異界新門ーーそれは異界とこの世を結ぶ、あってはならない世界の異常。
地響きのような重い金属が擦れる音を立てながら、ゆっくりと門が開き始める。ナビリールたちはその様子から目が離せず、演奏の手はとっくに止まっていた。
「何か……くる!」
門が開いた次の瞬間、鋭い音とともにナビリールの体は一閃により引き裂かれた。崩れゆくナビリールの側には黒い影のようなマントを身に纏う大男が立っていた。いや、男かは定かではない。
「相変わらず、ここは居心地が良くない」
甲冑の中から発したようなくぐもった声。
「ごふッ!」
その場に倒れ、吐血するナビリール。まだ息はあった。
(斬られた……? まるで見えなかった。それにあの姿、顔は見えているはずなのに、まるでその部分だけ視界が奪われているように見ることができない)
遅れて、黒い肌の少年が上空からふわりと着地した。門から現れたのはこの二人のようだ。少年の方は姿を見ることができ、普通の人間のような外観だが、その雰囲気は常人のものではなかった。
「な、何者だ!」
音楽隊の一人が震える声で言った。
「我は魔王。戦争が遅れていると様子を見れば、貴様らのような輩がいたとはな。貴様ら如きが我が計画を遅らせたこと、ただ殺めるだけでは済まさん」
魔王を名乗る者は片手を前に差し出した。すると手の平の上で黒い気体が渦巻くように集まり、それを音楽隊の方へと向けた。
「ぐああ!」
悲鳴を上げる音楽隊。まるで生気を抜かれるようにして、みるみると身体が朽ち果てていく。その場の全員が死を覚悟したが、しばらくの激痛の後、明確に意識があった。
ナビリールは自分の両手を前に差し出した。それはおぞましくも、骨だけの腕であった。
「いやぁああ!」
痛みによる悲鳴とは違う、絶望の悲鳴が響き渡った。
「グルルっ! ワン!」
主人を守らんと、小さな犬は魔王へと飛び掛かる。しかし、それは蛮勇であった。
「目障りだ」
「やめて!!」
魔王が犬を指差すと、その小さな体は吹き飛ばされ、引き裂かれるようにして身体が朽ちていった。
されども、それは死ぬことがなく、絶命と再生を繰り返しているように見えた。
「あああいやあああ!」
「あーはっはっはっ!! 貴様らは死ぬことはない! この世の終わりまで絶望を味わい続けろ」
その惨劇の中、魔王は高らかに笑い続ける。
「これで終わりではない」
魔王はもう一度手の平に闇のような禍々しいエネルギーを集めだした。
「折角だ。この国のすべての国民に呪いをかけてやる。魔王の力を思い知らせるのに丁度良い。貴様らは骸のまま彷徨い続け、恐怖の伝道者となるのだ! はーはっはっは!」
魔王の手に呪いのエネルギーが溜まり、放たれようというその時、ふと弦楽器の音が聞こえた。
城内から聖歌隊に任命されたばかりの青年が姿を表し、演奏しながら歩いてくる。
「なんだあいつは? ははっ、親父の瘴気に当てられて気でも狂ったか?」
魔王の息子である黒肌の少年は、目の前の青年を嘲笑った。しかし、魔王はその青年から目が離せなかった。
魔王には聴き覚えがあったのだ。遥か昔、神と魔王軍との戦争において、人間は軽視されており、そして、それと同様に戦事と関係の薄い神も軽視されていた。音楽の神もその中の一神だった。
だが、音楽の神は唯一、人間を率いて戦場に立ち、そしてそれは戦況を大きく変えたのだ。音楽の神のもと、合唱となって世界に響き渡った人々の祈りは、戦場の暗雲へ光刃を放ち、この世に魔を退ける聖域を降臨させたのだ。
音唱魔法『神歌・四方聖剣』
突如、雨雲は消え去り、代わりに上空には巨大な四本の光の剣が顕現した。
「なにっ!?」
少年が魔王の手に目を遣ると、溜まっていたはずのエネルギーは浄化されるように離散していった。ナビリールたちの呪いこそ解けていなかったが、犬の方は呪いから解放されたのか、苦しんでいる様子は無かった。
「貴様、神の生まれ変わり……依代か」
魔王はそれだけ言うと、即座に手元に大剣を召還し、一瞬にして弦楽器ごと青年の胸を貫いた。
「ぐふっ!」
剣を青年から抜き、一振で血を払う。
「ふん、神の依代といえど、一人で前線に立つとは愚か者よ」
「親父! 門が閉じる!」
「貴様、まさか……」
上空を見ると、四本の聖剣の中心に異界新門があり、今にも閉じようとしていた。
「狙いは初めから異界新門。そこに届くように命を掛けて登って来たというのか」
「親父! 早く! これが閉じたら次に開けるのはいつになるか分からない!」
「まだやることがあったが、仕方あるまい。また人間に遅れを取るとは。やはり準備が必要ということか」
二人はふわりと空中を浮き、そのまま門を通り抜けた。
「これは始まりに過ぎん。また会おう。人の子よ」
巨大な音を立て、門が閉じ、そして消えた。
ナビリールは骨の姿のまま、青年に駆け寄った。青年は虫の息で、もう長くないことは明白だった。
「いや、いやだ」
「ナビリール……すまない。君の呪いを解くことはできなかった……」
ガラスが割れるような巨大な音が聞こえた。西側の魔法の壁が破壊された音だ。この機会は計画されていたのだろう。西の軍隊がこの国を攻めてくる地鳴りが聞こえてくる。
「だめ! 死んじゃだめ!」
ナビリールは必死に止血しようと彼の傷を押さえるが、血は彼女の骨の間を無情に流れる。
「君が言っていたように……きっと運命なんだ」
「そんなことない! 私、本当は、本当はあなたとずっと、ずっと一緒に……」
ナビリールは彼を抱きしめた。力の限り抱きしめたが、その温もりは、骸の体では感じることが出来なかった。
「だめだよ……ナビリール。忘れるんだ。遠い……遠い約束……なんて……」
青年は最期に笑顔を見せ、その腕は力を失った。
「あああぁぁぁ!」
ナビリールは精一杯に青年を想い、泣き叫んだが、その失った瞳からは一切の涙を流すことが出来なかった。
この日、音楽の小国は滅びた。そして、国の歌姫は消息不明のままとなった。
☆ ☆ ☆ ☆
「こんなところに居たのね」
深夜の湖の辺りで、ヴァイオリンを弾いていたシャルルは私の声が聞こえると、手を止めてこちらを見た。
「この前の演奏を思い出すと、夜に弾くのも悪くないと思ってね」
「ふふ、でも冷えるでしょ? これ、どうぞ」
「それは高級そうなローブだね。君は着なくて良いのかい?」
「私、寒さは平気よ」
でもありがとう、と気遣いに礼を良いながら、シャルルにローブを渡した。二人で湖の方に向かって座る。
「この前、始めての演奏会の時、不思議に思うかもしれないけど、君の生身の姿が見えたんだ。呪いが掛かる前の姿だと思う」
「不思議じゃないわ。呪いは少しずつ弱まっているみたい。生き生きと演奏してたり、月の光が強い時、一時的に元の姿に戻ることができるの」
今日みたいに月が欠けている夜は呪われた姿のままだけど。
「じゃあ、呪いを解くこともできる?」
「いつかは出来るかもしれないけど、数百年このままなのよ。だから、ずっと先の話になるわね」
「そうか……」
しばらくの沈黙の後、彼は立ち上がった。
「さあ、こんな話はやめにして、二人でコンサートをしよう。まだ弾き足りないんだ。付き合ってくれ」
「……ふふ、良いわよ」
私たちは楽器を弾き、湖の辺りで踊りながら歌った。
「ねえ、ひとつ、君に見せたい魔法があるんだ」
「ふふ、私が教えた音唱魔法でも使えるようになったのかしら」
彼はヴァイオリンを強く奏でた。その姿が、あの人と重ねられる。私はずっと思っていた。彼は、どこかあの人に似ていると。
その音色は、忘れるはずもない。あの時の奇跡の音唱魔法と同じだった。
瞬間、月が欠けて薄暗かった闇夜に光の剣が現れ、月明りの代わりに私たちを照らし、湖は上空の聖剣を映し輝いた。
世界は彩りを取り戻し、私の体はあの時の姿に戻っていた。彼が私の手を強く自分の方へと引くと、私を強く抱きしめた。
それはあの日、感じることができなかった温もり。
「今はこの一瞬しか呪いを解くことができないかもしれない。でも、誓うよ。君の呪いは必ず僕が解いてみせる。だからーー」
それはあの日、流すことが出来なかった涙。せき止められたものが一気に流れるように、流しても流しても止まることがなかった。
「だから、ずっと一緒にいよう」
それはあの日、果たすことができなかった遠い日の約束。決して叶わない、幼く無知で、そして純粋な約束。
「うん……ずっと一緒にいよう」
私は幼い日と同じように、笑って見せた。
今日、たしかに止まっていた私の時計が動き出すのを感じた。