5
しだいしだいに、家や、人通りもまばらになってくる。
かわりに海が見えてきた。
今日の天気は快晴で、青い色が天を覆い尽くす。空の青と海の青は、どんなに似ていてもやはり異なっていて、青の境目には船が浮かんでいた。この島へ近付いているので、港に向かう船のようだ。
王女が「足もとに気をつけて」と小声で言った。長い裾を踏まないよう足首の上あたりまで持ち上げる王女に、女神はならう。今日、あの侍女は暇を貰っている。はしたないと注意する者も居ない。
ここから先はあまり人が寄り付かないため、整備されていない道が続く。王女は一度来ているからか、森で狩りをしている経験からか、難なく進んでいった。
だが、途中で振り返っては、女神が追いつくまでじっと待つ。
それを何回か繰り返し、目的の場所にたどり着いた。
海から少し離れた所に、家がぽつんとある。先ほどの老女の家とは違い、一階建てだ。住人は数年前に亡くなり、以来空き家となっていた。
王女の足は、屋内ではなく、空き家の壁にそって置かれたベンチへと向かう。
ベンチは石製で、装飾も背もたれもない簡易なものである。王女が籠から、四角に畳まれた毛織の布を取り出す。次にそれを大きく広げ、ベンチの上にかぶせた。
「座りましょう。正直、固くて座り心地は良いとは言えないけれど。布のおかげで、多少はましなはずだから。……それと、今なら普通の声量でおしゃべりしても、たぶん大丈夫。護衛たちは、ちょっと離れた場所に居ると思うし」
王女の言葉通り、声が届きそうな距離には、隠れる場所は見当たらない。
ふたりは隣り合い、腰かける。
海がすぐそこにあって、馬のたてがみのように波打つ様子も視認できた。
女神が視線を遣ると、王女は自身の座る左隣に置いた籠から、今度は両手で持てるくらいの長方形の籠を取り出していた。長方形の籠は蓋付きで、蓋を開ければ、食べ物が現れる。
「これは?」
「えっとね。わたしが、作ったの」
「作った……? えーちゃん、料理ができたのね」
「うん。わたし、狩りをするって話したでしょう。自分でとった鳥獣の肉とか、はじめは、焼くだけで調理してたの。でも、流石にそれだと飽きるじゃない? もっとおいしく食べようといろいろ試してたら、簡単な料理は自然と身についたのよ。それで、りーちゃんにもわたしの手料理、食べてもらいたいなあって。食べられるかはわからなくても、見てもらうだけでも……って」
王女の『食べられるかはわからない』という言葉には、二つの意味が含まれる。一つ目は、女神の口に合うかどうかということ。二つ目は、王女の手料理に女神が触れられるかどうか、ということだ。
長方形の籠の中には、焼いた白身魚を丸いパンで挟んだ料理が、四個ほど並べてあった。一個ずつレタスの葉で包まれている。
パン、とは言ったが、王女の故郷、そして女神の神殿があるこの国にも、生地をふくらませた発酵パンはまだない。白身魚を挟むのは、大麦粉を使った平焼きのパンである。ふかふかのやわらかなパンではないので、少しでも食べやすいようにと、通常の平焼きパンより薄めに作ってあった。
女神が、籠へ手を伸ばす。王女は、固唾を呑んで見守る。
結果として。王女の作った料理は、なににも阻まれず女神の手に収まった。まあ人間そのものに加えて、人間の作ったものにも触れられないのなら、女神はこうしてベンチに座ることもできないだろう。
ほっと、安堵の息を吐き出す王女。が、次は女神の口に合うかが気がかりとなり、再び緊張した面持ちとなる。
しばらくの間、女神の視線は下方へ、両手で持つ料理に注がれていた。こうしたパンに他の食べ物を挟む料理は、見るのも初めてだったのである。ちなみに、王女が挟む食材に肉ではなく魚を選んだのは、昨日女神が『好きな食べ物は魚とか、魚介類ね』と教えたからだ。
ゆっくりと。女神が、料理を口もとへ近付けていく。
まずは一口。よく噛み、時間をかけ、味わって食べる。
途中、わずかに不思議そうな表情になった。
最後はごくん、と嚥下して、一口目を食べ終える。
「ど、どう?」
「おいしいわ」
「本当!? やったあ、りーちゃんにおいしいって言ってもらえたわ」
今にもとび上がりそうな様子で、王女は満面の笑みを浮かべ喜ぶ。
「もしかして、ヨーグルトが入っていたりする? 酸味があったから、不思議に思って」
「あっ、そうなの。ヨーグルトをソースにしてるわ。狩りとかでたくさん動いたあとって、酸っぱい食べ物が欲しくなるのよね。パンと焼き魚だけだと重い味付けに感じる時があるし、そういう時はヨーグルトの爽やかな酸味が加わると食べやすいの」
「ちょっと意外な組み合わせだけれど。確かに合うわね」
言い終えてから、女神は二口目をいただく。
友と味の好みが一致し、王女はとても嬉しそうだ。
「そういえば、りーちゃん。あ、食べながらで大丈夫よ。さっき、おばあさんとの会話で、神殿の話が出てきたでしょう? もし今、神殿に参拝者が来たとして。りーちゃんが居なくても問題ないのかしら」
もぐもぐ、もぐもぐと。何回かそれを繰り返し、二口目が女神の喉を通っていく。
「……問題はないわ。私自身が神殿から離れても、私の力は神殿に残り続ける。永久ではないけれどね。人間の一生分くらいは、持続するはずよ。それに、神殿でなにか起こったら、どれだけ遠くに居ても私にはわかるわ。どろぼうが入った時とか。知らされるようになってるから」
「へえー、そうなんだ。だったら安心だわ。おばあさんと話してて、神殿は大丈夫かなって不安だったのよ」
王女は女神の説明を、神の持つ特別な、すごい力によるものだと理解した。
老女の存在が話題にのぼって、女神は先ほど首を傾げていた疑問を思い出す。
「私からもひとつ、訊きたいことがあるのだけれど。エレウテリアって?」
訊いたあと、今度は大きめに料理をかじる女神。
王女は女神へ説明がまだだったことに気付き、「ああ」と声を発した。
「わたしの、町を散策する時の仮名。他国の王族、しかも末の王女の名前はあまり知られてないと思うけど、一応ね。でもわたしが思いついたわけじゃなくて、侍女がいくつか挙げてくれた仮名候補の中から選んだんだけど……本当の名前じゃなくても、けっこう気に入っているのよ。本名と仮名、どっちにも愛称に使った“エ”と“リ”は入ってるし。意味も、とても好きだし」
エレウテリア──このあたりの言葉で、『自由』という意味だ。
「仮名を決める時、これだわ、って。これしかないわ、って感じたの。うまく言い表せないんだけれど…………だからね、わたしにとってエレウテリアは、本当の名前とおなじくらい、大切な名前」
やさしい声色で、王女は理由を語る。
大きいひと口を飲み込みながら、女神は頷く。
「えーちゃんに、似合っていると思う」
「ふふっ。ありがとう。本当の名前も、どっちも好きなんだけどね。本名がふたつにできたらいいのに」
「確か。そういう女神も居ると、噂で聞いたわ。片方が仮名とかじゃなくて、ふたつとも本当の名前らしいの。だから、本名がふたつでもいいんじゃない? ひとつじゃないといけない決まりはないもの」
「……それもそうね。じゃあ、そうしちゃおうかしら?」
楽しそうに嬉しそうに、微笑む王女。
女神のなに気ない言葉は、王女には見えていなかった道を示すのだ。
だが、そんなことを知らない女神は、再び食事に戻っている。もう少しで一個を食べ終える所だ。
会話が一旦途切れて、黙々と料理を味わう女神。王女はそれを、静かに眺めていた。
が、唐突に、小さな声で笑い出す王女。
「意外とりーちゃんって、次々に食べていくのね」
まだ口に食べ物が残っている女神は、「意外かしら」と答えるように、頭を傾けた。
しゃくしゃくと軽い音を立てて、料理を包んでいたレタスまで女神は頰張る。レタスのおかげで、その手は汚れていない。
王女は、女神が座るほうとは逆の王女の隣、左に置いた大きい籠から、袋を取り出す。袋は動物の皮革を縫い合わせたもので、中には液体が入っている。
「喉、渇いたでしょう。水を持ってきたから、よかったら飲んで」
「ありがとう」
女神は差し出された袋を受け取り、蓋を開けて、中の水を喉へ流し込む。三分の一ほど飲んだあたりで、蓋を閉めた。
すかさず、王女がまた別の袋を差し出す。両手のひらにのる大きさの袋で、その口は開かれていた。中身は、干したイチジクである。
「食後は甘いものが欲しくなると思って、これも用意したの。急いで用意したから、たいしたものじゃないけど……」
「いただくわ。……うん。甘くて、おいしい」
「でしょう? 道中、よくつまんでたの。干したナツメヤシの実もあるのよ。こっちも──」
「えーちゃん」
せわしく、大きな籠からまたまた別の袋を取り出そうとする王女を、女神の声が止めた。
「えーちゃんも、一緒に食べましょう? せっかくこうして、隣にいるのだから。それに、私ばかり食べていると、私だけが食いしんぼうみたいだわ」
女神は言い、やわらかに微笑する。
海から、弱い風が吹いた。女神の頭のベールや、王女の外衣を揺らす。
穏やかな風に合わせ、王女は速くなってしまっていた呼吸を、通常のリズムに戻していく。
「……そうね。わたし、嬉しさと、時間は限られているからと焦るあまり、興奮しすぎていたみたい。お腹もすいてるし、落ち着いて食べることにするわ」
その前に、と。干したナツメヤシの実が入った袋を女神へ渡す。女神は両手で大事に受け取り、先ほどの干しイチジクと交互につまみ始めた。ナツメヤシの実は、デーツという名前があり、こちらもまた甘い。
王女が、自身の膝上に置いたままだった長方形の籠から、料理をひとつ手に取る。ひと口、またひと口と食べていく。レタスを噛み砕く軽やかな音がした。
ふたりの目が、ぴたっと合う。
「わたしたち、ふたりして食いしんぼうね」
「仕方ないわ。だって、おいしいんだもの」
その理由が、単に食物の味が良いからだけではないことは、お互いにわかっていた。