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酒を断ったのは、迷惑をかけたくないというだけでなく、真面目な話をしたいからだ。
「前に、私の神殿へよく訪れる老女が居るって話をしたの、覚えてる?」
「ああ。あの、孫が都に働きに出てるっていうばあさんだろ」
「ええ。その孫が、二日前くらい、ちょうど前にあなたと会った翌日の朝ね。私の神殿に来たの。それで、老女が……亡くなったって」
声にしたら、まだ両手に持ったままの水のカップが、ずしりと重くなった気がした。
もちろん、錯覚にすぎないのだが。
「病気や事故じゃなくて、寿命だったみたい。孫は老女から私の神殿の話を聞いていて、わざわざ報告しにきてくれたの」
「そうか……そのことで、たくさん考えごとしてたのか?」
建物前での会話を、男神はしっかり覚えていたようだ。
女神は頷く。
老女とは、直接言葉を交わしたことはなかった。でも、女神にとって身近な存在だった。人間はいつか必ず死ぬとわかりきっていたはずなのに、実際にその時が訪れてしまうと、女神は自分では制御できない感情に襲われた。考えようとしなくても、様々な考えが、勝手に次々とこみ上げてくる。ひさしく忘れていたような、どこか懐かしい感情だ。
「孫はこれから、老女が住んでいた家で暮らすそうよ」
「えっ、なんでだ。都で働いてるんだろ? そっちはどうするんだよ」
「都での仕事はもう辞めてきたと言っていたわ。やってみて、自分の本当にやりたいことじゃなかったとわかったって。町でのひとまずの働き口は見つけたから、本当にやりたいことは、またさがしていくって」
「ふーん……まあ、孫はまだ若いもんな。いろいろ試してみるのも、ひとつの道か」
王女と出かけた時に、老女は、孫の夢は都で働くことだったと語っていた。しかし、夢を叶えてもよい結果が得られるとは限らないらしい。
ただ、神殿に立つ孫の表情は、暗澹としたものではなかった。祖母が亡くなって元気がなさそうには見えたけれど、彼はきっとこの先も生きていくのだろう。
「ばあさんが居なくなって、悲しいのか」
不意に、男神がそんなことを訊いてくる。
(悲しい……)
いまいち、ぴんとこない。
神殿の出入り口に近寄り、老女の姿が現れるのを今か今かと待つことも。熱心に祈りを捧げる様子を、ななめ後ろから見守ることも。丸くなった背中が小さくなっていくのを見送ることも。もうなくなるのかと思うと、退屈だな、とは考えた。おそらくそれは、悲しいとは異なる感情だ。
「じゃなかったら、寂しい、とか」
黙り込んでしまった女神へ向けて、男神は付け加える。
寂しい。それならわかる、と思う。
半年ほど前から、老女が毎日は神殿を訪れなくなって、神殿で過ごす時間がいつもより長いものに感じられた。振り返ってみれば、あの頃から老女は、以前のようにはからだが動かせなくなっていたのだろう。
「……そうね。私、寂しいのかも。だってもう、会えないんだもの。……寂しいわ」
声にしたら、今度はわずかに、心が落ち着く。今の感情を表す、ぴんとくる言葉を見つけたおかげだ。
「そっか。自分が寂しいってわかるようになったことは、おまえにとって進歩なんじゃないか?」
「進歩ね……」
本当にそうだろうか。男神のその言葉には、同意しかねた。
記憶を消してから、こんな渦巻くような感情を抱いた覚えはあまりなかった。せっかく記憶の女神に頼んだというのに、消したものが戻りかけてしまっている。これは進歩ではなく、退歩なのではないか。女神にはそんな気がしてならない。
「そういえば。おまえの友だちと新王の結婚式、もうすぐだよな」
明るい話題に変えようとしたのか、いささか急な切り出し方だった。
「ええ、そうね。私は結婚式には出席できないけれど……新王の宮殿に向かう途中で、また私の神殿がある町を通るから会いに行くって、えーちゃんからの手紙には書いてあったわ」
王女とは、二年ほど前から手紙のやりとりをしている。
女神と王女がふたりで、はじめて出かけた日。一日の終わりに女神が神殿で相談したのは、手紙を書いて送り合うことだった。
──さてこの手紙のやりとりに関して、通常は無理だ。王女の故郷の島と女神の神殿がある島はかなり離れている。遠方からの連絡手段というと、人間が走っていくとか、他には伝書鳩がある。しかし女神が人間に手紙を渡して届けてもらうのは、そもそも女神の姿が見える人間が(現時点では)王女以外に存在しないため、不可能である。伝書鳩も、鳩が女神を認識できなければ意味がないし、距離が長すぎると鳩が別の動物に襲われて戻ってこれなくなったり、いろいろな障害があった──
手紙を運ぶ役は、あの受付台の上に居た白ふくろうだ。女神から王女宛の手紙を届けに行き、そして王女から女神宛の手紙を受け取り、また女神の所へ戻ってくる。
これが可能なのは、ひとえにあのふくろうが、知恵と戦いの女神の聖鳥だからだ。




