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 すぐ隣は、食事をする部屋だ。楕円形のテーブルの周りに三つの椅子が配置してある。三つの内二つは背もたれの付いた一人がけの小椅子だが、残る一つは寝椅子だった。

 椅子を目指して歩きながら、女神は手に持つボウルから一粒つまんで食べた。

 噛んだ瞬間。なにを取ったのかよく見ていなかったと気付く。同時に、味と歯ざわりで正体を知った。

(くるみ……)

 この特有の香ばしい感じは、間違いない。

 ボウルの中を見下ろせば、くるみをはじめとしたナッツ、他には豆が入っていた。

 寝椅子に腰を下ろす。

 座面がクッションになっているから、座り心地は良い。別に寝室はあるのだが、そこまで行くのが面倒な時にはここで眠っていた。

 ゆっくりと横になる。両膝を立てて、腹の上にボウルをのせた。転がっていかないよう、ボウルに左手を添え、右手で中の食べ物を取る。

 ふだん、寝ながら食べることはしない。普通に食べづらいからだ。でも、今ならいいかと思った。ナッツや豆であれば寝ながらでも食べやすいし。なにより、少しでも楽な姿勢になりたい気分だった。

 上を向いたまま、先ほどのように手もとを見ず、一粒を口に含む。

(これは、ひよこ豆かしら)

 人差し指に当たった突起の感触からしても、正解だろう。

 答え合わせに食べたものと同じであろう粒を眼前へかかげれば、やはりひよこ豆だった。

 そのあとも、手もとを見ずに口に入れては、どの豆、またはナッツなのかと推理していく。

(さっきのはそら豆……今のは、アーモンドね)

 軽い思いつきの遊びだったが、なかなかに楽しい。

 しかし、盛られていた量は多くなく。そのために、終わりも早かった。

 ふう、と息をつく。上体を起こせば、空っぽになってしまった銀のボウルに、自分の姿が映るのを女神は見た。それを隣にあるテーブルに置いてから、もう一度からだを横たえる。

 静かだった。かすかに食器のぶつかる音、なにかを切る音が隣室から聞こえてはくるけれど、ずっとではない。

 女神は、自身の立てた膝に浮かぶ服のひだの数を数えたりして、時間をつぶす。

 そして、数えるのも飽きた所で、今度は瞳を閉じた。

 からだの下にあるクッションの感触。着ている服の感触。胸の上で重ねた手肌の感触。胸が、呼吸に合わせ上下する感覚。過去や未来でなく、現在の、この瞬間だけに集中する。そうすることで、不思議と心が落ち着いてくるのだ。これは記憶の女神と暮らしていた頃、彼女が教えてくれた方法である。記憶を司っているゆえか、彼女は、精神的な領域にも造詣が深い。

 他にも応用できる様々な場面が存在するが、一番身近、手軽に始められるのは、横になるこのやり方だった。

 しばらくの間。女神はそのままでいる。

 自分と外界の境目が曖昧になってきたあたりで、においがした。おいしそうなにおいだ。それはだんだんと濃くなってきて、女神へと近付いてきている気がした。

 まぶたを上げる。見慣れているはずの天井が、見覚えのないものに思えた。長く目を閉じていると、たまにこういうこともある。

 少し待てば、目が慣れてきて、いつもの感覚が戻ってくる。

 横へ顔を向けると、シチューを盛り付けた皿を一つ、両手で持った男神がこちらへ歩いてきていた。

「寝てたのか?」

「いいえ。目を閉じていただけ」

「そうか」

 テーブルにシチューの皿を置く男神を横目に見ながら、女神は起き上がった。

 立ち上がり、寝椅子をわきにずらして、小椅子の一脚を寝椅子があった位置に移動させる。いつもならそのまま寝椅子に腰かけて食事をするのだが、今日はぼうっとして食べ物をこぼしてしまうかもしれない。それで寝椅子を汚しても嫌なので、やめた。クッションになっている部分だと掃除が面倒だ。

 男神はその間にも、もう一つのシチューの皿、パン、チーズ、スプーンなどを運んできて、テーブルの上へ並べていった。

 準備が終わったあと。揃って席につく。

 女神はまずシチューから、スプーンですくい、食べ始める。タイムが使われているようで、芳香があった。

 シチューの皿は先ほどのナッツと豆が入っていたボウルよりは浅く、平皿よりは深い。

 女神は、そういえばあのボウルはどうしただろうと、瞳をさまよわせた。

 ボウルはテーブルの上、右側の、女神に近い場所にあった。中にまたくるみやひよこ豆が入れられている。しかも、今回は先ほどより量が多い。男神が食べる分も含まれているのかもしれないし、女神には足りなかったと考え増やしたのかもしれない。もし後者なら、やはり食べ盛りの子どもだと勘違いされているのでは、と思う。

 シチューの、薄切りにされた玉ねぎを噛みながら。向かい側に座る男神を見た。

 男神はそのままではかたいパンを、カップの中に注がれた水に浸し、やわらかくしてから小さくちぎっている。視線に心付いたようで、女神へと双眸を向けた。

「うまいか?」

「ええ。おいしい」

 口の中の玉ねぎを飲み込んでから、女神は答える。

 男神は「へへっ」と白い歯をのぞかせ、無邪気に、嬉しそうに笑う。まるで少年のように。

(歳は人間なら、もう老人と呼べるだろうけど)

 目の前の男神は神々でも若いほうとはいえ、六十歳は確実に越えている。はっきりとした年齢は知らない。

 仮に男神が六十歳から七十歳くらいとするなら、女神の年齢はその倍以上である。でも、女神自身に年上の実感はなかった。

 女神は家族に関する記憶を消している。基本、家族に関する記憶というのは、生の中でも多くの率を占める。良い記憶か嫌な記憶かは関係なくだ。それを消したということは、長い生で得てきた経験を消したことと同義だった。

 経験によって、精神的な成長は得られる。

 つまり、今の女神は精神が大きく退化した状態なのだ。

 記憶を消したのは百年は前の話で、その百年間で経験したことは今の女神にちゃんと残っている。なので最低でも、精神年齢は百歳前後。とても大雑把に言えば男神と同い年くらいだ。

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