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女神とひとときの別れを交わし、宿への道を歩く王女は、これから始まる馬車の旅を思い出し憂鬱になった。
故郷では馬車を使うほど遠くへ出かけたことはあまりない。宮殿で過ごすか、近くの森で狩りをするか。基本どちらかだ。父王は放任主義らしく、王女が狩りをしようがなにも言ってこない。かわりに侍女が、『あまり危ないことはしないでください』と心配してくるが。
王女は、成長するにつれて王族らしい振る舞いを身につけたものの、生来の快活な性格は変わっていない。地面の凹凸が伝わってくる乗り心地の悪い馬車に乗るよりも、走って移動したかった。流石に必死の形相で止められた。もちろん、侍女にである。
「姫様がそこまで信心深いとは、想像もしていませんでした」
「なんの話?」
視線を後方に向ける。王女の数歩あとに、侍女の姿はあった。
「昨日も今日も、神殿へ行かれたではありませんか」
「それは、まあ。あなたも聞いたでしょう。自分とおなじ名前、だなんて、興味を持たないほうが難しいわ」
女神の名前を初めて知ったのは、道案内をしてくれた老女の口から。その時侍女は陰に控えていたとはいえ、会話の届く距離には居たと思う。
「ええ、聞いておりました。ですが、一度神殿を御覧になれば、満足されるのではと」
王女自身も、最初の頃はそう考えていた。今日も神殿へ行ったのはあの女神に会うためで、決して侍女の言うように信心深いわけではない。
王家の血には、偉大なる最高神の血が混じっている。もっともそう伝えられているだけなので、真実なのか、王女は知らない。神の血をひいているとされるだけあって、父王もきょうだいも信心深いほうだ。王女は異端とも呼べる。それを理解しているから、表立たないよう言動には注意を払っていた。しかし、侍女には見抜かれてしまったようだ。
「……居心地がよかったから。また来ただけよ」
本当の理由を明かすつもりはないため、嘘にならず、核心にも触れない程度の説明をした。
「確かに、あの神殿の近くに居ると、不思議とあたたかくて落ち着きましたね。女神の御加護でしょうか?」
そういえば、昨日の老女も同じことを口にしていた。
王女は以前、他の神殿にも行ったことがある。そのどれもがおごそかな雰囲気に包まれていて、妙に緊張する場所だった。神殿なのでそれでよいとは思うが、王女にとっては、正直あまり長居したい場所ではなかったのだ。
女神の姿を思い浮かべる。最初に見たのは、老女に続いて神殿内へ入った時だ。一瞬だったし、ベールに遮られ顔も判別できない。だけど、出入り口の横にたたずんでいるだけなのに、彼女の周りだけ俗世間から隔たれている印象を抱いた。
王女は、老女の言葉を思い出す。
『いつもわたしばかりじゃ、静かではあるけれど、寂しいもの……』
わたしばかり、という発言に戸惑った。では、出入り口の横に居る彼女は何者なのか、と。
(まさか、わたしにだけ姿が見えるだなんて)
そこまでは想像していなかった。
たぶん、彼女は神殿の女神なのだ。なんとなく確信が持てていた。
隣に座り、女神と間近で会話した時。想像よりも話しやすくて、少し驚いたのだ。女神の実年齢は確実に違うとわかっているが、見目かたちは王女と同年代くらいだったことも理由としてはあるだろう。でも、それだけが理由ではない。『気にしなくていいわ』という声はやわらかであり、王女を安心させてくれた。感情も豊かで、王女との別れにしょんぼりしたり、また会えると嬉しそうに頰を緩めたり。王女は、神というのは総じて、泰然と構えているものと考えていた。きっと遠くから、なにもかも見透かしているような瞳を向けてくるのだろう、と。
でも、あの女神は違う。確かに落ち着いた佇まいをしてはいた。しかし、それは余裕があるというよりも、ぼうっとしているだけに映る。
向けられる瞳からも、ちゃんと王女自身を見ているのが伝わった。鋭いけれどなにもかも見透かすわけではなく、わからないこともあって、頭を悩ませながら王女の悩みへ誠実に向き合ってくれたのが嬉しかった。
そういった親しみのある女神の性格が、神殿の空気にも表れているのかもしれない。
「ねえ。帰りにも、あの神殿に行くわ。いいでしょう?」
「そのようにおっしゃられる時点で、姫様の中では確定しているのではありませんか。私が止めても、どうせおひとりで突っ走って、行くつもりなのでしょう」
「うふふふふ」
「また、笑ってごまかすんですから、もう……」
王女は歩きながら、後ろで侍女がため息をついたのを聞く。
侍女は、十五歳の時、人の妻となった。十五歳で婚姻というのは、この時代では普通だ。四十路前の今では二児の母だが、どちらも若くして出産したため既にりっぱな大人である。そんな子育て経験者の侍女を悩ませていると思うと、ちょっと、自由に行動しすぎたかもしれない。王女は反省した。
宿に戻ったら、今、王女が身に付ける白い服とはしばらくお別れだ。次は鮮やかな色に染められた服を着なければならない。頭や耳、腕には、金銀と宝石の輝く装飾品を付けなければならないし。
王女は、着飾ること、それ自体が嫌いなのではない。着飾ることに、王女として敬われることも必ずと言っていいほど一緒についてくるのが嫌なのだ。しかし、この町で自由に歩きまわったため、侍女と護衛たちにはだいぶ世話をかけてしまった。せめてこの先は大人しく、王女らしい王女を演じておこう。
気持ちを切りかえるため、王女は腕を高くあげて伸びをする。「姫様、腋の下まで見えてしまいます」と、早速注意された。