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第8章

 ルイス家でのクリスマス・パーティは、酔っ払ったテッド・レズニックがやってくる前までは、至極感じ良く進んでいた……と、そのようにロイは記憶している。


 ロイはリズが一体いつやって来るかいつやって来るかと、窓から門のほうを眺めてばかりいたが、やがて彼女がチャイムを鳴らすと、走ってそちらに駆けていって恋人を迎えた。


 リズは、近所の人々が<エヴァー・グリーン邸>と呼んでいる屋敷の前に立った時から、正直驚いていた。もちろん、ロイの父親がユトレイシア大の有名な教授であることは知っている。また、このハリー・ルイス教授が何十冊となく物理学に関する本を出版していたり、あるいは子供向けの科学番組に出演していることなどは……けれど、それでこんなに大きな屋敷をユトレイシア市内に建てられるのみならず、周囲の庭にしても相当広いことから、もともとルイス家はそうした資産家の家系なのだろうと思ったくらいである。


<エヴァー・グリーン邸>と呼ばれているだけあって、庭には多くの松や杉、樅の樹といった常緑樹が植えられており――また、庭から伐採したというわけでもないのだろうが、リズが通されたリビングには、飾りつけをした二メートル強の樅の樹が四本も並んでいたものである。


 最初に挨拶に出たのはアリシアで、(なんて感じのいい、優しそうなお母さんだろう)というのが、リズが最初に感じたことだった。なんというのだろう、とにかく飾り気のない、人を寛がせる雰囲気なのだ。四人も息子がいるとは思えないくらい若々しいが、同時に生活の苦労が目許や口許の小じわに見え隠れするのと同時……それがアリシアの美しい顔立ちを不思議と引き立てているのだった(というより、美容に力を入れてガンバッテイルといった同年代の女性より、ロイの母が持つ雰囲気のほうを好む人のほうが遥かに多いに違いない)。


 とはいえ、そうしたアリシアの母性的な雰囲気に飲まれそうになると同時、リズは油断はしなかった。ロイから、自分の上の兄三人がどんなガールフレンドを連れてきても、そのうちの誰ひとりとして気に入った試しがないと聞いていた、そのためである。


 テーブルにはダマスク織りのテーブルクロスが敷かれ、枝分かれした燭台が飾られていたり、花も人数分素敵な花器に活けてあったりと、ここにも夫人の人を脅さない程度の気配りとセンスの良さが感じられた。キッチンからは七面鳥を焼いたあとの良い匂いが漂って来ており、挨拶のあと、彼女はすぐ火をかけたままのレンジのほうへ「ちょっとごめんなさい」と言って戻っていった。リズが最初に心に思ったことは(ルイス家では、ずっとクリスマスはこのような形で祝われてきたのだろう)ということだったかもしれない。(貧乏なうちとはやっぱり、そもそもの根本のところがお話にならないくらい違うのだわ)ということもちらと心を掠めはしたが。


 この時、七面鳥やシチューやパンやマッシュポテトといった、テーブルの準備がある程度整っても――この家の主が姿を現さなかったためだろう、とうとうアリシアは夫を呼びに彼の書斎のほうへ向かった。「いつもはハリーの頭の物理的運動だか宇宙的瞑想だかを邪魔すると、叱られるんですけどね。でも、今日はクリスマスですもの。あの人だって少しくらい主イエスのことを思い出したっていいはずだわ」


 リズは暖炉のマントルピースに飾られた、聖ヨセフや聖マリア、それに飼葉桶のイエス・キリスト、東方の三博士や羊飼いといったオーナメントを見て……ふと隣のロイに小声でこう聞いた。


「そういえば、あなたのうちの宗教って、どんな感じなの?」


 ロイは意味もなく銀のスプーンでフルートグラスを鳴らして笑った。


「そこらへん、うちは結構面白いんだ。母さんは毎週日曜礼拝を欠かさないってくらい、信仰深いんだけど……父さんは無神論でね。もし神がいるとしたら、スピノザのいう神が自分の宗教観に一番近いものだっていう、アインシュタインと似たような立場なんだ。でも、おかしな話、母さんにつきあってそれなりにキリスト教の宗教行事については守るし、場合によっては信仰深いような振りもする。ただ、父さんのほうでそう仕向けたってわけじゃないにしても、息子は四人とも父さんと双子の宗教観に近いんだ。母さんにとっては、この世界の愛と善意の頂点にいるのは神であり、神=愛といったように強く結びついてるんだね。だから、神を信じないことすなわち、この世の愛と善意を信じないことと同義なわけ。一方、父さんにとっては、この世界には愛も善意もあるが、それは必ずしも神への信仰を源としていないというかね……でも、うちはそれで面白いくらいバランスが取れてるんだ。母さんは息子たちにも当然、自分と同じような信仰心を持つよう仕向けてきたし、それはオレにとっても他の兄さんたちにとっても、外見上だけ立派なキリスト教徒でいるよりも、よほど大事なことだったわけだから」


「わたし、なんだか今一瞬にして自分が難しい立場に追いやられたような気がしてきたわ」


 ロイにしても、この時初めてリズが<どちら寄り>なのかと考えたのだったが――なんにせよ、科学の信徒たる父、ハリー・ルイスの登場で、彼らは会話を一時中断しなくてはならなかった。もっとも、彼の息子のロイは知っている。父ハリーは母の愛ゆえに、自分の信義を多少曲げてもよいという考えを持っていることを……だが、若い頃に不幸な滑落事故で友人ふたりを失ったことが、彼にそれを許さなかった。最悪、自分の足と右の手二本がないことは、天狗になっていた自分の鼻をへし折るための神の試練だった……ということでも良いとハリーは考えている。だが、親友ふたりを同時に失ったことが神の与えた運命だったとは、彼にはどうしても認めることが出来なかったのである。


 ――いずれこうした複雑なことも、自分はリズに話すことになるだろう……ロイはそんなことを思いながら、父親が車椅子に座ったままリズと挨拶するのを見守っていた。


「ああ、どうもどうも。遅れてすみませんな。書き物をしておったもんで、キリのいいところまでキリのいいところまでと思っていたら、ディナーに遅れてしまったようです」


 そう言って、ハリーはリズに向かって指が二本ない右手を無造作に差しだした。特段、そうすることで相手の反応を試そうというわけではない。とにかく、彼にとってはこれが日常なので、一瞬相手がギョッとした反応をし、それからそんな自分を恥じる態度を見せようと、あるいはどうということもなく自然に握手しようと――ハリーにはもはやどうでもいいことであった。


 ただ、この時はリズがあまりに自然に自分の手を取ったため、そのことが多少印象に残らなくもなかったにせよ。


 夕食のほうは和やかに進んだ。ハリーはこういう時、場持ちのうまい陽気な人物になることがいくらでも出来たが、この日テーブルの会話の中心にいたのは母アリシアのほうであった。彼女にしても夫が今のように<思考のギア>が入っている時には、「客人に失礼のないよう」いくら促そうとも無駄であることがわかっていたからである。


「ロイったら、大学に入ってから突然ボランティア精神に目覚めたみたいに、老人福祉施設とか盲学校や聾学校でこんなことがあったとかあんなことがあったとか……よくわたしに話してたんですのよ。それで、ボランティア部の部長さんがすごく素敵な人なんだとか言うものだから、わたしも『そのうちその方をうちに連れていらっしゃい』なんて話してね」


「そうなんですか。でもわたしの場合、部長なんて言っても、誰もなりたがらなかったのを押しつけられたようなもので……だからはっきり言ってわたしの人徳とかなんとか、全然関係ないんです」


「あら、そんなことないわ。人って大体、『この人の言うことなら多少横暴な要求でも聞いてもいい』って認めることの出来る人をリーダーに選ぶものですもの。でもほんと、感心だわ。わたしなんて、リズさんくらいの頃はボランティアなんて寄付金集め以外は何もしたことなんてないものねえ……主人がこんな体なものですから、以後はほとんど無償のボランティア生活みたいなもので、その関連で色々詳しくはなったんですけどね」


「君の場合は無償とはいえんよ」


 ハリーは頭の片側ではまったく別のことを考えていたが、一応夫人の話も耳に入ってきていたらしい。


「そのかわり私は大学でもらう給料のほとんどや、収入の大半はそっくりそのまま渡してきたじゃないか。この屋敷の内装についても、ほとんど口出ししなかったし……しかもこの奥さんときたら、私の身の回りの世話を絶対女性の介護者にはさせないんだ。お陰で、毎回やってくるのはプロレスラーみたいな体格の黒人の青年やら、こっちが言い逆らったら何をされるかわからんような逞しい連中ばかりさ。まったく、こんなしょぼくれたジジイの体に女性がちょっとくらい触ったからって、一体なんだというんだね」


「何をおっしゃるのよ、あなたったら。サミュエルのことも、キック・ボクシングが趣味のリロイのことも気に入ってらしたくせに。『わたしにも足があったら君の趣味につきあうんだのに』っていう口癖、きっと彼も最後には飽き飽きしながら聞いてたでしょうけどね」


 リズはやはり、堪えきれなくなって笑った。簡単にいえば、これは長年連れ添った夫婦のノロケなのだろうというふうにしか、彼女の耳には聞こえなかったのである。


 このあとも、クリスマス・ディナーの席は会話に事欠くことはなかったが、ハリーのほうでは「年内にやっつけたい仕事がある」とのことで、デザートの前に退座していた。「ここで失礼されていただくが、それは何もあなたのことが息子のガール・フレンドとして適当でないと臍を曲げたからだ……なんぞと思わんでくださいよ。そっちのうちの奥さんはどうだかわかりませんがね」――このあと、アリシアが何か小言を口にする前に、ハリーのほうではさっさとその場から去ろうとした。電動車椅子のためか、逃げ足のほうも素早い。


 そしてこの時、すでにリビングから廊下へ出ていた夫のことを追い、「デザートのほう、書斎までコーヒーと一緒に持ってくわね」とアリシアが声をかけた時のことだった。ピンポーンと呼び鈴が鳴ったのである。相手がテッド・レズニックであることがわかると、「ハッピー・クリスマス」といったように挨拶を交わしつつも――アリシアの顔色はインターホンを切ると同時に曇っていた。


「ねえ、あなた、もう少しの間リビングにいてくださらない?ロイたちは早く恋人同士になりたくて、自分たちの部屋へ行ってしまうでしょうし……そしたらわたしとあの人のふたりきりよ。そりゃ、今日はクリスマスだし、テッドだってちょっと挨拶に寄ったってだけでしょうけど……」


 ハリーのほうでは夫人の言葉に対し、ただ無言であった。特に何を言うでもなく、くるりと方向転換して、リビングのほうへ戻ってきたのである。


「退室の挨拶をしたばかりだというのに、すみませんな。どうやら大学村の友人のひとりが訪ねてきたようなので……」


 このあと、デザートのアップルパイを持たせて、部屋のほうへ行くようアリシアは息子に言うつもりであったが、テッドはリビングのほうへやってくるなり、「ハッピー・ホリディ!」と叫び、手にした高級シャンパンをテーブルの上へかなり乱暴に置いた。食事のほうは済んでいたとはいえ、まだ片付けの終わってない皿などが、驚いたように数センチずれる。どうやら彼のほうでは相当出来上がっているらしい。


「おおっと!これはこれは……とうとう四男のロイくんにもガールフレンドがお出来になったわけかな?良かったねえ、アリシア。これで君念願の初孫が、近いうちに生まれるかもしれないよ!」


「何言ってるのよ。ロイはまだ学生だし、リズもね、あなたと同じ大学の文学部の学生さんなのよ。そんなふうに酔っ払って醜態をさらしたりして、あとで後悔することになるのはあなたのほうなんですからね、テッド」


 一体今のやりとりのどこが愉快だったのか、テッドはどこか皮肉げにくっくと笑いだしている。彼はまるで自分の女房にでも命じるように「栓抜きはないのか?貧乏な家だな」などと言い、アリシアに持って来させると、勝手知ったるなんとやらで――サイドボードから人数分のシャンパングラスを取りだし、ひとつひとつに注いだ。


「なあ、アリシア。さっき君はインターホンに出た時、『ハッピー・クリスマス』と言ったね。それに対して俺は『ハッピー・ホリディ』と言った……だが、俺も君もユダヤ系なんだから、『ハッピー・ハヌカー』と言うべきじゃなかったかな?」


「もううんざりよ、テッド。どうしてあなたは毎年、クリスマスになるとその話をわたしにするわけ?」


 イラだっているアリシアとは違い、テッドはシャンパンをがぶ飲みすると、ますます陽気になって続けた。「遠慮せずに君らも飲みたまえよ」などと言って、ロイとリズの手にそれぞれグラスを押しつけて寄こす。


「そうか……ロイのガールフレンドはうちの文学部か。君、名前はなんていうのかね」


 ここで、リズが「エリザベス・パーカーです」と言った途端、テッドはシャンパンが喉に詰まったとでもいうように、ぶっ!と吹きだしていた。藍色のセーターが、若干琥珀色の液体によって染まる。


「はっははっ!ハッハッハッ!!まあ、エリザベス・パーカーなんてありがちな名だがね、我らが元お仲間の文学部の教授、ロバート・フォスター殿が車で一発やりこまして、クビになった原因の女学生と同じ名じゃないか。奴さんも気の毒に、一体今ごろどこでどうしてるのかねえ。まかり間違ってもこのユトレイシア市内にはおるまいよ。塾の国語担当の教師をやっておるところなぞ元同僚たちに見られようものならば、恥かしくて到底耐ええまいからね」


「ボブは随分色々文学関係の本を出していたし、そういうので十分やっていけるんじゃない?」


 テッドは汚れた胸のあたりをティッシュで拭くと、「やあ、うまそうだ」と言って、切り分けた七面鳥の肉をつまみ食いしている。


「どうだかねえ。上の子のローラも下の子のキースも、まだ大学生なんだぜ。まあ、上のローラは今、大学院生か。ジェシカはきっと手厳しくボブから最後の血の一滴に至るまで容赦なく金を搾りとるだろうよ。そしたら奴さん、どうするね?やっぱり最後はしがない塾講師にでもなるしかあるまいよ」


「いいじゃないか、塾講師」と、ハリーは自分の分のシャンパングラスを三本指で受けとって言った。「私だって、四人も子供がいて、アリシアが馬車馬の如く働けといったら、塾講師でもなんでも、仰せのままに働いたろうさ。まあ、もっとも私の場合、この格好のまま駅前あたりでむしろの上にでも転がってたほうが、もしかしたらよほど儲かるかもしれないがね」


「むしろの上で乞食か!」


 テッドはさもおかしくて仕方ないというように、げらげら笑いだしている。


「君たち夫婦はほんと、昔からフォスター夫妻には好意的だったよな。俺はボブの、犬みたいな顔のくせにドッグフードを食いそうもない顔と、ジェシカのいかにも気の強そうなワシっ鼻を見るたびに、いつでもへし折ってやりたい衝動に駆られたがね。あ、誤解しないでくれよ。これはいわゆる言葉のあやというやつで、俺は冗談でもボブにドッグフードを渡したこともなければ、ジェシカに暴力を振るったこともないからね」


「そりゃあね。テッド、あなたはテニスではジェシカに負けてばかりいたし、大学内のゴルフコンペで、ブービー賞としてドッグフードが十キロ当たった記憶を、なんとなくごっちゃにしてるんじゃない?フォスター家でも犬は飼ってなかったのに、ボブは何故か押しつけられたと言って困惑してたわよ」


「そうだった、そうだった!そんなこともあったっけ」


 ここでまた、テッドはまたあの感じの悪いくっく笑いをしている。


「まあ、俺が思うには、君ら夫婦は彼らが例の雪山遭難事件を知らん夫婦ってことで、フォスター夫妻が好きだったんじゃないかね。アリシア、君ときたら、山岳部の連中の全員に媚を売っていたというのに、結局はその頃一番のビリっカスだった男と結婚してしまうんだものな」


 アリシアは切り分けたアップルパイをふたり分、リズに手渡すと――「あの人、酔っ払ってるのよ」と言って、息子に自分の部屋へ行くよう目で促した。


「べつにいいじゃないか、アリシア!そろそろロイだって大人なんだし、何を聞いたって驚きゃしないさ。あの事故が起きる前までは、おまえのおっかさんは山岳部のマドンナだったんだ。で、一番の有望株と当時は思われていた俺と婚約までしてたんだぞ。ところがだな、俺だって凍傷で足の指を失くしたってのに……それまで相手にもしてなかった男があんまり惨めで可哀想だというので結婚すると突然言いだしたわけだ」


「私がずっと送っていたモールス信号が通じたのさ。あの事故が起きる前からも、何故こんなにモールス信号を送ってるのにアリシアに通じないのか不思議だったがね、その後突然アリシアからも返事を返してくれるようになったんだ」


 この話はもう彼らの間で何度となくなされたものなのか、アリシアの態度もハリーの態度も、至極落ち着き払ったものだった。普通だったら、「せっかくのクリスマスだってのに。帰ってくれ!」とでも怒鳴っているところだろう。だが、彼らは殉教者のようにただじっと何かを耐えているのだった。


「モールス信号か!やれやれ……ロイ、まさかおまえも親父と同じことを言うつもりじゃあるまいな?うちの工学部の学生にはたま~にそういう、宇宙人と交信できるとかいう装置を本気で作ってる奴がいるからな」


「オレは宇宙人の存在自体は信じてますよ」


 ロイはそう言うと、リズのことを促して、二階の自分の部屋のほうへ行くことにした。テッド・レズニックが時々我が家へやって来てはくだを巻いて帰っていく姿というのは、ルイス家の子供たちには見慣れた光景であり、ある程度大人になるとその理由についてもロイは大体飲み込めていた。


『テッドも、誰かいい女性と結婚して幸せになってくれるといいんだけど……』


『いや、あいつはもう結婚はしないだろう。自分にそういう幸せを許すつもりがないんだ』


 最初は両親がこっそりそんな話をしていても、子供のロイにはよく意味がわからなかった。けれど、こうした大人たちのする「こそこそ話」というのを子供は実はよく聞いているものだ。そして、ある時急にそのすべてが繋がって、大体の事情といったものがわかってきたのである。


 ちなみに先ほどの、テッド・レズニックが母のアリシアと若い頃婚約していた云々というのは、ルイス家の子供は四人ともが全員知っていることである。だが、それでテッドが今も母に惚れていて、酒を飲んではくだを巻きにくることがある……といったようには、四人ともが思っていなかった。実はテッド・レズニックはアリシアという婚約者がいながら、他にも女性がおり、それがグランドジョラスで死亡したマシュー・ヴォーンの恋人だったのである。また、アリシアはもうひとりの亡くなったオリヴァー・コルトンにテッドが浮気したのは彼女ひとりでないと告白し、婚約破棄すべきかどうか悩んでいる……と、そのように相談しているという間柄であった(その上、このオリヴァーのほうでもアリシアに気があったのだから、なんとも込み入った人間関係である)。


 こうしたややこしい人間関係の図式を理解できるまでに、ロイにしても随分時間がかかったが(年の離れた兄たちに聞いても、『大人には色々あるのさ』としか教えてもらえなかったせいもある)、母が山岳部の部員たちに当時媚を売っていたというのは――大抵の男がアリシアに感心があったくらいの意味で、テッドのほうでは浮気していたにも関わらず、婚約者に対しては非常な嫉妬心を燃やしていた……という、何かそうしたことであったらしい。


「なんかごめん。せっかくのクリスマスだっていうのに、なんかおかしな雰囲気になっちゃって……」


「ううん、いいのよ」


 ディナーの席で実は、ロイは母親からあることをバラされていた。リズがクリスマスにやって来るため、フィギュアやアメコミのぎっしり並ぶ棚を整理し、急いで別の部屋へ移動させたわけだが……「わたし言ったのよ。そんなことしても人間の本質は隠せないし、あの部屋を見てもどうとも思わない女の子じゃなきゃ、ロイとはつきあえないんじゃない?って」アリシアはそう言って、悪戯っぽそうに笑っていたものだった。


「でも、あなたの部屋って随分たくさん本があるのね。やっぱりこういうのも、お父さんの影響?」


 本棚にはおそらく、軽く三百冊を超えるSF小説が並び、他は大抵が宇宙や物理学についての本、あるいは秘密結社イルミナティについてや世界の七不思議、陰謀論関係、UMAは実在する……といったその手合いのものがズラリと並んでいた。(ここまで趣味が偏っているのも珍しい)と思い、リズは暫くしげしげとその本棚を見やっていたものだった。少なくとも、リズの部屋にある本とは、趣味が被っていないばかりか、一冊たりとも重複した本がない。


「う……うんっ。まあその、父のというか、親父の影響っていうのはやっぱ、多少あるよね。父さん、オレの小さい頃、『サンタクロースは本当にいるんだぞ』なんていう話をよくしたもんだった。父さんの話によるとね、このサンタクロース自身が宇宙人じゃないかってことだった。白いヒゲが生えてて、永遠にそれ以上年を取ることがなく、トナカイと話が出来て、空を飛ぶことの出来る超能力まで持っている――これが宇宙人じゃなくてなんだと、父さんの話ではそういうことになるんだね。で、超能力を持っていればこそ、子供たちの欲しいものがテレパシー能力によってわかり、煙突から入って来ようとするのはただのポーズで、実際は屋根に到着したら、あとはテレポートで一瞬にしてプレゼントを配って歩くんだって。そうじゃないとね、この広い世界の子供たち全員にプレゼントを配って歩くのは到底無理だとかなんとか……」


 リズはくすくすと笑った。


「わたしもそれ、なんとなく覚えてる。ほら、あなたのお父さんが出てた、子供向けの番組で……なんだったかなあ。サンタクロースがもしクリスマスに世界中の子供たちにプレゼントを配るとしたら、マッハの速度でトナカイと橇を移動させる必要があるとかなんとか、説得力のある数式と一緒に説明したりして。というのもね、子供たちから番組に投書が来たからなの。クリスマスにサンタクロースが空をトナカイで飛んでるのを誰も見たことがないのは何故ですかっていう……ルイス博士の話ではね、サンタクロースはそのくらい速く移動するから、みんなの目には見えないけれど、確かに存在してるんだっていう、そうしたお答えだったというか」


「その答えで本当にロマンと空想の余地がその子たちにはあったのかなあ」


「あったと思うわ。少なくともわたしは、博士のその答えで『ああ、だからサンタさんは目に見えないんだ』なんて、妙に納得しながらテレビを見てたんですからね」


 この時、なんとなくそんな雰囲気になったような気がして――ロイはリズにキスしようとした。けれど彼女がふいとかわして、机の上のアップルパイのほうへ行くのを見て……少し思うところがあった。


「あ、あのさっ、レズニック教授の言ってたことなんだけど、あの人、父さんが足を失うことになった雪山の滑落事故でね、その隊を率いる隊長みたいな立場の人だったんだって。だからその……冬になってこうして雪が降るだろ?そしたら、時々堪らないような気持ちになることがあるんだろう。そういう時、酔っ払った勢いでうちに来て、くだを巻いていくようなことがあって……もう、三十年以上昔の話でも、そういうフラッシュバックが今も脳の中で起きることがあるんじゃないかって。だから、父さんも母さんも寛容に受けとめることにしてるっていうか、なんていうか……」


「違うのよ、ロイ」


 リズが机のへりあたりに手を乗せたまま、肩を震わせはじめるのを見て、ロイは暖房の温度を上げることにした。その時点では彼女が泣いているとは気づかなかったのである。


「もしかして、寒い?今、設定温度上げたから、次期あったかくなると思うけど……」


「わたし……わたしね、ほんというと、あのテッドって人が来て、ロバート・フォスター教授のことを言った時から、そのあとの会話はあんまりちゃんと耳に入ってきてなかったの。もちろん、随分図々しい人だなっていうか、クリスマスなのに失礼なんじゃないか、みたいには思ったけど……それより、この人が口にしたことをあなたがどう思ったかと思って……」


(あ……!)とロイは思った。確かにあの瞬間、ロイにしても一瞬ドキリとはしたのだ。けれど、隣のリズの様子を見ていて、彼女がまるきり動揺してもおらず、顔色もまったく変えなかったことから――むしろ『ハイハイ上海』で聞いたあの噂はデマなのだろうと、そう確信していたくらいだったのだ。


「ごめん……!!あいつ、なんて言ったっけ?車で一発いてこま……じゃないな。やりこまだかなんだか。オレ、半分あのおじさんが何言ってるかわかんないってのもあって、なんとなく聞き流しちゃったけど、抗議しとけばよかった。ボブのおじさんがなんで教授職をクビになったかとか、そういうことはオレ、今もよくわかんないんだけど……」


「違うのよ。確かにわたしが、ロバート・フォスター教授が辞職することになった原因を作ったのよ。でも、車でやりこまされたとか、そういう事実は一切ないの。もともとはただの軽いセクハラだったっていうか……」


 この瞬間、ロイは少しだけ安心した。もし犬のように優しい顔のあのボブおじさんがそんなことをしていたとしたら――ロイにしても二重の意味でショックだったからだ。


「でも、軽いセクハラなんて……そのくらいで首になんてなるかな?」


 そう言ってからハッとして、ロイは再び「ごめんっ!」とあやまっていた。


「そ、そういう意味じゃないんだっ。オレはあのボブおじさんの性格についても知ってるし、その上でリズがそういうんなら、それは間違いなくそういうことなんだっ。その点はオレにしても疑ってなんかない。ただ、君が泣いてるから、よっぽどショックなことがあったんだろうと思って……だから、だから……」


「いいのよ。わたしのほうこそ、ごめんなさい。わたしも、自分がこんなことくらいで涙がでるとは思ってなくて……話自体はほんと、大したことじゃないのよ。フォスター教授は、基本的にはその立場に相応しい、立派な紳士とわたしも思うの。っていうか、正確にはそう思ってたっていうか。でね、レポートを提出するたびに色々褒めてくれて、わたしもそういうの、すごく嬉しかったんだけど……ある時、ボランティア先から家に帰ろうと思ったら、偶然を装って……っていうか、もしかしたらほんとに偶然だったのかもしれないけど、『送っていってあげる』って言われたの。まあ、断る理由もないしと思って乗ったんだけど、それが結果として、何もなかったにしてもすごく長いドライブになったっていうか」


「その時、一度だけ?」


 そう言ってしまってからまたハッとして、ロイは慌てて言い訳した。


「ち、違うんだっ。だから、教授が実はその時だけじゃなく、リズのこと、ストーカーするか何かしてたんじゃないかと思って……」


「それはわからないけど」


 リズはティッシュで涙を拭うと、胸の奥からの深い溜息を着いて続けた。ようやく感情の乱れが収まってきた、そのせいだった。


「なんていうか、わたしの側ではすごくガッカリしたって話。ヴァージンなのかどうかとか、今までにつきあった男は何人いるかとか……太腿をちょっと揉んでくれないかとか……その、もしかしたらロイにはわかってもらえないかもしれないけど、わたし、左岸育ちじゃない?だから、車っていうと、手でちょっと押すか引っ張るかしたら、ロックが解除されるみたいな、安っぽい車しか知らないのよ。それで、赤信号で止まった時に逃げようと思ったんだけど、なんかドアが開かなくって……」


「ああ、うん。わかるよ。それに、そのくらい怖かったっていうことでもあったんじゃないかな。こういう言い方はオレも嫌だけど……教授にとってはたぶん、リズみたいな子がもともとタイプだったとか、そういうことが理由だったんじゃないかな。オレの知る限り、ボブおじさんは女性をレイプできるほどの力強さはないって言ったらなんだけど、そういうタイプの人だから……だから、逆に本人を知ってるからこそ納得できる。どっちかっていうと、そういう中途半端なセクハラっていうか、そのくらいで相手の様子を見て、もしイケそうだったらラブホテルあたりに車を近づかせる的な……」


 ここまでしゃべってきて、ロイは「あーっ、クソッ!」と、自分の胸のあたりをかきむしった。もちろん、すでにフォスター夫妻は元いた教職員住居の一角にはいない。けれど、奥さんの尻に敷かれるストレスを、手近な狙いやすい女学生で晴らそうとしたのだとしたら……。


「あのね、ロイ。それは去年あったことだけど……わたし、そのことでフォスター教授のことを恨んでるとか、そういうことも一切なくて、むしろ逆に教授に悪いことしたんじゃないかって思ったりもして……」


「なんでだよ!?そんな奴、教授職をクビになって当然だろ?第一、そんなことしたのがリズが初めてじゃないかもしれないし、他にもそういう犠牲者はいたけど、微妙な感じの軽いセクハラだと思って、黙り込むことにしたのかもしれない。第一うち、ユト国内で一番いい大学って言われてるんだぜ?他大学の教授がそういうことをして新聞沙汰になるっていうのとは、そもそも話のレベルが違う。そりゃ、どこでだって許されていいことじゃないけど、大学としては権威が失墜するっていうか、なんていうか……」


 今度は、ロイのほうが何か堪らなくなってきて、はーっと大きな胸の底からの溜息を着いた。テッド・レズニックにしても、うちに時々遊びにくるおじさんだから、(人間として、そういう弱いところもあるんだ)と知っているというそれだけで……大学内で見かける分においては彼もまた「立派な紳士然としか見えない」と、ロイにはわかっていたからだ。


「だからなの」


 ロイがソファに腰かけて、頭を抱え込んでいると、リズは彼の隣にそっと座って言った。実はこのソファセットは、今日のためにと彼が少しばかり奮発して購入したものである(流石にここまでは彼の母親もバラさなかった)。


「わたしの場合、一時間くらい……実際にはもっと長く感じたけど、確か一時間半くらいかな。ずっとそういう性にまつわる話なんかをされて、不愉快といえば不愉快だったけど……結局、こういうことがエスカレートして、本当に被害のでる女学生がいたら大変と思って、それで思いきってテス・アンダーソン教授に相談したの。自分としては大事にしたくないけど、今後また同じことを誰か別の女性にするんだとしたら、自分が今の時点で告発しなかったせいだと思って、わたし、後悔するかもしれないと思って……」


「なんだって!?」


 急にそう、ロイが男らしい声で怒鳴ったため、リズとしては驚いた。というより、彼にもそうした側面があるのだと、初めて気づいた。


「アンダーソン教授って言ったら、『ジェイン・エア』の講義で、この中で不倫する女性は必ずいるだろう……みたいに説教してたこともあるじゃないかっ。それなのに、そんな当てこすりみたいなこと……なんかもう信じられないな。うちの大学の教授はそんなのばっかりかと思うと」


 ロイの父親が<ユトレイシア大学村>と呼んでいるように、そうした教職員同士に特有の噂話については、ロイは割合よく知っていた。たとえば、A教授の息子が今は麻薬更生施設に入っているが、夫妻はそのことをひた隠しにし、息子はヨーロッパに留学していると嘘をついているであるとか、B上級教員の娘が厳しい親のしつけに反抗するようになり、家から追い出したものの、いまだにそのことを恨みに思い、金を巻き上げにしょっちゅう帰ってくる……といったようなことである。


「違うのよ。テスは……アンダーソン教授とはね、わたし、ほんとにツーカーの仲だと思ってるの。だから、彼女との間のことではわたし、何か思うことってなんにもなくて……むしろ、こんなに信頼してなんでも話せる先生って、他に誰もいないくらい。でね、このことってほんとはわたし……実は笑い話だと思ってて……」


 リズの話し方は最初、自分の恋人を慮ってか、気遣わしげな調子であった。だが、その優しい話し方が最後、だんだんに小さな忍び笑いで終わる。


「どういうこと?」


 ロイのほうでももう、怒ってはいなかった。


「あのね、怒らないでね。教授、そういう性についての話をしながら、自分で興奮するっていうタイプなのかどうかわからないけど……顔がだんだん赤くなってきて、『わたしみたいなおじさんとキスするなんていやかな?』なんて聞くわけ。わたし、どう答えていいかわからなかったわ。それで、黙ってたの。そしたら、『キスが駄目なら、指キスだったらどうかね』って言うのね。だっ、駄目だわ……どうしてもおかしくって、これ以上わたし、言えないかもっ」


「なんだよ、言えよ」


 ボブおじさんがどういった人物か知っているだけに、リズの言う<笑い話>というのがどういうことか、ロイにもだんだん飲み込めてきた。


「だからね、こうやって……自分の唇を人差し指で撫でて、ぺろっとなめたの。それで、それをわたしの口につけてこようとしたっていうか……」


 ここまで言い切ると、リズは大笑いしていた。ロイにしても、ソファに倒れこみそうになるほど笑った。もちろん、ロバート・フォスター教授のことは許せない。自分の可愛いリズに過去、そんなことをしたのかと思っただけでも――けれど、そうした一切をバラされて、相応の報復は受けたということでもあるだろう。


「で、たぶんわたしが『うわっ、何こいつ。キモッ!』ていうあからさまな顔をしてたせいだと思うのね。そのあと、急にロックを解除したかと思うと、『ここでいいかね』って言って、ようやく降ろしてくれたの。わたし、それまでも人気のない場所へ人気のない場所へ……っていう感じで車がそういう方向に向かっていくもんで、不安ではあったのよ。いざとなったら大声だそうと思ってたけど、あんまり人のいない場所に連れ込まれたら、この人の頭ぶん殴ってでも逃げなきゃとか思ってて……それで結局、最後にはここがどこかもわかんない場所で突然降ろされたの。最初はね、『どこでもいいからとにかく降ろしてっ!』って思ってたんだけど、家まで帰ってくるのに、結局五十ドルもかかっちゃって。わたし、どっちかっていうとね、怒ってるっていったらそっちのほうなの。フォスター教授のキモい指キスのことなんてどーでもいいけど、タクシー代五十ドル返せっていうね」


「そっか。なるほどなあ」


 ロイは思わず隣のリズのことを抱きしめた。『ハイハイ上海』でロバート・フォスターの名前がでた時……自分はその直後は随分落ち込んだ気がする。ショックからか、餡かけ焼きそばまで吐いた。けれど、真実はそういうことなのだと思った。もしリズの言葉が『もうそんな終わったこと、どうでもいいじゃない』とか、あるいはまだ何か隠していることがあるという、そうした感じだったとしたら――もしかしたらロイは今も(あの人の良いボブおじさんが、そんな馬鹿な……)と思い、疑っていたかもしれない。


 けれど、今はむしろその逆だった。当人の性格をある程度知っていればこそ、ロバート・フォスターのセクハラがどうにも煮えきらない中途半端なものに留まっていたのが何故なのかがわかるのだ。


 このあと、実をいうとロイは初めて、大学へ入学してからではなく、その一年も前からリズに片想いしていたことをリズに告白することになった。何故といって、部屋の棚の割と目立つところに、例のサングラスとスニーカーが置いてあったからで、リズはそれに目を留めると、一瞬何かを思いだすように首を傾げたのである。


「そっ、それ、覚えてない!?オレ、大学の見学会の時、リズに案内してもらったんだ。それで、その時のことがずっと忘れられなくて……」


「ああ……」と、リズは尚も少し考え込んでから――次の瞬間「あーっ!!」と叫んでいた。「もしかしてあの時の子!?」


「そうだよ」ロイのほうとしてはやはり、少しがっかりせざるをえない。「君がすごーく親切にしてくれたから、それでオレ、いっぺんに好きになっちゃったんだ。もちろん途中で気づきはしたけどさ。リズは単にオレが目の見えない人間だと思ったから、妙に親切だったんだなっていうのは」


「そっかあ。だってあなた……ロイ、他の学生の群れが来たのも気づかずにずっと携帯をいじったりなんかして、突き飛ばされて転んでたじゃないの。でも、今ならあなたにもわかるんじゃない?盲学校の子たちとか、携帯使うのすごくうまいでしょう?どっかからメールが送られてきたら、そういうのは音声で読み上げてもらえばいいわけだし、同じような形で自分からメールを送ったりするのもお手のものだしね。だから、あなたもきっと携帯で何かそんなことしてたんだろうな、なんて思ったの」


「うん。今はね……ここ二か月くらいボランティアしたせいもあって、リズの気持ちが前以上によくわかるつもりだよ。実はね、これ試作品でさ。携帯とスニーカーを連動させて、行き先を設定すると、その方向に靴の爪先が向かってるかどうかを教えてくれるっていうものなんだ。で、カーナビと同じく、行き先から逸れたら警報が鳴って教えてくれるんだけど……これはあくまで基本型で、ここからさらに登録されたあなたの歩幅では大体何歩くらいかかりますとか、目的地まで最短距離で何百メートルだとか、そんなふうに商品として発展させていったらどうかってメーカーと掛け合ったんだけど、プレゼンで成功しなかったんだ。なんでだかわかる?」


「えっと、どうして?わたし、すごくいい商品だって思うけど……」


 リズは携帯と連動させ、少し試させてもらったあと「すごーい!すごーい!!」と連発してから、不思議そうに首を傾げている。


「ほら、オレがあの時、学生の群れに気づかなかったみたいに、安全性の問題だよ。最短距離にはもちろん、道路を斜めに横断するとか、そういうことは含まれない。そこのところは正規のルートをクソ真面目に辿らなくても、コンピューターのほうで計算し直してくれるにしても……これを装着してたせいで交通事故に遭ったとかさ、操作に夢中になっててバイクや自転車とぶつかって怪我したとか――まあ、そのあたりの安全性をクリアするのが難しいってことでね」


「そうなの。なんだかとても残念ね……」


 リズがまるで自分のことのようにがっかりしたので、ロイのほうでは妙に嬉しくなった。


「でもオレ、諦めるわけじゃないしね。他にも並行して色々開発研究してることもあるし……あと、今はね、こういうのを盲聾者用のガイドとして使えないかと思ったり。もちろん、このままじゃまだ全然駄目だけど、将来的にそういう方向性で何か開発できるといいなと思ってるんだ」


「ロイって確か、うちの大学院のAIアンドロイド開発科に進級したいと思ってるんだっけ?」


「うん、まあね。そうトントン拍子にうまくいくとは思えないけど、それが一番の夢でもあるから、ちゃんと大学院受験までに実績積み上げてアピールできるようにしとかなきゃなあとは思ってて……」


「じゃあわたし、あんまりボランティアボランティアって言って、あなたの足引っ張れないわね。そりゃあ、大学院進級時の面接なんかで、『ボランティアがんばってました』っていうのは多少のアピールにはなるでしょうけど……そう大したこととは見なされなさそうですものね」


「そんなことないよ。AIアンドロイド開発研究科の教授も、ああいうロボットの開発のそもそもの根本は福祉的な社会貢献にあるって、市民講座とかで話してたことあるし。まあ、アレクサとかペッパーとか、今はまだあのレベル……なんて言っちゃあれだけど、老人福祉施設とかでもさ、もっと人間らしいアンドロイドが相手なら――ボケ防止のためのちゃんとした話相手くらいには、いずれなってくると思うしね」


「なんか、それもちょっと怖い気がしなくもないけど……」


「まあね。なんにしても、まだまだそこに到達するまでには、随分時間のほうがかかるだろうし……」


 今まで、自分の恋人がIQ180などと聞いても、あまりピンと来ていなかったリズだったが、この日、ロイが自分の得意分野に関して話すのを聞いている分には、そのことを実感したかもしれない。彼が3Dプリンタも持っているというので、どんな物を造れるのかを実演してもらったり――よく考えると少し風変わりなクリスマスといった気もしなかったが、最後、ロイは「忘れてた」と言って、リズに机の中に隠しておいたプレゼントを渡した。


「帰ってから開けて。今見られるとちょっと恥かしいからさ」


「えっとね、わたしのほうは正直、あんまり大したものじゃないんだけど……」


「ううん、オレにとっては大したものだよ。リズのプレゼントなら、ハンカチとか石鹸とか、なんでもないようなものでも、オレにとっては宝物だから、絶対」


「…………………」


 リズが帰ろうとした時、テッド・レズニックはすでに姿を消していた。その後、おそらくハリーのほうでは書斎で仕事の続きに取りかかることにし、アリシアのほうでは――暖炉脇のロッキングチェアを揺らしながら、編み物をしているところだったのである。


「今日はお招きありがとうございました」


「こちらこそ、ごめんなさいね。まあ、またうちに遊びに来た時に、運悪くテッドが同席する……なんていうことがあるかもしれないけど、気にしないでね。っていうかほんと、リズがロイと同じ工学部の学生でなくて良かったわ。『レズニック教授、ロイんちに来ては酔っ払って愚痴こぼすんだぜ』なんて噂が流れたら、あの人も自分が悪いのに良くは思わないでしょうからね」


「そんなの、テディはもう随分昔から知ってるよ」


 ――こうして、ロイとリズにとっての楽しかったクリスマスのひと時は終わった。ロイはリズが帰ったあと、彼女からのプレゼントの包みを開け、幸せな気持ちになった。それは、樅の樹のまわりをキラキラした雪の結晶が舞うといった感じのスノードームで、樅の樹の横にはサンタクロースの格好をしたクマの親子がいた。しかも、夜電気を消すと、不思議な藍色に光って見えるのだった。


 一方、リズはロイからのプレゼントの包装紙とリボンをほどいて驚いた。それはモーション・ピクチャーのフォトフレームで、以前、いつだったか一度――どこかの施設で「写真撮らせて」とロイに言われた時のものだった。また、その時動画のほうもその前後で録画していたのだろう。>>「リズ、写真撮らせて」、「いいけど……」(ここでパシャッ!とシャッター音が入り、フォトフレームに写真が収まる)そして最後、ロイが「ありがとう、大好き!」と言い、「急にどうしたの?」とリズが言っているところで終わるのだが……その一連の動きが、スイッチを押すとフォトフレームの中で何度も何度も繰り返されるという、そうしたプレゼントだったのである。


 とはいえ、嬉しい反面、リズにとっては複雑なところもあるクリスマスではあった。また、「テッド・レズニックが訪ねてさえ来なければ、欠点がひとつもない、素晴らしく最高なクリスマスだったのに!」とも、リズは思っていない。


 むしろ、その逆でさえあった。正直、リズはテッド・レズニックとは大学内のどこかですれ違ったような記憶さえまったく持ち合わせがなかったが、彼のように教授という立派な役職にある人が、ああしたネチネチした態度……というのは多少語弊があるにせよ、酔っていたとはいえ、だらしのない弱い人間としての側面を見せたことで――リズはロバート・フォスターとの間にあったことを、ロイに話す勇気が持てたのだ。


 実際のところ、起きたこと自体はそう大したことでなかったと、リズにしてもそう思ってはいる。強引に胸をつかまれたとか、スカートの中に手を入れられたというわけでもない。けれど、ロバート・フォスターが教授職を辞したあと、どこからともなく「エリザベス・パーカーが原因らしい」といったような噂が流れたのである。また、そこに<セクハラ>という文言がくっついてきたことから――「教授職をクビになるくらいだから、よほどのことがあったのだろう」……という、ここから先のことは人が持つ想像力の賜物としか言いようがないとリズは思っている。


 ある者は、「どこかの女学生がフォスター教授に強い憧れを持ったにも関わらず関係を断られ、それを逆恨みした」と思っており、また別の者は「フォスター教授が文学部の女学生をレイプしようとした(実際にレイプした・未遂で終わった)」と思っており……リズはもしかしたら、ロイがそちらの意見のほうを<本当のことである>として信じるかもしれないと思ったのである。


 けれど、リズは確かにロイに<すべて>は話さなかった――というのもまた事実だった。また、それが何故だったかといえば、ロバート・フォスター(元)教授のセクハラが、体に触ったりはされないまでも、かなりのところ奇妙かつアウトなものだったからである。


 今から約一年ほど前の10月下旬ころ、あるボランティア先の施設からリズが出てきたあと……その先にある交差点で一度だけクラクションがパァッ!と鳴った。それは白のメルセデスだったが、リズはそのクラクションが自分に対して発されたものとは思わず、無視して信号が青に変わるを待っていた。すると、運転席に座っていたフォスター教授が少しだけ窓を開け、「乗りなさい」と言ったのである。


 リズにしても一瞬迷ったが、信号が点滅し、このまま自分が乗らないと、車の進行の邪魔になると思い――瞬間的な判断で、助手席に乗ってしまったのである。この時、施設の前で別れた他のボランティア部員数人が、通りの向こうにいるのが見えた。これはあくまであとにして思えば、ということではあるが、このたった一度だけフォスター教授の車に乗ったところを見られたことが、もしかしたら例の噂の流れるきっかけを作ったのではないかと、リズは思わないでもない。


「あの……何か御用ですか?」


 車がどうも、左岸方向へ向かっていないように感じ、リズは暫くしておずおずとそう聞いた。助手席に座った途端、「君の住んでいる場所はわかっているよ」と言われた時も、若干微妙な気持ちにはなったが、何分、ユト大の文学部に在籍し続ける限り、最低でも四年はつきあいのある予定の教授である。よほどのことでもない限り、やんわりとかわし、お互い気詰まりな思いをしないのが肝要と思っていた。


「はははっ!御用ときましたか。君と出会った瞬間、私には感じるところがあったんだよ。彼女はおそらく非常に優秀な学生だろうとね。そしたら、他の学生のように付け焼刃でない、なかなか素晴らしいレポートを毎回提出してくる……私はね、そうした文学的素養のある女性が好きなんだよ」


「はあ……」


 リズは曖昧に返答した。文学部の教授は何もロバート・フォスターひとりではない。そこで学生たちは入学して一月目から、最低毎月十~二十冊は講義で取り上げられた文学作品、詩集、評論集など、多岐に渡って読み込むことになる。たとえば仮に『ジェイン・エア』であれば、著者であるシャーロット・ブロンテの生涯について書かれた主要な本や文学論集などは最低でも押さえておかないと――教授たちにとっては「私はこんなくだらん文章をいくつも読まねばならぬほど暇ではない」という、そうしたことになるのだろう。


「君はたぶん、アンダーソン教授とタイプが一緒だね。ヴァージニア・ウルフやブロンテ姉妹、ボーヴォワールなど、女性の文学について学ぶのが一番好きというタイプだ」


「確かに、そうですね。でも、教授の御専門のフランス文学も結構好きだと思います」


 この時、もしかしたら<好き>という言葉を口にしたのがあまりよくなかったのかもしれない。教授は一瞬こちらを振り向くと、少しの間意味ありげにリズのほうを見た。直線道路であり、スピードもまったく出ていなかったが、その時の熱を帯びた眼差し、若干紅潮した頬を見て――リズは(なんか、なるべく早く降りたほうがいいみたい)と判断していた。


 彼のような地位にある人間が飲酒運転しているとは考えられなかったが、この時リズは(教授はもしかして酔ってるんじゃないかしら)とも思っていたからである。


「あの……それとうち、こっちじゃないんですよ。ユト河には北から順に数えて、北ユトレイシア大橋、ダブルレインボー橋、第一水郷橋、ライラック大橋、ユージェニー橋……ってかかってますけど、うちに一番近いのはこのユージェニー橋か、少し遠回りになるけれど、次の南にあるムーンリバー橋のどちらかを渡っていただかないと……」


「心配しなくても大丈夫だよ。少し南下して、南ミモザ大橋あたりからリバーサイド通り沿いにまた北上すればいいだけの話じゃないか」


(その遠回りの理由がさっぱりわからないんですけど……)


 リズは疲れていたせいもあり、(なんかもう、どうでもいいや)とも思った。もし何かあっても、フォスター教授であれば、リズの力でもどうにか殴り飛ばせそうだし、いざとなったら窓を開けて大声で叫ぶ、隣からクラクションを鳴らしまくる、バッグの中のカラシ・スプレーをお見舞いする……などなど、逃げる方法はいくらでもあるに違いない。


「私の妻はね、本なぞさっぱり読まない手合いの女でね。読むといえばゴシップ誌と芸能人の暴露本とか、何かその手合いのものが多いんだ。だが、私はそんなことは特にどうとも思わなかったよ。むしろ、何かこう対等であろうとして、いつでも何かためになる本を読んでいる……そんな女のほうが面倒じゃないか。私は家庭では安らぎたい。というか、安らぎが欲しい。それに、結婚するに当たってあっちの女とこっちの女を見比べて、AよりBのほうが条件がいいから乗り換えようだのなんだの、そんなことでガタガタするのも面倒だと思った。だから、自分の人生で一番最初に私と「結婚するよう」仕向けてきた……いや、そのように強い圧力をかけてきた女と結婚することにしたんだ」


(ああ、そうなんですか)と言うのもおかしな気がして、リズは黙ったままでいた。ユト河沿いの道は、それが右岸であろうと左岸であろうと――建物の灯りがキラキラ輝いていて、とても綺麗だった。その景色だけをただじっと眺めやる。


「だが、結婚して二十年以上も経つと思うよね。やっぱり、私は最初の時点で何か失敗したんじゃないかと思うんだ。妻の趣味はスポーツで、夏は毎年真っ黒になるまでテニスをしてるよ。他に水泳やヨガやら何やら多趣味でね……あなたも本ばかり読んでないで、少しくらい運動したらって言われても、私はどこへも行く気はない。それでも、子供がまだ小さい頃は良かった。ほら、妻も自分のすべてのエネルギーが子育ての方向へ向いているし、私も子供のことでは多少はつきあって、アスレチッククラブやらなんやら、通ったよね。だが、子供がふたりとも大学へ進学して家からいなくなると……『わたし、なんのために生きてるのかしら』って、そんなこと、私に聞かれたってわかるわけないだろう」


「『空の巣症候群』とか、そういうことですか?あと、いわゆる夫婦のミドルエイジクライシスとか、そういう……」


 リズは教授の奥さんや子供の話が出たのでほっとした。たぶん、フォスター教授は少し疲れているのだ。アパートの近くで下ろしてもらったら、今車の中で聞いたことは忘れよう、リズはそうも思った。


 この時、フォスター教授は同意してもらえて嬉しかったのだろうか、しきりと何度も頷いている。


「そうだ、その通りだ。私はそのミドルエイジクライシスとかいうやつなんだ、たぶん。まったく、心理学者どもも、ぴったりのうまい文句を考えつくもんだよな。そこで私、妻にこう勧めたのだよ。『少し、カウンセリングにでも通ったらどうだい?』とか、その手の本を読んでみちゃどうかと、買い与えてもみた。ところがだね、カウンセリングについては『わたしの頭はおかしくない』と言って怒りだすし、本のほうについてはね、『なんでわたしがこんなもの読まなきゃならないのよ』ってな具合で、まるきり話が合わんのだよ」


「奥さま、もしかしたら更年期障害とか、そういう症状があるんじゃありませんか?それに女性は、旦那さんに……いえ、わたしは結婚してませんけど、なんにしてもパートナーの方に正論を説かれると反射的に怒ったりしますよね。でも、口ではそうは言っても、教授の目のないところでこっそりその本とか読んでるかもしれませんし……」


「ハッ!更年期障害ね。確かにそうかもしれんな……というより、アレは更年期になるずっと前、若い時分からやたら怒りっぽい女でな。いや、私はそれを欠点とは思ってないんだ。今は違うがね、怒ってもそれは瞬間的なもので、あとから考えて自分が悪いとなったらあやまってきたり、甘えたりなんだり……可愛いところもあった。だがもう、我々はセックスレスになって十年以上にもなる!」


 リズは再び黙り込んだ。(うわ……もうこの車、早く降りたい)としか、もはや思えない。おそらく、そのことを言うために長々、夫婦の問題やら何やら語ってきたのだろう。


「私が大学の教員になってから四年後に、私は妻と結婚した。その後、結婚を機に家を建てた。私はこの家の建設についても、犬のようになんでも妻の言うなりだった。でも、それで良かった。言い逆らうようなエネルギーもなかったし……生まれたばかりの子供も可愛かった。だがねえ、結婚は人生の墓場とはよく言ったもんだよね。子供たちはふたりとも、いつだって妻の味方なんだ。言ってみれば私は家の中では3:1の劣性的立場なんだね。彼らが何ひとつ生活に困らずたらふく食べられるのも、すべては私のお陰なのに……感謝の念というものを果たして、父親に持ったことがあるのかどうか。とにかくだね、家を建てて長女が生まれる前まで、私と妻はセックスしまくった。ベッドルームと言わず、リビングで、キッチンで、二階の子供たちのものになる予定の部屋で、廊下で――君も覚えておきたまえ。男にとっての結婚生活というのは、大体この頃が頂点だということを」


(はい、覚えておきます)とも言えず、リズはやはり黙っていた。アパートから遠くとも構わない。適当なところで『もうここでいいです』と言って降りるべきだと、そう思った。


「君は、男とつきあったことがあるかね?」


「ええと、まあ一応……」


「ヴァージンかね?」


 リズは思わずカッとした。そうであろうとなかろうと、フォスター教授に対し、答える義務はない。


「関係ないと思います、教授に。それに、行きすぎた質問だと、もしそう思わないのだとすれば、少しどうかしてるとご自分でもお思いになりませんか?」


「何人くらい、経験があるのかね」


 教授の中ではそもそも最初から、(ヴァージンではない)という決めつけが存在しているらしかった。この瞬間、リズは本当に腹が立った。今まで、「いいレポートだ」だの「よく書けている」だの言って褒めてくれたのは――そもそもこうしたことが目的だったのかと、そうとすら思えてくる。


「答える必要はないと思います。それに、そんなことを自分の大学の学生に質問するだなんて、ご自分の立場を危うくすることですよ。わかってらっしゃいます?」


 ここでフォスター教授は、大きな溜息を着いた。まるで、『君がそんなことを言うだなんて、本当に悲しい』とでもいうような、大仰な溜息だった。芝居がかってると言っていい。


「私にはね、若い頃からずっとあるひとつの夢があるんだ」


(ゆめ、ですか)とリズは思ったが、呆れるあまり喉からもう言葉が出てこない。


「今の若い女学生はフェラチオくらい知ってるよね、きっと。フェ・ラ・チ・オ。人生で一度だけでいいから経験してみたいと思ってる。というか、男はみんなそうだ。でも私の場合、妻にそんなことを頼めなくてね……」


 車のほうはまだ走行中だったが、リズはもう逃げようと思った。だが、車のドアを開けようとするものの、鍵が開かない。


「フフフ……身の危険でも感じたのかい?大丈夫だよ。無事、家のほうまで送ってあげようね……」


「わたしもよくわかりませんけど、そういうお店とか、あるんじゃないですかっ。そういうところにでも行けばいいじゃないですかっ」


「風俗にかい?どうなんだろうねえ。私も今の今まで、自分の身を慮って、そんなところへ行こうとすらしたことなくてね。いや、行きたい気持ちはあったんだがね、若い頃から……だが、今にして思えば自分の欲望に素直に従っておけば良かった。こんなしょぼくれた中年になる前にね……いやいや、誤解しないでくれたまえ。私は自分の夢を君に叶えてもらえるとは思ってない。ただ、太腿くらい、少し揉んでもらえたら、それでいいんだ……どう?やってみない?」


(だれがするかっ!!)


 そう思い、リズはバンバンドアを叩き続けた。ロックが何故解除できないのかわからなかったが、そのあととうとうサイドウィンドウが開いたのである。だがそれも、教授がすぐに閉めてしまった。


「太腿も駄目か……じゃあ、キスはどう?こんなおじさんとキスするなんてやかな?」


「すみませんけど、もうどっかそこらへんでいいです。とにかく、車から降ろしてくださいっ!!」


「そうだよね。こんなおじさんとなんて嫌か……ハハハ。そりゃそうだよな。じゃあ、指キスなんてどう?ほら、指と口の先でチュッてやつだよ」


 フォスター教授はそう言うと、自分の唇のまわりを人指し指で撫で――それからその人指し指の先をなめた。そしてそれを、リズの口許へ近づけてこようとする。


 リズが思うにこの時、自分はたぶん『この親父、マジか!?正気か、この野郎!?』といった、そんな顔をしていたのだろうと想像する。このあと、もう少し道を行ったところで――ようやく教授は車のロックを解除してくれた。リズはただ無言で降りた。その頃にはユト河沿いから道をかなり離れてきており……その真っ暗な野原がユトレイシア市内のどこかもリズにはわからなかったくらいである。


 だが、ユトレイシアの隣の市にあるアトナイ製紙工場の煙突が、夜空に白い煙を出しながら赤く明滅しているのを見て――随分遠くまで来てしまったことだけはわかった。このあと、タクシーを捕まえるまでにも時間がかかり、結局五十ドルもかけてようやくアパートまで戻ったという、そうしたわけだったのである。



   *  *  *  *  *  *  *


 この時のことを、リズは今でもただの「笑い話」と思っている。何故といえばこのあと、すぐミランダとコニーに連絡し、自分がロバート・フォスター教授から何を車の中で言われたかを、余さず話して大笑いしていたからである。


『でもあいつ、マジで馬鹿じゃないの!?そんなことしたら、もし大学側に訴えなかったとしても……学生同士で噂が回って笑い者になるとは思わなかったのかしらね』


『フェラチオ教授、それともプロフェッサー・フェラチオかなあ。わー、どっちにしても、マジでキモ~いっ!!』


 ミランダの言葉を受けて、コニーがそう言い、遠慮なく『ぎゃははっ!!』と大笑いしている。笑いすぎて、パソコンのズームの画面から、彼女は一度フレームアウトしていたくらいだった。


『それで、リズ。あんた、これからどーすんの?』


「どーするったって……まあ、べつに実害はなかったわけだし、わたしの中じゃあんな程度、セクハラにも入んないっていうか。っていうか、フォスター教授っていかにも小心そうじゃない。今回のことに懲りて、もうこんなバカなことはやめにするんじゃない?」


『そんなのわかんないよーお』と、コニー。背景のほうは、彼女の部屋のぬいぐるみがいくつも並んだプリンセスベッドだった。『リズが駄目だったから、今度は別の女学生……って感じで、そこらへんで捕まったりするんじゃない?でも、難しいよね。だって、教授がリズのレポートとか褒めてくれたっていうのも、嘘ってわけじゃないと思うの。だけど、今度のことで本来ならAのところをBにするとかさあ。いかにもありそうじゃない?で、そのことでリズが抗議したら、向こうは復讐として、『何を言ってるんだね、それが正当な評価というものだよ』みたいなマトモなこと言うわけよ。でもその実は、『君が私にフェラチオしなかったからじゃないか』っていう』


『うっわ!マジできもっ!!』と、ミランダ。彼女は画面の中でぞわついた自分の両腕を抱きしめている。『ねえ、やっぱりリズ、大学側に言っちゃいなさいよ。だって、相当気持ち悪いよ、あいつ。もし告発しなかったら、今度こそ新しい犠牲者がでるかもしれないよ。リズはさ、そこらへんのいなし方とかある程度わかってるにしても――うちの大学、勉強ばっかしてきた初心な子だってすごく多いんだから。「ヴァージンなのかね?」なんて聞かれて、素直に頷いちゃうようなタイプの子だっているわ。でね、あいつのどーでもいい奥さんとか家族の話聞かされて、『可哀想……』と思ったり、「太腿もんで」って言われて、太腿くらいならいっかと思ってそのくらいしてあげたりとか……あると思うわよ、おおいに。それで気がついたら不倫の関係にってやつ!』


『さっすが不倫経験者!』


 コニーが茶化すと、間髪入れずに『うるさいっ!』とミランダがやり返す。


『わたしの場合はねえ、そもそも相手が妻帯者だって知らなかったのよっ!そりゃわたしだって軽~く遊んでるぶってたのがよくなかったのかもしれないけど……とにかく、明日三人でアンダーソン教授に相談しにいこ。そしたら、上の人たちやなんかから最低でも注意くらいは受けるでしょ?あいつ、見るからに小心そうだし、そのあたりについてちょっと匂わせられただけでマジでビビりまくりなんじゃない?』


「そうよね。ソフトなセクハラじゃ相手に通用しないと思って、次はもっと初心そうな子を狙おうとか、ハードなセクハラに移行するかもしれないもんね。でね、ふたりに聞きたいんだけど……わたし、そういうセクハラに抵抗しないで聞き従いそうに見える?簡単にいえば、強く押せばヤラせてくれそうに見えるとか、そういうことだけど……」


『っていうか、むしろ逆じゃない?』と、コニー。彼女は指にマニキュアを塗りながら言った。『セクハラするにしても、よくリズのとこ行ったなって思うもん。普通もっと、いかにも遊んでそうなハデな子とか……ほら、うちだっていないわけじゃないんだよ。学費払うのにそういうところでこっそり働いてる子だっているし。あとは極端に大人しそうな、まかり間違ってもフェラチオなんて自分のお口から言えないタイプの子よお。狙い目って言ったらそのあたりって気がするんだけどな』


『わたしもそう思うわよ。たぶんね、あいつ……フォスター教授はアレよ。昔、タイプ的にリズみたいな子に振られたことがあって自分のルサンチマンを埋めたいとか、本当は今の奥さんじゃなくて、リズタイプの子に憧れ持ってたのに、間違って逆のタイプと結婚してしまった。あの時選択を間違えたから自分の人生は今云々とか、とにかくすべて自分・自分・自分よね。男はみんなそうよ。自分のエゴや性欲と結婚してろってのよ、まったく』


『ミランダちゃん、まだ若いのにゆめがな~いっ!!』


『そういうあんただって、ダニエルにしてあげてるんでしょうが。例のご奉仕を。わたし、フェラチオってキライっ!だって、精子ってまずいもん』


『そこをどうかするのが愛ってものじゃなーい?だってダニエル、「今日はや」って言うと、「俺を愛してないのか?」なんて言うんだもん。おフェラしてくれる子と、してくれない子だったら、やっぱり男はそういうことになるんじゃない?まあ、ダニエルの場合は「おまえがしてくれないなら俺には他にも以下略」問題っていうのがあるから仕方ないんだけどさあ』


「……わたし、時々あんたたちの友達である自分に、なんか妙に感動するわ」


 この翌日、結局リズはテス・アンダーソン教授にセクハラの相談に行った。ミランダやコニーが面白がって、横から「やだもー、そんなこと言われるなんて信じらんなーいっ!」とか、「わたしのまだヴァージンの心が傷ついちゃうっ!」だの茶々を入れたり、リズが先に教えていた指キスの物真似をしたりしたため――最初はアンダーソン教授も至極真面目に聞いていたのに、途中からは笑いを禁じえなかったようだ。


「なるほどなあ。よくわかった。上のほうには私から詳しく報告しておこう」


「えっと、上っていうと……」


 リズがそう聞くと、「詳しくってどのくらーい?」と、コニーが無邪気に質問を被せた。テスは愉快そうに笑った。もっとも、まったく同じ話を涙ながらに語られていたとしたら、彼女はぴくりとも笑いはしなかっただろうが。


「言うまでもなく、理事長だ。学部長に話すと、自分のほうからフォスター教授に注意しておこうレベルで終わるかもしれないのでな。君たちは『基本的には笑い話だと思ってる』と言ったが……私の基準では完璧にアウトな事案だよ。犬の奴はもう終わりだな。退職金としてドッグフード一粒もらうことはないだろう。なんにしても、よく言ってくれたと思う。一線を越えてそのくらいまでやってもお咎めなしとなったら、次は別の誰かに目をつけていたかもしれないからな」


 ――こうして、文学部の教授のひとり、ロバート・フォスターは自らその職を辞したわけだが、同僚たちからは『クビになった』と思われていた。というのも、被害を受けた女学生が「大事にしたくない」と申し出たため、新聞沙汰は避けられたとはいえ、「そうした不祥事があった」ことは内々に理事長の説教つきで通達されていたからである(短くつづめて言えば、「もしこの被害にあった女学生が有名人権活動家Pの娘だったらどうなっていたと思う」、「あるいは長者番付トップ40の某IT企業の娘だったら」という、そうしたことでもあったろう)。


 ゆえに、その後リズとしてはこう考えなくもなかった。自分が貧しい左岸育ちで、父親は怪しげな事件に巻き込まれて死亡(犯人はまだ捕まっていない)、母親は精神病院に入院中……そんな娘であれば、うまくどうにか出来るかもしれない、そしてうまく事に及べた暁には、それなりの金さえ渡しておけば、良心もごまかされる――といった選定によって、もしや自分はセクハラの被害に遭ったのではないかと。


 また、このことに思い至るとリズはやはり腹が立ったし(というのも、自分が奨学金で大学に通っていることも、フォスター教授は調べて知っていたに違いないからである)、今まで支払ったこともないような金額のタクシー代を払ったこともそうなら、残りもうひとつだけ、心の底からがっかりしたことがある。


 リズはもともと、ロバート・フォスター教授のことが好きだった。もっともその気持ちは、恋愛云々とは程遠いものではあったが、フランス文学に造詣の深い知性についても尊敬し、他の学生たちが「犬の講義マジで退屈じゃね?ワンワン!」などと揶揄していようとも、純粋に拝聴の価値のある面白いものだと感じていた。


 だから、まったくべつの意味で確かにショックではあったのである。左岸の貧しさの洗礼を受け、決して教養の高い、気品ある人々に囲まれて育ったとは言えないリズではあったが、ユト河を越えたその向こうの右岸では、夫が女房を殴る家庭内暴力件数も激減し、男たちか汚い言葉や物騒な脅し文句を言う回数も左岸よりずっと低いのだろうと、ずっとそう思っていた。ましてや国で一番の国立難関大学といったら――そこに勤める先生方はクリスチャンの標本とも言うべき高潔な精神性を持っているに違いないと信じていたのである。


 簡単にいえば、このリズが持っていた信頼を大人たちは裏切った、ということでもある。唯一、テス・アンダーソン教授だけは違ったが、ロシア文学が専門のナサニエル・アクトンなどは、「私のこともクビにしないでくれよ」と、冗談とも思えない口調で言ってきたし、『緋文字』の講義中、「うちの女学生にも同じように胸に緋文字をつけたほうがいいのがいるな」と当てこすりを言ってきた教員もいる。


 今では、リズにもよくわかっていた。左岸よりも右岸のほうが、道徳心の高い人間が多い……というのは、彼女の抱いていたただの幻想に過ぎないと。そして、左岸で犯罪が起きるたび「育ちが悪いから」、「貧しいから」、「教育がなってないから」と右岸の人々は論じはじめるわけだが、実はそうではないのだ。マトリョーシカをひとつずつ取っていって、最後にこれ以上は小さく出来ない、その根源のところに横たわる問題というのはまったく同質のものであること、リズは何よりそのことにがっかりしたのである。




 >>続く。






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