第6章
結局、童貞を卒業して間もないこの日、リズのことを考えすぎて頭がおかしくなりそうになり――彼は自分の妄想が『まさか童貞とは思わなかったわ。あ~、もう最悪っ!気持ちわるっ!!』と彼女に思われているのではないかというところまで上り詰めると……いてもたってもいられなくなり、女性関係のことで唯一相談できそうな友人、ギルバート・フォードに電話をかけていた。
『はははっ!べつにいいじゃねえか。なんにしてもヤラせてくれたんなら。しかも、コンドームの着け方まで教えてくれたって?そりゃいい女だ。仮に今後大学内でお互いのことを見かけても、一切口を聞かないみたいになったとしてもな』
「オレをおまえと一緒にするなよ。こっちはあくまで本気なんだ。本気で悩んでるんだからなっ!!」
電話をしたところ、『女のほうは追い払うから、これからうちに来いよ』などと言うので、ロイはギルバートの言葉通りにした。彼はユトレイシア中央駅近くに建つタワーマンションの一室に住んでおり、その暮らしぶりは大学生とは到底思えぬくらいのものである。
たとえば、ダークグリーンの高級な制服を着た屈強なドアマン、たとえば五つ星ホテルかと見紛うようなマンションのエントランス、床に敷かれた高級絨毯、ドアの向こうは大理石の廊下、透明なガラス張りのジャグジー付きバスルーム、200㎡ばかりもありそうな広いリビング、そこに配置された高級家具などなど……ギルバートの身分はあくまで一介の大学生、それもまだ一回生にしか過ぎない医大生である。だが、彼の父親、例のユトレイシア医学界におけるヘルニアの権威、テレンス・フォードが可愛い愛息子のために用意した場所なわけである。自分の望み通り医学の道へ進んだのみならず、自分が卒業した二流とは言わないが、せいぜいのところを言って1.5流の大学ではなく――国立難関第一位の大学医学部に息子が入学したことを祝し、買い与えたマンションの一室だったわけである。
「まあ、そこらへんに座れよ」
ギルバートはバスローブ姿で、ドン・ペリニヨンなんぞ飲んでいた。ロイはいまだに(こういう奴って、本当にいるんだなあ……)と、ソファに座っている友人をしげしげと見つめてしまう。
「なんだよ?童貞卒業したって割に、なんだか浮かない顔だな。俺はな、こう見えてもおまえやテディには感心してんだぜ。ほら、ロイがあのアバズレに失恋したって時も、俺がすぐヤラせてくれるような女紹介してやるって言ったのに……『初めての時は大切にしたい』とか、『本当に好きな子と』だの、ヴァージンの女みたいなこと言ってたろ、おまえ。いやあ、実に興味があるねえ。それで結局ロイが童貞捧げたのがどんな女かっていう、そんなことがさ」
「まあ、その……ずっと、オレの片想いだったんだ。彼女、ボランティア部に所属してて、色々親切に教えてくれたりして……」
「ふむふむ。それで、手取り足取り腰取り、コンドームの着け方まで御指導くださったわけだな」
ギルバートは親切心から、ドンぺリを新しいグラスに注いでくれたが、ロイのほうでは首を振った。すると彼はかわりに、冷蔵庫からコカコーラを持ってきてくれる。
「それとも、コーヒーとか紅茶とか、あったかい飲み物のほうがいいか?」
「いいよ。気にしないでくれ。でさ、彼女の部屋で朝起きてみたところまでは良かったと思うんだ。ベッドの中で、オレのほうでは『ずっと好きだった』だの言って、彼女のほうでも『嬉しい』とか言ってくれて……でも、自分は今日忙しいからとっとと出てってくれっていうオーラが出てて、それでオレ――本当はきのう、自分でもなんかわかんないうちに粗相をしてしまったんじゃないかとか、色々考えちゃって……」
ロイは顔が真っ赤だった。そんな彼のことをからかうように、ギルバートのほうではコカコーラの赤い缶を、ロイの頬に当てる。
「ふうん。俺様にはどう聞いても一種のノロケとしか思えんがね。朝起きたら女が不機嫌だったなんて、よくある話だろ?ゆうべのアレコレが不服とかなんとかいうのは関係なく――朝起きた途端に、彼女は彼女にとってのスケジュールに追われるわけだ。それで、『邪魔だからあんたとりあえず出てって!』なんて言われても、俺なら『へいへい』と思うくらいなもんで、気にしないけどな」
「そうかな?オレ、たぶん……彼女、オレが初めてとは思ってなかった気がするんだ。だからもしかしたらアテが外れたみたいに思ったんじゃないかと思ったりもして……」
「ふうん。でも、次に会う約束なんかはしたんだろ?」
「う、うん。っていうか、その前の会話の流れで、クリスマス・ディナーには招待してて……その、だからオレの予定としてはこんなに早く彼女とベッドをともに出来るとは思ってなくて。もちろん、ラッキーだったとは思うよ。だけど、もしかしたらもう少し待ってたほうが良かったのかなと思ったり……」
ここでギルバートは体をのけぞらせて大笑いした。カチン、とバカラのグラスをテーブルに戻す。
「バカだなあ、おまえ。そんなこと、本気で思ってるわけじゃないだろう?ずっと片想いしてて、結局一度もヤラせてもらえず終わるより――むしろ展開がスピーディて良かったじゃねえか。だーら、そんなにくよくよする必要なんか一切ねえの。『そっちがその気なら、もう一回くらい抱いてやってもいいけど?』くらいな態度で堂々としてろって。あとはアレだ。キミじゃなくてもべつにオレ、他にもガールフレンドならいるんだよね~みたいに軽く匂わせておくとか」
「でっ、出来ないよ、そんなことっ。どっちかっていうと、彼女のほうがそういう感じなんだ。べつにオレじゃなくても、たぶん相手なんかいくらでもいる。だから、不思議なんだ。きのう、部屋に招待してくれた時も……100%絶対って言ってもいいくらい、彼女にそういうつもりはなかったと思うし、なんで急にそういうふうになったんだろうなっていうのも、なんかすごく不思議で……」
「ふう~ん。ま、俺にはなんとなくわからなくもないがね。ほら、ロイって見た目もそこそこ悪くないし、手玉に取れそうな坊ちゃんタイプって感じで、女にはなんか安心感あるんだろ。で、IQ180とか、高校生企業家みたいな感じで新聞に載ったこともあるし……こりゃ将来有望株かも。ちょっと手をつけておこうかな~みたいにさ、そんなふう思ったりするんじゃねえの」
「違うよっ。彼女はそういう……ジニーみたいなタイプじゃないんだ。ほら、リズはボランティア部に所属してて、お年寄りとか障害者の人と接したりするのがうまいんだ。優しい人なんだよ、ほんと。でもきのう……なんで彼女がそんなにボランティア活動なんかに熱心なのかとか、色々わかったりもして。うん、とにかく彼女は本物なんだ。ギルはさ、ボランティアが趣味なんて聞いただけで、「おえっ!」となって、そんな女とはつきあいたいどころか、知り合いにさえなりたくないっていう感じだろうけど……」
「まあなあ~。ロイがもしそのリズって子と寝たって聞かずに、ボランティアを一生懸命頑張ってるいじましい子……とだけ聞いてたら、絶対なんかウラがあるに違いないって疑ってただろうな。けど、もうそれはいいさ。なんにしてもとりあえず、ロイに一回ヤラせてくれた女ってことなら、大抵のことは大目に見てもいい。ま、これからうまくやれよ。最終的に大学卒業前に別れるとか、そんな感じだったとしても――大学生の恋愛ごっこなんてのは、大抵がそんなもんだろうしな」
ここでロイは大仰な溜息を着いた。今更ながら、相談相手を間違えたような気がしてきた。とはいえ、テディもアレンも、今の自分の悩みを話したところで、効果的なアドバイスをしてくれるとは思えない。
「むしろギルのほうが異常なんだって、おまえ自分でわかってる?そりゃあさ、こんなタワマンに住んでて、高級車乗り回してたら、女の子なんていくらでも群がってくるんだろうけど……」
「バーカ!俺は学内の女には、よっぽどのことでもなけりゃ手なんか出さないのっ!なんでかわかるか?いくら避妊に気をつけてても、『生理が来ないの』、『妊娠したかもしれない』だの、さらにはそれが高じての自殺騒ぎだの――この先の俺の名医としての歴史にしょっぱなから傷なんかつけられてたまるかって。第一なあ、うちの学内の男どもでユト大の女学生と恋愛したいなんて思ってる奴、そんなにいないぜ?頭がいいせいかどうか、男と対等であろうとして張り合ったり、こっちを言い負かそうとしてきたりだの……面倒な女のほうが多いからな。そこいくと、他大学の女子はいーぞおっ!ユト大の学生って聞いただけで、目の色がすっかり変わっちまうんだ。将来はエリートってイメージが強いのかどうか知らんが、合コンなんてしようもんなら、その日のうちにお持ち帰り出来る率は極めて高いし」
「そりゃおまえの場合はね……」
ロイは今度は呆れたような溜息を着く。生まれつき容貌もよく家が金持ちで、スポーツも出来る上成績もいい――そんな人間が、本当にいるものなのだ。しかもギルバートの場合、遊んでいるように見えて勉強のほうはきっちりしている。親からのプレッシャーということもあったろうが、『愛情はなくても忠誠は尽くすさ。何分そのくらいの金は今まで十分もらってきたわけだから』という理由によって……彼はこのことを『親子の契約を果たす』という言い方によってよく表現している。
「俺の場合は一体なんだよ?ふふん、こんな嫌なやつ、確かにちょっといないくらいだもんな。まあ、ロイ、おまえも……」
ここで、ギルバートはリモコンによって、緩やかなコの字型のソファを右や左に動かしたのち、最後にウィーンと一回転させた。それから同じようにリモコンを操作して、窓にかかったカーテンやブラインドなどを全部上まで上げる。そして、流石に陽射しが眩しすぎたため、それを再び下ろしたり、レースの高級カーテンだけをかけた状態に戻した。
「この部屋を貸して欲しかったらいつでも言ってくれ。俺は一週間とか十日……まあ、譲りに譲って半月とか一か月くらいなら――ホテル暮らししてもいいからさ。俺はこんな部屋のどこが女どもの気を惹くのかはよくわからん。けどまあ、ここ連れてくると『キャーッ!ここがあなたのお住まいなのお!?』ってな具合で、大抵態度のほうが180度変わっちまうんだ。だから、なんか特別な日にでもそのリズって子を連れてきてみろよ。もちろん、ベッドメイクその他、部屋の中は家政婦に掃除させておくからさ」
「だから言ったろ?彼女はそういうタイプの子じゃないんだって……」
(ギルに恋愛相談するのはもうよそう)
ロイはそう諦めると、今度はギルバートの医学部における学生たちの雰囲気や講義のことなどを聞いた。というより、頭がいいのは間違いないのだが(彼はユト国内でナンバーワンと目される伝統校、フェザーライル・パブリックスクールの出である)、将来医者になるには倫理・道徳的に問題ある人格なのは間違いないとしか思えない。
「だからさ、そういうおカタいタイプの子でも、ここから夜はユトレイシア市街の美しい夜景を眺めたりすりゃ、もう一発だってという話を俺はしてんだよ。うーん、講義のほうか?まあ、退屈だよ。医学部なんつっても、一年のうちはまだ一般教養と基礎医学の授業が半々って感じで、実習みたいのが出てくるのは二年以降だからな。ただ、動物の解剖とか、そういう授業はこれから出てくるらしくて……俺、今も時々思うんだ。俺の親父がヘルニア専門の医者じゃなくて、獣医でさ、動物病院継ぐのに獣医学コースを選べてたらどんなに良かったかって」
「そういえばギル、動物大好きだもんな」
ロイはここでようやく、コカコーラの缶をぷしゅっ!と開ける。
「そうそう!だから絶対トラウマになると今から思ってんだ……先輩から聞いた話だとなんか、犬の脳を解剖したりとか色々、相当エグいことをやらされるらしい」
心底ゾッとするというように、ギルバートは我が身をクッションと一緒に抱きしめている。そんな様子のギルバートのことを見て、ロイは少しばかりほっとした。彼は自分で自分のことを『出世するタイプ』と時々言うことがあるように――医学部でもそれなりにうまくやっているのだろうと、そう思った。
「つかさー、この間うちの泌尿器科の准教授の講義受けたんだけど、ロイおまえさ、突然血尿が出たりしてビビッても、うちの大学病院の泌尿器科だけは来ないほうがいいぜ」
「なんでさ?」
「なんか『コイツ、マジで大学病院の医者かよ?』みたいな手合いの奴なんだよ。目なんかちょっとどっかイッちゃってんだよな。いや、俺は斜視の人に対して何か悪く言ってるわけじゃないぞっ。ただアイツ、『女性と男性の尿道の長さの違いとは一体なんでありましょうかっ。それはペニスの長さなのでありますっ』とかなんとか、とにかくそんな話口調でずっと講義するんだもんよ。講義が終わった途端、みんなで集まって大爆笑さ。『このままいったらあのDr.チェンさまが教授におなりになるんだろ?』、『そうかー、泌尿器科の専門医になりたかったら、あいつにゴマすりまくらなきゃならんのかー』なんて、みんなそんな話ばっかしてたっけ」
このあと、ギルバートのほうではテディの様子や工学部での講義のことなどを聞いた。そして、テディの名前が出ると、ふたりとも過去のことに遡り、色々な話題に花を咲かせた。ギルバートは中学からすでに寄宿学校のほうで過ごしてはいたが、夏休みやホリディシーズンなど、休暇のたびに戻ってきてはしょっちゅう三人で会うという間柄だったからである。
ロイにしてもテディにしても、ギルバート・フォードという少年と出会って友達になったのは、小学二年生頃のことである。彼は当時から実に羽振りがよく、ほとんど毎日のように同級生にハンバーガーやジュースなどを奢ってくれたものだった。家には面白いテレビゲームが種類を揃えており、誰かがソフトを盗んで売り飛ばしても――何も言わないような器の大きさも、その年齢にしてすでに持ち合わせていたのである。
成績もよく、スポーツも出来て女子にもモテる……ロイは小さい頃吃音があり、時々からかわれることがあったのだが、優等生のギルが庇ってくれたことから――知りあった最初の頃はただひたすら盲目に彼のことを崇拝していたものである。ただひとりテディだけが、「なんかあいつ、好きじゃないっ」と言ったりしていたが、ロイはそのような事情からギルバートの悪口については聞く耳を持たなかった。
けれどある時、いつも通りゲームセンターで遊び、ハンバーガーを奢ってもらった時のことだった。みんなが口々に「ギル、サンキューな!」と言って去っていったあと、彼はぽつりとこう言ったことがある。「友情ですら、金で買える」と……。
何故なのかはわからないが、ロイはその瞬間、財布から自分の分のハンバーガー代をだすと、彼に向かって投げつけていた。それから怒鳴った。「オレはもうおまえとは友達じゃないっ!」と。そのことがどうやらギルバートには相当「こたえた」ようで、以来ギルは誰彼なしに奢ったりすることはなくなり、ロイとテディとだけ、何故か特別親しくするようになったのだ。
ギルバートは今も時々、「ロイとテディは俺の良心の最後の砦みたいなもんだ」と言うことがあるが、それがどういう意味なのか、テディもロイも正確なところはわからない。けれど、ギルバートと長く友達づきあいするうち――彼には彼にとっての家庭の問題、あるいは父親の医者という稼業を継がねばならないというプレッシャーなど、ギルバートにはギルバートにとっての深刻な悩みがあるらしいことがふたりにもわかってきた。
ギルバートはひとりっ子で、ゆえに親の期待値が極めて高かったというのは、ある程度理解できなくもないだろう。とはいえ、『父親は俺のことを愛してなんかいないし、俺のほうでもあいつのことなんか、これっぽっちも愛しちゃいない』と彼が憎々しげに口にする時……テディなどはただ率直に『じゃあなんで、お父さんの期待に応えてお医者さんなんかなろうとすんのさ』と聞いたものである。
『そりゃ決まってんだろ。小さい時から欲しいものはなんでも買い与えられ、衣食住においても贅沢すぎるくらいたっぷり与えられてきた。だから俺には親父にそうした種類の恩義がある』
『変なのー。ぼくらからしてみたら、ギルバートには将来絶対ノーベル賞をとるんだとかさ、自分のなりたい将来の目標が特にないから、とりあえず親父さんの言うとおりにしてんのかな、なんて思うけど』
『まあ、そういう側面も確かにあるけどな』
だが、ロイとテディが当初想像していた以上に、フォード家はややこしい家庭だった。「ふたりとも、本当にどこも整形してないのだろうか?」というくらいの美男美女だったが、その関係は冷え切っており、母親のほうは何不自由ない生活を約束されていながら、ギルバートが小さな頃から浮気の疑われる節が非常に濃厚であったという。そしてギルバートはといえば……この母親から「本当の意味での」愛情など一度も感じたことはない、そう言うのである。
「俺ってさ、すげえと思わねえ?」
ふたりですっ裸になり、ジャグジー風呂に浸かっていた時、過去話の何かで大爆笑したあと――不意にギルバートがそう言った。
「だってそうだろー?普通、あんな四角四面な親父と遊んでばかりのおふくろに育てられたら……いや、実質的に俺のことを育てたのは家政婦のダイアナだけどな。ちゃんと愛してやれない代償に、金だけたくさん与えられみたいな養育法でも、国で一番の大学に受かって、それが親父念願の医学部なんだぜ?もうほんと、親孝行はこの時点ですでに終わったと俺が思うのも当然だろ?」
「確かにな。ギルは……あの名門のフェザーライルに入学して無事卒業したって時点で、もう親孝行は終わったんじゃないか?ただ、実際に医者になって自分で金稼いで独立できるまでってなると……」
「そーなんだよ、そーなんだよ!!そこがなんとも悩ましいところでな、実際なんかの専門医になってその看板を掲げてもいいってなるまでに、あと軽く9年はかかんだぜっ。そん時俺、一体いくつだよ。まあ、開業については親父が喜んでいくらでもなんでもしてくれるに違いないとはいえ……その頃結婚して、ガキ作って、親父に孫抱かせて恩返しして――でも俺、親父とは違って、自分の子供には医者になれとは言えない気がするんだよなー。でも親父がそういうふうに誘導してきたらどうすべ……なんて思っちまったりな」
「そんなの、随分先の話じゃないか。っていうか、ギルでもちゃんとそういうこと考えてるのな。親父さんの病院継ぐ頃にはしかるべき女性と結婚して……なんて、オレはてっきりギルは生涯遊び人のままでいるのかとばかり思ってたけど」
「そうさ!実際のとこ、それが理想だよ」
ギルバートはジャグジーの流れに逆らうようにして、そのあたりに背を向け、暫くの間耐えた。なんでも、東洋医術によれば、こうするとツボとやらが刺激されて体にいいらしい。
「けど、いつまでもっていうのは流石に無理だ。だからせいぜい今のうち適度に遊んでおいて、学業のほうも頑張って、せめても自分が興味の持てる外科の専門医になって……心から愛する女性と、俺が育ったのとは違う温かい家庭とやらを築くんだ」
「おまえ、それ本気で言ってんの?」
ロイは遠慮なく笑った。近くの棚にあるドンペリのグラスを手にして、それを飲む。酒でも飲まない限り、到底聞いてられない与太話だ、とでもいうように。
「わかってるよ!テディなんか、俺がこの話すると、腹を抱えて大笑いしやがんだ。もちろんさ、こんな女にだらしない奴がひとりの女を幸せにできるとか、俺もあんまし考えられない。一時的にその女に夢中になったところで、結婚したあと絶対浮気しちまいそうだなあ、俺……としか、今の時点ですでに思ってない。でも、医者になるってのはつまりはそーいうこった。『あの名医フォード先生の息子さん』の元に患者さんがやって来てくださるってことは、どこに出しても恥かしくないよーな女と結婚してて、子供がふたりくらいいて、フォトフレームに幸せそうに収まってるってな具合のな。つまりはそこが俺にとっての人生の着地点、あとはそこから真っ直ぐ墓場に進むってなコースなわけだよ」
「普段スーパーポジティヴなギルさまらしくもない、なんとも悲観的な物言いだな」
手にしたシャンパングラスをギルに横から奪われたため、ロイは一度風呂から上がると、自分の分のシャンパンをグラスに注いだ。
「はーあ。そりゃ、悲観的にもなるさ。俺の小さい頃から、親父とおふくろの間に愛情なんてものがないのは明らかだった。でも、部屋中のあっちこっちに、結婚した時の幸せそうな写真だの、新婚旅行先で撮った写真だの、俺が小さかった頃のそれだのがベッタベッタ貼ってあるんだぜ?たとえば俺が学校でなんかがうまくいかなくて、問題起こして例のフェザーライルを放校処分になったとするわな。しかも、普段滅多なことでは叱ったこともない親父が不機嫌にでもなってみろよ……俺、あの自分が生まれ育った豪邸に火でもつけて燃しちゃってたかもなって、今でもたまーに思うくらいなんだからさ。で、警察に捕まったあと、自分が小さい頃から感じてきたことを洗いざらいぶちまけちまうわけだ。『あんな欺瞞的な家庭、もう我慢できなかったんですう』とかなんとか、さめざめ泣きながらな」
「大丈夫だよ。ギルは結局のところ絶対うまくやるって。そうだなあ……結婚したあと浮気したとしても、そっちは完璧に体だけの遊びって感じで、俺にとって大切なのは君と息子と娘だけだとか言って、お嫁さんのほうでもひろーい心で受け止めてくれるとかさ。絶対おまえ、そこらへんについてもうまくやりそうなタイプだもん」
「はははっ!まさか聖人君子のロイ・ノーラン・ルイスさまから、浮気容認発言がでようとはな。だっておまえ、昔から言ってたじゃん。自分は結婚したら絶対浮気はしないと思う……なんていう寝言をさ。しかも、なるべく早く自分にとって運命と思える女性と結婚して、落ち着いた環境で研究だけに没頭したいとかなんとか」
(そんなこと言ったことあったっけ)と思い、酒ばかりのためでなく、ロイは顔を赤くした。
「うん。ギルは笑うだろうけど、それが俺の人生の夢なんだ。俺は『この人!』と思ったら、よそ見はせずに、その人とだけ一緒にいたい。まあ、これに近いこと口にするたんびに、確かおまえは笑ってたよな。「実際に女を知ったらそうはいかないぞ~」とかなんとかさ。でもやっぱり俺は変わらないよ。リズがオレを選んでくれるなら……そういう暮らしを彼女としたいんだ」
「くそっ!この幸せものめっ!!」
このあとギルバートは、「これでもか!」というくらい、隣のロイに水を浴びせかけてやった。もちろんロイのほでも「くらえっ!」とばかりやり返してやる。
「やれやれ。これじゃ俺たちまるで、裸ではしゃいでるホモみたいじゃねえか!」
ギルバートはそう言って大笑いし、ロイのほうでも笑った。結局この日、ロイはこの金持ちの親友の部屋へ泊まり――風呂から上がったあとは、一緒にゲームをしたり、映画を見たりした――翌日の月曜日は、お互い単位を取らねばならぬ講義があるため、朝の八時にはマンション地下にある駐車場のほうへ向かった。
だがこの時、ロイはギルバートのフェラーリに乗ったことを後悔した。何故といって、ラッシュの渋滞に引っかかってしまい、これなら地下鉄で大学のほうへ向かっていたほうが……遥かに早く到着していたろうからである。
ユトランド共和国で一般運転免許が取得できるのは16歳からとなっており、ゆえに、大学のほうにも自動車で通学する生徒というのはまったくいないわけではない。だが、朝などは特にラッシュに引っかかるといった事情もある上、近くに駐車場を借りねばならぬ事情からも――そうしたタイプの学生というのは大抵が、ギルバートのような家が金持ちの学生ばかりである。
けれどこの、危うく第一講目に遅れそうになった日、ギルバートが医大付属病院の職員駐車場に平気で駐車するのを見て、ロイは驚いた。何故といって、ロイは兄が医師としてここへ勤務している関係上、職員駐車場は許可を取得した関係者のみ使用できるだけでなく、駐車できる場所もきっちり決められていると知っていたからだ。
「ギル、駄目だよ。ここの56ってナンバーの入ってるとこ、ちゃんと許可を取ってる職員しか使えないってことになってるんだ。うちの大学の駐車場を管理してるおっちゃんたち、そこらへんすごくうるさくて、バレたら絶対そのこと、書類にして上のほうに連絡するんだよ」
「上って、ようするに事務局のほうにか?そいつは知らなかったな……が、まあロイ、おまえは心配する必要ねえよ。なんでってここ、うちの整形外科の看護師が使ってる駐車場だもん。彼女、今日は非番なんだ。で、自分が使わない日は使っていいって言われててさ」
「……ギル、おまえはまだ一年坊主のくせに何やってんだ。自分のキャリアに傷がつかないためにも、学内の女性には手を出さないんじゃなかったのか?」
「しょうがないだろー?たまたまバーで知りあったら、そういうことになったあとで、実はユト大付属病院の看護師だってわかっちまったんだから……」
ギルはバックでオレンジの枠内にぴったりフェラーリを停めると、「これでよし!」と言って、外に出た。走ればどうにかギリギリ間に合うだろう。
「あ、あとさ!今日もし時間あったら教育棟Aの一階にある第三会議室に来いよ。三時からセックスについての討論会があんだ。俺、そんなのさっぱり興味なんかねえんだけど(理論よりも実践だ!)、先輩たちに『おまえの力が是非とも必要だ』とか泣きつかれて、引っ張り込まれちまったのな。簡単にいえば男の学生vs女の学生のどっちが勝つか負けるか、これで今後のユト大内での男女の状況が変わるというくらいの……いや、とにかく来い!童貞卒業したってんなら、ロイも絶対参加したほうがいい討論会だ」
「セックスの討論会ねえ」
ふたりは走りながらそんな話をしていたわけだが、ギルは最後、「幸運を祈る!」と言ってロイの背中を叩き、病院に隣接した医学部の建物のほうへ入っていった。ギルが「幸運を祈る」と言ったのは、ここから工学部の建物までは結構距離があるからで――講義に遅刻しないよう「幸運を祈る」といったような意味である。
この時、ギルバートは大学の正門から入って車道を脇に逸れ、医大職員専用の駐車場へ入っていったのだが、運転席と助手席に座る彼らの姿に注目した女学生がいたことに、一切気づかなかった。大学正門前は交差点になっているのだが、運悪く赤信号に引っかかってしまい――ギルバートが最高潮に不機嫌になり、「ファック!」などと叫びつつ、車のハンドルあたりを叩いていた時のことである。
「何よ、あいつ!!ムカつくーっ!!まだ大学一年生の分際でフェラーリなんて乗っちゃってるわけえっ!?」
ミランダが目線で示した赤のフェラーリのことは、いくら車の車種に疎いリズでもすぐにわかった。運転席ではモデルか俳優かといった風貌の青年が不機嫌な顔をしており――そして次の瞬間、リズはその場に足を止めていた。
「どうしたのよ、リズ。あたしたちも急がなくちゃ一講目の講義、遅れちゃうわよっ!!」
「う、うん。ミランダ、あんたあの生意気フェラーリ野郎のことなんて何か知ってるわけ?」
リズがもちろん気になったのは、フェラーリ野郎のほうではない。助手席に座ってハンバーガーを食べ――親指についたソースを最後に一なめしていたロイのほうである。
「知ってるも何も……っていうかリズ、あんた人の話聞いてたっ!?あのギルバート・フォードとかいう一年坊主がね、今日あるセックス討論会の我々女学生が倒すべき敵なのよっ!ほら、うちの大学ってガラの悪い不良タイプの学生ってほとんどいないじゃない?そのせいもあって、男どもも偏った思考の軟弱野郎が多い……とまでは言わないけど、でも大体あたしの言いたいことわかるでしょ!?だから、すっかり油断してたのよね。っていうより、これ以上男子学生たちをいじめちゃ可哀想かしらってくらい、余裕ぶっかましてたんだけど――あいつが来てからなのよっ。話の流れのほうがすっかり変わっちゃって、むしろこっちが追い詰められ気味になってきたのはっ!!」
「う、うん。聞いてる、聞いてる。ちゃんとわかってるから落ち着いて?ね、ミランダ……」
ミランダ・ダルトンは父親がイタリア系、そして母親がスペイン系だからだろうか。性格が情熱的というのか、時々それがさらに高じて激情家になることがままあるのだった。
「何よっ!あんたもコニーもあたしのこと時々、荒馬を静めるみたいな対応で落ち着かせようとすることあるわよねっ。まったく、あの子もあの子よ。電話で3時間同じことばっか繰り返ししゃべくるもんだから、埒が明かないと思ってあの子の家まで会いにいったら、そのあともさんざん同じことしかしゃべんないわけ。まあ、そのほとんどがダニエルのことなんだけどね。『自分のことが面倒くさくなったら、ダニエルには他にもつきあえる女の子がいくらでもいる』とかなんとか、毎度の例のやつよ。あ~もう、女の友情なんかうんざりっ!リズ、あんたはあんたで、あたしずっと電話待ってたのに、ボランティア部の可愛い男の子とよろしくやってたですってえっ!?もうっ、信じらんないっ!!」
「ミ、ミランダ!声が大きいってば……」
こうして、やはり隣のミランダを荒馬を静めるように扱うリズだったわけだが……実は、大学正門前の交差点で生意気フェラーリ野郎を見かける前までしていた彼女の話というのが、今日の午後三時からある『フェミニスト・クラブ』のことだった。顧問のほうはテス・アンダーソン教授が務めており、大体週に一度か二度、学生同士で男女の性や同性愛のことについてなど、意見の交換会をしているのである。
何分、『フェミニスト・クラブ』という名前から、女学生はともかくとして、男子学生は『フェミニスト』と聞いただけで、誰も近寄らないのではないかと思われるのだが、この討論会の様子がIDパスを持つ学生のみがアクセスできる学内動画で、異様な視聴率の伸びを見せたことから――だんだんにテス・アンダーソン教授率いる『フェミニスト・クラブ』の討論会のほうは有名になっていったのである。
九月となり、新入生が多数加わったこともあり、最初は恋愛についての討論からはじまったのだが、やはり動画を通して有名になるにつれ、男子学生の数も増えてきたせいだろう。かなり明け透けなセックスに関してのやりとりも増えてきた。このあたり、アンダーソン教授の手綱さばきは「流石」としか言いようのないものだったが、フェザーライル校時代、ギルバートがフェンシング部で一緒だった先輩が彼をこの討論会へ呼んでからというもの……教授をして全体の討論の流れをコントロールするのが難しくなりはじめていたのである。
そして先週の水曜日には――ギルバートは真面目かつ、冷静な顔のまま、こんなことを言ったわけであった。
『男性と女性では、性の周期が違うという、アンダーソン教授のご意見はもっともと思います。また、個人によって性差があるので、いつでもどちらかの性の嗜好にばかり合わせることは出来ない……またこの場合、当の男性が気づいているかどうかは別として、女性のほうが男性の早く回ってくる性の周期に合わせる、また性的嗜好についても男性側に合わせていることのほうが多いだろうというもっともな意見。僕も、まったくそのとおりと思います。ただ……』
このあとギルは、(こんなことを言うのは、僕も気が進まない)といったような溜息を着いてから続けた。彼の周囲にいる男子学生の支援者は全員が全員、(この役者めっ!)と心の中で思っていたに違いない。
『僕の知る実話として、こんな話があります。彼はまだ二十代後半の青年なのですが、腎臓に病気を持っていて非常に疲れやすい体質なわけです。そんな中で一生懸命働き、結婚したばかりの妻を養っていました。奥さんのほうではパート勤務で働いて家計を助けているといったところなんですが、彼女、週に最低でも二回は夫にセックスして欲しいって言ったそうです。まあ、新婚だったらわかりますよね?ところがこの男性、病気のせいもあって週に二回はキツイ、週に一回じゃどうだ、おまえ……と奥さんに言ったわけですが、実際は仕事で疲れて帰ってくると寝てしまい、二週に一度とか、三週に一回とか、そんな感じだったところ、ある時奥さんが浮気してしまいました。おそらく、旦那さんのセックスに質・量ともに不満だったのでしょう。そこで僕が昔からわからないのが――この討論会の前々回あたりでありましたよね?男のほうでは、女性がしたくない時にはマスターベーションで我慢すればいいのに、どうしてあんなにがっついてくるのか、みたいなことだったと思うのですが。こののちに離婚した夫婦のケースでは逆なんですよ。そこで僕は思うわけです。女性のほうではそういう時、男性にしてもらわなくても、自分ですることで我慢できないのかどうか、ということを……」
ギルバートがマイクを置いて発言を終えると、彼をこの討論会に招いた先輩たちは、それぞれ左右から「よくぞ言った、ギル!」とか、「よくやった。最高だ、おまえ!」と、彼の肩や背中を叩いていた。ギルバートはギルバートで、(これでさらに反論できたとすれば、大したものだ)とばかり、涼しい顔をしたまま、周囲の仲間たちと幾度となく握手を交わしている。
教育棟Aの第三会議室はこの時、水を打ったようにシーンとなった。最初は男子学生と女子学生で分かれて討論していたわけではないのだが、いつしか会場は男vs女といった雰囲気となり、それぞれの陣営にひとつずつマイクが置かれ、交互に言い合うという形になっていたのである。そしてこの場合、次に発言すべきは女学生のうち誰か……ということであっただろうが、誰もマイクの前に立とうとする者がなかったのである。
そこで、テス・アンダーソン教授は「今日はこのくらいにしておこう、みんな!」と呼びかけることになった。「すでに討論をはじめて三時間近くになる。次は月曜日の三時から、女性陣が今度は男性陣側の疑問を受けて答えるところからはじめよう!それでは解散!!」
――というわけで、今日がその続きの月曜日というわけなのだった。大学のほうは今週の水曜あたりからホリディシーズン前ということでほぼ休講状態となる。だが、ここで議論を年明けまで待たせたとすれば、女の沽券に関わる……とテス・アンダーソン教授が考えたかどうかまではわからない。とにかくこの回の動画は、大学内の学生全員が見ているのではないかというくらいの視聴回数を数え、こんな中で何か発言することは、ほとんど全大学内に向けて語るに等しいという中……この日、教育棟Aの第三会議室は外にまで人が溢れるほど学生が見学に来ていた。
この第三会議室のほうは、ゆうに二百名以上の学生を収容できるスペースがあったが、階段式の座席のほうは学生でぎゅう詰めとなり、後ろに立っている学生もいれば、廊下からこちらの様子を窺う立ち見客のような学生までいたほどだったのである(さらには、この廊下にはスマートフォン片手にこの討論会のライブ中継まで見ている者もいた)。
こうした中、先週の議論の続きをするにあたり、女性陣側のマイクの前に立ったのが――誰あろう、文学部二年のエリザベス・パーカーだったのである。リズはミランダから以前よりこの討論会に誘われてはいた。けれど、あまり興味がなかったので、「また今度ね」とか「今日はボランティアがあるから……」といったように、断り続けていたわけである。ところが、「妊娠したかもしれない」ということで泣き喚く、ほとんどヒステリー患者かノイローゼ患者のようなコニーを押しつけたのみならず、その間新しいボーイフレンドとよろしくやっていたということで――今回はその誘いを断りきれなかったというわけだった。
そして、この『フェミニスト・クラブ』の部長でもある、三年のジュディ・コールリッチは、危機感に駆られ、次に我々女性陣としてはどう相手を言い負かしてやるかと相談を重ねていたわけだが……リズが先週の水曜の動画を見ると、「簡単じゃない、こんなの」とのたもうたため、ミランダが「リズ、あんたマジっ!?」と鼻息を荒くしてコールリッチ部長に親友を推薦したのであった。
けれどまさか――こんな恋愛討論会に、先週初めて寝たばかりの後輩が出席しているとは思わず、リズとしてはこれから自分が語る内容云々ではなく、(こんなくだらないことでわたしたち、別れることになるのかしら……)と、内心溜息を着いていたわけである。
実際のところ、ギルバートの真後ろの席に<招待>されていたロイも(彼もまたこの直前、ギルから「見とけ!」と言われて、先週あった討論会の動画を見ていた)、まさかこんな場所にリズが登場するとはまったく思ってなかっただけに――マイクの前に一番最初に立った彼女の姿を見るなり、目を見開き驚いていた。
「新顔だな」と、ギルの右隣に座る理学部三年、アーサー・クロフォードが小声で言う。
「さあて、お手並み拝見といくか」と、ギルの左隣の医学部二年、ジミー・ハワード。
ギルバートはといえば、余裕しゃくしゃくたる様子で、これから自分の美声を轟かすのに備え、レモン味のミネラルウォーターを飲んでいる。
さて、テス・アンダーソン教授の到着と同時、教授が「先週の水曜の決着をつけようじゃないか、みんな!」と話しはじめると、その場にいたほとんど全員から喝采が上がった。「もうすぐ大学のほうは休講になる。ゆえに、この討論会の続きは来学期から……ということになってしまうからな。出来れば今日はキリのいいところ、理想を言うなら男女ともに納得できるような答えが導かれるようにと私も願っている。では、今回は女性陣からはじめるんだったな?」
アンダーソン教授にそう促され、リズはマイクスタンドのマイクを手に取った。「がんばってね!」とか、「何があっても応援してる」とか、「流れが悪くなったら、必ず援護射撃するから!」などなど、周囲の女学生たちが囁くような声で次々と告げる。
「初めまして、文学部二年のリズ・パーカーです。この討論会は飛び込みオーケーということでしたので、先週の討論会の動画を見て、今回この発言の場をいただきました。で、ですね……簡単に話をまとめたとすれば、先週の討論会の終わりあたりというのは、たとえば、女性のほうがセックスに対する欲求が強くて、男性のほうが弱かった場合――女性が週二回はセックスしたいというのを、男性のほうでは週一回じゃどうだね、おまえ……といった場合、その残り一回の欲求のほうをオナニーすることによって女性は我慢できないのかどうか――という主旨で間違いなかったでしょうか?」
リズが「オナニー」という言葉を口にすると、会場が一気にざわついた。アーサーは「なかなかやるな、あの女」と舌打ちし、ジミーのほうでは「くそっ!この時点でもう惚れそうだ」などと呟いている。
もちろん、自分の前の座席の彼らを見て、心中穏やかでないのはロイである。(彼女はオレの恋人だぞっ!)と、ジミー・ハワードに言ってやりたくて仕方ないが、ここはとにかく黙って事態を静観する以外にない。
「そうですね。極めて短くつづめて言ったとすればそういうことでしょうね」
ギルバートはいつも通り冷静にそう返していた。彼は女性側がどのように切り込んでこようとも、そのすべてをはね返せる力が自分にはあると、信じて疑いもしなかった。
「これは、ネットの投稿サイトに書き込まれてたいた、男性の発言なのですが……元の発言がどこから取られたものかを知りたければ、あとでURLをお教えします。とにかく、ここでと同じく男女の性について、ざっくばらんに匿名で語るといったような主旨のサイトに、こう書き込まれていたのを見かけました。『男は自分の性的欲求はマスターベーションで晴らすことが出来るし、ある程度のことはそれでどうにかなる。でも、女性の欲求不満は男がいない限りどうにも出来なくて大変だろう』……この意見について、男性は『まったくそのとおりだ』と、納得しますか?」
「…………………」
リズのこの言葉は、ギルをして返答に悩むところだった。アーサーは「気をつけろ、罠だっ!」と右から囁き、ジミーはといえば「いい女だなあ」などと、まったく関係のないことをひとり呟いている。
だが、ギルが(とりあえず何か言わねばならない)と判断し、マイクをスタンドから取った時のことだった。女性陣の側から静かに――けれど、最後にはもう我慢できないというくらいの大声で、一気に大爆笑が起こったのである。「そいつ、女についてなんて絶対何もわかってないわ」とか、「そんなネットに投稿してる暗い奴なんて、童貞に決まってるわよ」だのと、あちこちから嘲笑する声さえ聞こえてくる。
「『どうにも出来なくて大変』ということはないんじゃないですか?」と、ギルバートにしては珍しく、彼は控え目な声音で言った。少し、自信がなさそうな様子でさえある。「それに、これは俺の意見ということではなくて、そうですね……アンダーソン教授ならこうおっしゃりそうだ。男がマスターベーションでおさまっていられるなら、この世界には強姦も性犯罪も、もっとずっと少なくなっているはずだ、と」
「それに、女の場合は色々道具を使って自分を慰めるっていう方法だってあるだろう」
ロイは自分の斜め後ろからそのような野次を聞き、さらには「そーだ、そーだ!!」という周囲の同調の声に、げんなりした。いや、もし自分の愛する女性が、こんな益になりそうもない討論の矢面に立っているというのでなかったら――もう少し面白がれた部分もあったかもしれないのだが。
ロイはさっきからずっと、リズがまるで存在していない幽霊のように、自分のほうを見ていないと気づいていた。だが、ギルバートのほうには視線を据えていることから、自分の存在に気づいてないはずがないのはわかっている。ただ、ロイはこの時……いや、この時も、というべきだろうか?リズが一体何をどう思ってこの場に立っているのか、いくら考えてみてもさっぱりわからなかったのである。
「だから男は馬鹿なのよっ!」とか、「あんたたちは絶対アダルトビデオの見すぎだっつのっ!」といったように女性陣側からも野次が飛び――この時リズもまたやはり、くすくす笑っていた。
(いちいち神経に障る女だ……)と、ギルはそう思い、内心でチッと舌打ちする。
「わたしは何も――いえ、これもわたし個人の意見であって、この場にいる女性全体の意見を代表するものではありませんが、わたし自身は男性は男性で大変なんだろうなと思っています。アンダーソン教授がよくおっしゃるように、確かに男性と女性では性周期が違いますし、さらにはそれには個人差といったものまで存在します。ようするに、女性に生理が存在するように、男性は男性でそのように遺伝子的に組み込まれているわけですから……まあ、わたしがもし女性という性を持たず、男性であったとすれば、することは大体同じでしょう。親に隠れてこっそりエッチなサイトについて検索したりとか、その手の本を読んでみたりとか。わたし個人の意見としては、男性というのはそんなふうに遺伝子に操られなくてはいけないわけですし、そこをいちいち理性で抑えるのも難しいらしい……くらいのことは理解します。ただ、自分たちの性がそういうものだから、女性も大体同じような性欲だろうと想像するの間違いです。たとえば、女性の中にも性欲の強い女性が存在するのは確かにしても、男性が「きのう寝た女は淫乱だった」というように表現する時、大抵はその人自身の願望や性欲を口にしている場合のほうが多いでしょうね。女性のほうでは愛している人の願っているとおりにしたいとか、そういう部分のほうが大きいのに――自分の性欲の反映に対して<淫乱>などと口にするから喧嘩になるんですよ」
アーサーとジミーはギルバートを飛び越えて、互いにサインを送りあった。それはすべて目と手ぶりによる会話でしかなかったが、彼らはつまり、こう言っていたわけである。『こりゃもうダメだ』、『俺たちがギルを発掘したように、向こうも似たような人材を見つけたらしい』……といったように。
彼らの予定としては今回の討論で、『それで、女性の側では一体週に何回くらいマスターベーションなさったりするのでしょうか?』といったように、その路線で攻めようと思っていたのに、会場全体の雰囲気がすでにそちらへ向いていないというのは――彼らの目には明らかだったからである。
「そうですね。女性だってエッチなサイトを見たり、エロ本くらい読むでしょう……なんて言うのも揚げ足を取るようで幼稚だし、多少悔しい部分はありますが、どうやらここは紳士らしく引いたほうが利口なようだ――ということくらいは、俺にもわかります。それに、ここのところ俺ばかりしゃべりすぎたような気もしますしね。どうですか?誰か、俺の代わりに男性側の意見を代弁しようという勇気のある人はいませんか?」
ギルバートが自分の後ろを振り返ってそう問いかけても、誰からもなんの返答もなかった。誰もがみな、口を閉ざすか、あるいは首を左右に振っているかのいずれかだった。それでこの時、ギルバートが「では……」と言いかけた時のことだった。一体何を思ったのか、ロイがギルバートの肩に手をかけ、(マイク貸して)というように合図したのである。
(変なことしゃべんじゃねえぞっ!)と、ギルは目に呪いにも近い念力をこめつつ、ロイにマイクを手渡していた。(これは全学内放送みたいなもんなんだからなっ!)と。
「え~と、工学部一年のロイ・ノーラン・ルイスです。今日、この討論会に参加するのは初めてなんですが、とても有益な議論について聞かせていただき、ありがとうございました。それで、どんなことでも自由に発言していいということでしたので、ひとつ、オレも女性に聞きたいことがあります。オレもそうですが、このユトレイシア大学に入学するまで……ほとんど脇目もふらずに勉強してきたといった学生は多いと思います。恋愛とかそういうのは、無事念願の大学に合格してから考えようっていうわけですね。ところが、勉強ばっかりしてきたので、正直オレなどはやはり、女性が何をどう考えているものなのか、さっぱりわかりません。それで、オレ今好きな人がいるんですけど……女性から見た場合、そういう感じの童貞って気持ち悪いですか?」
「べつに、いいんじゃないでしょうか」
リズは、それまでロイの視線を避けてきたが、この時ははっきり彼のほうを見て答えていた。彼女には、ロイの気持ちが十分通じていた。同じように恥をかき、泥をかぶってもいいという、その優しい同情の気持ちが……。
「他の女性には、そういう人もいます。男の人はそういう方面に関して経験があって、上手な人のほうがいいとか……でも、わたしはそういう純粋な人のほうが好きです」
隣でミランダが「馬鹿っ!あんた一体何言ってんのよ」と、小声で叱ってくるものの――それより遥かに大きな、マイクを通しての声が、このあと会場全体に響き渡った。
「ばっ、バッカじゃねえのか、ロイっ、おまえはっ!!全学内に向かって『自分は童貞です。オレとヤッてくれる彼女募集中』みたいな発言しやがって。第一おまえ、先週その好きな子とやらと結ばれて童貞は卒業したんだろ!?それで俺に言ったよな?その子と結婚したいだのなんだの、どろ甘いノロケ聞かせやがったくせして……」
「ギル、やめろってばっ!これ、全学内の学生が見る可能性あるんだぞっ。結婚なんて聞いたら、彼女がどん引きするだろうがっ」
ロイのほうの言葉はマイクを通したものではなかったが、周囲の人間には十分聞き取れるものだった。そこで、男性陣側からまずドッと大爆笑が起こり、まるでその笑いが波及するように、女性陣側のほうも笑いだしていた。こののち、テス・アンダーソン教授が場を締めて、「じゃあ、今日は珍しく短かったが、このあたりにしておこうか」と呼びかけた。「どうやら、冬学期からは仕切り直したほうがよさそうだな。私としては脳科学から見た男女の恋愛論の違いについての続きからはじめたいんだが……まあ、そのあたりについてはあらためて部員全員で話しあうとしよう」
集まっていた学生たちは、まるで潮が引いていくように、すぐに第三会議室から出、さらには教育棟Aの建物からも去っていった。「もっと盛り上がると思ってたのに、なんかつまんなかったねー」とつぶやく学生もいれば、「最後のとこだけ面白かった。童貞どうこうってところ」とか、「結局、どういうことなのか結論は出てないんじゃね?」などなど、意見や感想は色々あったようである。
この日、もちろんリズはこのあとすぐロイと話して抱きあいたかった。また、それはロイにしても同じで、自分たちの気持ちが十分すぎるほど通じあっているということを、互いに確かめあいたくて仕方なかったわけだが……リズはジュディ・コールリッチやミランダといった<フェミニスト・クラブ>の面々に「よくやってくれたわ!」とか、「リズ、あなた最高よ!!」、「ほんと、ほーんと。男なんてどうしようもない馬鹿ばっかりなんだから!」といったように囲まれはじめ――秋学期の討論会が女性陣の勝利で終わったことを祝いあう場へ、自然連れ込まれることになっていたのである。
一方、アーサーとジミー、それにギルバートといった男性陣首脳らに、こちらも自然と一緒に来るよう巻き込まれたロイもまた、リズとの教育棟Aを出てからの再会を阻まれた。そのようなわけで、ロイは最後、多数の女性たちに英雄扱いされ、どこかへいくリズの後ろ姿を見送ったというだけで……あとは、大学の正門を出た通りにある中華料理店『ハイハイ上海』にて、酒を片手に文句を言いあう彼らの愚痴を聞かされるという羽目になったのだった。
「ちっくしょー!!あともう少しだったのによおっ」
店員の持ってきた焼酎をぐっと飲み、アーサーが悔しそうにごちる。ロイの見たところ、彼はおそらくギルレベルの金持ちに違いなかった。二十数名もの男子学生がぞろぞろついてきたにも関わらず、「みんな、今日は奢ってやるからなんでも好きのもの頼めっ!!」などと、入店時に通達していたからである。
「俺も思うけど、あれは一体どう切り返しておくのが正解だったんですかね……?」
軽く落ち込み気味のギルを、隣のジミーが背中をばんばん叩いて慰める。彼は垂れ目気味なせいか、いかにも人が好さそうな顔をして見える。なんでも将来は、親の病院を継いで内科医になる予定だそうだ。
「ギル、おまえが落ち込む必要はないって!いやいや、実際おまえは俺たちが期待した以上によくやってくれたよ。ありゃあ単に、相手が悪かっただけの話さ」
「そうっスよねー」と、後ろの座席から別の学生が割り込んでくる。「僕、リズ・パーカーと同じ文学部なんですよ。リズがまだ一年の時、ロバート・フォスターって教授が、彼女になんかセクハラを働いたとかで……たぶん、レイプ寸前とか、それともレイプされちまったのか、あるいは本当につきあってて深い仲だったのかはわからないんだけど――とにかく、それが原因でフォスター教授は即刻クビになったって話。リズ・パーカーのほうでは大事にしたくなかったらしくて、新聞沙汰とか、そういうところまでは行かなかったってことなんですけど、今にしてみたら彼女、相当やり手だったんだななんて思いますね」
「やり手って?」
どういう意味だ、というように、すでに目が据わっているアーサーが聞く。どうやら彼は威勢よく飲みはじめたものの、アルコールには弱いらしい。
「ようするに、まだ一年にして教授を手玉に取っちまったっていう話ですよ。そういう噂が流れると、どうしても『成績でAを取るのに教授に迫ったんじゃないか』だの、おかしなことを言う奴が出てくるもんですけど……案外、そういうところもあったんじゃないですか?」
「確かになあ」と、隣の学生がさらに同意する。「ほら、うちの大学ってそこらへんかなりのとこケッペキじゃないですか。先生たちと学生の恋愛はご法度的な……なんでかっていうと、国で一番の大学の教授と学生のレンアイなんていうのは、あんまり聞こえがよくないですからね。他大学じゃ、『コンラッド大学のなんとか教授の愛人を八年やってました』なんていう美女が週刊誌のピンナップを飾ってても、「まあ、大人同士なんだし」的判断だったりする。でも、そこらへんユト大は上の判断が厳しいらしいってのは有名ですもんね」
ちなみに、ラファエル・コンラッド大学というのは、私立大としては大体ユト国内にて第2位くらい……といったように判断されている名門大学である。
――このあとも、「だが、俺たちは決して女どもに負けたわけじゃないっ!!」とか、「必ずあの生意気な口を聞いた女どものうち、誰かをモノにして、メロメロにして手ひどく振ってやるんだあっ!!」、「女なんか、女なんか、女なんか……クッソー!!今年のクリスマスもひとりだぞうっ!!」などなど、男どもの悲しい告白大会の様相を呈してきた宴会は、美味しい中華料理とともに続いた。
だが、ロイは最初に繰り出された、リズと同じ文学部だという青年の告白のせいで――がっかりと落ち込んだところからスタートし、さして飲んだというわけでもないのに途中で気持ち悪くなり、退座することになっていた。酒に強いギルは、時折ロイの様子を心配しつつ、男子学生たちのノリに合わせて気焔を上げたりしていたわけだが……ロイはその予定でいたにも関わらず、ギルに真実を告げることも出来ず(「実はあのリズ・パーカーって子が、オレの好きな子なんだ」)、タクシーで帰宅してからは悪酔いしたせいもあり、自分の部屋でとことん落ち込むということになった。
(そりゃあ、『そこの引きだしにコンドームあるから使って』って言われた時から……ここに来るのはオレだけじゃないっていうか、前にもいたんだろうなとは思ったけど、まさかその相手がロバート・フォスター教授とはね……)
もちろん、文学部の学生がした、ちょっとした噂話の可能性もあると、ロイにもわかってはいた。けれど、ロイにとってショックだったのは、リズが教授と不倫していたかもしれないという事実のみならず――この、仲間内ではボブと呼ばれていた教授のことを知っていたということだった。
ロイの父親は今もユトレイシア大の物理学科で教授をしている。無論、最初から教授だったわけではなく、今よりずっと若かった頃はユトレイシア大近くの教職員専用の住宅に住んでいた。ロイの父親のハリーは時々、自分の大学内のことを指し「我がユト大村では」という言い方をするのだが、この教職員専用の住宅を使用していた教員夫婦や家族などは仲がよく――それは文学部であれ理学部であれ、科の垣根を越えて親しい人間関係を築いていたわけである。
もっとも、ロイが生まれる前からすでに、今の屋敷にルイス夫妻は引っ越してきてはいたが、この職員専用の住宅に場所が近いせいもあり、そうした交流というのはその後も続いた。だからロイは今も時々、廊下ですれ違った教授の誰かしらに……「君が赤ん坊の頃オムツをかえてあげたことあるの、覚えてるかい?」などと言われたりするのだが、フォスター夫妻はそうした中の両親が親しくしていた友人だったのである。
旦那さんのロバートは教授の職を追われ、夫妻は離婚したらしい――みたいなことは、ロイもその時期確か、父や母がしていた会話の中にあったのを、一応覚えてはいる。このフォスター夫妻と親しくしていたのは両親であって、ロイ自身にとっては「うちにたまに遊びにくるおじさんとおばさん」くらいな感覚だった。とはいえ、ロバートのほうは釣りが趣味、奥さんのほうはテニスが趣味くらいのことは知っていたし、恐妻家で、奥さんの尻に敷かれているといったような夫婦関係だったようだ……ということも記憶に残っている。
そして、このフォスター夫妻はロバートの離職後、離婚したということで、その後は彼らのうちどちらも、ルイス家の敷居を跨いではいない。
(リズが原因で、あの人たちは離婚したっていうのか?なんだっけ……今も覚えてる。母さんがフォスター夫人と話しながら料理を作ったり、クッキーを焼いたりしながら、彼女が夫の愚痴を言ったりしてたとか、そういうことだけど……)
『毎月、きちんきちんとお給料をくれるっていう以外では、なんの取り柄もないつまんない人よ』とか、『釣りしてくるのはいいけど、なんでわたしに料理させるわけ?ハラワタ抜いたりなんだり、結構面倒くさいってのに……じゃなかったら、キャッチ&リリースで釣りだけ楽しんで逃がしてこいってのよ』といった、日常生活の些細な、つまらない愚痴だったようにロイは記憶していたが。
(そうだよな。べつにリズが悪いってわけじゃないのかもしれない。それに、実はリズじゃなくてフォスター教授がつきあってたのは、別の学生だったって可能性もあるわけだし……)
ちなみに、リズがフォスター教授にレイプされたかレイプされそうになったという可能性については、ロイはあまり本気にしていなかった。というのもこのロバート・フォスター、気の弱い犬のような顔をした中年であり、物腰のほうにも押しの強さのようなものは微塵もなく、女性がちょっと抵抗しただけで――むしろフォスター教授のほうが慌てふためいて失神しそうなくらいだ……といったような風貌の教授だったのである。
ゆえに、ロイはあの文学部の青年がリズを「やり手」と評した気持ちがわからなくもないのだ。エリザベス・パーカーが本当はどんな人間かを知らなかったとすれば、ロイにしても同じように判断したかもしれない。「あの気のいいフォスター教授を色気によってうまく丸めこもうとしたのではないか」といったように……。
「あらやだ。なあにロイ?電気もつけないで……」
ノックののち、母親のアリシアが入ってきて、ベッドにいるロイの元までやって来た。「先輩からお酒と食事を奢ってもらったんだけど……途中で気持ち悪くなって帰ってきたんだ」と、帰宅するなり、ロイは自分の部屋へ閉じこもっていたからである。
「具合が悪くなったって、大丈夫なの?ほら、ちゃんとあっためて寝ないと、風邪ひいちゃうわよ。母さん、今湯たんぽ持ってきてあげるわ」
「いいよ、湯たんぽなんて……」
普段から過保護な母親が、自分の額に手を置いてきたため――ロイはその手を振り払い、起き上がろうとした。身体的には自分は元気だということを示そうとしたのだが、ロイは次の瞬間「うっ」と吐き気がこみあげて来て、急いでトイレのほうへ向かった。
「うげえっ」と喉の奥からこみ上げてきたものを吐くと、それはビールを飲みながら食べていた餡かけ焼きそばだった。リズの話がショックだったせいで、もしかしたらあまり噛んでなかったのかもしれない。それはほとんど原型を留めた状態でトイレの便器を漂っている。
「やれやれ。なんてこった……」
ザーッと勢いよく青い水の中に消えゆく焼きそばを、実は息子の背後から母はしっかり見ていた。背中をさすってやろうとしたら、すぐにすっかり吐き終わってしまったのである。
「なあに、今の?ねえロイ、あんた一体何食べてきたのよ?まさかとは思うけど、先輩たちから無理にお酒飲まされたり、早食いを強要されたわけじゃないでしょうね?そもそもあんた、お酒弱いんだから……」
「違うよ。そんなんじゃないって……」
バスルームでうがいし、タオルで口許を拭うと、今度は小用を足したくなり、ロイは母親のことをそこから追いだした。部屋のほうへ戻ってみると、アリシアが洗濯して畳んだものをクローゼットにしまっているところだった。
「ねえ、母さん。前まで時々うちにきてた、フォスターさんのことだけど……」
「フォスターさん?もしかして、ボブとジェシカのこと?」
ロイはコーヒーサーバーにコーヒーが残っていたので――それを再び保温であたため直して飲むことにする。
「うん、そう。なんで全然来なくなっちゃったのかなあと思って……」
「そうねえ。ボブは教授の職を辞してから、ジェシカと別れたのよ。もともと、ボブは家にこもって本を読んだり書きものをするのが好きってタイプで、ジェシカはスポーツが大好きなアクティヴ女子だったでしょ?若い頃は、正反対の性格だったから惹かれあったのかしらねえ……なんて、みんなは話したりしたんだけど、ジェシカの話じゃ性格の不一致が離婚理由だったってことだったわ」
ここで、アリシアは過去を懐かしむように、一度溜息を着いて続けた。
「わたし、ジェシカのこと好きだったのよ。さっぱりした性格の人だったしね……ボブとは同じ文学部卒で、小説のことやなんかで話もあったし。離婚したって聞いたあとも『気にしないで、うちに遊びにきて』とは言ったのよ。だけどジェシカ、『わたしたちはもう負け組みたいなもんよ』なんて言うんですもの。悲しかったわ。ようするにね、大学内のレースで勝ち抜いて、教授にまでなったのは良かったけど、今じゃみんなわたしやボブのことを嘲笑ってるに違いないとかって……とにかく、生活水準も変わってしまったし、お情けで仲間に入れてもらっても嬉しくもなんともないって。こんな寂しいことってないわよ」
「…………………」
ロイが温まったコーヒーをカップに入れると、アリシアが「わたしにもちょうだい」と言うので、ロイは残ったのをあげた。
「それ、オレが飲んだ使いかけのやつだよ。新しいカップ使えば?」
「いいのよ。家族ですもの」
そのあと、アリシアは「なんで急にそんなこと聞いたの?」と言うでもなく、今度は会話の矛先を変えた。
「父さんはね、ロイが大学で勉強ばっかりしてるんじゃなくて、友達と酒も飲むようなつきあいがちゃんとあるなんて、むしろ安心だ……なんて言ってたけど、本当に大丈夫なの?工学部のテッドが言ってたところによると、ロイ、なんか手抜きしてるんじゃないか、なんて。もっとがんばればAを取れるところを、一体どうしたんだなんて言うんですもの」
テッド・レズニックは、工学部の教授のひとりである。こういう時、昔からの知り合いというのか、両親の友が大学の教員というのは、たまに面倒でもあるのだ。しかも、他の学生からは「特別扱いされてるんじゃないか」、「贔屓されてる」といった誤解まで受けてしまう。
「うん……まあちょっとね、色々あるんだ。今学期はボランティア活動もがんばってたっていうのもあるし」
「そうね。母さん、何もロイのこと責めてるってわけじゃないのよ。ただ、テッドの言い方がちょっと含みのある嫌味な感じのものだったから、ちょっと気になって……」
「ああ、そうだ、母さん」
今度は、ロイのほうが話の矛先を変えた。テッド・レズニックのことはロイは昔から「好きなおじさんのひとり」だった。ただ、彼は昔恋愛関係で色々あったらしく、ロイの母親には冷たい態度を取るのである。
「ほら、前から時々話してたボランティア部の部長、彼女のこと、クリスマス・ディナーに招待したんだけど、いい?」
「ええっ!?そりゃまあ、いいけど……結局今年も、ロジャーもロドニーもロナルドもクリスマスは帰れないなんて言うんですものね。まったくもう、男の子なんてつまらないったら。ひとり、女の子がいたらねえ。そしたら女同士のことやなんか、色々楽しくしゃべれたのに……」
アリシアはコーヒーを飲み終わると、ブツブツそんなことをつぶやきながら部屋を出ていった。実をいうと、ロイが気にしていたのは次のようなことだった。アリシアが友人だったジェシカから『リズ・パーカーっていう女学生がレイプされそうになったって訴えたらしいんだけど、そんなの絶対嘘よっ。あの人のいいボブがそんなこと出来るわけないっ』みたいに泣き叫ぶのを慰めた……といったようなことがあり、結局はそれが離婚理由であり、フォスター夫妻は残念なことに二度とうちへやって来なくなった――と、母アリシアが信じ込んでいた場合、その当のエリザベス・パーカーを我が家へ招待することなどはもってのほか、ということになるだろうという。
(でもたぶん、あの母さんの話と様子から見て、大丈夫じゃないかと思うんだよな……)
この時、例の餡かけ焼きそばを吐いて、何かの憑きものでも取れたかのように――ロイは突然にして気分がスッキリしていた。と、同時に脳内でもその瞬間からポジティヴ・スイッチが押されたらしく、物事の良い側面を見ることが出来るようになっていた。
(そうだよな。リズがボブおじさんが教授職をクビになった理由の人物とは限らないんだ。それに、もし仮にそうであったにせよ、彼女には何か深い理由があったとか、とにかくそういうことだったんじゃないか?……)
リズの部屋に招待してもらい、夢のような時を過ごしたのも束の間、翌朝には邪魔者のように追いだされ……童貞男がキモかったのだろうかと悩んだことも、今ではただの杞憂とわかっており――ロイは今日、教育棟Aの第三会議室でリズと目と目が合った瞬間のことを思いだし、鳥肌が立ちそうなほどだった。
『べつに、いいんじゃないでしょうか……わたしは、そういう純粋な人のほうが好きです』
その瞬間、ロイとリズの間では、まるで一瞬にして彼ら以外その空間には誰もいないかのような――特殊な共有感覚がお互いの間を貫いたのである。次に会った時、ロイはリズの瞳に『君もあれを感じた?』といったように問いかけ、彼女のほうでは『やっぱりあなたもそうだったのね』と肯定してくれるに違いないと信じていた。
そうなのである。結局のところ、噂は噂にすぎない。ロイはそれよりも、ベッドの中でリズと話したことや、その時の彼女の声の調子や仕種や……あるいは今日目と目が合った瞬間の、生まれて初めて感じるような強い感覚のほうを信じることにした。これはもしかしたら、科学至上主義のロイにとっては、珍しい判断であったといえたかもしれない。
そしてこのあと、ロイは彼の高校時代、ユトレイシア・チャートで第1位に輝き、流行った曲――彼自身は『「恋はジェットコースター」だって?バカじゃないのか、この女』とずっと思っていたある女性アーティストの歌をダウンロードして聴いた。
♪恋はまるでジェットコースター
きのうはHighだったかと思えば
きょうはLow……
なんてハイブローで刺激的なの
ねえ、ダーリン!
「はははっ!ほんとにそのとおりだ……オレ、なんでこの曲、高校時代は嫌いだったのかな」
ロイはそんなふうに思って笑った。教育棟Aの第三会議室で起きた奇跡のような一瞬のあと――今度自分は『ハイハイ上海』という中華料理店にて、再び天国から地獄へ墜とされることになったのだ。
(でもきっとまた、リズとなら天国へ昇れるに決まってる……)
能天気にそんなことを考えながら、ロイはテッド・レズニック教授に提出するレポートの続きに取り掛かることにした。母が嫌味を言われない程度のものに仕上げなくてはならないと、少しばかり気合を入れながら……。
>>続く。