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第3章

「リズ、これ、ボランティア部の新しい入部希望者よ」


 インフォメーションセンターの受付で、エリザベス・パーカーは一枚の入部に関係した書類を受け取った。学部や連絡先、入部動機、他に小さな顔写真の入った薄っぺらなものではあるのだが。


 ボランティア部には特に部室らしきものはなく、ミーティングのほうは学生共用会館の空いている部屋、あるいはここのインフォメーションセンターの会議室を好意で使わせてもらっているのだ。


「彼、たぶんあなた目当てなんじゃない?」


 よくここのロビーを待ち合わせに使わせてもらっているため、事務員の女性や、大学ボランティアの案内係の女性らとは、リズは時々世間話や身の上話をするといった仲である。そして、今そう言ったのは実は、例の傘云々に関してロイが顔を真っ赤にして色々説明した事務員の女性で、名前をメアリー・ヨークと言った。


「まさか。全然知らない子だし、第一1年生ってことは、まだ入学して間もないってことでしょ?学部も違うってことは、会っててもどっかですれ違ったって程度じゃない?」


「まあ、そういうことにしておきましょうか」


 メアリーはくすくす意味ありげに笑った。どうやらこの様子だとまだ彼は傘の返却もしてないのだろうと思われたからである。


 リズのほうではメアリーの言葉をそう深刻に受けとめるでもなく、さっさと会議室のほうへ向かった。ボランティア部に所属している学生は軽く百名以上にも上るが、メールを一斉に送信して、「参加できるかどうかの有無」を問うと、そのうち三分の一くらいから「参加する」との返信があればいいほうである。また、三か月以上なんの奉仕にも当たらなかった者は自動的に退部してもらうことになっており、将来的になんらかの書類に「大学在籍中はボランティア部に所属」といったように書きたければ、最低そのラインを死守せねばならないということになるだろう。


(この子もねえ、最初はボランティアの熱い意欲に燃えてたのに、そのうちだらしなくなるタイプの子じゃないといいんだけど……)


 リズはそんなことを思いながら、妙にぎこちない様子で写真に写っているロイ・ノーラン・ルイスの書類を指ではじいた。今日は午後から定期訪問している老人ホームのほうへ向かう予定だったが、この工学部の一年生も急に気が変わったというのでなければ、集合場所である会議室Bへ来ているはずである。


 会議室のほうに入っていくと、顔なじみの学生たちがすでに顔を揃えており、「ハーイ、リズ」と、気安く挨拶してくる。集まった学生の数は30名ほど。こののち、4つほどのグループに分かれ、地下鉄・バス・あるいは徒歩によってそれぞれ奉仕先の病院や福祉施設などへ向かう。


 この時、ロイは(そうだったのか……リズ・パーカーと一緒になれるとは限らないんだっ!)そう思い、絶望しかかったが「新人くんはわたしと一緒に来て」と言われ、突然心に希望の光が差し込んできた。


 しかも、ユトレイシア大学前からバスに乗ったのは八名だったが、この時ロイはリズと隣同士の座席だったのである。


「今回のボランティア先は、そんなに難しいことないわ。なんとなーく暇を持て余してるように見えるご老人の話相手になればいいっていう、それだけだから。場所は<ユトレイシア敬老園>ってとこ。もしかして知ってる?」


「えっ、ええっ!な、中に入ったことはありませんが、前を通りかかったことは何度かありますよ。お城の塔みたいのがてっぺんについた、かなりのとこ、結構なお金持ちしか入れないんだろうな~みたいな感じの老人福祉施設ですよね」


「そうなの」


 リズは、ロイが妙にカチンコチンになっているのを見て微笑った。(いい子そうで良かった)と、そう思う。


「だから、なんていうか……ようするに元エリートって感じの、ちょっとお高くとまった雰囲気のご老人が多いのね。で、わたしたちがユトレイシア大のボランティアだって言ったら、基本的には「いやいや、大したもんだね、君たちィ」とか、「親御さんも鼻高々でしょうねェ」みたいな、そんな態度かな。ただ、プライドの高い人が多かったりもするから、そこだけ注意が必要なのね。たとえば、明らかに向こうが話したい雰囲気でない限り、家族の話はあまり聞いたりしないほうがいいわ。普通でないお金持ちな人たちだからこそ、あんな高級な老人福祉施設に入居してるんでしょうけど……子供や孫が全然会いに来ないなんていう人、ザラにいるから。だから、最初が肝心なの。会話に詰まると、なんとなくすぐ家族のことを聞いたりしちゃいがちなんだけど、そういうとこだけ、気をつけて欲しいのよね」


「わ、わかりました……」


 リズが何故自分の隣に座ったのかがわかって、ロイは少しだけがっかりしなくもなかった。しかも、彼女のほうでは去年の秋、大学内を案内してくれたことなど、まるで覚えてもいない様子だったからである。


(ま、まあいいや。今だってこんなに近くで話せてるってこと自体、奇跡みたいなものなんだから……そうだ。ボランティア部に入るよう勧めてくれたテディには、今度何かプレゼントするか、美味しいもんでも奢ってやらにゃあな)


 こののち、市郊外にある<ユトレイシア敬老園>という停留所で降りると、八人の学生たちは警察官にも似た制服を着ている門番に挨拶し、ブロンズの大きな扉を自動で開いてもらった。その後、かなりの長い距離、よく手入れの行き届いた庭の中を歩いていくと、フランスの瀟洒なシャトーのように見える青い屋根の建物が近づいて来――こちらが目当ての老人福祉施設であった。


「ほんと、豪奢な城って感じですよね」


「そうね。今は秋で、庭の花のほうもかなりのとこ散っちゃったけど……夏の間はそれは見事なのよ。薔薇や百合の、すごく甘い香りがしたりしてね。あと、建物の中へ入ったら、きっともっとびっくりするわ。『オレも若い間に一生懸命金稼いで、老後はこんなところへ入れるよう努力せにゃあ』……なんて、誰でも一瞬思っちゃうくらいね」


 ロイ以外の学生たちは全員、来慣れているのだろう。入口のところで手を消毒し、靴を履き替えると、ボランティアのIDを首からさげてロビーのほうへ進んでいく。そして、そこにたむろしていたご老人たちに「こんにちわー!」と元気よく挨拶している。


「あなたはちょっとこっちへ来てね」


 リズもまたボランティアのIDを首からさげていたが、ロイにはまだそれがない。そのため、仮のIDを事務所のほうで受け取り、それを首からさげるということになった。


「入部希望の用紙に、写真を貼るところがあったでしょう?あれがそのままIDに貼る写真ってことになるんだけど、それでよかった?」


「あ、ああ、はいっ!あ~、でもそれでだったんですね。入部希望届けだすのに、なんで写真なんて必要なのかなあとは思ってたんですけど」


 このあと、館内を軽く案内してもらううち、ロイにもリズが最初に言った言葉の意味がよくわかった。ヨーロッパの貴族の城館か、と見紛うほどに、廊下の敷物、壁を飾る絵画や彫刻、壺などの調度品、その他テーブルや椅子といった家具に至るまで――高級アンティークのそれとしか思えない豪華なものばかりだったからである。


「でも、ここの人たちには、実は本当の意味でこの価値がわからなかったりするのよ」


 ロイが驚きのあまり溜息を着いていると、ダビデの大理石像を見上げながらリズが言った。


「だって、もともとお金持ちの人たちばかりだから、このくらいの高級品、あまりに見慣れてるんでしょうね。ここの人たちにとってはこのくらいが『当然の風景』ということらしいわ」


「へええ……」


(この中国の壺、本物かなあ……)なんてことを思いつつ、左右対称に並べられた高価そうな壺の横を通りすぎると、娯楽室でトランプやチェス、マージャンなどに興じている何人もの老人がいる。


 ただし、老人、などといっても、ロイの目には顔に深い皺の刻まれただけの若者――といったようにしか見えなかったかもしれない。奥のほうにはスロットマシンが並び、ラスベガスの賭博場と同じようにクラップスやルーレット、あるいはバカラやブラックジャックといったカードゲームに興じる人がたくさんいて、そのうちの何人もが昼間から正装すらしているのだった。その隣の部屋にはパブがあり、薄暗い店内ではバーテンダーがシェイカーを振ってカクテルを作っている。そこには、<場末の酒飲み>といっただらしない飲み方をしている者はなく、みな、ほんの少しの酒を片手に会話に興じているといった、上品な老人たちが集っているのだった。


 他に、手芸や編み物といったちょっとした手仕事をする場所や、油絵教室など、老後の楽しみとしての趣味の教室も充実しているようで……(確かに、これなら金さえあったら老後はこういう場所で過ごしたいって気持ちもわかるなあ)と、ロイも思った。ただ、入居費用含め、一般市民には到底叶わない、目玉の飛び出るような金額を請求されるのだろうとわかってはいたが。


「でも、わたしの聞いた話じゃ、こんな暮らしにも三日で飽きるという話よ」


 ロイが何を考えているかを見抜いたように、リズがそう言う。


「あとは、そっちが食堂で、その隣が喫茶室といったところかな。急にご老人ばかりがいる場所に入っていって、なんか気詰まりだと思うかもしれないけど……きっとすぐ慣れるわ。ちょっと見てて」


 リズは食堂に入っていくと、テレビの前に座ってどこかぼーっとしている何人かの人々に「こんにちは!」と話しかけていた。顔見知りらしいおばあさんたちと暫し賑やかに語りあうと、ロイに向かってこっちへ来るよう手招きする。


「この人、新しいボランティアの学生さんなの。まだ今年の九月に入学してきたばかりの一年生。理系の人なのにボランティアに興味があるんですって。これからよろしくお世話してあげてくださいね」


 この時、何故リズが「お世話してあげてくださいね」と言ったのか、ロイは夕方過ぎにこの施設を出る頃には……その意味がよくわかっていた。なんと言うのだろう、『あらまあ。お若い方がせっかくボランティアに来てくださったんだから、ちゃんとボランティアした気にさせて帰らしてあげましょ』という、そうした気遣いがご老人たちにはあるのだ――簡単にいえば、そういうことである。


「理系ねえ。なんだかそういう感じ、するわね。なんか理屈っぽうな顔してるもの」


「あらあ、いいお兄さんじゃないの。若い頃のうちのおじいさんに似てるわ」


「あなたは誰にでも同じこと言うんだから……」


「しょうがないじゃないの。年を取ったら目が悪くなって、みんな大体似たような顔してるように見えてくるんだから。だから、わたしの目にはあんた方の顔はみんな、皺ひとつなく、つるつるしてるように見えるわ。これで眼鏡かけたら現実ってものが嫌というほど拡大されて見えることになるんですけどね」


 このあと、ロイは名前を聞かれたり、自分の家族のことをしゃべったり、その他大学での勉強のことなど――おしゃべりなおばあさんたちに「うまくあしらってもらう」ような形で、話のほうは弾んだ。それから、この四人のおばあさんたちが毎週楽しみにしているというドラマの時間となり、ロイは一時お役ご免ということになったのであった。


 すると、同じ食堂で車椅子に座ったおじいさんと話していたリズが、そのことに気づき、彼のほうへやって来る。


「どう?何も問題はない?」


「え、ええ。問題はないというか、ないようにうまくあしらってもらってるというか……何かそんな感じです」


 でしょ、というように、リズは微笑っていた。


「あ、あとね。言い忘れてたけど、車椅子に座ってる人と話す時は、なるべく上から見下ろすような形でしゃべったりしないようにしてね。椅子に座って目線が同じ高さに来るようにして話すか、車椅子の前か横にしゃがみこんだりして、下から話すようにして欲しいの」


「まあ、上から目線で話されて、面白い人はいないでしょうしね」


「というか、あなたも一度、車椅子に座って同じようにされたらわかるわよ。ちょっとしたことだけど、背の高い男の人が特にそういうふうにすると、なんとなく威圧感を感じたり、『やな感じ』と思うことで、『絶対こいつになんか心を開くもんか』みたいになる場合があるってことなんだけど」


「わかりました。気をつけます」


 リズがそれまで話していた男性が、「部屋へ戻る」と言ったので、彼女は車椅子を押して送っていった。ロイはなんとなくそんなリズのあとについていき――「疲れた」と言った彼が車椅子からベッドへ移ると、静かにそこから出てきた。ごろりと横になるなり、この老人は石のようにまったく動かなくなったからである。


「面白い人なのよ。若い頃から旅行が趣味で、色んなところをたくさん知ってるの。あと、音楽はジャズが好きで……わたしはあんまりそのへん詳しくないもんだから、そのうち誰かボランティア部にジャズ好きの子が入ってこないものかしらって思ってるんだけど、あなたはどう?」


「すみません。残念ながらジャズのほうはあんまり……クラシックとかオペラなら、父や母が結構好きなので、少しくらいはわかるんですけど」


「え!?ほんとに?じゃあ、あなた……」


 ここで、リズは何かを考え込んでいるふうだった。そこでロイはずっと気になっていたこと――「ロイです。ロイって呼んでください」と、やっとのことで彼女に言った。


「ええ。わたしのことはリズでいいわ。それでね、ロイ。この敬老園には結構な気難しいご老人が何人もいて……中には滅多に自分の部屋から出てこないようなおじいさんやおばあさんもいるのね。職員が何かの用事で顔を出すたんびに、いちいちけんつくを食わせるような手合いの人たちなんだけど、外部のわたしにしてみたら、その気持ちもわかる気がするの。なんでかっていうと、毎月結構なお金をここに支払ってるはずなのに、それに見合うくらい十分な介護を自分たちは受けてないって、そう思うのも無理はないんじゃないかしら……なんて感じるからなんだけど」


「…………………」


 今日ここへ初めて来たばかりのロイにはまだわからなかった。昼日中から酒の飲めるパブ、賭博場に映画の見れるミニ・シアターなどなど……もちろん、毎日そんなことを繰り返していたら、最初のうちは良くともそのうち飽きるということは、一応理解は出来る。だが、それだけのお金を老人たちから取っているということは、職員の質のほうはそれなりか、それなり以上に良いのではないかと想像された。また、その気難しい老人たちのへそ曲がり具合がどの程度かも、ロイには計りかねたというそのせいもある。


「ああ、ごめんなさいね。こんなこと言われても、今日がボランティア初日なのに困っちゃうわよね。ただ、ロイがもしクラシックとかその方面に詳しいんだとしたら……ひとり、いるのよ。昔、ユトレイシア交響楽団の楽団員だった人で、副コンマスだったっていうおじいさんがね。ねえ、一度挑戦してみない?もし駄目なら駄目で、また敗残者がひとり増えたっていうような、そんな程度のことだと思うし……」


「ええと、ようするにオレに、その気難しい元ヴァイオリン弾きと話してみちゃどうだって話ですか?」


「まあ、簡単に言えばそういうことなんだけど……」


 このあと、ロイはリズに連れられて、エレベーターで七階のほうまで移動した。そして、エレベーターが開くとそこは、まるでホテル内の廊下のように見えた。金の刺繍を施した、ロイヤルブルーの絨毯が敷き詰められており、廊下のあちこちの花台の花瓶には、花が豪華に活けられている。アルコーブのところにある精緻な彫刻や、壁に飾られた絵画なども――ロイの目には高級ホテルを連想させるところがあった。


 樹木の模様が刻まれた大きなドアの前までリズはやって来ると、そのドアの横にあるインターホンを押す。ややあって、若干しゃがれたような声が「なんか用か?」とぶっきらぼうに答えた。だが、彼女のほうでは「ユトレイシア大のボランティアでーす!」と、いかにも無邪気な調子で返事している。


 その後、30秒ほどが過ぎてのち、ロイが驚いたことには扉が自動で開いた。リズが「こんにちわー!」と元気に入っていくと、そこにはベッドの背にもたれかかった、白髪頭の八十くらいに見える老人が、鋭い眼光を光らせていたのである。


「ボランティアだって?まったく、相手をしとるわしのほうが消耗するだけ、損というもんだぞ。ほれ、なんか少しくらいわしが楽しくなるような話が出来るっていうんなら、してみるがいい」


「いえいえ、ミスター・グリーナウェイ。今日はただ、ボランティア部に新しい一年生が入ってきたので、ご挨拶にやってきたまでなんです」


「はっ!わざわざわしに挨拶なぞいらんがな」


 そう言って、アーロン・グリーナウェイは床頭台のプラスチック容器に、ぺっと絡んだ痰を吐き捨てていた。それから、リズの隣のロイのことを睨みつけると、片手にステッキを握りしめ、「おい坊主!その加湿器の水を取り替えろ!」などと命じる。もちろん、ロイは言うとおりにした。部屋のほうは2LDKほどもあり、キッチンのほうは備えつけになっていたからである。


「ユトレイシア市街が見渡せて、本当に素敵な眺望ですね」


「ふん!毎日毎日同じ景色ばかり見とれば、それがどんなに素晴らしい景色でも飽きるもんだぞ」


「でも、夜景だってすごく綺麗なんじゃないですか?」


「夜景か!ま、おまえらのように若いもんにはわかるまいな。半身不随になった惨めな老人の気持ちなんてものは……だが、これから先五十年もすればわかるかもしれんな。その時、思いだすがええぞ。あの敬老園の気難しいジジイの気持ちが、今は少しくらいはわかる気がする、なんて具合にな」


(まあ、この調子よ)といったように、リズは加湿器の水を替えたロイのほうを悪戯っぽく見やった。今度は、ロイのほうでミスター・グリーナウェイに話しかけてみることにする。


「オレの父も車椅子生活で……足が両足とも、膝から下がありません」


 ロイがそう言うと、流石のアーロンじいさんのほうでも、少しばかりハッとしたようだった。


「何故だね?病気か何かかね?」


「いえ……若い頃、ちょうどオレと同じ大学生だった頃、登山部でグランドジョラスに挑戦したそうです。その時、友人が滑落してふたり死に、父はあのふたりの代わりに自分が死ねば良かったと、ずっとそう思い後悔してきたと話してくれたことがあります」


「……その頃お父さんが大学生だったということは、君はいつ生まれたんだね。こう言ってはなんだが、君のお母さんという人はきっと聖女のような心根を持って、お父さんのことを愛してきたということなのかい?」


「母はいい人です。父も、母のような素晴らしい女性と結婚できて幸せだと、今でも口にしてるくらいです。オレは四人兄弟の末っ子で……上に兄が三人いるんですが、母はひとりくらい女の子がどうしても欲しいと思って、オレが出来た時、生むことに決めたそうなので……今も、なんか悪いなとは時々思ったり。ほんと、母が望んだとおり、オレが女に生まれてたら良かったんでしょうけど」


「それは関係ないさ。『こんな子、生むんじゃなかった』というような娘がいるよりは……おまえさん、ユトレイシア大の学生なんだろ?そりゃもう、母親にしてみれば、目に入れても痛くないくらい可愛くて仕方ないだろうて。やれやれ、なるほどな。どうやらわしも半身不随になったくらいでは、運命を呪ってはいかんということらしいな」


 ここで、アーロン・グリーナウェイはさも愉快そうに笑ったわけだが――おそらく、敬老園の介護職員が彼のこの笑い声を聞いたとしたら、さぞかし驚いたことだろう。何故といって、入所以来ほとんどこの気難しい老人が笑ったところを見た者など、ひとりもいないと言っていいくらいだったのだから。


「これ、ミッシャ・マイスキーですか?」


「ああ、そうだわな。亡命してくる前の陰気な演奏だ。だが、その陰気さがむしろいいとも言える……あんた、クラシックなんぞ少しか聴いたりするかね?」


「ええ、少しくらいですけど……特に好きなのはブラームスです」


「ふうん。ブラームスか!ほら、そこに有名指揮者と世界的楽団のCDやらが並んでおるがな。ま、ミッシャ・マイスキーの演奏が気に入らなんだら、他のをかけるがいい」


 リズは、ふたりの相性が割といいようだ……と見てとると、そっとグリーナウェイ氏の部屋をあとにすることにした。自分がいるより、ロイとふたりきりのほうが、この老人は心を許して色々話すのではないかと、そのように思われたからである。


 その後、すっかりあたりが暗くなるまで、ロイはアーロンと色々なことを語りあい――彼の部屋へ夕食を運んできた職員と入れ違いになるように、そこから出てきたのだった。「病院食みたいな、まずい夕食でいいなら、一緒に食ってけ!」とも言われたが、そろそろボランティアの学生が活動を終える時間帯でもあったからである。


「あなた、幸先いいわね」


 廊下の向こうから、迎えにやって来たリズと出会うと、彼女は笑いながらそう言った。


「いえ、なんかよくわかりません。アーロンさんにはなんか気に入られたような気はするものの、こんなのでボランティアって言えるのかどうか……」


「そうよ。それでいいのよ!施設の行った先にもよるんだけどね、老人福祉施設であれば、大体似たような対応でいいわ。誰にでもニコニコ平等に優しくするのがボランティアってわけでもないの。人にはどうしても向き・不向きや、性格の合う・合わないが存在するものだから、あなたがグリーナウェイ氏に気に入られたみたいに、自分にとって『このばあさんとは気が合うな』とか、『このじいさん、話してて面白いぞ』みたいな人とだけ話すっていうのでも、全然オーケーなのよ。それに、ここへやって来るボランティアはわたしたちだけってわけでもないわ。ここの敬老園がそういうふうに風通しのいい施設であるためには、わたしたちみたいな人間も必要だっていう、そのくらいの心構えで十分大丈夫なのよ」


「ああ、そうですね。そういえば、この間もありましたっけ。老人福祉施設での虐待死とか、そういうの……じゃあ、オレたちっていうのは、ボランティアという名の監視員でもあるっていう部分もあるってことなんですか?」


「まあ、普段そう意識はしないけどね。でも時たま、障害者施設とかで、職員が切れて怒鳴り散らしてるって場面には出会うわね。だけど、そういうのも見てれば大体わかるわ。愛情から相手を叱りつけてる場合もあれば、わたしが見ていてさえ『あれは切れるのもしょうがない』っていう場合もあったり……まあ、色々よ」


 このあと、ロイがなんとも嬉しかったことには、他のボランティア部員は一足先に前の便のバスで帰ってしまったことだった。リズは、ロイがグリーナウェイ氏に気に入られたらしいと見てとり、彼が切りのいいところで会話を切り上げるのを、ずっと待っていたわけである。


「すみません。ここ、バスの便1時間に1本くらいしかないのに……」


「べつにいいのよ。わたしはこれから家庭教師のバイトがひとつ入ってる程度だから、時間のほうも十分間にあうし」


「大変ですね。こんなふうに毎週ボランティアしたり、アルバイトしたり……大学での勉強だって、うちはどこの学部も入学する以上に卒業するほうが難しいと言われてるくらいなのに」


「まあね。でもそんなの、あなただって同じでしょ」


 このあと、ほんの少しの間、沈黙が落ちた。次にバスがやってくるまで、軽く十五分以上はある。ロイは、こんな機会はもう二度とないに違いないと思い――もっと色々彼女に話しかけておこうと思った。ただし、例の傘のことや学内見学のことなどは、まだ口にする勇気がない。


「『ジェイン・エア』がお好きですか?」


 ここで、リズは驚いたように隣のロイのことを振り返った。


「ええ、そうね。今、ちょうどアンダーソン教授がブロンテ姉妹のことを講義で取り上げてるの」


「どういうところが好きですか?」


 実をいうとあのあと、ロイは母親の部屋の書棚から『ジェイン・エア』と『嵐ヶ丘』を借りて読んだ。純文学作品として、今も不滅の輝きを放っているのが何故なのか、その理由についてはロイにもわかる。けれどおそらく、男が読んだ感想と女性のそれとでは、意見が異なるのではないかと、そんな気がしたのだ。


「そうねえ。『ジェイン・エア』に出てくるエドワード・ロチェスターにはモデルがいるのよ。シャーロットは妹のエミリーとブリュッセルに留学してたことがあるんだけれど、そこの寄宿学校の校長だったエジェ氏という人。で、このエジェ氏はすでに結婚していて、完璧なシャーロットの片想いだったわけ。その思いの発露ということがあるのかどうか、すごくリアリティがあるわ」


「まあ、そうですよね。あのロチェスター氏というのは、頭のおかしい奥さんと結婚する羽目に陥ってたり、フランスのバレリーナと恋仲になって、女のほうでは自分の子だと言うが、間違いなく彼の子ではないアデルという女の子を育てていたり……なかなかに数奇な運命を背負った、魅力的な人物ですよね。一方、『嵐ヶ丘』はヒースクリフですか。母が彼を好きらしくて、随分熱心に色々話してくれました。なんでもヒースクリフの人物像の一部は、エミリーのお兄さんがモデルになってるとかって……」


「そうそう!ブロンテ家には子供が四人いたの。で、長男のパトリック・ブランウェルは絵が上手いほうだったので、そうした美術学校へ進むんだけど……まわりの子たちの才能があんまりすごくて、自分はただの日曜画家だといったように悟るのね。子供の中でひとりだけいる息子ということで、すごく期待をかけられ可愛がられていた彼は、その後没落した人生を歩むわけ。その自暴自棄な姿が、ヒースクリフにも一部反映されてるんじゃないかってことだったわ」


 ここで、バスが来た。あまり混んでもおらず、ロイは行きと同じくリズと後ろのほうの座席で、隣りあって座った。


「でも、珍しいわね。うちの文学部の男子学生なんて、講義で取り上げられるっていうんでなきゃ絶対読まない手合いの本だ、なんて言ったりするのに。お母さまもきっと、教養のある方なんでしょうね」


「え、ええ。母はユトレイシア大の文学部を卒業してます」


 コートとコートの端が触れ合う、という程度ではあったが、ロイは来た時と同じくドキドキするのを隠すのが大変だった。


「なるほどねえ。でも、お父さまと結婚されたっていうことは……」


「そ、そうなんです。せっかくユト大を卒業した……とも言えると思うんですけど、母は卒業と同時に父と結婚して、その後は家庭に入りました。だから、テス・アンダーソン教授が主張されるのとは真逆の女の人生っていう気もするんですけど、母はそもそもあまり、外に出てバリバリ働きたいっていうタイプでもなかったようなので……」


「ああ、べつにアンダーソン教授は専業主婦を憎んで攻撃してるってわけじゃないわ」


 リズはくすくす笑って言った。


「ただ、建前上は男女平等と言われつつ、実際の社会に女が出ていくと、男性優位の壁にぶち当たるわけでしょ?で、そうした壁を造ってる男の人たちの中には、女は家庭に入って子育てすることこそ一番の幸福だっていう、刷り込みがあるってことらしいわよ。口では一応言うわよね、女性は今後ともどんどん社会進出すべきだ、みたいなことは。でも結局のところ、それが隠された男の本音だ……という部分には、女はどうしても勝てないわけ。それが何故なのかという話」


「それは、ひとつの幸福論ということですか?でも、幸福に対する価値観なんて、人それぞれ違うわけだし……」


「そうね。アンダーソン教授の講義を受けるようになって、わたしもまだ一年ちょっとだけど……教授は簡単にいえば、身体感覚のことを言ってるんだと思うわ。共産主義と似たようなもので、男と女が平等に働けば、このような理想の社会が実現される――といったように社会ではスローガンが掲げられてる。ところがね、実生活で誰か男性と恋愛したり、どこかの会社で男を押しのけて女が彼らの上司として立ったりすると、「女は男の下であるべき」というボディ・イメージというのかしら。そういうところから脱却できない精神の男性というのは、いまだにとても多いってことらしいのよ。もっとも彼女はこの話をする時、『今どきはまあ、女性上位を好む人も増えてはきたようだけど』って必ず言い添えるんだけれどね」


 もちろんこの時、ロイは『あなたはどう?』などと、聞かれたわけではない。けれど、そう聞かれたような気がして、彼としては暫し考えこんだ。


「あなたは工学部で、アンダーソン教授の講義を取ってるってわけでもないんだから、そんなに難しく考えることないわよ。お父さまとあなたを含めた四人もの息子を育て上げた素晴らしいお母さんがいたりしたら……それはもう、そのお母さんのような奥さんを将来もらうのが理想みたいになるの、当然だとわたしも思うもの」


「母だって、色々大変だったと思いますよ。父の世話をする傍ら、男の子を四人も育てるだなんて……特に、一番上の兄と二番目の兄は小さい頃から喧嘩ばかりしてたそうですし、殴りあって家のガラスを割るとか、何かの仕返しに相手が一番大切にしてたプラモデルを踏み潰すとか……お客さんがうちに来てても、平気でそんなことをする感じだったっていう話ですし」


「へえ。でも、あなたはそんなことないんじゃない?こう言っちゃなんだけど、末っ子で甘やかされて育ちましたみたいな、そんな雰囲気に見えるし」


 よく言われることなので、ロイは何か照れくさかった。


「ええと、実はオレもよく知らないんです。というのも、上の兄たちとは結構年が離れてて……オレが物心ついた頃には、兄たちも何かの発作のように喧嘩するってこともなくなって。でもそのかわり、ほとんど口も聞かなくなってました。それで、一番上の兄は隣の州の大学へ入学するのと同時、あまり家のほうにも寄りつかなくなって……」


「ふうん。あまあまな家庭で育てられたお坊ちゃまかと思ってたけど、あなたの家庭にはあなたの家庭の事情があるのね」


 このあとリズは、「わたし、次で降りるわ。家庭教師先の家が近くにあるから」と言い、ブザーを押していた。彼女のほうが窓際に座っていたので、降りる時、ロイは一度体をずらさなくてはならなかった。


「じゃあまた、気が向いたらボランティアに来て。都合のいい時だけでいいから、そんなに無理しないでね」


「は、はい……」


 リュックを片方の肩に背負ったリズの後ろ姿を、ロイは目で追える限り、じっと追っていた。彼女は閑静な住宅街へと続く坂道を、半ば闇に溶けたくぬぎの枯葉の中消えていった。ロイはその先にあるユトレイシア市内でも屈指の高級住宅街のことを思い――そうした子女の家庭へ、リズは家庭教師をしにいくのだろうと想像した。


 ロイはこの時、ありえない妄想を胸に抱いて、大層幸福だった。そう、今日みたいに毎週熱心にボランティアに参加してさえいれば、きっとリズのほうでも自分に関心を払うようになり、もしかしたらいずれ、『男としてそう悪くもない物件』といったように評価してもらえるようになるかもしれない。


(そうだ。オレは今はまだ彼女の中で、ユト大では石のようにごろごろしてる、行儀と躾けがいいだけのお坊ちゃまみたいにしか見えないかもしれない。でもまた、今日みたいに親しく話せる機会を積み重ねていければ……)


 ロイはすっかり暗くなった市街の様子を窓から眺めつつ、今日リズとした色々な会話のことを何度も何度も反芻した。彼女の顔の表情や笑顔のことや、話す時の声の調子のことや、何もかも……そして、彼は家に帰り着いてからも、このことを一から繰り返したため、「ねえロイ、聞いてるの!?」と、母親から二度も聞き返されるという始末だった。


 レポートの提出のみならず、そのために予備知識として読まねばならぬ本もたくさんあったが――ロイはその間もずっとリズ・パーカーのことに思いを馳せては、始終自分の妄想に顔をニヤつかせていたのである。


 だが無論、彼は知らない。リズのほうではロイ・ノーラン・ルイスに対し、『男としてそう悪くもない物件』どころか、自分とはおそらく『永久に価値観の合わない男』として分類し、記憶のファイルのほうには「気難し屋で有名なアーロン・グリーナウェイを懐柔した男」としてのみ書き記されていたということなど……。




 >>続く。






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