第2章
人の恋心とは不思議なもので、あまりよく知らない相手に一目惚れしたといったような場合――彼なり彼女なりは、その相手の<ほんの一面>だけを見て、残りの部分は「きっとこんな人に違いない」とか、「あんな人に違いない」と、自分の想像力によって補っていることがよくある。
ゆえに、結局のところロイは……地下鉄に乗って憧れのリズ・パーカーのことをストーカーの如く尾行はしたが、彼女が自宅へ戻るのではなく、市郊外にある精神病院へ入っていくのを見届けると……その途端、激しい後悔の念に苛まれはじめたのだった。
何も、実はリズが国内随一の大学の在学生である一方、精神病院にご厄介にならねばならぬ精神異常者であったとは――などと、ショックを受けたわけではない。友人や知り合い、あるいは親戚などが入院しているので見舞いに来た……という可能性もあるし、特段鬱病や神経症といった病名がついてなかったにせよ、こうした病院にカウンセリングへ来るということは誰にでもありうることである。
ただ、ロイは(自分は本当に彼女のことを何も知らない)ということに打ちのめされつつ、その後、九つも地下鉄駅を通りすぎ、自宅のほうへ戻ってきたのだった。帰ってきて携帯をチェックすると、予想通りテディからメールが来ている。それも、栗のいがいがを取り除き、それをその後寮生数名でいかにして調理し食したかという、短い映像付きの。
(オレもこっちに行けば良かったな……)
マホガニーの勉強机、ロフトタイプのベッド、その下のフィギュアやおもちゃの類の並ぶ戸棚、科学系の雑誌やアメコミ、日本のマンガ、SF小説がぎっしり詰まった本棚――といった、自分の見慣れた部屋を一渡り見回して、ロイは溜息を着く。
(こんなガキっぽい部屋、そのうち改造しなきゃ……彼女はきっとジニーと一緒で、アメフト部のキャプテンとか、サッカー部のゴールキーパーとか、そういう男のほうが好みってタイプなんだ。あの時色々親切にしてくれたってのも、そもそもオレの目が見えなくて気の毒だとか、そんなことが理由だったんだろうし……)
ここで、ロイにはもうひとつ、ふと思い当たることがあった。リズが盲学校の寮へボランティアへ行くことがあるという話である。それでいった場合、もしかしたら――あの精神病院へも、何かのボランティアで行ったという可能性はないだろうか?
「そうだよな。入院患者の見舞いかボランティアってとこだったんだろう、きっと……」
正直、ロイは今何故こんなにも自分が落ち込んでいるのか、よくわからなかった。ただ、何かが悲しかった。そして、階段を上がってごろりとベッドに横になると――ふと気づいた。自分はただ単に、<あてが外れた>ことにがっかりしているだけなのだと。
『あら、もしやあなたはあの時の……』
『そそ、そうなのです。実はあのあと、無事こちらの国内一と言われる大学に、このわたくしめも合格しまして……わっはっはっ!!』
『きっとあなたなら、浪人せず必ずストレートで合格すると思ってましたわ。わたしの思っていたとおり……』
『そそ、そうでした、そうでした。あの時は、アルパカの握りの可愛らしい傘をお貸しいただき、まっことありがとうございましたっ!!実はわたくし目が一発で本大学に合格いたしましたのも、あのアルパカ・アンブレラのお陰と言って過言でなく。何故なら、何故なら~、何故ならば~……』
『何故なら、なんですの?』
『あなたの~、あの傘の存在に励まさればこそ~、このぼぉくわ~、お勉強がツライ時にもがんばれたのであります!!つきましては、でで、できましたらぁ~、おつきあいしていただけると……』
『まあ、面白い方。もちろんオッケーでしてよ。これもアルパカ・アンブレラの結んだ縁ですわね。うふふふ』
(やれやれ。ひどい妄想だな。けどまあ、オレのほうではこれから現実ってヤツをしっかり認識せにゃあな。ようするに、彼女はアレだ。ああいうアメフト部のマッチョな連中が相手でも十分親しくつきあえるってタイプなんだ。いや、もしかしたらあの中の誰かとすでにつきあってたりするのかもしれん……)
ロイはベッドの端にぶら下げた例のアンブレラを取り上げると、ワンタッチでそれを広げ、意味もなくしげしげと傘の内部を眺め、その後ゆっくり閉じた。以前までは、こんなことをしては(この傘を返す時に告白するんだっ!)などと意気込んでいたが、今ではもうすっかりそんな勇気もしなえてしまっている。
(じゃあ、どうする?次にもしどこかで奇跡的に出会えたとして……『傘を返させてくださいっ!』と言ったところで、向こうは『傘なんかもういいわ』という感じかもしれない。そうだ!あの時のお礼として何か奢らせてくださいって言うのはどうだろう?たぶん、そのくらいなら軽い気持ちで『じゃあ、学食のサンドイッチかドーナツなんかでいいわ』ってことになるかもしれない……)
だが、ここでもうひとつ、問題が再び浮上した。リズ・パーカーと一緒にいた、残り二名の女学生はどうやら『フェミニスト講座』なるものを受けているらしいが、やはり相変わらず学部のほうがわからなかったのである。
「『フェミニスト講座』かあ。そんな名前の講義あったっけな。それとも、教授たちが時々開く、市民向けの講座を聞きにいった帰りだったとか?」
この翌日、ロイは学生共生会館の掲示板にて、テス・アンダーソンが文学部の教授であることを知った。また、アンダーソン教授の講義は学生たちから一般に『フェミニスト講座』と呼ばれているらしいということも、アレンから教えてもらっていたのである。
『大学寮には当然、同学年・上級生含め、文学部所属の学生なんかわんさといるだろ?それで、テディがそこらへんのことうまく聞きだしといてくれって言ってたもんだからさ』
まったく、持つべきものは友とは、まさしくこのことである。ロイはこの翌週、自分が受けねばならない授業を2コマ、計180分受けたのち、眠い目をこすりつつ、工学部より南にある、文学部の建物のほうへ向かった。基本的に、ユトレイシア大の在学生は自分の学部外の講義であれ、誰が聴講生になってもいいということになっている。ゆえに、人気のある教授の講義などは、後ろまで学生の姿で埋まっていることもあるほどである。
そしてこの時、ロイはテス・アンダーソン教授がまさか、そうした超のつく人気のある教授であると思ってなかったため、工学部の講義ではいつもそうであるように、この時も教室のほうは人がまばらに違いないと思い込んでいた。そして、その目立たない隅っこのほうにでも潜り込み、リズ・パーカーがもしいたら、彼女の後ろ姿を拝みたい……などと考えていたわけである。
ところが、教室のほうはほぼ満員御礼、座る椅子のスペースすらない状態だったため、ロイは同じように他の学部から来たのだろう、後ろに立っている学生たちに混ざって、ただそこに突っ立っているということになった。階段式の教室を一渡り見回してみただけでも、学生が椅子に詰めて座っている状態で、軽く百名以上はいたろうか(ちなみに、このうちの約8割が女学生である)。
(まあ、そりゃ別名『フェミニスト講座』だもんな。男が聞いてて、そんなに楽しい講義でもないってことか……)
なんにしても、ロイは当初の目的に立ち返り、この八十名以上もの女学生の中から、リズの姿を探そうとした。最初は(もしかしたらいないかもな……)と思ったが、モデルのように長身のミランダ・ダルトン、逆に妖精のように小柄なコニー・レイノルズに挟まれていたためだろうか、リズ・パーカーの後ろ姿を見つけるのはそんなに難しくなかったのである。前から四列目の座席、やや中央寄りにいた。
(こりゃ、この講義が終わったあと、アルパカの傘の話なんかする雰囲気では全然ねえな……)
何より、ロイにはこの講義がはじまる前から、終わった時の様子が容易に想像できた。きゃぴきゃぴ、ぺちゃくちゃしゃべくりながら、この目の前の女学生たちが我先にとばかり教室の外へ出ていこうとするだろうことが……。
始業の鐘が鳴ると同時、前のほうのドアからレズビアンだという噂のテス・アンダーソン教授が、ハイヒールの音を高らかに響かせつつ登壇した。ロイの脳裏にこの時即座に思い浮かんだのは「威風堂々」という言葉であり、何よりアンダーソン教授はどこか颯爽としていた。ウェーブのかかった長い黒髪、夏休みの間、南のほうの外国で焼いてきたとでもいうような、健康そうなココア色の肌……教授は目鼻立ちがかなりはっきりしたタイプだったが、化粧のほうはしてないように見えた。身を包むスーツもブルーの地味なものだったが、それでいて圧倒的に人の目を惹きつけずにおかなかったのである。すなわち、教授としてのカリスマ性、という意味において。
「さーて、みんな。わたしの講義を受けたことのある学生さんならわかってると思うけど、初めて来る学生や一見さんもいるでしょうからね。一応、最初に確認しておきましょうか。みなさん、フェミニズムとは一体どんな意味でしょう?」
もう耳にタコが出来ているのだろう、前列の女学生たちがみな、くすくすと笑って答える。
「すべての性が平等であるべきだ、ということです。先生」
「そうね。時々、女性の側から男性を攻撃する学問……みたいに勘違いしてる学生もいるし、女性嫌悪の別名だと思っていたり、ひどい場合はヒステリーになって今にも失神せんばかりの女の集団だと思われてることもありますからね。そこの男子学生!」
前から五列目くらいにいた学生が、アンダーソン教授にじっと見つめられ、一瞬ギクッとしている。この瞬間、ロイもまた、リズの後ろ姿を拝みたいがためにそんな場所へ座ってなくて良かったと、心からそう思った。
「男と女の性は平等だと思いますか?」
「そっ、そうですね。まだ十分とは言えないかもしれませんが……それでも、昔よりは随分よくなってきているとは思います」
「昔って、一体いつ!?」
「ええと、ほんの何十年か前まではもっとひどかったんじゃないでしょうか。女性には参政権もないし……そのですね、僕一応文学部の学生なんで言わせてもらうと、女流画家とか女流作家とか、そういう言葉が存在すること自体、女性が社会のあらゆる分野において抑圧されてきた証拠と思うわけです。今は女性が絵を描いて自己表現するなんて普通ですし、女性の作者による優れた作品が数えきれないほど多く出版されてもいます。でも、昔はそんなことすら許されていなかった」
彼の説明には結局、「いつ」という正確な説明はなかったが、アンダーソン教授はそのことを特段責めなかった。
「そうね。前回に続いて今回取り上げるブロンテ姉妹も、そんな女流作家でした。長女シャーロット、長男パトリック・ブランウェル、次女エミリー、三女アン……このブロンテ家の子供たちは、牧師の家庭に生まれたわけだけど、シャーロットの『ジェイン・エア』が世間に諸手を挙げて迎えられたのとは違い、エミリーの『嵐ヶ丘』は出版当時、牧師の娘らしくない内容というわけで、あまり評価されなかったの。ところで、ブロンテ三姉妹は最初、カラー、エリス、アクトン・ベルという男性の名前を使って詩集を出版してるわ。結局、2部しか売れなかったわけだけど……当時は女性の名前で書いた本が売れるとは思われなかったことから、シャーロットとエミリーとアンの三人は、男性の筆者名ということにして、自費出版したわけよね」
――このあと、『ジェイン・エア』と『嵐ヶ丘』のどちらの作品が好きかという決が取られたのだが、エミリー・ブロンテの『嵐ヶ丘』のほうが手を挙げる学生の数が多かったようである。
「ごめんなさいね、みんな!」と、アンダーソン教授はそうみんなにあやまった。「今日は『ジェイン・エア』について取り上げるけど、『嵐ヶ丘』についても次週以降取り上げるつもりだから、シャーロットよりもエミリーファンのみんなはその時まで待ってて。さてと、文学部の学生らしく、ほんとにみんな読書熱心なのね!でもまあ、一応あらすじのほうを説明しておきましょうか」
ロイはこの時、心底ほっとした。何故といってブロンテ姉妹の作品はどちらも読んだことがなかったからである。ゆえにこののち、ホワイトボードのところに現れたスライドの文字を読めなくても――ロイは視力がそう悪いわけではなかったが、一番後ろからでははっきり文字のほうを判読出来なかった――当てられた学生のひとりが朗読してくれたため、大層助かった。
「そうそう、そのとーり!」
アンダーソン教授は、朗読した学生に「サンキュー」と言ったのち、そう続けた。
「簡単にいえば、主人公の『ジェイン・エア』っていうのは、何クソど根性精神の持ち主なのね。孤児になったところを親戚の家へ引き取られるわけだけど、不当な扱いを受けることに抗議してばかりいると、実に有難いご慈悲によって引き取ってやったのに……といった感じの伯母さんが、ローウッド学院という孤児院へやってしまうわけ。そこでよるべのない孤児の受ける扱いがどんなひどいものかを味わい、心通じる友、天使のようなヘレン・バーンズの死を通し、人生とは何かを考えつつ、ジェイン・エアは成長してゆきます。この時代はね、女がひとりで身を立てようとしても、出来る職業で比較的聞こえがいいといえば、教師職くらいしかなかったのよ。そこで、ジェインは教師として資格を取り、ガヴァネスとして身を立てるわけだけど……まあ、このガヴァネスという職業が、雇われた屋敷の主人にいかに手を出されやすかったかという話は、また別の機会にするとして、ジェイン・エアもまた自分のこの雇用主に恋をしてしまうのね。もっとも、彼女の場合は彼がすでにもう奥さんを亡くしていると、そう思い込まされていたということがあるわけだけど」
前列二番目の座席にいた女学生が、「狂女、バーサ登場!」と、くすくす笑って言う。
「そうよ!実はジェイン・エアが心惹かれて恋仲になったエドワード・ロチェスター氏は、頭のおかしい奥さんを死んだということにして――屋根裏部屋に隠してたのね。ねえ、みんなはどう思う?確かにロチェスター氏は、素敵な紳士であると同時に気の毒でもあり、彼がジェインにウソをついた気持ちっていうのも、ある程度理解は出来るわ。だけどこんな男、今の時代にもいくらでもいると思わない?わたしがねえ、『ジェイン・エア』より『嵐ヶ丘』が好きなのはたぶん……ヒースクリフっていう破天荒な男のせいな気がするのよね。彼は誰より何より、キャサリンを思い続けた、一途な男だったと思うもの。いい?みんなも気をつけるのよ。ほんとは奥さんがいるのに結婚指輪を外して近づいてきて、「自分は結婚してない」なんていう男、この世には腐るほどいるんですからね」
ここで何故か、さざ波のように女学生の間から笑い声が上がった。この時、ロイにもテス・アンダーソン教授の講義が『フェミニスト講座』と呼ばれるのが何故か、少しだけわかるような気がしたものである。彼女はどうやら古今東西の文学作品を取り上げては、そこに自身の恋愛観や性の話などを織り交ぜて、学生たちに教訓として聞かせることがあり――それが彼女の講義が人気のある秘密なのだろう、ということだったからである。
「いい、みんな?これは笑いごとじゃないのよ。わたしはほんとに心底心配してる。あなたたちくらいの若くてピチピチした、人生これからっていう可愛い娘たちが……おかしな男に引っかかって人生の貴重な時間を浪費した挙句、何か取り返しのつかない間違いをしてしまうのをね。残念なことかもしれないけど、ここにいる学生の最低でも何人かは不倫を経験するでしょうし、もしかしたら今そうした恋愛をしてる子だっているかもしれない。もちろん不倫だってね、ジェイン・エアみたいに最後は結ばれてハッピー・エンドっていうならまだしも……ねえみんな、『ジェイン・エア』を読んでて、最後の終わり方についてどう思った?何故ロチェスター氏は片腕を失うのみならず、目まで見えなくなってしまったのかしら?」
「罰じゃないですか?いくら頭おかしくなってる大変な奥さんとはいえ、まだ彼女が生きてる間に若いジェイン・エアと恋仲になるなんて……当時の道徳観としては許されざることだから」
何人もの学生が手を挙げたうち、アンダーソン教授が当てた女学生がそう答えた。再びサッと数人の手が上がるが、今度は少し数が減っている。そして次の瞬間、ロイは自分が当てられたかのように、心臓が一際高鳴った。何故といって、当てられたのは彼憧れのリズ・パーカーだったから!
「これは、『ジェイン・エア』の解説書に書いてあったことなので、正確にはわたしの意見ではないと先にお断りしておきます」と、そう前置きしてからリズは続けた。「『ジェイン・エア』において最後、ロチェスター氏の目が見えなくなり、そんな彼のことをジェインが献身的に支えるというラストは、そうなることでふたりが男と女として対等になる……そう暗示する効果があるのではないかということでした。孤児院出身の身分の低いジェインが、身分が高く元は資産もあるロチェスター氏と対等になるためには、彼が片腕を失い目が見えなくなることでようやく叶うという、当時の社会背景としてはそうしたことだったのではないかと。そんなの、おかしいじゃありませんか?と、作者であるシャーロット・ブロンテが考えたかどうかまではわかりません。けれど、その後約百七十年にもなる時代を生きるわたしたちにはそのように読める、ということです」
アンダーソン教授は、「ふたりともありがとう」と言ってから続けた。
「アンバーの意見もリズの意見も、どちらもわたしは正しいと思うわ。そうね。リズの言ったことにひとつだけ付け加えるとすれば、シャーロットが何故ああしたラストにしたかといえば、お父さんの眼疾のこともあっただろうと言われているのね。また、アンバーの指摘したとおり、頭のおかしい奥さんの生存中から若い娘に手をだすだなんて、当時の社会としては道徳的にあってはならないことだし、そこでロチェスター氏にシャーロットは罰を下すことで読者に許しを乞おうとしたのかもしれない。けれど、より現代的な読み方としては、ふたりの関係はそうなることで男と女として対等になる……そういうことよね。みんなもちょっと想像してみてちょうだい。もし片腕がなく、目が見えなかったとしたら――のちに、片目のみ視力を快復したにしても――ロチェスター氏は当然、ジェイン・エアに頼りきりになるわけよね。それこそもう、他の若い娘になんて手を触れることすらしないでしょうよ。そんなにも献身的に仕えてくれる女性がいるのに浮気なんてとんでもないし、そんなことをしてジェインの心が離れていくことをこそ恐れるはずよ。だから、もしこれからあなたたちの恋人か、あるいはこれから恋人になる人が出来たとしたら……向こうがもし強権的な態度で、あなたの女性性を貶めるようなことをしてきたら、こう言ってやるといいわ。『あなたの目が今すぐ、不可思議な方法で見えなくなればいいのに』って。そしたら相手は言うわ。『ええっ!?なんだって』ってね。『ジェイン・エアでも読みなさい』って、あなたのほうでは言ってやるのよ。『わたしそのうち、狂女バーサみたいになって、あなたに襲いかかるかもしれないわ』ってね」
――講義のほうは学生たちの笑い声とともに、このあとも続いた。ロイも講義を聞いているうちに『ジェイン・エア』を一度読んでみたいと思ったし、この時の講義の内容にあったブロンテ姉妹それぞれの人生というのも、実に興味深いものだったからである。
終業のベルが鳴ると、「次はみんなお楽しみの『嵐ヶ丘』よ!」と言って、アンダーソン教授は来た時と同じ、妙に意志のある颯爽とした歩みによって去っていった。
その後、ロイは予想通りの、女性に特有のきゃぴきゃぴ、ぺちゃくちゃした雰囲気の流れに混ざるようにして、その場をあとにした。ロイにとって時間が過ぎるのはあっという間だった。何より、リズ・パーカーがいるのと同じ空間にいられるというだけで……彼にとっては時間の流れ方さえまったく変わってしまうようであった。さらには、彼女のよく通る声まで聞くことが出来た日には、天にも昇る心地だったといって決して過言でない。
この時、ロイはリズとミランダとコニーの三人が教室を出ていくギリギリまで――ずっとその場に留まっていたのだが、彼が人の流れの最後のほうにくっついていこうとした時のことだった。
「君、見ない顔だね。少なくとも、文学部の学生じゃないだろ?」
ワイシャツにキチッとネクタイを締めた、セーター姿の学生にロイは呼びとめられた。彼の後ろには同じように品行方正でいかにも真面目……といった雰囲気の男子学生がふたり、ついてきている。
「ああ、うん。テス・アンダーソン教授の講義がすこぶる面白いと噂で聞いたもんで、一度どんなもんかと物見遊山で工学部からやって来たんだ」
「パゴタから、ようこそ我がアルハンブラへ」
ニック・ノリスに続いて、トム・スミスと名乗った青年が、手を差し伸べてそう言ったので――ロイは彼とも握手した。その後、一番後ろにいた背の高い学生が「ウィリアム・ミラーだ」と名乗る。
ちなみに、パゴタとは工学部の建物のことで、てっぺんが東洋の寺院の尖塔のように見えるところから来ている。一方、文学部の建物はアルハンブラと呼ばれた。薄薔薇色の建物の外観が、どことなくアルハンブラ宮殿に似ているというのが、その由来らしい。
「で、どうだった?テス・アンダーソン教授の講義は?」
四人は一階のロビーにたむろすると、自己紹介がてらなんとなくそこで話をすることになった。なんでも、彼ら三人はテス・アンダーソン教授の講義が必須だから受けているというそれだけで――いつも女学生の姿で満杯なのには、心底辟易しているという。「だから、君みたいに貴重な男性の姿を見かけると、声をかけずにいられなかったのさ」と。
「んー……結構面白かったかな。オレ、『ジェイン・エア』なんて一度も読んだことないけど、今回の授業でなんかすっかり知ったような気分になったし」
三人はほぼ同時にどっと笑った。
「はははっ!そうなんだよなー、文学部ってさ、覚悟はしてたけど、はっきし言って毎日読書地獄なんだよ」と、トム。「アンダーソン教授もそうだけど、他の教授連もさ、大体のところあらすじ読んでレポート提出したりすると、もうバレバレなんだよな。シェイクスピアのソネットについてどうたら、ジェーン・オースティンの文体がこうたら……入学してまだ3か月にもならないってのに、もううんざりだよ」
「うんざりって……でも、君たち文学が好きで、そのことについて学びたくてここへ来たんだろう?ええと、確か今年のユトレイシア大・文学部の倍率は23倍だったとかって聞いたけど。その難関をようやくくぐり抜けたんじゃないか。どうにかうまく学生生活を楽しまなきゃもったいないよ」
自分がそんな説教の出来た義理じゃない――そうわかっていたが、彼らはきっと工学部のことなんて何も知らないに違いない。だから、ロイにとってこれはあくまで一般論である。
「僕たちはね、ウィリアムが作家志望、トムが編集者、僕が詩人志望なんだ。笑っちゃうだろ?まあ、トムの編集者になって出版社に就職っていうのは一番現実的かな。ウィリアムもいいもの書いてる。けどまあ、僕は羊のように夢を見ては食べて寝てってタイプの詩人だな。農学部の連中が世話してる羊牧場の横を通りかかるたび、そう思うよ」
「いや、ニックだっていいもの書いてんだぜ」と、ウィリアム。「『若者よ、心せよ。青春の時は短い。若者よ、心せよ。時はうつろい過ぎゆく、夕べのひとときのように。そして宵の明星が……」
そうウィリアムが詩の暗誦をはじめると、ニックが突然「わーっ!」と叫び、真っ赤になってウィリアムの口を塞ぐ。
「そう照れることもないだろ」と、トム。「一年生にして、ユトレイシア大・文藝集の秋号に載ったくらいなのにさ」
ロイも、トムとウィリアムにつられるようにして、真っ赤になっているニックを囲んで笑った。工学部の学生たちとは気が合いそうにないのに、何故か彼らとは波長が合いそうだった。
このあとも四人は、なんとなくくだらないおしゃべりを続け、その後、文学部の建物の前で別れた。三人はカフェテリアで軽く食事してから帰宅する予定だという。
(『若者よ、心せよ』か……)
確かにまだ、ロイの大学生活もはじまったばかりだった。ところが、入学早々「IQ180」だの、「すでに起業している金持ち」、「親父は有名物理学者のハリー・ルイス」だのいう噂が広まり――さらに、教授の中には幼い頃から家族ぐるみのつきあいをしている先生方までいたため、ある種のやっかみから、現在ロイには同じ学部にテディ以外友達がひとりもいない。
(テディはいいよな。ラーメン屋でアメフト部の連中に話しかけたみたいに、物怖じしないで誰とでも普通に話す感じだし……向こうが「話しかけられたくない」ってオーラだしてても、まるっきり無視してるくらいだから)
この時ロイは、まだ紅葉しきっていない欅の並木道を歩きつつ、真っ直ぐ家へ帰るところだった。地下鉄に乗った場合、二つ分の駅を移動することになるが、歩いて帰れないほど遠い距離でもない。ゆえにロイは時々、考えごとをしたい時など、歩いて家まで戻ることがよくあったのである。
(きっと、リズ・パーカーだってそうだよ。オレみたいな奴とつきあったって、彼女に何かメリットがあるってわけでもない。そうだよなあ。何かこう、ちょっとした便利なアプリっていうんじゃなく、もっとみんなをアッと言わせる発明でもして、大学新聞のトップを飾るとか、そんくらいになんないと……いや、待て。その前にすでに彼女にはステディな恋人ってやつがいるかもしれないし……)
ロイがそんなことをうだうだ考えつつ、赤や茶色のレンガで出来ていることから、通称「赤レンガ」と呼ばれる法科の建物のほうへ向かっていると――「ロイーっ!!」と叫びつつ、彼の後ろから走ってくる小さな白い影があった。何故白い影かといえば、その日テディは膝丈まである長さの、白いロングコートを着ていたからである。
「ロイっ!!ぼく、すごい情報仕入れてきちゃったよ!だから聞いて聞いてっ」
「ええ!?まさか、全自動栗皮剥き機の青写真が、頭の中でだけ完成したとか、そんな話じゃないんだろう?」
そう軽い調子で応じると、テディは鼻をすすりながら全力で笑った。いつもの気安い調子で、ロイの背中をばんばん叩いてくる。
「ちっがーうっ!ぼくが言ってんのはね、ロイの憧れのリズ・パーカーに関することさ。ぼくのユトレイシア大学内における情報収集力をなめるなよっ」
「ふうん。それで?007はボンド・ガールのどんな情報を仕入れてきたっていうんだ?」
――このあと、枯葉の敷きつめられた、松かさが幾つも落ちている小径を歩く間、セオドア・ライリーは次のようなことを親友に話して聞かせたのである。
微分積の講義を受けたあと、死ぬほど腹のすいていたテディはカフェテリアへ向かった。彼にとって無二の親友のほうは、スニッカーズ一本で昼食を済ませ、これからさらに単位を取る必要すらない文学部の講義を受けるつもりであるという。(しかも例のレズビアン教授による『フェミニスト講座』だって?酔狂にもほどがある)とテディは思ったが、これもまたアンブレラの君のせいらしいとわかっていたため、彼はロイと別れると、ひとりカフェテリアへ向かったのである。
そこには、学生たちが整然と並んだテーブルに、グループごとに別れて雑然と食事する、いつもの光景があった。テディはダブルチーズバーガーとポテトを頼み、コーラをセルフサービスで紙コップに入れた。ハンバーガーのほうはマクドナルド並の速さでトレイの上に置かれている。
テディはいつでも、休みなく自分の研究のことで頭を働かせているため――ひとりで食事をすることもまったく苦にならないタイプだった。けれどこの時は、華やかな女性たちに囲まれ、サンドイッチを食べているマイケル・デバージの姿に気づくと、そちらへ突進していったのである。
「ねえ、今ちょっといい?」
かなり強引な形で会話の間に割り込むと、マイケル自身はもちろんのこと、彼の取り巻きらしい女性たちまでもがギョッとしたように驚いている。
「……ああ。もちろんいいけど、大事な話かい?」
「うん。ぼくにとっては死ぬほど大切な話。だから、ちょっと……」
テディはきょろきょろすると、カフェテリアの隅の空いている席のほうを目で示した。そして言う。
「あっちのほうで少し、ふたりきりで話せないかな」
「そうか。わかったよ」
女学生の何人かが「ちょっと、マイケル……」と、彼の腕に手をかけてきたが、マイケルのほうでは「またあとでな」と素っ気なく言って、テディが先に陣取った隅の席のほうへ移動したわけである。
「君、変わってるなあ。というか、本当に勇気があるんだな。で、話って?」
マイケルはBLTサンドの最後の一口を口の中へ放り込むと、トレイの上にあったナプキンで軽く手を拭いている。
「あのキレーな女の人たちが、『何よ、あのガキ』だの、『どこの学部の一年坊よ?』みたいにぶうぶう言ってるのなら聞こえたよ。お兄さんさ、あんなのほんとに楽しいの?ぼくだったらたぶんそのうち、『たまにはゆっくりメシくらいひとりで食わせろっ!』とかって怒鳴っちゃいそう」
「はははっ!まあなあ。確かにそんなふうに思うこともあるさ。それに、俺だってあんなのが本当の『モテ』だなんてまるきり思ってない。もし俺がこれから何か小さな事件でも起こしてみろ。たとえば、実は麻薬のディーラーと関わりがあったなんていうその手の類のな。俺がユトレイシア大のクォーターバックっていう身分を剥奪されたら、もうそれきり誰ひとりとして見向きもしなくなるだろうさ。だからあんなのは、ほんとの『モテ』なんてものとは遥かに程遠い」
「お兄さんさ、美女は誰でもヨリドリミドリなのはわかるけど……誰かちゃんとした恋人っていないの?」
「そうなだなあ。ほんのちょっと前までいたんだがな。けどまあ、練習練習で忙しくて、デートもままならんみたいな生活が続くうち、いつの間にか振られてたよ」
「そっかあ。モテる男ってのは大変だね。お兄さんがその誰かと別れた途端、他の女たちが残飯を漁るハイエナみたいに群がってきたんだね……同情しちゃうよ」
ここで、マイケルはぶっとコーヒーを吹きそうになった。さも愉快そうにげらげら笑いだす。
「俺はイタリア料理店の裏口横にあるゴミ箱かよ。まあ、いいさ。元々の俺ってのは、そもそもがそんなもんだ。で?俺に話ってのはなんだ?」
「お兄さんさ、あの時ラーメン屋さんにいたあのお姉さんたち……リズ・パーカーって人のこと、知らない?」
マイケルはどことなく精神的な顔立ちをした青年だったが、この時だけ一瞬殺意にギラつくような目をして、テディのことを見返していた。テディのほうではダブルチーズバーガーを食べるのに夢中で、気づいてないようではあったが。
「リズか。もちろん知ってるさ。まあ、知ってるなんて言っても、変な意味じゃない。簡単にいえば幼馴染みなんだ。小さい頃、家が割と近くて……けどまあ、その後俺んちのほうが引っ越したんだ。兄貴が商売でヘマやらかして、家族全員頭吹っとばすぞ、なんて脅されてたもんでな。同じ場所にはもう住めなかった」
「それ、もしかしてマフィアかなんか?ドラマみたいだね」
呑気にあむあむポテトを食べるテディを横目に見て、再びマイケルは笑いがこみ上げてきた。やはり彼もまた、ユトレイシア大の多くの学生を占める<いいところのお坊ちゃん階層>といったところなのだろう。
「まあ、俺の話なんかどうでもいいよな。で、数年離れて暮らしてたわけだが、びっくりしたことには去年、ここで再会したわけだ。学内であったハロウィーン・パーティで、俺はアイアンマンの仮装して、リズのほうではティンカー・ベルだった。お互いのことがわかるなり、大笑いしたよ」
「へえ。あのお姉さんがティンカー・ベルっていうのはわかるけど、お兄さん、アイアンマンやってたんなら、マスクしてて顔なんてわからなかったんじゃない?」
「いやいや、あんまり息苦しいもんで、マスクのほうは時々取ったりしてたのさ。あの時、ラーメン屋で俺の横にいたケネスな。あいつはスパイダーマンだったんだが、もろ変態そのものだったよ」
その時のことを思いだしたのかどうか、マイケルは腹を折り曲げることさえして笑いだしている。彼はもしかしたら笑い上戸なのかもしれない。
「ああ、すまんすまん。リズの話だったな。それで、彼女の一体何が聞きたいんだ?」
ここでテディは何故か、もじもじしだした。『親友が傘を返したいって言ってるんだけど、彼女には恋人なんているの?』と聞くというのも、なんとなくおかしい気がする。
「あの人、今誰かつきあってる特定の人なんているのかな?」
「えっ!?坊や、リズみたいのが好みなのかい?いやまあ、俺もそうしょっちゅう彼女に会うわけじゃないからなんとも言えんが……それでもまあ、今はいないんじゃないか。とはいえ、ボランティア部の連中の中にはリズ目当てで老人ホームだなんだと同行訪問しにいくけしからん輩もいるらしいからな。坊主も決して油断はできんぞ」
(まったく、あいつも罪な女だな。またこうして犠牲者が誕生するのか……)
マイケルは内心そう思ったが、口に出してはあえで何も言わず、ただ首を左右に振った。
「違うよ。あのお姉さんを好きなのはぼくじゃないよ。それよか、そのボランティア部ってなに?ぼく初耳だな。大学内にそんな部があるの?」
「ああ、まあな。そういや、坊主はどこかの部に所属してたりするのかい?」
「そうだね。ロボコン部には一応所属してる。日本のマンガやアニメのオタクが多くて、ああいうのに出てくるロボットなんかを造るにはどうしたらいいかとか、ほとんど無益な議論に長い時間を費やしてるところだよ。そっかー、なるほど。リズ・パーカーには今、はっきりとはわかんないけど、たぶん恋人はいない、ボランティア部に所属してて結構モテる、と……よしよし、情報としては十分だぞ」
テディはバーベキューソースでべとべとの口許をナプキンで拭うと、満足そうににっこり笑った。
「お兄さん、ありがとう。踏み板の下でサメみたいにお兄さんのことを狙ってる、あのキレーなお姉さんのとこにもう戻っていいよ」
「おいおい、そりゃないぜ。情報さえ絞り取ったら、俺はもう用なしってことかよ?」
「うん、はっきり言えばそうだけど……でも、ぼくお兄さんに借り作っちゃったってことだから、今後ぼくで何か役立つことがあったらなんでも協力するよ。もっとも、工学部の暗いチビのオタクに、お兄さんみたいなヒエラルキーの頂点にいる人が、なんか用があるとも思えないけど」
ここでもまた、マイケルはいかにも愉快そうに笑った。大学内のスターの地位に押し上げられてからは、こんなことはとんとないことだったからである。
「おまえも随分はっきり事実を明らかにするな。が、まあ気に入ったよ。俺はただ、昔の幼馴染みのことを何かのついでにちょいと二、三しゃべったってだけのことだ。何も坊主が恩義に感じる必要もない。しかも、友人のために動いたっていうのであれば尚更だ。だが、ひとつだけ聞かせてくれんかね。そのリズのことを好きだっていう友人とやらは、あの時ラーメン屋にいたどっちの男のことなのかね?」
「ヒ・ミ・ツーッ!!秘密だよ。ぼくはこれでも一応、友情に厚い男なんだ。絶対お兄さん、次にどっかでリズ・パーカーに会ったら、工学部のおかしなチビが、おまえに彼氏はおらんのかと聞いてたよ……とかなんとか言うでしょ。だから絶対言わない」
「そうか。まあ確かにな。でもその後、もし俺の提供した情報が元でそいつとリズがうまくいったとしたら、その時には教えてくれよ。あと、俺は坊主より年上とはいえ、おまえの兄貴じゃない。マイケルだ」
「言われてみたら、ほんとそうだね、マイケル。あと、ぼくは坊主じゃなくてセオドアだよ。みんなテディって呼ぶんだけどさ」
――といったやりとりののち、マイケル・デバージとテディはカフェテリアで別れた。そして、早くこの情報をロイに伝えたくて仕方なく、文学部の講義が終わる時間を見計らって彼の姿を探し、あとを追ってきたのであった(それまでの間、テディは図書室で時間を潰していた)。
「……というわけでね、リズ・パーカーにははっきりとは言えないまでも、彼氏とか特別な恋人ってのはいないんじゃないかって。ロイっ、これはチャンスだよっ!これからすぐにもボランティア部のほうに行って、『ユー、入部しちゃいなよ!』ってやつだって絶対っ!!」
「ボランティア部ねえ。一体何するんだろ……学内のゴミ掃除をして歩くとか?」
「そんなこと知らないよっ!第一、ボランティアの内容のことなんかこの場合もうどうでもいいじゃんか。大切なのは、そこへ行けばアンブレラの君こと、リズ・パーカーと会えるらしいってことさ。でね、彼女目当てになんか、大してしたくもないボランティアを一緒にしてるとかいうけしからん輩がもうすでに存在してるらしい。だから、ロイもさ、そのけしからん輩のナンバーいくつになるのかわかんないけど、そういうのになって、他のナンバーの若い奴らを全員蹴落としちゃえばいんだって」
「簡単に言ってくれるなあ」
テディの行動力に驚きつつ、ロイはコートのポケットから出した両手に、溜息にも似た息を吹きかけた。緩くカーブして続く薄茶色の小道はすっかり枯葉で覆われ、一歩歩くごとに足の裏でしゃりしゃりという音がする。
「でも確かに、テディがそこまでのことをしてくれたからには、オレも同じくらいの行動力を示さなきゃな。っていうか、彼女としゃべったりしたわけでもなんでもないけど……例のフェミニスト講座とやらを受けてみて、色々考えさせられることがあったんだ。テディさ、『ジェイン・エア』なんて読んだことある?」
「ないよ」と、ロイの隣に並んで歩きながら、テディは言った。「でも、内容のはほうはなんとなく知ってる。昔、夜中にやってた映画かなんかで見たんだっけなあ。ブロンテ姉妹の一番上のお姉さんが書いた小説でしょ?孤独院出身の可哀想な境遇の女教師が、エドワード・ロチェスターとかいう、自分より20も離れた金と身分のあるおっさんとなんやかやあったのち、最後はくっつくみたいな話じゃなかったっけ?」
「ええと、そうだっけな?……まあ、細かいことはどうでもいいや。そのロチェスター氏とやらがさ、最後のほうで片腕なくして目も見えなくなるっていうラストらしいんだ。けど、どうも聞いてた講義の内容によると、そのいい年して若い娘のジェイン・エアに手を出したおっさんが目が見えなくなるっていうのは――物語としてそう必然性があるわけじゃないらしい。では、ロチェスター氏は何故最後目が見えなくなるかといえば、それは身分違いのジェイン・エアとそれであればこそようやく吊りあうっていう、そういうことなんじゃないかって話だった」
ロイはこの時も、リズの透き通るような声を思いだし、何故だか体温の上がるものを感じた。
「ふうん。普段はSF小説の話しかしないロイが、純文学小説のロマンスについて語るだなんてね!こりゃ明日は雪が降るぞ」
テディは独り言のようにそう言い、遥か上空の曇り空を眺めやった。風は冷たく、空も灰色……だが、彼らの歩く先の大学敷地内にあるブナ林の上のほうを眺めやると、雲の切れ間から黄金の光の束が、秋に特有の趣きでもって輝いているところだった。
「そいでさ、うち、父さんが母さんと結婚する前から、車椅子生活だったろ?で、ヘルパーさんに来てもらって、風呂に入るのを介助してもらったりとか、オレはそういうのを小さい頃から横目で見て育ってきて……母さん、女のヘルパーさんのこと、すごい嫌がるんだよな。だから父さんの身の回りの世話をするのは、自分が出来ないことについては男の介護員さんについてもらうことがほとんどで。父さんはそういう母さんの嫉妬じみた態度をいつも笑うんだけどね。『こんな両足と片手の指が三本の男、どんな慈愛に満ちた女性でも、そんな対象として見たりしないよ』って。でも、母さんは真剣なんだ。そんなボディタッチを繰り返してるうちに、なんかの拍子に親密な関係になるかもしれない、わたしは肉体関係云々の汚らわしい話をしてるんじゃない、そういう精神的繋がりを目の前で見せつけられたりしたら、パパとは離婚することになるかもしれない……なんてね」
「まあ、ロイのうちのパパとママはいつでもラブラブだもんな。それで?その話と『ジェイン・エア』のことがどう繋がるってわけ?」
「う、うん……だからその……男と女が対等でいるには云々って話なんだ、ようするに。オレは父さんのことも母さんのことも、心から尊敬してる。オレは四人兄弟で、上の兄貴のうちふたりは特にやんちゃだったし、母さんは子育てするだけでも大変なのに、車椅子の父さんの世話を甲斐甲斐しく焼いたりしてさ。そのことに、今の今まで疑問とか持ったりしたことすらなかったけど……よく考えたら、父さんが結婚前の若い頃、雪山で遭難なんてしなかったら――怪我と凍傷で両足と右手の指を二本失ってなかったら、父さんと母さんは今みたいにろくすっぽ喧嘩すらしない仲睦まじい夫婦だったのかな、なんて……」
物理学者として高名なロイの父親は、ここユトレイシア大学のワンダーフォーゲル部の部員だった。そして、部のメンバーでグランド・ジョラスへ登山中遭難し、その後ハリー・ルイスは救助され九死に一生を得たが、この時、同じ部の友人二名が滑落し、命を落としたのである。
「そんな『もし』なんて話、今したってしょうがないじゃんか。実際現実問題として、ロイはここユトレイシア大に無事入学、ロイんとこの上の兄ちゃん二人とも、他の大学で院にまで進んだり、研究職に就いたりしてるっていう、いわゆる一般でいうエリートだろ?二番目の兄ちゃんのロドニーはここユトレイシア大付属病院で上級レジデントなんてしてるんだしさ。ロイのママの子育ての苦労は十分報われてると思うけどな」
「う、うん……オレも父さんによくこう言われてたんだ。ご婦人というやつはデリケートで繊細な生き物だから、大切にしなきゃいかんって。でも、どうなんだろう。ああいうフェミニズム的価値観によって武装した女性たちっていうのは、一体男に何を求めてるんだろうって思ったんだ。授業の最初にテス・アンダーソン教授が「フェミニズムとは何か」なんて言って、女学生たちが「あらゆる性において平等であることです、先生」なんて答えて……ああした講義を進んで受けるってことは、オレも目が見えなくなるとかして、なんらかの不具の身になったとすれば――それで、女性たちのお情けに縋ってようやく生きてるみたいになれば、彼女たちはようやく満足するってことなんだろうか?」
「ロイ、いくらなんでもそれ、考えすぎじゃない?」
テディは親友の考えすぎを無邪気に笑った。
「それよか早く、ボランティア部にお試しで入部しちゃいなって。なんとなく偽善くさくて合わないなと思ったら、すぐやめちゃってもいいんだしさ。それに、そのリズ・パーカーって人だって、間近でよく知ったら、実はロイが幻滅するような面を備えていて、おつきあいするにも及ばなかった……そんなことになる可能性だってあるんだしさ」
(ジェニファー・レイトンみたいに)と、ふと心に浮かんだ言葉については、テディはあえて口にしなかった。ジェニファーはテディの従姉妹であるため、彼女の性格について、テディはよおおく知っているつもりだった。だが、高三の時、ジェニファーのような美人に告白されたと言って舞い上がっていたロイは、その後三か月もせずに振られてしまう。簡単にいえば、彼女にとってもっと利用価値と将来性のある男が他に見つかった……といったような理由によって。
「ああ、そういえばジェニファーも、例のフェニスト講座に出席してたっけ。講義が終わったあと、媚びるような態度でアンダーソン教授の後ろにくっついていったのを見たんだ……彼女、やっぱりああいうカリスマ性のある権力者に相変わらず弱いんだろうな」
「ロイ……」
「あ、違うよ!オレはもうジニーのことなんかなんとも思っちゃいない。ただ、自分でも自分でびっくりしたんだ。ジニーのことが視界に入ってきても、べつにどうとも思わず、それよりもリズのことのほうが気になってばかりいてさ。オレ、あの人はほんと、父さんのいう『真心のある婦人』ってやつなんじゃないかっていう気がしてる。そうかあ。ボランティア部かあ……そりゃなんともあの人らしいや」
「…………………」
(今度こそ、うまくいくといいけど……)
ジェニファー・レイトンに振られたあと、ロイは学校を休んだのみならず、一週間もの間何も口に出来ず、そんな彼のことを一生懸命自分とギルバート・フォードが慰めたことを、テディは今も忘れられない。
(そうなんだよなあ。ろくに女の子とつきあったことないぼくが言うのもなんだけど、ロイはほんと純情なんだ。ジニーの時だって、あんな性悪はやめとけって再三言ったにも関わらず、『そんなことない』、『ジニーは本当に優しいいい子だよ』とかなんとか寝ぼけたこと言ってんだもんな。しまいには、ぼくが軽く妬いてんじゃないかとか言いだすから、危うくぼくらの友情はその時、終わりかけたくらいだったんだ……)
「テディ、ありがとうな」
「へっ?一体何がさ」
ふたりが欅並木を抜け、両側が石垣で出来た大きい道へ出ると、そこでは市民ボランティアが熊手で枯葉をひとところに集め、最後は袋詰めにし、トラックの荷台に乗せているところだった。
「だからさ、リズ・パーカーの話を007並みの情報収集力で集めてくれたことだよ。なんにしてもとにかく、ボランティア部のことについては少し調べてから入部してみることにするよ」
「そっかあ。ぼくはボランティアなんてめんどくさいこと、やってみようだなんてこれっぽっちも思やしない賤しい人種であるにしても……まあ、ロイに関していえば、結構合ってんじゃない?せいぜいジニーばりの計算高さで、自分がいかに慈愛に溢れたいい人間かをアピールしまくって、その計算を本物の愛だと勘違いしたリズ・パーカーが、感動して最後にはつきあってくれるといいね」
「はははっ!まあ、確かにな。ジェニファーのターゲットをロックオンしてからの行動の迅速さには、舌を巻くものな。そういえば彼女、大学でもチア部に入ったのかな。高校の時もプロムでベストカップルに選ばれるために、色々画策してたみたいだけど……オレ、彼女みたいな美人とつきあえたってだけで舞い上がっちゃって、そこから一直線に墜落することになってショックだったにしても――なんか今は、あれはあれで良かったって思えるのが不思議なんだ。だから、今度は墜落するにしても、うまくパラシュートを装着してからとか、前ほどひどいことにはならないんじゃないかって気がしてる」
「まあね。せっかく装着した肝心のパラシュートが開かなかったらどうすんの?なんていちいち心配したってしょうがないものな。それに、ロイが今度は全身打撲で見るも無惨な有様になってたら、ミイラみたいに包帯でぐるぐる巻きにして、失恋の傷はぼくが癒してあげるよ。アレンだって見舞いに花くらい持ってきてくれるだろうし、ギルに知らせればきっと、どういう事情かをあいつだって興味津々で聞きたがるに違いない」
「やれやれ。ギルの奴、オレがジェニファーに振られたって聞いた時、オレには金で買った女をあてがおうとし、ジニーに対しては、自分がちょっかい出したあとにこっぴどく振って復讐してやる……なんて言うんだもんな。あいつが将来一体どんな医者になるやら、オレは今から心配だよ」
「はははっ!医学部は大学内でも、法科と同じく閉ざされた別棟的雰囲気が強くて、同じ大学の敷地内にいても滅多なことでは会わないものな。あいつ、親父さんのヘルニア工場を継ぐために医者になるんだろ?」
<テレンス・フォードヘルニア病院>というのが、ギルバートの父親が理事長をしている個人病院の名前である。テレンス・フォード医師はユトレイシア国内におけるヘルニアの名医であって、彼のところで治らなければ、他の病院へ行く必要はない……とすら言われているようである(ちなみに、『ヘルニア工場』というのはギルバートが父親の病院を揶揄してよく口にする言葉だった)。
「うん。ただ……ギルの親父さんのほうではさ、ヘルニア工場のほうは自分の代で閉鎖してもいいと思ってるんだって。そのかわり、もしギルがなんかの専門の外科医なり内科医なりになったとするだろ?そしたら病院の看板をつけかえて、『ギルバート・フォード脳神経外科医院』だの『ギルバート・フォード産婦人科医院』だの、何かそんなふうにすればいいって考えみたいなんだ」
「あの女ったらしが産婦人科医院を開業なんかしたら、世も末だな。っていうか、今ロイの言葉を聞いて『おえっ』ときた。よく考えたらさ、あいつこそ『フェミニスト講座』とやらを受けるべきなんじゃないか?『女も愛も金で買える』とか高校時代から豪語してたくらいなんだから……きっとギルの奴、そんな講義をロイが受けたなんて聞いたら、『眉の繋がった、脇毛もすね毛も剃らない女と結婚するつもりなのか、ええ!?』なんて言って、きっと大層な剣幕で怒りだすに違いないよ」
「確かにな。『フェミニスト講座』はあいつにこそ必要な講義だ」
ふたりは互いに顔を見合わせると、共通の友人の顔を思いだして笑った。午前中も午後中も、空は雲に閉ざされて、今にも雨が降ってきそうだったにも関わらず――ふたりの歩く道の先は、突然にして雲間から顔を出した太陽の黄金と赤銅色が混ざった光によって照らされだした。その大気を浄化するような光の中、ロイとテディは大学構内を半ば逍遥しつつ、その後それぞれの家へ帰っていったのだった。
>>続く。