第10章
その後も、ロイとリズの間の交際は順調に続き――やがて、春がきた。もっとも、春休みが終わると同時(あるいは春休み中からすでに)、ユトレイシア大学の学生たちは大忙しになると言われている。というのも、6月に進級試験があるため、試験に備えて勉強する、それ以前に提出すべきレポートなどを揃える、履修し忘れていた単位を取得する……などなど、やるべきことはたくさんあったからである。
流石にリズもロイもこの時期はデートの回数を減らしたのみならず、ボランティア施設へ行く回数も自然減ってしまった。もっとも、このあたりについては毎年のことなので、事情については軽く説明しただけで誰からもすぐわかってはもらえるのだが。
そんな中、お互いに時間を合わせて会えるひと時というのは貴重なもので、四月中旬のその週末、ロイはるんるん気分でリズのアパートへ向かった。地下鉄を降りると、通りはチェリーブロッサムが満開であり、他にも木蓮や連翹など、春の訪れを知らせる花々があちらでもこちらでも美しく咲き乱れており――空気の中に混ざる、春という季節にだけ特有の香気に、ロイは幸せな酔い心地すら覚えるほどだった。
リズのアパートへやって来るまでの途中にある、例の不気味な公営住宅も、とうとうすっかり解体され、新しくマンションが建設される予定らしい。リズ曰く、「このあたり、少しずつ地価が上がってきてるらしいのよ。ほら、ここ十年くらいかな。正確にはもっと前からとは思うけど、右岸にいた元は中間層くらいの生活ぶりだった人たちが、景気が悪くなってことで下層階級になって左岸のほうへ移動してきたのね。そしたら、大体橋のたもとから少しいったところくらいの場所から少しずつ、街並みが変わってきて……まあ、そこの公営住宅の跡地も、そうした人たち向けの住居に生まれ変わるというわけなのよ」――とのことだった。
昼間、当然リズは留守にしていることが多いため、この斜め向かいのブロックにある建物の建設中の音などは、ほとんど気にしていないことが多い。だがこの土曜日、しょっちゅう生コンクリートミキサー車が行ったり来たりするのみならず、カン、カーンというボルトか何かを撃ち込むような音もしょっちゅう響き……ロイはその音の響きのうるささに、階段を上がる途中からでもすぐ気づいていた。
そして、(通りの1ブロック向こうだっていうのに、結構うるさいもんだな)と思いつつ、すっかり上り慣れた階段を、軽く汗ばみつつ三階まで上がり――例の芸術的セックス・サスペンス絵画については、すっかり壁を飾る名画としてお馴染みになった――それから彼が四階へ階段を数段のぼった時のことだった。踊り場に置かれた例のアンティーク風ベンチに、妖婆が座って煙草をふかす姿と出会ったのである。
「こんにちは」
もう何度もここで出会うのみならず、リズと一緒に世間話をしたりもしているため、ロイは気安く挨拶した。いつも、ロイひとりの時には彼女――シャロン・キャノンはろくに返事すらしない。だが、ロイはまったく気にしなかった。彼女のようなタイプの老人というのは、ボランティア先の福祉施設などではまるで珍しくなかったからである。
「あんた、ちょっと時間あるかい」
ゆえに、この時五階へ向かおうとした背中にそう声をかけられた時には……ロイは心底驚いたものである。
「なんだい?もしかして副流煙でも気にしてんのかい?三十年後に肺ガンになりたくないから、煙草の火を消してくれっていうんなら、喜んでそうするけどね」
「いえ……べつにそういうことじゃなくて、いつもオレとリズが並んでると、ミズ・キャノンは『自分はリズとだけ話してるんだ。あんたなんか及びじゃないよ』という態度だったので、なんかびっくりして」
「ふふん。ミズ・キャノンときたもんだ。あんた、知ってるかい?フランスじゃね、随分前からマドモワゼルって言葉が禁止になってるそうだよ。なんでも、未婚かそうじゃないかとか、まだ一人前の女じゃないといった意味があるもんで、女性に対して使うのに適切でないという理由かららしいよ。あたしの若い頃なんか、マドモワゼル・シャロンとパリあたりで言われては、よくちやほやされたもんだけどね」
ロイはとりあえず、シャロンの隣に座ることにした。彼女のほうでは煙草を消すつもりはないらしく、フーッと白い煙を口や鼻から吐きだしている。
「いいんだよ。こんな気味の悪い妖怪ババアがマドモワゼル?バカも休み休み言えとか、そうはっきり言ってくれても。あたしゃ、なんでも白黒はっきりしてるほうが好きなもんでね」
「リズからは、マドモワゼル・シャロンは若い頃はそれは綺麗だったらしいと聞いてますよ。ハープを弾きながら歌を歌うコンサートを世界各地で開いて、どこの国でも歓迎されたとかって……」
「まあ、そんなのも今は昔の話さ。もし仮にあんたが四階に住む妖婆はホラ吹き上手だと内心思ってようとどうだろうと、あたしにとっちゃどうだっていい話だしね。それより、手っ取り早く本題に入ろうか。あたしがあんたに話があるとすりゃ、それはリズのことに決まってるってのはわかるね?」
もちろん、ロイはシャロンが嘘をついているとは思っていない。今は年齢とともに容色も衰え、昔は蜂蜜のように艶やかだったであろうブロンドがすっかり色褪せ、白髪にしか見えなくても……五階のリズの寝室で寝ていると、ほんの時折、ハープのそれは美しい、陶然とするような音色が聴こえてくることがあり――それは彼女の過去の真実を裏打ちするものだったといえる(もっとも、ロイはシャロンがそのハープを弾いているというより、彼女が森で捕まえた妖精でも鞭打ってハープを弾かせているに違いないと疑ってはいたが)。
「まあ、今のところオレとあなたの間にリズ以外の共通点はありませんからね」
「今のところね。なんにしても、耳をかっぽじってよくお聞き。あんた……ロイって言ったね?なんでも父親が有名な物理学者のお坊ちゃんで、右岸のいいお屋敷に住んでるそうじゃないか。だったら、そのうち機会を見て、リズをここから――このうらぶれた左岸地区から連れだすんだよ。あたしの言ってる意味が、あんたにはわかるね?」
「…………………」
シャロンからそれほど詳しく説明されずとも、彼女の言いたいことがロイにはわかっていた。ロイにしても、ずっと前、すでにリズとつきあいはじめたほんの初めの頃から――(自分が費用をだすから、ここから引っ越さないか)とは、何度となく言いかかったことがある。何故といって、この近辺であったわけではないにせよ、ラジオやテレビなどを通し、左岸のどこかで殺人事件だのレイプ殺人といったニュースが流れるたび……ロイとしてはいつでも胸の奥に不安のざわめきを覚えずにはいれなかったからである。
「そうともさ。確かに、橋から比較的近いこのあたりはね、まだしもちったあ治安のほうもいいよ。でもそれも、ほんの地獄の一丁目あたりにこの近辺が相当するってだけのことで……今新築のマンションが建とうとしてるあそこだって、夏には一体何してるやらわかんないような連中が随分出入りしてたもんだよ。そして、ここから数ブロックも行きゃ、そんな場所なんかまだまだいくらだってある。あたしゃ心配なのさ。あたしみたいな年食ったババアが物盗り目的でそんな連中にぶん殴られて死ぬとか、そんなのは大したこっちゃない。けど、リズみたいないい子がこんなババアより先に死んだとなったら……何故あの子のかわりに自分が死ななかったと、悔やんでも悔やみきれないからね」
「その、オレも一応、機会を見て遠まわしに言ってはいるんですよ。あとオレ、携帯のアプリ売って作ったりした金があるもんで、大金持ちではありませんが、ちょっとした小金持ちではあるので……金のほうは自分が出すから、頼むから右岸のオートロック付きのところにでも引っ越してくれって、縋りついて頼みたい気持ちはあるんです」
「そうだろ?わかるよ……けどあの子、結局のところなんだかんだで、ここの左岸を自分の故郷みたいに思ってんのさ。若い頃、世界中色んな国へ行ったがね、流石にアフリカのソマリアへはあたしも行ったことがない。けど、随分昔に紛争中のドキュメンタリーを見てたら……あそこの国の人たちは、あんなひどい状態の国でも、ソマリアが一番だなんて言うんだね。『ここはソマリ・ランド。自分たちの生まれた国だもの、ここよりいいとこなんてあるわけない』ってね。すぐそばでドンパチやってて、いつ死ぬかもわかんないのにだよ?あたしが思うにはね、リズにとってのソマリ・ランドがこの左岸なのさ。大袈裟な言い方をしたとすればね。だから、こっちにまだ困窮してる人や貧しさの極みにいるとか、食うや食わずで、麻薬で空腹をまぎらすってな子供がひとりもいなくなるとかしない限り――あの子はここから出ていくつもりがないんだと思うよ。直接そういう手助けをしてるってわけじゃなくても、ここから出ていくってことは、そうした人の全部を見捨てる象徴的行為だみたいに、心のどっかで思ってんのさ」
「わかります。だからオレも……リズをどう言って説得したらいいかわかんないんですよ。寝る前と朝に、チャットアプリで必ず連絡しあうんですけど、たまたま彼女が返事し忘れて寝たとかってなると、必ず電話しますしね。リズが右岸のここより安全な地域に引っ越してさえくれたら……オレのそういう精神的負担もかなり減るんですけど、そのあたり、うまく説明しないと『左岸の貧乏娘とつきあってるのが恥かしいわけ!?』とか言われて、喧嘩になりかねないんですよ」
ここで、シャロンは皺だらけの喉をのけぞらせて、さも愉快そうに笑った。
「いかにも、あの子の言いそうなこったね。かと言って、あたしがそのあたりのことをとっくり言って聞かせても、リズは聞く耳持たないだろうしね……まあ、わかったよ。ロイ、あんたにそういう気持ちがあるってことがわかっただけでもあたしにとっちゃ良かった。そのあたり、これからどうすればいいか、あたしとあんたで考えなきゃいけないね」
白い煙を吐きだすのと同時、シャロンが(もう行っていいよ)と目線で促した気がして――ロイはベンチから腰を浮かせかけて、もう一度座り直した。
「なんだい?まだなんか話でもあんのかい?」
「あのう……これもリズから聞いたことなんですが、シャロンさんは昔、ユトレイシア交響楽団で、ハーピストだったことがあるとかって……」
「そうだね。まあ、それだって遥か昔の話だよ。ハープが必要な楽曲の時だけ、よく呼ばれてたっていうね。それがどうかしたのかい?」
「もし良かったら……今度、一緒にコンサートに行きませんか?今のユトレイシア交響楽団の人の中には、もう知りあいも誰もいないかもしれませんが、もし今もクラシック音楽がお好きなら、ただで聴ける方法がなくもないというか……」
シャロンは驚いたような顔をしてロイを見たのち、おかしそうに鼻を鳴らして笑った。
「あの子はそういう言い方をする子じゃないけど、なんだい?可哀想な老婆をたまには外へ連れだしたほうがいいとか、そんなことなのかい?まあ、いつものあたしなら『余計な世話を焼こうとするんじゃないよ』とでも言って、つっけんどんにドアを閉めて部屋に入るところだけど……リズの彼氏が相手じゃ仕方ないさね。まさかとは思うけど、ただだなんて言って、実はあんたのほうでこっそり金払ってチケット買うとか、そんなことなんじゃないのかい?」
「いえ、オレやリズが定期的に行ってる老人福祉施設に、昔ユトレイシア交響楽団でヴァイオリニストをしていたっていうおじいさんがいるんですよ。で、大体月に一度ある定期公演の時、ボランティアのつきそい人が二名まで無料で入れるんです。だから、オレとシャロンさんがボランティアってことにすれば……」
「ふう~ん。でも、そんなふうに人を騙すのはやっぱりよくないよ。それに、あたしだってそんな場所まで行くのは億劫さ。だけど、差し支えなきゃ、そのヴァイオリニストとやらの名前を聞かせてくれないかい?今老人福祉施設でご厄介になってるというと、あたしが知ってる人である可能性もあるからね」
こういう時、守秘義務というのがあって、ロイのほうではそうした個人情報については一切洩らすことが出来ないことになっている。けれど、ロイはついアーロン・グリーナウェイの名前を口にしてしまっていた。可能性は低いが、もしシャロンのほうでアーロンのことを知っていたとすれば……昔話に花が咲く、そんなこともあるかもしれないと思ってのことだった。
「その人、現役時代は副コンマスをしてた人らしいんですよ。昔の若い頃のビデオを見せてもらったりしたんですが……よく考えたら、曲によってはシャロンさんも映ってる可能性、ありますよね。ええと、名前のほうがアーロン・グリーナウェイさんとおっしゃって……」
「アーロン・グリーナウェイだって!?」
その名前を聞いた途端、シャロンはまるで電撃にでも打たれたかのようだった。それまで、比較的和やかに、心通じて話すことが出来ていた気がするのに――シャロンはこれからその人物が階段の下からやって来るとばかり、急いで灰皿に煙草を押しつけて消し、深緑のドアをバシンッ!と閉め、中へ入ってしまったのである。
(もしかして、知りあいだったんだろうか……)
ロイは、やはりなんとしても守秘義務については守るべきだったのだと後悔しつつ、階段を上がってリズの部屋のインターホンを押した。合鍵のほうはすでにもらっていたが、彼女が中にいる時にはそうするのが当然の礼儀と思っていたのである。
リズはちょうど6月にある進級試験に向け、勉強しているところだった。リビングのテーブルの上には何冊もの本が積み上げられ、ノートには彼女がこれまで受けてきた講義内容について、ぎっしり書き込まれたものが広げられている。
「これ、勉強中の差し入れ」
そう言うと、ロイはノースフェイスのリュックの中から、母親が持たせてくれたフルーツケーキを取り出した。今まで、ロイの兄たちが連れてきた中の、どのガールフレンドも気に入らなかったアリシアであったが、リズのことはどうやら本当に好きらしく――ロイは彼女の悪口について聞かずに済んで、心からほっとしていた。
「わあ、わたし、ロイのお母さんの焼いたケーキ、大好き!今、紅茶入れるわね」
「ああ」
ロイはリズがフランス語で何か文章を書いていたらしいのを見て、驚いた。彼にしても、フランス語やドイツ語の講義については基礎教養の講義として受けてはいるが、あまり流暢にしゃべれるという感じではない。
「あれ?もしかしてこれ、ユゴー?」
「わかる?『レ・ミゼラブル』の有名な、ミリエル司教が銀食器を盗んだジャン・ヴァルジャンに対して、食器のみらず、銀の燭台も持っていけっていうところ。ねえ、そこの寝室の窓から夜になると遠くの教会の白い十字架が輝いているのが見えるでしょう?あそこの教会ってね、今まで、わたしの知る限り……四人くらい、右岸から左岸にやってきた牧師さんが死んで埋葬されてるのよ。簡単にいえば、そのまま右岸にいればいいのに、わざわざ左岸までやって来て、貧しい人たちと生活をともにして布教したってこと。で、こういう界隈なもんだから、そのことを面白くなく思ったマフィアの手下や、あるいは犯罪に巻き込まれるかして殺されたってことなんだけど……毎年、この牧師さんたちの殉教聖会が開かれるとね、教会中、人でいっぱいになるの。彼らはただ意味もなく危険な場所へやって来て、犬死にしたっていう人もいるけど、わたしはそうは思わないわ」
「……う、うん………」
ロイは黙り込んだ。特段盗み聞きしたというわけではないのだが、両親がリビングで息子が聞いていると気づかず、こんな話をしていたのを思い出したのである。アリシアがリズのことを手放しで褒めそやすのを聞いて――ハリーのほうではこう言った。「私はね、どっちかっていうとロイには、ジニーみたいな子とつきあって欲しかったね」、「まあどうして!?あんな上辺だけ綺麗な子より、リズみたいな子のほうが、ロイにはよっぽど似合いよ」、「学生の間は、そんな程度の軽い、浮わついたくらいの恋愛のほうがいいさ。確かにリズはいい子だと思う。でも、年齢以上に大人びているというか……どことなく殉教者的な暗い情熱を内に秘めているところが、私は気になるんだよ」――ロイとしては複雑だった。いつもは、母親が兄たちの連れてきたガールフレンドの悪口を言い、ハリーのほうでは宥める役柄だったからではない。殉教者……時々ロイは、リズがそうしたことのために本当に死ぬのではないかと、心配になることがあった。
「リズはここから……引っ越す気がないんだよね?」
リズが切り分けてくれたケーキを食べながら、ロイは珍しくそう直截的に聞いた。いつもは物凄く遠回りをして、それとなく仄めかす言い方をするのだが、下の階に住む妖婆が心の味方となり、そのお陰で力づいたせいかもしれない。
「ええ、まあね。この間取りの割に、家賃だって安いし……夏はこの五階に上がってくるまでの間に汗だくになるけど、そんなのも大したこっちゃないわ。ここの窓からは煌びやかな対岸の景色や、ユージェニー大橋の美しいイルミネーションも見ることが出来るし……どこだって住めば都よ」
「住めば都、ね。だったら、リズにとって右岸だってそうなんじゃないかな。ほら、前から言ってることだけど、オレ、やっぱりリズがここに住んでると心配なんだよ。四階に住んでるシャロンさんも言ってたよ。自分のような年寄りより先にリズみたいな若い子が死ぬことになったりしたら、死んでも死にきれない、みたいなこと」
言い方は少し違ったが、意味は同じだとロイはそう思っていた。
「まさか、一緒に暮らしたいとか、そういうことじゃないんでしょ?」
もしリズに多少なりともその意思があるのであれば、もう少し嬉しそうな顔をするはずだった。けれど、彼女はそれこそ殉教者のような、暗い顔つきをしている。
「リズがここから出て右岸の安全な地域の……それも、最低でもオートロックが付いてるようなところに引っ越してくれるんなら、オレはそれでもいいよ。だけど、リズの顔にははっきりこう書いてある。『そんなの絶対イヤだ』って」
「絶対イヤってわけじゃないわ。ただ、わたしはまだ二年で、ロイは一年……ううん、もうすぐわたしが三年であなたが二年よね。でもわたし、自分が同棲とかしてうまくいくタイプとは思えないのよ。ほら、ロイの二番目のお兄さんの奥さんと同じ感じになると思う。でも、アリスさんの場合は仕方ないわよ。旦那さんと同じレジデントで、お医者さんとして物凄く忙しい毎日を送ってるんだもの。家事のほうが疎かになっても仕方ないって、旦那さんのほうでも理解してくれると思う。だけど、わたしの場合は……」
「違うんだ、リズ。オレと一緒に暮らすのはまだ早いとか、学生のうちは勉強に専念したいとか、そういうのはオレも同じだから。ただ、毎日君が無事この部屋に辿り着いたかどうかとか、そんなことが気になって仕方ないんだ。引っ越し費用は全部オレが持つからとか、そんなのがイヤだっていうのは、オレもわかってる。だけど、大学を卒業するか、あるいは大学院に進学したとしたらそのあとも……そんな心配を続けなきゃいけない自分がイヤなんだ」
「要するに、自分のためってこと?」
「そう思ってくれてもいいよ。根本的には違うけど……この話をしようとすると、リズはそんなふうに少しずつオレの意図を変えようとしたり、悪いほうに取った振りをしてやり過ごそうとするだろ?で、オレもこんなことで喧嘩するのはイヤだから、自分の意見を引っ込める。だけど、さっきそこで下のシャロンと話したんだ。彼女も、リズのことをなるべく早くここから連れだせって。右岸でだって、殺人事件やらレイプ殺人やら、毎日のようにそうした犯罪に関するニュースはあるよ。だけど、比率として左岸のほうが犯罪の発生率が高いっていうのは、ユトレイシア市内に住んでる人間なら、誰もが知ってることなんだから」
「うん……じゃあ、少し考えてみる」
ロイはただ、溜息を着いてリズに返事をした。彼女のこうした返答というのは実は、あまりアテにならない。たぶん、自分は半月後くらいにはまた同じようなことを提案し、お互い喧嘩にならない程度のやりとりが繰り返されて終わるに違いない。
このあと、ロイは気分を変えて話を切り換えた。せっかくの美味しいフルーツケーキがまずくなると思ったせいでもある。
「さっきシャロンに、ユトレイシア交響楽団のコンサートに行かないかって誘ってみたんだ。ほら、ユトレイシア敬老園のアーロンおじいさんについて、月に一回くらい定期公演に行くだろ?だからその時、リズとシャロンのふたりでボランティアとして一緒に行くのはどうかと思って」
「それ、すごくいい案ね!」
ロイの言っていることのほうが正論であるとわかっているためだろうか、リズは拗ねたような態度をとるのやめ、途端、いつもの素直な明るい笑顔に戻っていた。
「うん……だけど、アーロン・グリーナウェイの名前を聞いた途端、怒ったみたいになって、ドアをピシャッと閉めて中に入っちゃったんだ。もしかして、知ってる人だったのかなあと思って」
「わかったわ。わたしは名探偵とは言えないけど、そのうちシャロンにそのあたりのこと、うまく聞いてみるわね。たぶん、ユトレイシア交響楽団の昔の知りあいか何かじゃない?わたし、クラシック音楽のことはよくわからないけど、ハープって、毎回毎回そう必要になるって楽器じゃないらしくてね。シャロンはもともとは声楽科の学生で、ハープのほうは仲のよかった親戚のおばさん……お母さんの妹さんに小さい頃から教わってたんですって。この妹さんもプロのハーピストだったのよ。それで、このシャーロット・ランブルさんもレコードを出してて、シャロンもCD出してるの。びっくりじゃない?」
「へええ……それはすごいね。よく考えたらネットで調べたらそういうの、出てくるかもしれないね。なんか、オレにもさっき言ってたよ。世界中あちこちコンサートをしにいったとかって」
「そうなのよ!シャロンの部屋にいったら、ロイもきっとびっくりするわよ。昔のレコードのジャケットとか、居間に飾ってあるから……ほんと、ギリシャの美神っていうくらい、そりゃ神々しくて綺麗なの。今はすっかり声も変わっちゃったけど、レコードのシャロンの歌声ときたら、コンサート会場がいつも人でいっぱいだったっていうのがよく理解できるくらいなんだから」
「ふうん。それはオレも一度聞いてみたいな」
この時、左岸から右岸へ引っ越すという話も、シャロン・キャノンの昔話についても、それきりになった。お互い、その週に大学の学部内であった面白かったことや、ボランティア先であったことを情報交換したり……そんな話で盛り上がった。夕食は一緒にスパゲッティを作って食べ――そのあと、ロイはリズと映画を一本見てから帰ってきたのである。
翌週の金曜日、ロイは<ユトレイシア敬老園>へ行き、七階の703号室にあるアーロン・グリーナウェイの部屋を訪ねた。介護職員たちの話では、ロイに心を開いて以来、他の職員たちに対しても随分打ちとけて話をするようになったとのことで……ロイ自身は大したことをしたとはまるきり思ってないのだが、時折アーロンじいさんが「遺産がどうこう」という話をする時だけ、注意するよう気をつけている。
その日も、これで一体何度目になるかわからない、「わしももう長くない……」という話が、嘆息とともにはじまる瞬間があった。すると、ロイのほうでは(またはじまったか)と思い、なるべく話を逸らすべく、心の覚悟を決めるのである。
「わしの娘は、麻薬までやっとってその後行方が知れんというのは、前にも話したろう?妻のほうはな、つい三年くらい前まで、ここの施設の別の部屋でひとり住まいしておった。ここの施設には、夫婦が住むのにちょうどいい部屋もあるのに、もうわしと一緒に暮らすのはイヤだと言ってな……いや、夫婦仲が悪かったわけではないぞ。ただ、そんなふうにお互いの部屋を時々行ったり来たりするくらいが、年を取ってからはちょうどよくなったという、それだけのことだて。ここからちょっと行った先の坂の上に墓地があるわな。妻のエマはそこに眠っておる。わしはこの通りのつむじ曲がりだもんで、親戚ですら滅多に見舞いには来ん。となると、遺産のほうはどうすべきだと思う?なあ、ロイや、ええ?」
「そうですね。オレなら慈善団体にでも寄付するかもしれませんね。あとは、ここのお世話になった介護職員の誰かに少しくらいは何か残すとか……差し出がましいようですが、行方不明の娘さんがその後どうしたか、探すという手もあるんじゃないですか?」
「はははっ。娘のジョゼフィンのことなぞ探しても、きっとろくなことはないわい。むしろ、行方なんか捜さんほうがよかったことがわかるくらいなもんだろう。それよりわしはな、ロイ、おまえさんに残したいと思っておるんじゃよ」
「前から何度も言ってるでしょう。そんなことをするなら、オレはもう二度とここへは来ません。それより、アーロンはそんなにお金を持っているのなら、新聞にでも<尋ね人>として娘さんの名前を出したらどうですか?『父、危篤』とでもその横に書いておけば……実際に今そうでなくても、きっと連絡をくれますよ。あるいは、娘のジョゼフィンさんを知っている誰かからでも……」
「ジョゼフィンは新聞なぞ読むような娘ではないわな。それに、もしジョゼフィンが『実は自分の親父は結構な金持ちだ』といったようなことを洩らしたら――まわりにいるろくてない連中にけしかけられて、確かにわしに会いに来るかもしれん。で、そんなんで実は自分の絶縁した親父はもう暫くは死なんらしいとなったらどうなる?はははっ。もしかしたらわしは殺されるかもしれんわな、遺産目当てに自分の娘にじゃぞ。わしが実の娘でも連絡なぞ取らんほうがええ言うのは、そういう意味だわい」
ロイは溜息を着くと、ちょうどかけていたCDが切れたので――「ブラームスの『運命の歌』の次は、何がいいですか?」と聞いた。「まあ、おまえさんの好きなのでもかけるがいい」とのことだったので、ロイは(どれがいいだろうな……)と思い、整然と並べられたCDの棚を、じっくり眺めやった。
(ストランヴィンスキー、ウェーバー、アーロン・コープランド、マーラー……う~ん。久しぶりにオペラでもいいかな。あ、これエディット・ピアフかあ。てか、フレンチ・ポップスの名盤がある。セルジュ・ゲンズブールやシャルル・アズナブールの懐かしの名盤も……その時代を知らないにも関わらず、懐かしいとか思っちゃう不思議さだよな)
そしてこの時、ロイはふと、その他のシャンソンやジャズ系のCDに混ざって――シャロン・キャノンの名前を発見し、心底驚いたのである!
言うまでもなく、ロイはこの時、あの妖婆の若かりし頃と言われても一切信じられない、妖精のように美しい女性がジャケットのCDを聞いてみることにしたわけである。
だが、2台のスピーカーから、陰影のある美しい歌声が流れてくるなり……アーロン・グリーナウェイの顔色が一瞬にして変わった。曲のほうはノルウェー民謡で、ロイが他にも収録曲を見てみると、スペインやイタリアの悲歌の他に、ロイが知らないような曲も随分あった。基本的にはピアノが伴奏を取っているものの、その中に時折流れる、シャロンの弾くハープの音色が、なんとも幻想的な響きを持って聴く者の耳朶を打つのだった。
「……ロイや、何故そのCDを選んだ?」
「ええと、特に深い意味はありませんよ。フレンチ・ポップスとかシャンソンでも良かったんですが……CDジャケットの女性が、あんまり美人だったもんで」
ブロンドの髪を高く結い上げ、ハープの前に座っている女性は、ギリシャ神話の女神のような白いドレスを着ていた。これを見る限り、あの今は見る影もない妖怪婆が若い頃はモテモテだったというのは本当なのだろうと――ロイにしても納得するばかりである。
「嘘をつけ!おまえさん、さては何か知っておるのだろう?言え!一体誰に何を聞いたんだっ!?」
アーロンが興奮のあまり咳き込み始めたため、ロイは痰を吐くためのプラスチック容器を彼に手渡し、背中をさすった。やがて、大きな黄色い痰を彼が吐き出すと、ロイにしてもほっとする。キッチンのほうで軽く洗ってすすぎ、それを再び床頭台の上へ戻しておく。
「ふう……やれやれ。大きな痰がでたら、何故か急に怒りまで静まったわい。そういや、おまえさん、父親だったか母親だったかのどっちかだかに、ユトレイシア交響楽団に所属しとる友人がおると言うておったな。わしはな、もうそこらへんの昔のことは蒸し返したくないもんで、ただ一言『ほう、そうか』と答えたあとは黙っておった。じゃが、そこらあたりからわしが昔どの程度のヴァイオリニストだったのどうだの、色々聞きだしたんじゃろう!?ええっ?」
「違いますよ」
病人を興奮させてすまなかったと思い、ロイは正直に話すことにした。アーロンは、以前よりは打ち解けて色々話すようになったとはいえ、疑り深い性格のほうはまるで変わりなく、一度ひとつのことに疑問を持つと、それを徹底的に追求せずにおれない性格をしていたのである(また、老人扱いされるのを嫌う割に、自分にとって都合の悪いことについては忘れた振りをするのだから困ったものである)。
「ほら、オレのガールフレンドにリズって子がいるでしょう?彼女の住んでるアパートの真下に、このシャロン・キャノンさんって人が住んでるんですよ。家庭的な料理がすごく上手な人で、オレも何度か食べさせてもらったことがあって……リズの話によれば、若い頃は歌を歌いながらハープを弾いて、世界中でコンサートしてたってことなんですよ。オレのほうでは「あの妖怪みたいな婆さんがねえ」……といった具合で、半信半疑だったものの、今、どのCDをかけようかと棚を見てたら、彼女と同じ名前を見かけたってわけなんです」
「その話、作り話ではないな?」
アーロンはなおも、疑い深げな眼差しを注いで、そう念を押した。
「こんなことで嘘をついて、一体オレにどんなメリットがあるっていうんですか?あなたからもし全財産をもぎとりたいのであれば、それこそうまいこと機嫌をとってるはずじゃないですか?でも、資産家のご両親から莫大な遺産を受け継いだとかいう小憎らしいじじいは、美人のハーピストのCDをかけたら機嫌が悪くなった……訳がわからないのは、むしろこっちのほうですよ」
「その女はな……わしの最初の妻だった女だ。エマの前のな。だが、信じられん。家庭的な料理が得意だとな?わしと結婚してる間、ろくに料理など作ったことなぞないような女だったぞ、シャロンは。そう考えた場合、まあ人違いということもありうる」
「…………………」
ロイのほうでは、人違いとは思わなかった。何故といって、アーロン・グリーナウェイの名前を聞いた時の、シャロン・キャノンのあの態度の豹変ぶりから見ても――このふたりには過去、確かに結婚していた時期があったのだと、そう考えるのが妥当というものだった。
「人というのは変わるものですよ。オレの母も言ってました。甘やかされて育ったので、結婚するまで料理ひとつしたことはなかったって。でも、家庭に入って家事をせざるをえないとなると、何分毎日のことですからね。だんだんと上達していって、今じゃ母が料理できなかった頃のことなんて、四人いる子供たちのうち、誰が聞いてもとても信じられないとしか思えないくらいですよ」
「まあな。それに、わしと離婚したあと、誰か別の男と結婚しとったかもしれんしな。それで?あの女は元気にしておるのかね。もし仮に今は年を取って聖女のように性格が丸くなっておるのだとしても……わしと結婚していた頃はそうでなかったもんでな。あんな性悪の、とんでもない女はそうはおらんかったろう。結婚する前からもあっちの男、こっちの男と浮気な女ではあったが、それは結婚してからもさっぱり変わらんかった。ある日――地方へ演奏旅行へ行って戻ってきたら、わしの知ってる男とベッドでよろしくやっておったよ。ま、それが離婚した理由さ。言うまでもなくな」
「でも、愛していたんでしょう?シャロンさんのことを……」
他に、何を聞いたらいいかもわからず、ロイは最初に頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「愛だって!?バカも休み休み言うがいい!あんなものが愛なものか。結婚しておったのは、大体二年くらいの間かね。わしにしてみれば、地獄のような苦しい二年間だったぞ……あの女はな、わしに結構な財産があると知っておったから、他の有望な若い男どもを軒並み振って、わしと結婚することを選んだのだ。そのことについてはわしも薄々気づいてはおった。が、まあ、それが若さというものなのではないかね。あんな美女が他のどの男に対してでもなく、自分に振り向いてくれた……わしのほうではシャロンのほうが金目当てだろうとなんだろうと構わんと、そう思っておった。だが――いや、これ以上のことは何も言うまい。すべてはもう済んでしまったことだ。今さらそんな過去にあったことを蒸し返したところで始まるまい」
このあと、フィンランドに古くから伝わる民謡が流れる中、ロイは暫く沈黙を守った。彼の記憶違いでなければ、随分前にリズから『若い頃はモテにモテたけど、結婚はしなかったらしいわ』と聞いた覚えがある。けれど、今ロイはシャロンがもしかしたらこのひねくれ者のアーロン・グリーナウェイのみならず、その後も誰かと再婚していた可能性もあると思っていた。その結婚が幸福なものであったかどうかはわからないし、結婚生活がうまくいかなかったからこそ、そのあたりのことを説明するのが面倒で『そもそも結婚していたことなぞない』と言ったのかもしれない。というのも、こうした老人福祉施設で入居者の話をずっと聞いているとわかるのだが――アーロン・グリーナウェイのように、自分の過去について輝かしい功績については大文字で話し、抹殺したいような語りたくない過去については小文字で話す老人というのは、実に多かったからである。
(まあ、オレだって年をとって七十くらいにでもなればそんなものだろうな。そもそも認知症にでもなってなきゃの話だけど……)
ロイがそんなことを思いつつ、CDのブックレットにある歌詞を眺めていた時のことだった(ファンに対するサービス・ショットだろうか。そこにも若かりし頃のシャロンの写真のアップが随分盛り込まれている)。アーロンは突然「わしは寝る!」と言いだし、自由の利く右手で電動ベッドを操作すると、ウィィィン……と、背もたれのあたりがゆっくり後ろへ下がっていく。
ちなみに、アーロンは自分が寝る前のことでは小うるさかった。小さな枕を脇やら足の下やらに配置したり、細長い抱き枕を抱いて寝たりするのだが――「もうちょっと上にしろ」だの「微妙に右だ」だの言っては、介護者を困惑させるのだった。週に一度来る程度のロイにとっては(このじいさんなりに人に頼ったり甘えたりしてるんだろうな。本人はそう思ってないだろうけど……)くらいなものだが、介護員たちにとってはやはり毎日のことなので、「あの偏屈じじいめ!」と、陰ではそうとしか言われてないらしい。
「眠りに就く前の音楽として、シャロンさんの歌声が適当でないなら、別のに変えますよ」
だがこの日は、ロイがいつも通りといったように枕を配置してもアーロンのほうでは特に何も言わなかった。「もう少し部屋を加湿しろ」だの、「少し温度が暑いようだわな。一度下げてくれ」といった指示もなく、「ふん!好きなのをかけるがいいわい」とだけ言って、目を閉じていた。
ロイのほうでもアーロンが本当には寝たとは思ってなく、その証拠に結局、二十分もすれば、「腰に置いた枕の位置がどうこう」と言いだしたり、あるいは「トイレに行くから車椅子を持ってこい」だの言うのが常であり、この日もちょうどそうだった。アーロンは十五分もしないうちに、「下の売店へ行くぞ」と言って、電動ベッドを再び操作して、背中のあたりを上げはじめたのだった。
「売店へ行く」=「車椅子に乗って散歩したい」の意だとわかっているロイは、アーロンに軽く手を貸し車椅子に移譲させると、彼にとっての3点セット――すなわち、左の肘下あたりに入れる小型枕、それとすっかり痩せ細っている足を隠すための高級ブランケット、最後に財布を用意して、アーロンのことを外の廊下へと連れだした。
ロイはこの日も<ボランティアの駄賃>としてコーヒー牛乳を奢ってもらい、彼が気に入りの菓子や週刊誌を買う間、ただアーロンの話につきあった。たとえば、ゴシップ誌の見出しに、某有名俳優と女優が離婚したと書いてあるのを見ては、「このことでは誰もが予言者だったわな」と言ったりといったことである。「あとは一年後に離婚するか二年後に離婚するかの違いがあるだけで……そこんとこが外れておったわけだ。結婚して半年!まったく、若いもんは堪え性がないわい」
こういう時、老人福祉施設の入居者に、「そんなこと言ったらあなただって……」などと言ってはいけないというより、詮無いことである。そもそも、人は誰しもそれが他人の家庭のことであれば、素晴らしい裁判官になれるということを見てとっても、黙っているのがいちばん穏当な態度というものだった。
結局、その後アーロンが前妻のシャロン・キャノンについてその名を口にすることはなく、娯楽室のあたりをぶらついて戻ってきてからは、「疲れた」と一言いい、今度は本当に眠ってしまった。ロイのほうでももう、「彼女と一緒にユトレイシア交響楽団の演奏を聴きにいく計画が実はあった」などとバラすつもりはない。むしろ、そんなことをする前にアーロン・グリーナウェイとシャロンの関係性がわかって、ロイは心からほっとしていたくらいだったのである。
(それがいくら「よかれ」と思い、善意でしたことであったにせよ……むしろその余計なお節介が仇になったなんていうことが、世の中にはいくらもあるってことなんだろうしな)
このあとロイは、ボランティアではリズにしか心を開かないという頑固な偏屈婆あの元を辞去した彼女と合流し、「今日のグリーナウェイ将軍のご様子」について報告した。すると、リズのほうでは「わたしのエカテリーナ女帝も、大体似たようなものよ」と笑っていたものである(その老女は、正確には名前をエステルと言ったのだが)。ボランティアで侍女役を演じているといったところのリズとしては、ロイの話を聞くたびに笑いを禁じえなかったものだった。何故といって、アーロン・グリーナウェイとエステル・エスカローエは双子といってもいいくらい性格が似通っており――もし仮にこのふたりが食堂あたりで向かいあわせに座り、二十分ばかりも話をしたならば、おそらく老人とは思えないほどの罵声の浴びせあいに発展したろうと、そのように想像されたからである。
「でもあのふたりが結婚していたことがあるだなんて、本当にびっくりね。人に歴史ありっていうけど、そのとおりだわ。世界には暗殺されていまだに犯人が捕まってない事件がいくつもあるけど……そのどれかの真相がわかっても、わたし、今ほど驚かないかもね」
アーロンから、「棚にあるCDは好きなのを持ってってええぞ」と言われていたロイは、その日ブラームスやマーラーのCDの中にシャロン・キャノンのCDも一枚混ぜて借りてきたのである。そのジャケットを丸太小屋の喫茶店で見るなり、リズはそう言っていた。
「オレもさ、アーロンからその話を聞いた時は真面目くさって聞いてたけど……今にして思うと、随分恐ろしい計画を自分は立てようとしてたんだなって思うよ。シャロンがもし仮にユトレイシア交響楽団の演奏会に『どれ、わたしも重い腰を上げていってみようかね』なんて言って、あのふたりが顔を合わせてたとしたら――たぶんきっと、とんでもないことになってたんじゃないかっていう気がする」
「そうよねえ。あのあと、わたしもシャロンから聞いたのよ。正確にはわたしの口からあれこれ聞いたってことじゃなくて、彼女のほうから色々話してくれたってことなんだけど……『わたし、シャロンが上の階にいる人間がどっかいってくれたらどんなにいいかってくらい、うるさく生活してるかしら』って聞いたらね、『リズが引っ越すっていうんなら、あんたの聞きたがってることはなんでも話してやろう』って言って、例のベンチのところでアーロンと結婚した経緯とか、大体のところ話してくれたの」
そして、アーロン・グリーナウェイとシャロン・キャノンの結婚生活というのは、大体が次のようなものだったらしい。結婚前に、コンサート活動のようなことは一切やめて家庭に入って欲しいと言われ、実際その通りにしたのだが(離婚後、そのことを後悔した)、アーロンが何かと嫉妬深く、ほんのちょっとしたことで「男に色目を使った」、「浮気した」と騒ぎ立てたこと、そして次第にそんな生活が窮屈になり、「実際には浮気してもいないのにそんなに疑うなら、本当に浮気してやれ」と思い、一度だけある男と関係を持ったところ――折悪しく、そんなところへアーロンが帰ってきて現場を見られ、離縁されたこと……「まあ、あいつも不幸な男だよ。ありもしないことを『絶対にそうだ』と思い込み、疑い深いがゆえに、悪いことが最後には本当にそうなっちまうんだからね」
ロイはリズの話をここまで聞くと、どうしても笑いを禁じえなかった。飲んでいた抹茶ラテを、思わず吹きだしそうになったほどだ。何故なら、介護員たちがこんな話をしているのを聞いたことがあったからである。『アーロン・グリーナウェイにかかったら、犬がわんわん吠えてても、「嘘つけ!おまえは猫だろう」ってことにされちまうんだからね』とか、『あの人はヴァイオリニストじゃなくて、刑事になるべきだったんだろうよ。それも、犯人にありもしないことを自白させる専門のね』といったように。
「その……さ。アーロンのそういう性格形成の成り立ちっていうか、そういうことのうちにはたぶん――厳しい音楽学校の教育ってことがあったんじゃないかと思うんだ。なんでも、中学生の時にはすでにユトレイシア音楽学校の寮の寄宿生だったってことでね。オレ、前に夜中にやってたドキュメンタリーで見たことあるよ。ようするに、そういう競い合いの厳しい環境なんだ。寮で同室になった奴より上へ行けといった感じのね……そのテレビ番組が放映になったあと、随分批判的な意見が殺到したらしい。『見ていて嫌な気分になった』とか、『子供にはもっと伸び伸び音楽教育すべきだ』とか、そういう。つまり、人間性が若干歪むような感じの教育方針で、ユトレイシア交響楽団のヴァイオリニストの椅子に座りたいとなると、そのくらいの厳しい倍率をくぐり抜けるってことになるらしい。寮の同室者が同じヴァイオリニストだったりすると、友達になるどころか、ろくに口を聞かないこともザラだって話。『将来ライバルになる奴と、何故仲良くしなきゃならないんだ?』って、14、5くらいの子が真顔でほんとにそう言うんだよ」
「なるほどねえ。しかもそれ、今から何年前かくらいの映像なんじゃない?もしそうだとしたら……アーロンが音楽学校の寮生だった頃なんて、今以上にもっと、異常なくらい厳しかった可能性もあるものね。それが世界屈指というか、世界で五指に入る楽団のひとつと言われる地位を保ち続ける秘密だなんてことになったら――わたしが親だったら、何か別の職業を子供に選ばせるところだけど、アーロンの御両親にはどうしても息子をヴァイオリニストにしたいような理由でもあったのかしら」
リズは黒糖入りタピオカ・ミルクティーを飲んで、溜息を着いた。<ユトレイシア敬老園>でロイと一緒になった時には、ボランティア後にこの丸太小屋へ立ち寄るというのがふたりの定番コースになっている。
「どうなんだろうね。なんでも、聞いたところによると、アーロンのお父さんは実業家で、お母さんはピアノが弾けたらしいけど、女学校を出たあとすぐ結婚したとかで、子供たちには金持ち子息の教養として音楽を習わせたってことらしい。だから、アーロンはヴァイオリン、アーロンの妹さんのモリーンはピアノを習ってたってことでね。それでアーロンは三歳の頃からヴァイオリンをはじめて、絶対音感があったせいかどうか、音楽の先生たちが『この子は天才だ!』とか騒いだらしくて……ええとね、これもアーロンの言葉によるとだよ。お母さんが中途半端に音楽の教養があったから、すっかりその気になっちゃったんだね。だから、家から切り離されて行きたくもない音楽学校で寮生となり、嫌々ながら音楽教育を受けていたところ、実際にはソリストになれるほどの天才的才能などはなく、ようやくのことでユトレイシア交響楽団の椅子に座ることになったって。あとはもう、他の世界のことは何も知らないから、ずっとその椅子にしがみつくことになったとかなんとか」
「ふう~ん。あの小憎らしいおじいさんがそこまでぺらぺら色々しゃべるってことは、ロイ、あなたよっぽど気に入られてるのね。それで、自分の財産をあなたに残してもいいって言ってるくらいなんでしょう?そのモリーンさんっていう妹さんは今、どうしてるのかしら?」
「随分前に亡くなったらしいよ。子供がいたかどうかまでは聞いてないけど、親御さんの決めた堅苦しい男性と結婚したとかって。でも、親戚がまるきりいないってわけでもないようだし、何もオレじゃなくても誰かしらいるんじゃないかな。単に、進んで財産を残したいほど親密ってわけじゃないとか、そういうことなんであって……」
ここで、リズはなんとなく複雑な気持ちになった。アーロン・グリーナウェイが前妻に少しばかり気前のいいところを見せて、彼の莫大な財産のいくたりかをシャロンにも残してくれたら……彼女だって息を切らせつつアパートの四階の部屋まで上がって来る必要はなくなるだろう。かたや、毎月びっくりするような金額を老人福祉施設に支払いつつ、なおかつブツクサ文句を言う金持ち老人、かたや、公的扶助によって毎月切り詰めつつ、どうにか暮らす貧乏老女――このふたりを分ける仕切りは一体なんなのだろうと、彼女は考えずにはいられない。
「リズが考えてること、わかるよ」
春の宵に包まれつつある、窓外の景色を眺めながら、ロイは言った。リラの樹の下にある花壇では、スミレやアイリスといった花が妖精のような彩りを添えている。
「あの偏屈じいさんが、他に誰にも財産を残す気がないんなら、せめてもシャロンにそのいくたりかでも残してくれたらって思ってるんだろう?」
「そうなの。だけど、問題はアーロンじいさんのことばかりでもないわ。仮にアーロンのほうで『そこまで可愛いロイが言うのなら、わしも五百歩ばかりも譲って、前の妻に金を残したろうかな』となったにしても……シャロンのほうで『そんな金、受け取りたくもないね』って感じで地面に唾を吐くんだろうから、どの道このことは考えるだけ無駄なことなんだろうなと思って」
「シャロンにとっても、二年くらいの結婚生活っていうのが、そんなにつらいものだったってことかい?」
「そうね。あんまり詳しくは聞かなかったけど……アーロンのほうではその後再婚したってことはシャロンも知ってて、三年くらい前に亡くなってるって聞いたら、随分残念がってたわ。アーロンのことなんかどうでもいいけど、後妻さんの苦労したろう気持ちはわかるから、逆にアーロンが死んでその奥さんのほうが生きてたら、クソ亭主の悪口で大いに盛り上がれただろうにってね」
「なるほどなあ」
――ロイとリズが丸太小屋の喫茶店でこんな話をした約二週間後のことだった。ロイが五月の初旬にリズのアパートの階段を上がっていくと……いつものようにシャロンは、引きずるくらいの長いガウンを着て、スパスパ煙草を吸っているところだった。
ロイにしても最早、彼女の前でアーロン・グリーナウェイの名を口にしようとは思わない。それで、『自分は何も知らない』といった顔をして、軽く会釈して通りすぎようとした時のことだった。
「そのうちあんたがやって来るのを、ずっと待ってたんだよ」
五階へ上っていこうとして、ロイは足を止めた。『今、なんとおっしゃいました?』というほとではないにせよ、多少驚きはしたからである。
「そうですか。それは嬉しいですね。オレのほうでは今も時々、あなたのCDの歌声を聴いたりしてますよ。あれ、デジタル配信できるようにしたらどうですか?そしたらお金も入ってくると思うし……」
「ふん!あんなもの、わたしにとっちゃとうに過去の遺物にすぎないからね。それに、一体どこの誰がわざわざダウンロードしてまであんな古い歌を聴くもんかね。それよりまあ、お座りよ。どうせリズから色々聞いてるんだろ?あたしはね、アーロン・グリーナウェイのことなんか今じゃもうちっともどうとも思ってやしないからね。ただ、あの時は少しびっくりしたのさ……あんたの口から誰か昔の知ってる楽団員の名前を聞くことがあるにしても、昔の亭主の名前が出てこようとは思ってもみなかったもんでね」
「まあ、確かにあのじいさんは多くの人にとって気持ちのいいじいさんとは言えないでしょうが……オレは結構好きなんですよ。財産家だから、生きてる間に媚を売って少しくらいなんか残してもらおうとか、そういうことでなしにね」
「ふふん。それを言ったらあたしだって、多くの人間にとって気持ちのいいババアとは言えないだろうさ。けどまあ、あんたと同じく、わたしにはわたしで、リズっていう気に入ってる可愛い子がいるよ。それであんた、あのひねくれ者のアーロン・グリーナウェイにどうやって取り入ったのかね?」
ロイがベンチの彼女の隣に座ろうとすると、驚いたことにシャロンは、自分の部屋の玄関のドアを開けていた。どうやら「入れ」ということらしい。
もちろん、間取りのほうは五階のリズの住んでいる部屋とまったく同じである。だが、ロイは一瞬まったくべつの異空間に足を踏み入れたような錯覚を覚えていた。廊下に敷かれたマットや、壁に並ぶドライフラワー、それに古い絵画など……すべてが、時という名の埃とともに古びた感じなのに、それが不思議とノスタルジーという名の心地よさをロイの脳に訴えてくる。ロイはシャロン・キャノンの402号室の部屋へ入るのは今が初めてではあったが、懐かしい匂いがするような気さえしていた。居間のほうも、廊下のベンチと同じ雰囲気の、アンティークなソファや家具セットで統一されており――壁には名前もわからない画家の立派な額装に包まれた絵や、年代物のフロア・スタンド、それからこれもまた古めかしいレコード・プレーヤーなどが並べられている。
ロイの個人的な意見としては、70年代の名画のワンシーンを見るような、簡単にいえばそんな雰囲気の部屋だったといえる。
「すごく趣味のいい部屋ですね」
「あんたも、リズと同じことを言うんだね。なんにせよ、見た目はともかくすべて安物だよ。アンティーク風というだけであって、本物のアンティークではないからね。どうせリズに聞いてるだろうけど、あの子とあたしは骨董品店巡りが好きなのさ……あとはユトレイシア広場で時々立つ蚤の市とかね。そういうところで、自分が本当に気に入ったものを値切って買い揃えたという、それだけのことさね。昔はわたしも、本物のビーダーマイヤー様式の家具に囲まれたお嬢さまだったってのに、まったく落ちぶれたものだよ」
特段、覗き込もうとしたわけではないのだが、ロイが開いていた寝室のほうへ目を向けると、シャロンはそちらに行って開け放していたらしい窓を閉めにいった。
「たぶん、あんたには馬鹿くさく聞こえるだろうけどね……そっちのクローゼットには昔若い頃着てた舞台衣装なんかがぎっしり入ってるんだよ。ただ、ずっとそのまんまにしてたらすっかりナフタリンくさくなっちまってね、まだ窓を開けるには寒いけど、時々そうやって空気の入れ換えをしなきゃならないんだよ」
(うちのおばあちゃんのクローゼットも、そういえば同じような樟脳の匂いがしてたっけ)とロイは思い出したが、余計なことだと思い、口には出さないでおいた。『あたしはあんたのおばあちゃんじゃないよ!』と言われそうな気がした、というのもある。
「上じゃ、リズがあんたの来るのを待ってるんだろうからね。手短に話させてもらうとすると……あんた、あの人から何を聞いたね?あたしが浮気性のどうしようもない売多だったとかなんとか、そんなことを言ってようとあたしはそんなこと、一切気にしやしない。ただ、あたしにはあたしで、あの人に多少言いたいことがなくもないもんでね。あとはあんたとリズが、あの人とあたしの話の両方を聞いて、大体その真ん中くらいのところが真実なんだろう……とでも思ってくれれば十分さ」
「まあ、それに近いことは言ってましたが、オレはあまりあのじいさんの言うことはまともに取り合ってないんですよ。特に、アーロンが自分の過去について話す時はともかくとして、そこに伴う人の評価といったことについては……あのおじいさんから見た、あくまで事の一面といったように思って、ただうんうん言って頷いてるってだけです」
「なるほどね。それがあの頑固者があんたを気に入った一番の理由かも知れないね」
そう言って、シャロンは手作りらしいパウンドケーキと紅茶をトレイにのせて、キッチンからビーズののれんをくぐって戻ってくる。この時、寝室の他にもうひとつある部屋のほうから、ピィチチチッ!と鳥の鳴き声がして、ロイはなんとなくそちらへ目をやった。
「ああ、うちではセキセイインコを飼ってるんだよ。時々籠から出して部屋の中を飛ばしてやるんだが……なんていうことはどうでもいいことさね。あたしはね、リズからアーロン・グリーナウェイのことを聞いて、自分でも驚いたのさ。何に驚いたのかというと、あんな男のことはすっかり忘れていたし、今じゃ過去の小さな汚点くらいにしか思ってなかったっていうのに――あいつが高級老人福祉施設でふんぞりかえって誰からも嫌われてるって聞いて、心の中で喜びを感じた自分に何より驚いたのさ。こんなことを言うからって、勘違いしないでおくれよ。あたしにはあの男と会いたい気持ちなんて、これっぽっちもありゃしないからね。ただ、あんたにわかるかどうか知れないが、別れた男が金はあっても不幸に暮らしてる……そのことに暗い喜びや嬉しさを感じたってだけの話さ。そして、そのくらいにはあたしの中にもあいつのことを色々思い出したり、感慨に耽ることの出来る思い出ってものがあることに、何よりあたし自身が自分で驚いたってだけのことだからね」
「実のところ、オレはシャロンのことはアーロンにほとんど何もしゃべったりはしなかったんですよ」
(公的扶助を受けて、うらぶれた暮らしをしている)とか、(その後麻薬に彩られた没落人生を送ったらしい)とも、ロイは少しも口にしたりはしなかった。
「ただ、オレがアーロンの部屋でシャロンの昔のCDを見つけてかけたら、『何か知ってるはずだ』みたいに、詰問口調で話しはじめて、あとのことは大体、オレが大して何も聞いてもいないのに、向こうで色々しゃべってくれたみたいな……そんな感じのことだったんです。アーロンのほうでも驚いてましたよ。でも、あの疑い深いじいさんも、オレのガールフレンドのアパートの真下にシャロンが住んでるだけだっていう事実で十分納得したみたいでした」
「ふうん、そうかい。あたしもね、何もあの人の過去の栄光に傷をつけてやろう……なんて目的で、こんなことを話すんじゃないよ。ただ、実際のとおりのことをそのまま話すというより――あの人は多少見栄えよく盛りつけて若いあんたに話したんじゃないかと思うわけだ。また、それの何が悪いというわけでもない。第一、年をとったら誰もがそんなものだし、そんなふうに過去のいいことだけ覚えてる老人のほうがボケずに長生きするとも、この間テレビの健康番組でやってたしね」
シャロンはソファに浅く腰かけると、どこか上品な仕種で紅茶を飲んでいた。ロイのほうでは袖椅子のほうに座っていたわけだが、背もたれにかかった古めかしいレースカバーなども、どうやら手作りの物らしい……そう見てとっていた。
「まあ、この間もらったあんたのおっかさんのケーキほど美味くはないだろうけどね、良かったらそのパウンドケーキも食べるといいよ。残ったら、リズに持っていくのに包んであげるし……それはそうと、あの人の二番目の奥さんのエマ・キャンベルはね、表向き親友だったコンサートマスター、ジャスティン・デュークの別れた奥さんなんだよ。あたしの言ってる意味、わかるかね?」
「いえ……」
(そりゃそうだろうとも)といったようにひとり頷いて、シャロンはロイのほうへは目をやらず、どこか遠い過去でも眺めるような目つきで、そのまま話を続けた。
「アーロンとジャスティンは同じ音楽学校の寮生でね、同室だったこともあったらしい。ジャスティンは大らかな性格をしていたから、特段人を押しのけて上へ行こうといったような、そうした男じゃなくてね……それでいてヴァイオリンの才能についてはズバ抜けたものを持っていたし、ピアノも上手くて、一時期は指揮者になろうかと考えてたこともあったらしい。もしジャスティンがそうしていて、指揮者になってたとしたら、アーロンはあんなに嫉妬やらライバル心やらなんやらで苦しまなくて済んだんだろうにね。言ってみればまあ、裏ではハンカチをギリギリ破れるほど噛みしめながらも、ジャスティンの前では親友面してたって時代が随分長かったってことでね。あたしも、時々ハープが必要な楽曲の時に呼ばれてたってだけだから、詳しいことは知らないよ。だけど、ユトレイシア交響楽団のコンマス及び副コンマスっていうのは、楽団員の公正な投票によって決まるものでね、そのせいもあってアーロンは、随分票取りのために頑張ってたという話だね。何分百人も楽団員がいたら、仲良しこよしの音楽クラブってわけにもいかない。個性というか、才能はあるけどアクの強い楽団員ってのが多いらしくて、まとめ上げるのはそりゃ大変なことさ。そのあたり、ジャスティンのほうに天分というか、はっきり言えばカリスマ性があったんだね。アーロンは裏で色々気配りしてたらしいけど、それでも最後まで副コンマス止まりだったわけだ……で、あたしと別れたあと、あの人はジャスティンの元奥さんのエマに急接近したらしい。これはあくまであたしの勘だがね、アーロンは自分のそういう複雑なルサンチマンを埋めるためにエマさんと再婚したんじゃないかと、そう思うわけだ」
「ええと……実は昔からエマ・キャンベルが好きだったけど、彼女はジャスティンと結婚してしまった。それが別れたので言い寄った……という可能性はありませんか?いえ、オレはあんまりそこらへんの細かいことについては、アーロンから何も聞いてないんですが」
パウンドケーキを食べながら、ロイは軽くそう疑問を口にした。アーロンの部屋にはエマ夫人の写真が飾ってあるが、昔エマ夫人と親しかった介護員が、こう言っていたことがある。『旦那さんの機嫌を窺ってばかりの、苦しい結婚生活だったみたいよ』と。これはあくまでロイの想像ではあるのだが――長年に渡って自分の癖のある性格や横暴を耐え忍んでくれた夫人を、彼は本当に愛していたのではないだろうかと、そう思わないでもなかったのである。
「そうだねえ。どう言ったらいいんだろうねえ」
シャロンは肺の奥から吐くような溜息を着いて言った。
「あたしが残念なのは、何よりその点さ。アーロンがあの人なりに奥さんを大切にしてたっていうんなら、それが一番いいんだよ。あたしは何もその事実をねじ曲げてまで、自分の言い分のほうが正しいんだなんて言うつもりはないんだからね。エマが今も生きてたら、アーロンはともかくして、彼女にならあたしも会いにいったろうね。で、『そうだよね、あいつはそういうとこあるよね、ぎゃははっ!!』なんて言って、アーロンのことを笑ってやれたらどんなに良かったか……それはそうとね、あんたはまだ若いから、ずっと密かに妬んできた男の別れた奥さんと再婚することがなんでルサンチマンを埋めることに繋がるのか、よくわからないかもしれないね。つまりそれはこういうことなんだよ。ジャスティンはカリスマ性のあるいい奴だったけど、その分モテたらしくて、いつも誰かしら女性の影があったらしい。エマが別れたのもそれが理由だった。ところが、そのジャスティンが幸せに出来なかった女と自分は結婚し、十分すぎるくらいの生活をさせてやっている……ちょっとした心理的プレッシャーじゃないかね、これは。あたしにしてみれば、これ以上もないあの性格のねじ曲がった男の復讐法だったんじゃないかと、そう思うわけだ」
「エマさんと結婚したのは、真心からの愛ではなく、策略だったということですか?」
「そこまでのことはあたしにもわからないよ。エマは美人だったし、元はユトレイシア音楽大学の在校生でもあったからね。そういった種類の音楽的教養もあれば、あたしと違って性格も優しかった。アーロンじゃなくても誰でも、エマのことを好きになったり愛したりするのは、少しも不思議なことじゃない。だけどね、あたしの時もあの人は大体似たようなことをしたからねえ。やれプレゼントだ、豪華旅行だの……あの人は風体も悪くないし、女にしてみたら『こういう人と結婚したら幸せになれるかも』なんて、ちょっとふらつくところがあるんだね。こんなに色々涙ぐましいくらい努力してくれるんだから、女は愛されてこそ幸せって言うし……みたいな具合でね。だけどねえ、簡単にいえばあの人は強迫神経症なのさ。本人は絶対認めないだろうけど、それも病院で治療を受けたほうがいいくらいのね。あんた、ピアニストのグレン・グールドのことは知ってるかい?」
「ええ、まあ。うちにCDもありますし、オレもファンですね。ピアニスト界のレジェンドのひとりなんじゃないでしょうか」
ここでもシャロンは(そうだろうとも、そうだろうとも)というように、何度も頷いている。
「アーロンは、グールドほど音楽的才能があったかどうか知らないが、ちょうどあのグールドをヴァイオリニストにしたような具合の男だったんだよ。グールドが細菌を恐れて誰とも握手しなかったっていうのは、有名な話さね。他にも、ピアノを弾けなくなったらどうしようと、色々なことを神経質すぎるくらい気にするんだね。あの人もそうだった。自分からヴァイオリンを取り上げたら何も残らないと強固なまでに思い込んでいたのさ。親から受け継いだ十分すぎるくらいの資産があるんだから、そんなに苦しいならヴァイオリンなんかやめちまえばいいのに……そうもいかないんだね。しかも、いつでもあらゆる点で自分よりも少し上をゆく壁のような男が目の前にいるわけだ。アーロンはそうしたジャスティンに対する嫉妬心やライバル心といったものを必死で隠そうとしてた。その努力が功を奏してか、楽団員の中にはそのことに気づく者はなかったようだがね……あたしがあの人と結婚してわかったのは、そうしたアーロン・グリーナウェイという男の真実の姿というやつさ。一生懸命健康のことを気にして、ちょっと手に震えが走ったというだけで、すぐ病院へ行くんだね。医者のほうでも呆れてたよ。本当にどこもなんともないというのに、『パーキンソン病か何かなのに、自分のショックのことを考えて黙ってるんじゃないか』とね。だから、『ただの風邪だ』と向こうは言ってるにも関わらず、『本当は違うんじゃないか』と疑っては、自分の担当医のことを質問攻めにするんだね。あたしに対してもそうだった。演奏旅行やなんかで家を空けるたび、『浮気してるんじゃないか』と疑っては電話してくるんだよ。しかも向こうはアメリカやらヨーロッパやら、アジアのなんとかいう国にいるわけだから、真夜中あたりに電話が来れば、あたしの声だって機嫌が悪いのが普通ってものだよ。それなのに、あたしがブツクサ文句を言うのは、『部屋に男がいるからだろう』だのなんだの……被害妄想もいいとこだよ」
その時のことを思い出したのかどうか、シャロンはさも忌々しげに「チッ」と舌打ちまでしている。
「だからね、あの人のああいう性格ってのは、ちょっとやそっとじゃ治るはずがないのさ。簡単にいえば、あたしもエマも、大体同じ運命を辿ったんじゃないかということでね……つきあってる間は、自分にそうした性癖があるってことは、気ぶりも見せやしない。普段、本当はイヤなのにグッと我慢して指揮者や音楽関係者の誰それと握手するみたいに――女を自分の罠にかけて結婚するまでは、グッと我慢して性格のおかしなところなんかはすべて全力で隠し続けるわけだ。おそらく、エマにもそうだったろうと思うよ。向こうはグッと首を死なない程度に絞めてくるんだけど、死なない程度だから、こっちもつい我慢してしまう。そうともさ……あの人は一度だってあたしに暴力を振るったことなんかなかった。女を殴るような勇気のない人だったし、何よりそうすることで自分が嫌な気持ちになるのが嫌なんだね。だけど、アーロンのあの強迫神経症には、まったく我慢ならなかったよ。なんでって、ああいう精神病っていうのは、一緒に住んでる人間とか、共感して理解しようとする人間に移ってくるものだからさ。あたしも心理学については詳しくないけど、それが転移ってものらしいよ、どうやら。それで、とうとうこのままいったら自分も頭がおかしくなるんじゃないかと思って……別れるためにわざと浮気して、家に男を引っ張り込んだんだよ。そうでもしない限りあの人とは別れられないとわかっていたからね」
「…………………」
ロイは黙ったままでいた。ただ隣の部屋から、ピィチチチッ!という、インコの鳴く声だけが聞こえてくる。
「いいんだよ。べつに、あたしが単に自己弁護してるだけなんじゃなかって言ってくれたって。ただ、あたしはアーロンと別れたことを後悔はしてないにしても、その後は悪い運命だけがあたしを待ってた。あのまま夫婦で神経症を患いながら苦しみ続けるのと、麻薬中毒になるのとどっちが苦しみとして上だったかはわからないがね……そもそも、あたしがあの人と結婚したのも、アーロンが相手なら厳しい両親も納得するだろうというのがあってね。家柄とか財産とか、釣りあいも取れててちょうどいいと思った。その上、めくるめくような愛の炎だのなんだの、そんなことまで望むのは贅沢だと思ったんだよ。それとも、愛してもいないのに結婚しようとしたから罰が当たったってことなのかどうか、あたしにもよくわからないがね……」
「本当に、アーロンのことを愛してなかったんですか?」
ロイは、ふと胸に浮かんだ疑問を口にした。もちろん、今聞いた話によれば、ロイは自分が女性でも、アーロン・グリーナウェイのことを愛せていたとは思わない。それでも、結婚の少し前くらいや結婚式の間くらいは……本当に愛していると思え、幸福でなかったのかと思ったのである。
「今までのあたしの話、聞いてたかい?なんて言うつもりはないよ。ロイ、あんたが言いたいことは大体わかるからね。そうだねえ。そもそもあたしは家族運がないのさ。両親は厳格で、上にふたつ年上の姉がいるんだが、容姿のほうがコンプレックスだらけでね。簡単にいえば、不器量というか、平たくブスと言えばいいのか……そのかわり、成績のほうはすごく良くてね、両親の気に入りは姉のほうで、あたしじゃなかった。特に母がね、明らかに姉のことを可愛がり、あたしとは差別して育てたのさ。何故かわかるかね?」
「もしかして……シャロンのお母さん自身が、同じ苦しみを持ってたからなんじゃないですか?」
ロイがこう推察したことには理由がある。というのも、シャロンにハープを教えてくれたのは、母親の妹のシャーロット・ランブルだと、リズから聞いた言葉が頭に残っていたからである。
「リズから何か聞いたかい?その通りだよ。母はね、美人の妹に強烈なコンプレックスを持ってた。自分がどんなにいい成績を取ろうがなんだろうが関係なく、いつも注目されるのは美人の妹……そしてシャーロットのほうではまた、そういうあたしの気持ちをよくわかってくれるんだね。だけど、彼女も男運がなくて、結婚することもなく若くして死んでしまった。あたしはいつでも家族から外される存在だったし、ハープを弾きながら歌を歌ってるなんて聞いた両親は、まるであたしがキャバレーで生足を上げ下げしてるみたいに思ってたくらいだからね……『恥かしい仕事だ』と言って、一度もコンサートに来てくれたことはなかったよ。わかるかい?そんなこんなであたしは、両親に認めてもらうためには『ちゃんとしたまともな男』と結婚する必要があると思ったんだよ。そしてそんな時、アーロン・グリーナウェイが涙ぐましいまでの努力をして、必死でアピールしてきたってわけさ。離婚後はね、両親の言う恥かしいような仕事をしたのは確かだね。場末のバーみたいなところで歌ったりしてるうちに……悪い男に騙されて麻薬漬けみたいな生活を送ることになったからね。あとはもう見事なまでの転落人生の標本みたいな人生だよ。最終的に麻薬の更生施設に入って、随分長い間そこにいたね。そしてその間に両親は死んだし、姉は財産をそっくり受け継いで、あたしにはビタ一文たりとも渡そうとはしなかったわけだ……今は弁護士と結婚して、子供がふたりいるようだよ。あたしの目には金目あてで結婚したみたいに見える狡猾な男なんだがね、絶縁したも同然な仲だもんで、まあまったく関係のない話ともいえるねえ」
「その……離婚したあと、再びハープを弾いて生活することは出来なかったんですか?」
「結婚する前にね、アーロンが結婚後は家庭に入って欲しいって言うもんで、結構派手な引退コンサートってのを開いちまったのさ。そんなことさえしてなけりゃ、あんなに年いってからまであの人はハープ弾いて歌うたってんだね……なんて言われても、あたしはずっと歌い続けていたろうよ。場末のバーみたいな場所じゃ、もっと流行ってる歌を、裸みたいな格好で歌わなきゃならなかったし、それでも自分の力で暮らしていけるうちは良かったがね……人はどうしたって年を取るし、そんなことばかりじゃ暮らしていけやしないよ。麻薬をやめるのはつらかったねえ。やってる間はそういう色んな人生の嫌なことを忘れてられるんだもの。ジャニス・ジョプリンも孤独を麻薬で紛らわしてたんだろうが、今にして思えばあたしも似たようなものだったんだろうね……その頃と今で何が違うかといえば、さらにそんな時期も越えて孤独ってものにもすっかり慣れちまって、なんとも思わなくなったってことだけだからねえ」
ロイは胸を突かれる思いがした。リズがここから出ていこうとしないのは、真下に住むシャロン・キャノンの存在もきっと大きかったに違いない。ロイにしても、リズに引っ越せと次に言うのは……シャロンの今の生活についても、なんらかの変化が生じない限りは無理だろうと、そう覚悟した。
「まあ、悪かったね。年寄りのくだらない愚痴話につきあわせたようなもんだし……ただ、あんたの口からアーロン・グリーナウェイの名前を聞いた途端、そういや自分はそんな名前の男と結婚していたことがあるって事実について、色々思い出したもんでね。随分長いこと、そんなことも忘れて暮らしてたってのに、一度思い出したとなったら随分昔のことが次々脳裏に閃いて――そのことについて、今はもう『あの時は苦しかった』とかなんとか、『幸せな瞬間も少しはあった』とか、評価する気すら今のあたしにはないんだよ。それが年を取るってことなんだろうけど、あの人が引退後、半身不随になったことについては……唯一気の毒に思うね。例の強迫神経症については、その後も治ったとは思われないから、いつでも張り詰めた思いでコンサートには臨んでいたんだろうし、そんなのが引退と同時にどっと緩んだあと――それまで蓄積してきたストレスが引き金になったかどうかわからないにせよ、脳梗塞なんて起こしちまったんだろうしね。その点についてだけは、あたしもあの人のことを、心底気の毒に思いますよ」
「伝えておきましょうか、アーロンにそのこと……」
「よしとくれよ」
シャロンはそう言って、さもおかしそうに手を振った。
「もちろんわかってるよ。あんたとリズは同じ種族だろうからね……あたしが今しゃべったようなことも、もし伝えるにしても、綺麗にオブラートに包んで、うまく取捨選択して、いいように言うんだろうなとわかってはいるよ。まあ、あたしのほうでは、離婚後は不幸だったらしいと伝えてくれても、まったく構わないがね。そしたらあの人は大喜びして、『自分と離婚したから罰が当たったんだ』と、鬼の首でもとったように喜ぶだろうよ。それが長生きする活力になるっていうんなら、ま、それでもいいんじゃないのかね」
このあと、シャロンはパウンドケーキの他に、美味しいミネストローネやグラタンなどを容器に入れて、ロイに持たせてくれた。彼女が話してくれたことは、ロイにとって非常に重いことだった。リズの部屋でふたりきりになってからも、ついそのことを考えてしまうあまり――心ここにあらず、というようにぼんやりしてしまったほど。
「オレさ、シャロンとアーロンは会わないほうがいいって、最初はそう思ったんだ。だけど……シャロンの話を聞くうちに、むしろ逆に会ったほうがいいんじゃないかっていう気がしてね。もしアーロンが半身不随になってもいなくて、今も矍鑠とした老人だったとしたらともかく、本人は『こんな姿、元妻どころか、他の誰にも見られたくない』っていうのが、あのじいさんの元に見舞い客がほとんど来ない理由なんだろうから……」
「でもそれは、流石に荒療治というものよ」
リズは、少し話を聞いただけで、ロイが何を考えているかわかったため――彼に合わせて同じことを考えていた。すなわち、アーロン・グリーナウェイとシャロン・キャノンが再会したとしても大事にならない方法が何かないものかどうかということを……。
「うん。そうなんだ。だから、どうしたものかと思って考えてるんだけど、なかなかいい案が思い浮かばないというか……」
だがこののち、ロイとリズが(自分たちは単にお節介なことをしようとしてるだけなんじゃないだろうか)と迷ううち、事態に変化が起きた。肺炎は老人の友、というが、この言葉は年寄りは肺炎になりやすい……という意味ではない。年を取ってなかなか死ねずに苦しんでいるが、肺炎がようやくのことで彼を天国へ召した――という、そうした意味の<友>である。いまや友達など、ほとんど誰も見舞いに来ないアーロンの元に、この肺炎という名の友が訪れ、実際のところ一時期彼は命が危うくなったのだ。
その後、やはり友達ではないとわかったのかどうか、肺炎すらもこの偏屈な老人の元を去ったあと……アーロン・グリーナウェイは一層老け込んだように見えた。そして、次にこの打撃が訪れた場合、自分は到底耐ええまいと思ったのだろう、アーロンはロイが会いにいくなり、「遺言書を作成した」とおもむろに宣告したのである。
「アーロン、お気持ちは嬉しいですが……今度こそ、本当に娘さんを探したほうがいいですよ。実際、あなたにそうする気がないなら、勝手ながらオレのほうでそういう尋ね人の広告でも出そうと思ってたくらいですからね」
「ふん!だったら、わしが死んでから、ロイよ、おまえさんの受け取った金をわしの娘を名乗る娘にでも与えればいいだけの話だろうが。いいかね、わしは随分長い間、自分はなんと不幸な人間であることだろうと自己憐憫の情に悩まされてきた。本当はな、心の奥底のほうではわかっておるのだよ。自分で思うほど自分は不幸ではない、ということはな。だが、どんなに苦しくともヴァイオリンからは離れられんし、ようやくその魔力から解放されたかと思えばこのザマよな。もしわしが、おまえさんともっと早くに出会っていて、親父さんの話を聞いておったら……間違いなくもうちっとは違う人生だったわな。だが、一生気づかずに済むよりは遥かにマシだったわい。その、ほんの小さく見える差が、どれほどのものかおまえさんにわかるかの?その後も金では買えんものをおまえさんは随分与えてくれた……まあ、簡単にいえばそういうことだて」
もう弁護士も呼んで、手遅れにならないうちに書類も作成させた、などと言うので――ロイにしても困りきってしまったのだが、この時ある妙案が彼の脳裏に閃いたのである。
「その……もしある条件を飲んでいただけるなら、アーロンの資産を少しくらいなら受けとってもいいとは思います」
「ほう、なんだね?この死に損ないに出来ることならいいがね」
アーロンはオーバーテーブルを震える手で掴み、吸いのみから水を飲んでいる。これでも、うまく飲むようにしないとすぐ咳き込んでしまう。
「シャロン・キャノンと一度だけ、会ってほしいんです」
ごほっとアーロンが噎せるのを見て、ロイは彼の背中をさすった。だが彼はこの時珍しく、「わしを殺す気か!」とまでは言わなかったのである。
「な、なんでだね?あのCDの一件以来、わしにあの女のことは少しも話しはしなかったというのに……まさかとは思うが、あの女のほうでわしに会いたがっておるとでも?」
「いえ、そんなふうには一言も言ってませんでした。ただ、脳梗塞のことを聞くと、気の毒だと……ヴァイオリンだけが生き甲斐だったのに、そんな不幸に見舞われて、神さまも随分ひどいことをなさるものだと……」
もちろん、シャロンはそんな言い方はしていない。ロイの脚色である。だが、一目さえ会えば何かが変わるのではないかと、ロイはそこに賭けたいような気がしていた。
「ふう~ん。ああいう手合いの女というのはな、ロイ、わしは年を取っても性格がそう変わるとは思わん。このわしと同じでな……が、まあ五百歩譲って、シャロンのほうでわしにどうしても会いたいというのであれば、まあ会ってもいいじゃろうな。何故といってわしはそう遠くないうちに天に召される運命なのだろうし、その前に前妻と5分くらい面会したところでどうということもないだろうよ」
「本当ですか!?」
最後の最後には承知するにせよ、相当長くごねるだろうと覚悟していただけに――案外あっさり承諾してもらえ、ロイは驚いた。
「ああ、ええとも。が、まあ、シャロンのほうで早々承知するとはわしには思えんな。ほいで、おまえさんはあれじゃろ?今度はシャロンのほうを説得するということなのだろうな。あのべっぴんのガールフレンドと一緒に……そこまで若いもんが手間暇かけて死ぬ前に一度だけ会え言うんなら、それもよかろうよ。『こんな無様に痩せ細っちまって、自分にビタ一文寄こさず離婚なんてするから罰が当たったんだろう』とあれが思おうとどうだろうと、わしはもうどうでも構わん」
「その件なんですがね、アーロン」
年寄りの逆鱗に触れるかもしれぬ、とロイにもわかっていたが、それでもやはり、言わずにはいられなかった。
「シャロンが言うには、アーロンは自分では認めないにせよ、強迫神経症だったのではないかと言うんですよ。だから、日常生活でその症状に巻き込まれることが耐え難かったと……浮気したというのも、あなたにバレるようにわざとしたことらしいです。ただ単に、あなたと別れるためだけに……」
「はははっ!そんなことをわしが今さら聞いて、驚くとでも思うのかね?わしはな、そんなことはわかっておったわい。あれがわしから解放されて自由になりたいと思っとることはな。結婚後、エマもまったく同じような様子を見せたが、エマのほうは離婚しようとまではしなかったわな。それが二度目の結婚で、他の男と結婚しようと、なんかしら似たようなもんに苦しめられるのは同じことだ……そう思っとったかどうかは知らんし、わからん。それに、エマとの間にはジョゼフィンがいたからな。ジョゼフィンが小さい頃は、とにかく子供のためとあれも思っておったろう。何より、エマがわしを恨んでおったとすればそのことだわな。わしはジョゼフィンが自分の思い通りに育たないとわかるやいなや、娘がそんなふうになったのはおまえの養育法がなっとらんかったからだと責任をすべて押しつけた。たぶん、エマは腹が立つあまり、あの時ばかりは本気でわしと離婚することを考えたかもしれん。が、エマがどんなに涙ぐましい努力を続けようと、ジョゼフィンのほうでは素行が悪くなるばかりだった。厳しいミッション系の女学校の寄宿舎にも入れてみたが、まるきり無駄だった……金をドブに捨てたようなものじゃな。わしと娘の間には大して、親子としての関係性というやつがなかった。ただ、母親のエマがあれほど愛情をかけて育てたにも関わらず、何故あんなふうにグレたのか、理解できないというそれだけでな。わしは結局、ジョゼフィンの母親に対する反抗的な態度や生意気な口答えに我慢できず、最後にはあの娘のことを打ち据えて、家から追い出した。エマにも向こうから泣いてあやまってくるまでは追うなと言った……あれからもう、何年になるかの。本当に今の今まで一度も連絡すらなく、三十年ほどにもなるわい。わしはな、ロイ。ジョゼフィンのことは探しとうない。何より、自分がしたことの結果を知るのが怖いのだ。ましてや、もっと早くにあれのことを探しておれば今ごろは……などと、そんな恐ろしいことを、この年になってから後悔とともに思い知るのが怖いのだよ」
この時もロイは、胸の奥が苦しくなった。そしてその感覚は、シャロンと彼女の部屋で話していた時のそれと酷似していたと言える。
「『後悔は、神でも癒せぬ病い』と言いますからね」
「ほう。それは一体誰の言葉だね?」
話しすぎたせいか、アーロンは一度深呼吸し、嘆息してからそう聞いた。
「詩人のエミリー・ディキンスンですよ。それで、その続きの言葉は『何故ならそれは地獄と同じものだから』と続くんです」
「フフフ……まさしく、今のわしにぴったりの言葉じゃな。ディキンスンの詩ではわしは、他に『額の汗の球の連なりは偽ることなど到底出来ない』というのが好きだわい。こうしてベッドにずっと座ってばかりいると、その言葉の意味が骨身に染みてつくづくわかるような気がするもんでな」
――こうして、ロイは気難しい老人に元妻と面会することを了承させたのであるが、問題はやはりシャロン・キャノンを説得できるかどうかであった。自分の口から言うよりも、リズからシャロンに説明してもらったほうがいいかともロイは思ったが、やはり自分から彼女の部屋を訪ね、正攻法で頼むことにしたわけである。
すると、シャロンのほうでも案外あっさりアーロンと会うことを承諾したため、ロイはむしろ狐につままれたような思いを味わうことになった。
「いや、あの人にわかっているように、あたしにもわかってはいるのさ。アーロンは特別あたしに会いたいなどとはこれっぽっちも思っちゃいまいとね。ただ、可愛いロイがそこまで言うのなら、まあ頼まれてやっても構わないという、そのくらいの気持ちだろうね。だったら、いいとも。あたしだってあの人になんぞ、ちっとも会いたくなぞありませんがね、まあ、本人が今日死ぬ、明日死ぬ、明後日死ぬ、いいや、今度こそ本当に死ぬ……と毎日言っておるのであれば、確かに偏屈者のアーロンじいさんに一度会っておいても損はあるまいよ」
――というわけで、日程の調整がなされ、その六月も近い、<ユトレイシア敬老園>の庭にも、薔薇の花が咲きはじめようとする美しい季節、シャロンはかつて二年ほど結婚生活を共にしていた男に会いにやって来た。リズはシャロンとバスで一緒に付き添ってきたのだが、アーロンの703号室の中までは入らなかった。
それは気を利かせてのことだったのだが、同じように室内にいたロイが「じゃあオレ、少し外しますね」と言うと、アーロンは「ここにいろ!」と怒鳴り、シャロンはといえばまったく同じタイミングで「ここにいておくれ!」と叫んでいたわけである。
「おやまあ。あんたも随分年を食ったもんだね。ここの施設じゃ介護員泣かせのアーロン・グリーナウェイとでも呼ばれてるに違いない。あたしには、あんたの満足する介護のできる人間なぞ、この世に存在するとは到底思えないんだがね、違うかい?」
「ハッ!減らず口だけは年を取っても変わらんわけか。やれやれ。だがな、わしがここに毎月いくら支払ってるかを聞いたら……シャロン、おまえでもわしが満足しないわけがきっとわかるだろうよ。が、まあ結局、いざという時には医者がすぐ駆けつけてくれるというのが、この施設最大のメリットだわな。そう考えたら普段介護員の質が多少悪かろうとも、とんとんといったところかもしれんわい。フハハハ!昔の別れた亭主が半身不随で半分死にかけとると知って、それを直に目で確かめられて、満足したかね?ワッハッハッ!!」
ここで、アーロンは笑っている途中、再び咳き込んでいた。ロイは彼の背を撫でたが、アーロンがこのあと発作にも近い様子を見せ、激しく咳き込んだため――ロイはナースコールを押して看護師を呼んだ。すぐに中年の引っつめ髪の看護師が現れて、アーロンが自分で吐き出せない痰をサクションチューブで吸引してくれる。
「やれやれ。こんなことのためだけに、この施設にわしは大金をはたいとるわけだわな。驚かせてすまんかったが、お陰ですっかり喉の通りがスッキリしたわい。これで暫くの間はおまえさんと普通に話せるだろうから、病人だからとて遠慮する必要はないぞ。他に、わしの気分が悪くなったり、興奮するようなことを言わないようにしよう……なぞという気遣いも余計なことだて。なんでかと言えば、シャロン、おまえさんと話して怒りのあまり興奮しようとしなかろうと、少し時間が経てば、またすぐさっきみたいに看護師を呼ぶかなんかせにゃならんもんでな。だから、本当に一切遠慮はいらん」
「あたしはね……ただ、驚いたんですよ。この感じのいい若い人がね、ユトレイシア交響楽団のコンサートをただで見れる方法がある、なんて気を遣って言うもんでね。なんでもあんた、毎月ユトレイシア交響楽団の定期公演を見に行ってるそうじゃないか。で、つきそいのボランティアがふたりまでなら無料だから、自分と一緒に行かないかと言うんだね。今はもうすでに引退して、老人福祉施設に何年も厄介になってるとなったら、まああたしと同年代だろうと思ったわけだ。もしかしたら知ってる誰かという可能性もあると思って、試しに名前を聞いたわけだよ。そしたら、『アーロン・グリーナウェイ』だなんてこの人が言うもんでね、あたしはべっくらこいたというわけさ」
「ハハハハッ!!そりゃべっくらこくわな。憎みあって別れた昔の亭主の名前を聞いたとあってはな」
アーロンは、看護師から痰を取ってもらったせいか、今度は清々しい声で笑っていた。声のほうもよく通るようで、突然元気になったようにさえ見える。
「まあ、あんただって今更あたしなんかと会って嬉しいはずもなかろう……とわかってはいましたよ。だけどね、このロイって子と、この子のガールフレンドが、こんな死にかけの老いぼれふたりのために何かと心を砕いているらしいと思ってね。だったら、とっととあんたが死ぬ前に会って大喧嘩でもしたほうが――若い人たちの時間を無駄にせずに済むだろうと思ったのさ。大方、あんたがあたしと会ってもいいって言ったのも、そんな理由からなんじゃないかい?」
「確かにな。が、まあわしもわからなくはあった。わしとおまえはもう別れて何年になるかの?ええ?軽く四十年にはなるわな。その間まったく音信不通の別れた先妻と会って、自分がどんな気持ちになるか……こんなみっともない死にかけのザマを見せて、やっぱり会うんじゃなかったと後悔するのか。が、まあ、この年になるともう、そんなこともどうでもよくなる――それが年を取るということの、いい面でもあるのだろうよ」
「同感だね。あたしだって、あんたに会って目と目が合った途端、やっぱり会いになんて来るんじゃなかったと、後悔するかもしれないと思いましたからね。けどまあ、アーロン、あんたとの面会が至極面白くない思いを味わわせられるだけのものであったにせよ……自分でわかってるわけですよ。それならそれで、『あのじじいはあのじじいで、自分とは違う意味で相変わらず哀れな人間なのだろう』と、心の中で陰湿な満足を覚えるのだろうとね」
「フハハハッ!で、どうだね?ユトレイシア交響楽団を引退後は、半身不随になったと聞いて――満足したかね?ま、わしはおまえさんと別れてからも、相変わらずといったところじゃったよ。シャロン、おまえが強迫神経症と呼ぶ症状とつきあいつつ、ユトレイシア交響楽団の副コンマスの椅子にしがみつき続け……再婚後のエマとの生活についても、エマのほうでは随分わしに対して文句があったろうと思う。が、まあ娘がひとりおったからな。娘のためにわしの欠点のある性格その他、色々我慢し続けたのだろうと思うわけだ」
「そういえば……娘にジョゼフィンと名づけたそうだね。そのことをリズから聞いた時、少し驚いたんだよ。あたしが、もし娘が生まれたらジョゼフィンと名づけたいと言ったことと、まさかとは思うけど、何か関係あったのかと思ってね」
ここで、アーロンはロイのほうをちらと見ると、(一体おまえさんはこの女にどこまで話したんだね?)というような、探るような目をしてから――オーバーテーブルの上を動くほうの指でコツコツ叩いていた。これはいつもは、アーロンが若干不機嫌になりつつあるという、介護員に対するサインであった。
「ま、エマが『娘の名前を何にするか?』と随分悩んでおったもんで……わしがちょっと横から『ジョゼフィンなんてどうだな?』みたいに一言いったわけだ。もちろん、シャロン、おまえさんがそんなことを言っとったなんてこと、エマは知らん。が、まあ、わしは娘の子育てには失敗した。あんなにエマが可愛がって大切に育てたのに、あんまり母親に反抗して『クソババア』だなんだ言って暴力を振るうもんで――わしはな、ある時我慢がならなくなって、ジョゼフィンのことを打ち据えて家から追いだしたのだ。その時のことを、後悔しなかったことは一度もない。が、まあ、同時にわしにもエマにもわかっておった。また同じことが繰り返されるのは耐え難いし、遅かれ早かれ娘のことは何かの形で追いだす以外にはなかったろうということはな」
この時、シャロンが目頭を押さえて泣きはじめるのを見て……ロイは驚いた。まさかとは思うが、自分に娘がいたら名づけようと思っていた名前をアーロンが覚えていたことに感動したのだろうか?それとも、その娘がうまく育たなかったと聞き、何か責任を覚えたということなのか――ロイにはわからなかった。
「それは……つらかったろうね。アーロン、あんたが娘のことを打ち据えたということは、それは相当よっぽどなことだったんだろう。あるいは、あたしが元の名づけ親だったのがまずかったのかもしれないね。なんにしてもあんたは、その娘さんのことを探しださなきゃいけませんよ。それが何故だかわかりますかね?なんでって、あたしだってあんたと再会したところで、何がどうなるとも思ってやしなかったのに――今はこうして一目だけでも、せめてもあんたが死ぬ前に会えて良かったと、心からそう思ってるんですからね」
この瞬間、シャロンとアーロンの心は、ロイにはよくわからないところで通じあい、繋がりあったようだった。このあとふたりは、急に礼儀正しくなったように、その後自分たちの人生がどんなだったかについて当たり障りがないようにではなく、腹を割って率直に話し合っていた。ロイもリズも、シャロンに対して、『自分たちがいるからと言って、ありのままのことをアーロンに話す必要はない。適度に誤魔化すか、あるいは嘘をつくくらいでいいのではないか』と先に言ってはおいたのだ。何も、離婚後は麻薬中毒になっただの、今は公的扶助の厄介になっているだの、なんでもありのまま話す必要まではない……そう思っていたからである。
だが、アーロンが「若い頃のおまえさんは美人だったからの。わしと別れたあとでも、男なんか引く手あまただったろうが」と言うのを聞いて、彼女はリズにもロイにも話さなかったことを語っていたのである。「悪い男に引っかかっちまってね。そいつがマフィアのボスの麻薬をちょろまかしたとかで……さんざんな目に会ったよ。そいつが拷問されて死ぬところも目の当たりにしたし、あたしがもしそのボスの情婦として気に入らなかったとしたら、あたしも酷い目に合わされて同じように死んでいたろうね。まったく、とんでもない悪徳紳士だよ。見た目、マフィアのようにはまるで見えない男なんだが、いかにもって感じのギャングなんかより、よほど質の悪い男でね……そのあたりであたしもようやく麻薬なんてものと手を切ろうと思ったわけさ」と。
今度は、アーロンが目頭を押さえるのを見て、ロイは再び驚いた。普段、よほどのことでもなければ涙を流しそうもない老人ふたりが――自分にはよく理解できないところで激昂するのを見、やはりこのふたりの間でしか通じないしわからない<何か>があるのだろうとしか思えなかったのである。
「わしはな……ジョゼフィンのことは探したくなかったのだよ。何故といって……最初は大麻、その次は麻薬か。そんなものに14歳の頃から手を出しておったらしくてな。わしはそのことでは随分エマを責めた。おまえは母親なのに、何故気づかなかったのだと、そう言ってな。そうこうするうち、16、7歳の頃にはそういう界隈に出入りして、麻薬をキメてからヤルのは最高だのなんだの、わしやエマが聞きたくもないようなことを、煙草をスッパーと吸いながら言うようになったわけだ。とはいえ、エマが甘やかして育てたからだなんだの、わしには妻を責めることは出来ん。それは当時から本当はわしにもわかっておったことだて……が、まあ、母親が説教をはじめると、気が狂ったようになって手がつけられんもんでな。ある時、エマの体を台所のところで蹴り飛ばし、食事がまずいだなんだと言うのを聞いて――あいつがエマの頭をスリッパで殴るのを見てな、わしもとうとう頭にカーッと血が上ったわけだ。気がついたら娘のことを殴っておったわい。恐ろしかったぞ……何分、その年まで人の機嫌を窺うばかりで、ろくに喧嘩すらしたことなかったもんでな。正直、そのあとのことはよく覚えとらん。ジョゼフィンのことを引っつかんで外へ追いだすと、『おまえはもうこの家の子ではない!どこへでも行ってのたれ死ね!』と、この口がそう勝手にしゃべっておったわ……」
シャロンは、「何が原因でそんなふうな娘に育ったのかね」といったように、理由については一切聞かなかった。同じ屋根の下で二年ほど暮らしたせいもあり、エマ・キャンベルのことも知っていたから、ある程度察しのほうはつくとか、そうしたことではないだろう。ただ、彼女にはそうした理屈すらも越えて、何かが「わかる」ようだった。少なくとも、ロイはそんなふうに見えた。
そしてふたりが初めて無言になったこの時、ロイはそっと部屋から出ていくことにした。アーロンもシャロンも、今度は「いておくれ」とは言わなかったし、そもそも、随分前から彼の存在自体に気づいてなかったようで、ゆえに彼が出ていったことにもまるで気づいていないようですらあった。
「どう?シャロンとアーロン……」
二階の食堂あたりを探すと、リズの姿はすぐ見つかった。それまで彼女は老人たちと一緒にテレビを見、世間話をして笑っていたのだが――ロイの姿に気づくと、椅子から立ち上がったのだった。
「いい雰囲気みたいだ……なんて言うと、誤解されそうだけど、なんて言ったらいいのかな。オレやリズが当初想像してた以上に、何か通じあってるみたいでね、最初はふたり同時に「いろ!」とか「いておくれ!」みたいに言われたもんだから、黙って様子を見てたんだけど……今はもうオレの存在自体が邪魔じゃないかと思って、出てきたんだ」
「そう。じゃあ、うまくいったのね」
リズは心底ほっとした、というような溜息を着いていた。実をいうと彼女は最後まで『自分たちは余計なお節介をしようとしているだけなのでは……』というように思い、迷っていたからである。
このあと、夕方になるまで、施設のご老人に混ざって賭け事をして遊んだあと――ロイとリズはふたり揃って再び703号室のほうまで戻った。話のほうがすっかり済んで、そろそろ暇乞いをするべき頃合……となったら、シャロンのほうで部屋を出て、詰所の看護師にでも連絡するだろうと思っていたのだが、おそるおそる室内の様子を窺ってみると、なんと!この時にはなんとも機嫌のよさそうなアーロン・グリーナウェイの笑い声が聞こえてきたのである。
「そうよなあ。ランディ・リッジウェイの奴の女たらしっぷりは、年を取っても直らんかったらしくて、こういう老人福祉施設でも同じくらいの年の若作りしたのを左右に抱えておったものよの。ま、そんな奴さんも数年前にお亡くなりになったわな。わしがホスピスに見舞いにいった数日後に息を引きとって、今度は葬式にでなならんかったわけだわい」
「へえ……まあ、ユトレイシア交響楽団時代から、男っぷりのいい人だったけど、なんでああも、チェロ弾きってのはチェロ弾いてるってだけでモテるもんなのか、あたしは理解に苦しむよ」
――このあたりでロイが部屋のドアをノックすると、「ああ、きっとロイの奴だわい」と言って、アーロンは「いつも通り遠慮なく入ってくればええのに」と、機嫌よさそうに笑っていたものである。
「さてさて、お迎えが来たようだから、そろそろわたしも帰ることにしますよ。ああ、楽しかった。昔の共通の知人やら友人やらが、その後どうなったか、大体のところわかったし……」
「ふう~ん。もうそんな時間かの。ああ、もう外のほうが暮れかかってきとるわい。夕食を食ってけと言いたいところだが、若い人らは若い人らで予定があるんだろうからのう。ま、シャロン、気が向いたらまたいつでも来ておくれ。この老いぼれが死なないうちに、最低でもあと一回くらいはな」
「ええ。また必ず来ますとも……で、二度来ても三度やって来てもあんたが死なないもんで、その後も何度も来ることになった――みたいになればいいと、今はあたしも本当にそう思ってますからね」
このあと、挨拶もそこそこに、シャロンはアーロンの動くほうの右手をぎゅっと握りしめてから、部屋のほうをあとにしていた。ロイもリズも、そう多くを聞かずとも、大体のところ雰囲気で察していた。何より、ふたりの間に『昔のある一時代を知っていた友人同士』といった空気が流れているのを見て――自分たちが想像していた以上に、おそらくは何かがうまくいったのだろう、ということが……。
翌週、アーロンは訪ねてきたロイに、「娘のジョゼフィンのことを探してみることにした」と、照れくさそうに言った。「よく考えたら、これ以上悪い知らせを聞いたところで、自分がショック死することはない」と気づいたということだった。だが、ロイにはわかるような気がした。アーロン自身が父親としてショックな真実を知ることになったとしても……今、彼にはシャロンがいる。話を聞いていて思うに、娘のジョゼフィンのことで、いかな結果がもたらされようとも――シャロンが一緒に受け止めてくれるなら、アーロンはそれがどのようなひどいものであれ、知る覚悟が出来たという、そういうことなのだろうと……。
そして、ロイとリズが進級試験に無事パスし、目前に迫った夏休みのことをあれこれ計画しだした頃のことだった。アーロンが彼の総資産の中から僅かばかりの金を使い、私立探偵が調査してみたところ、ジョゼフィン・グリーナウェイについて、以下のことが判明したのである。まず、彼女は今四十六歳で、シングル・マザーとして子供を一男一女育てていること、ノースルイスというユトレイシアから千キロ以上も離れた北部一の都市に今は住んでいること、生活のほうは大変なようだが、仕事をふたつ掛け持ちして、どうにかやっているらしいということなどなど……私立探偵の男の話によると、ジョゼフィンは母のエマが三年前に死んだと聞くと、泣き崩れたらしい。このことを聞くと、「わしよりもエマが生きておったら良かったのにな」とアーロンは寂しそうに呟いたが、ジョゼフィンは11歳の娘と10歳の息子を、彼らの祖父が死ぬ前に会わせることには同意したという。彼女自身は市場での朝早い仕事と、夜の工場での仕分け作業があり――休みも取れないため、無理だということではあったが。
なんにしても、そのようなわけで、アーロンの元には今までその存在すら知らなかった孫がふたり、夏休みを利用して会いに来るという手筈が整った。「その日が楽しみだ」とか、「今まで生きてきてこんなに嬉しかったことはない」とか、そんな言葉は彼の口から一度も洩れることはなかったが……「これでもう、赤の他人に遺産を残さなくてすみそうですね。シャロンは別としても」とロイが言うと、偏屈なアーロンじいさんは「さあ、どうかね」などと、首を傾げていたものである。「何分、このわしの孫だからな。会った五分後には、遺産など一ドル足りとも残したくないような、クソ生意気な口を聞くかもしれんて」
けれどもちろん、ロイにはわかっている。別れた先妻と再会してからというもの、アーロンはすこぶる機嫌がよいことが多く、介護員たちも「頭でも打ったかね、あの人」と、不思議がる回数が増えている。シャロンに対しても、「この老いぼれに孫がふたりもいたと!ハハハッ。長生きってのはしてみるもんだわい」と、わざわざ電話して報告したらしい。また、そのことでは随分しつこく感謝の言葉を先妻に繰り返し述べたようだった。「おまえさんに会わなんだら、とてもジョゼフィンのことを捜す勇気までは持てんかったろうな」と……。
「不思議だよねえ。ジョゼフィンってのは、あたしとの間に出来た娘じゃなくて、アーロンとエマの間の娘さ。なのになんでかあの人、あたしとの間に出来た娘みたいな言い方をすることがあるからね。ボケてきたんじゃなきゃいいけど……」
シャロンはそんなふうに言って不思議がっていたが、アーロンが強くそう望んでいるため、孫のエマとアーロンがやって来たら、一緒に会うことにしたらしい。これはロイとリズが時々話すことなのだが、アーロンとシャロンはふたりでいると、『夫婦のよう見える』というのか、むしろ『夫婦のようにしか見えない』のが不思議なのだった。また、孫よりも実の娘と再会する時のほうにアーロンは恐怖を覚えるらしく――その時にも「シャロンが一緒にいるのであれば、会ってもよい」というように、すこぶる彼女のことを頼りにしているのであった。
「ねえ、リズ。リズはさ、もしシャロンが今住んでる部屋を出て、<ユトレイシア敬老園>に通いやすいような場所に引っ越すと言ったら……その時には、君もあの部屋を出るかい?」
「そうねえ。まあ確かに、わたしも下からシャロンのハープの音色が聴こえなくなってきたら寂しいものね。わたしも、アーロンに相談されたわよ。シャロンは遺産としてこっそり残されたのならともかく、自分が生きてる間は金なんか渡そうとしても受け取りそうにないって。でも、今となってはなるべく長生きしたい自分にしてみたら、生前分与みたいな形で、いくらなりと、シャロンに渡したいらしいわよ」
結局、ロイは例の件に関しては、スタンガンをリズに渡すことで今のところ譲歩しているわけである。けれど、あれほど梃子でも動かない頑固なアーロンじいさんでさえ――死ぬまで頑ななまでに頑固という名の孤独を抱いていそうな彼でさえ変わったのを見て、アーロン・グリーナウェイよりはまだしも柔らかい心の恋人を説得できないはずがないと思い、今ロイは算段を練っているところなのであった。
>>続く。