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第二十一章その2 ふたりきりで

「あれ、みんなと行かないの!?」


「うん、夜には甘いもの食べないからね、私」


 へへっと笑顔を飛ばす宮本さんを前にして、俺はバクバクと高鳴る胸を必死で抑え込んで立ち尽くすしかなかった。


 ビジネスホテルのシングルルームに、俺と彼女のふたりきり。


 普段練習で音楽室にふたりきり、なんて別段珍しくもないのに。この時はどういうわけか……いや、どう考えてもこのシチュエーションで取り乱すなって方が無理ってもんでしょ。


「いよいよ明日だね」


 しかし宮本さんはドギマギ平静を保つことすらできない俺とは対照的に、いつもと変わらぬ落ち着いた様子で話しかけてきたのだった。


「ああ……1日前にこんなバカ騒ぎしてていいのかよって思うけど」


 俺は椅子を引いて座り込む。彼女の声を聞いていると、自分自身何を混乱していたのだろうと心も鎮まる。


「それもそれでカサキタらしくていいじゃん。緊張でガッチガチになってる徳森ちゃんなんて想像つかないよ」


「それもそうだな」


 たしかに彼女がいきなりしおらしくなった姿なんぞ想像したら、そりゃものすごく気持ち悪い。


「でしょ?」


 ふふっと口元を隠して笑う宮本さん。数秒間、俺と彼女は声を出して笑い合っていたものの、互いに一息ついたところで、見計らって俺は「ねえ宮本さん、まだ不安?」と切り出したのだった。


 何が、とは訊かなかった。だが彼女は俺が何を言いたいのか理解してくれたようで、表情を崩さないままそっと視線を逸らす。


「うん、正直言うとすっごい不安。でも前からわかっていたことだから仕方ないよ、本番最高の演奏ができるように持って行かなきゃね」


 そう言ったところで、彼女は改めてまっすぐ視線を俺に向ける。


「それに前とは違って、今は砂岡くんも、みんなもいるからね!」


 あの保健室での一件は、彼女にとってプラスにはたらいているようだ。思ったよりもヘビーだったので俺たちも相当参ってしまったが、彼女自身の口からここまでの言葉が出るのなら少なくとも以前よりは安心だろう。


「実はあの後ね、天満並木中の友達にメール送ったんだ。当日になって向こうを驚かせるのもあれだし、私もアンコン出るよって。で、それを前に話したホルンの子にも話してほしいって」


「へえ、どうだった?」


「うん、思ったより大丈夫そうだった。私が出るって聞いて、向こうも『そう……』て素っ気なくしてただけだって」


 へへっと微笑む宮本さんに、「そりゃ良かった」と俺は頷き返す。


 やっぱり宮本さんは強い子だ、ちゃんと自ら過去のトラウマを乗り越えようとしている。とりあえずこれで明日、両校とも本番直前に取り乱すことは無いだろう。


「砂岡くん、本当にありがとうね。砂岡くんが私たちを引っ張ってきてくれたから、私たち関西まで来れたんだよ。口には出さないかもしれないけど、みんな心の中ではそう思ってるよ」


「そうかな?」


「そうだよ、砂岡くんにとってはなんてことない一言だったりちょっとした気遣いに過ぎないかもしれないけれど、それがものすごい支えになる人もたくさんいるんだよ。だから砂岡くん」


「私、転校したのがカサキタで本当に良かった。吹奏楽の楽しさを思い出せたし、仲間にも恵まれたし、それに何よりも……砂岡くんがいるし」


 滞りなく口にしていた宮本さんの顔が途中から紅潮したかと思うと、最後にはふっと顔を逸らしながらたどたどしさのこもった口調で言うのだった。


 その姿を見て、俺の心臓は再び喉元まで跳ね上がったのだった。


 あれ、これって結構、良い展開なんじゃない?


「宮本さん……」


 声をかけたところで、彼女はちらっと視線だけをこちらに向ける。彼女とは5月以降9カ月の付き合いだが、こんな人を惹きつけるような瞳を見せたことは今まで一度として無かった。


 その輝きに吸い寄せられるように、俺はふっと椅子から立ち上がる。そして一歩、彼女に近づこうとしたまさにその時だった。


 ドンドンと部屋のドアがノックされ、俺はずるっと足を滑らせ、宮本さんもびくっと一回身体を震えさせたのだった。


「あ、あれ、もう帰ってきたのかな?」


 あからさまな作り笑いを貼り付ける宮本さんに、俺は「は、早かったなー」と胸を押さえて答えた。


 ち、せっかくイイとこだったのに。うちの部員たち、ちったあ気ぃってモンを使えよ。


 しかしドアはいつまでも、不規則なリズムでドンドンと鳴らされる。あまりにしつこいので、いら付いた俺はずんずんと足を鳴らしてドアの前に立ったのだった。


「お前らいい加減にしろよ、明日本番なんだから……よ?」


 だが勢いよくドアを開いたその瞬間、俺は目の前で待ち受けていたとんでもない事態にムンクの『叫び』よろしく、顔を引きつらせて固まってしまったのだった。


「ういーひっく、砂岡くぅーん? なぁーんであんたが私の部屋でスタンバイしているわけよー?」


 顔を真っ赤にしてアルコール臭い息をまき散らしながら、千鳥足で歩く大人の女性。べろんべろんに出来上がった我らが顧問、手島先生だった。


「え、せ、せん……せぇ!?」


 あまりの光景に思考の整理と現状の受け入れが追い付かず、俺の脳みそはショートしてしまっていた。


「ははは、アイラブおふとーん!」


 そう言って俺の脇を通り抜けた先生は、宮本さんが腰掛けているベッドにダイブして倒れ込んだのだった。手にはコンビニの袋を引っ提げており、ビールやら日本酒やらの缶や1合瓶がぎっしり詰め込まれている。しかもその内いくつかは、すでに空っぽに飲み干されているようだ。


「ど、どうしたんですか先生!?」


 布団に顔をうずめて「ダブルリード萌えー」と完全にあっちの世界へとトリップしている先生に、俺は必死で声をかける。


「あー、またこれか」


 そんな先生の情けない姿を見て、宮本さんは頭を押さえて立ち尽くしていた。


「また?」


「先生、実はこう見えてめちゃくちゃお酒好きなんだよ。しかも大量に飲むのにすぐ酔っ払って、酒癖ものすごく悪いんだよね」


「それ、最悪のパターンじゃん!」


「うん、合宿の時も部屋で飲んでたんだよ……だから私たち、目撃した数人だけの秘密にしておこうって気ぃ遣っていたのに」


 はあっと大きなため息を吐く宮本さん。そこには呆れやら諦めやら、色んな感情が混じっていた。


 まあたしかにこんな姿、他の部員にも絶対に言えんわな。普段何があってもにこにこしているだけに、腹の内では何考えているのかわからないくらいには感じていたが、まさか酒が入ったらここまで変わってしまうなんて。先生の意外な秘密を図らずも知ることとなった14の夜だよ。


「砂岡くぅーん、あんたまだ未成年でしょー? なんでこんなとこいんのよー?」


 うつぶせになったまま、先生が顔をこちらに向ける。


「あーもしかしてあれ? せんせぇのこと狙ってるとか?」


「んなわけないでしょ! あ、でも先生のお相手なら満更でも――」


「何くだらないこと言ってんのさ! ほら、先生部屋まで連れていくよ!」


 途端、宮本さんが珍しく顔を真っ赤にして怒鳴るので、俺は「冗談だよー」と弁明する。そこからは俺と宮本さんのふたりがかりで、この酔っ払いを本来の部屋まで運んだのだった。


 ちなみに後から聞いた話では、コンビニまで買い物に行った6人は途中で高校生くらいの男子グループに声をかけられたらしい。だが徳森さんが「あぁん?」と怪訝な声をあげて睨み返した途端、野郎どもは何をするまでもなくすごすごと退散してしまったようだ。さすがカサキタの狂犬の名はダテじゃないよ。

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