第二十章その3 話してくれそうにないよ、これは
本番まであと1週間と迫った平日のある日のこと。
その日は有休消化のため仕事が休みだからと言って、ユーフォ奏者の大久保さんも部活の指導に訪れていた。それほど手島先生にご執心なのかよっぽど暇なのか、本当のところはどっちなのだろうこの人。
「うんうん、いいよいいよ、全体で音がそろってる。でもチューバ、もっとここはブオンって地の底から響かせるような、骨のある音にならないかな? 県大会のCD聴かせてもらったけど、あの時はしっかり出せていたはずだよ」
「はい、すみません」
申し訳なさそうに答えるチューバ奏者に、後輩たちも不思議そうな顔を向ける。
あのタイムテーブルが配られた日以降、宮本さんが調子を落としているのは明白だった。
彼女のことなので技術的なミスは無い。しかし演奏に集中できていないというか雑念がこもっているというか、内に抱える不安が音に表れて響きを悪くしていたのだ。
練習が終わった頃には陽もすっかり沈み、辺りは暗闇に包まれていた。昇降口から駐輪場までの経路も、街灯が無くてはどこに何があるのかまるでわからず、気を付けて歩かなくてはプランターに足を引っかけてしまいそうだった。
その最中、びゅうっと冷たい風が通り過ぎた。
「ひゃー、今日も寒いね!」
隣を歩いていた宮本さんがぶるると震える。身を縮めたために淡いピンクのマフラーが口元まで隠し、小動物的な彼女の可愛らしさを余計に引き立てていた。
「早く家帰ってあったかいココアでも飲みたいよ」
そう言いながら足を速める宮本さん。そんな彼女に、俺は躊躇しながらも「ねえ、宮本さん」と話しかける。
「ん?」
「松子から聞いたんだけど、カサキタのひとつ前に演奏する天満並木中学ってさ、宮本さんが前にいた学校なんだよね?」
一瞬、彼女は時間が止まったように黙り込んだ。しかしすぐににこりと微笑むと、嬉しくてたまらないといった口調で返したのだった。
「うん、そうだよ。松子ちゃんもよく覚えててくれたね。久しぶりに会場でみんなに会えると思うと、今から楽しみだよ」
それなら今の間は何だ? 思ったものの、俺はそれ以上追及することができなかった。
松子に指摘されたその日、気になった俺は自宅のパソコンでネットにつないで吹奏楽連盟のホームページを閲覧し、大阪市立天満並木中学の実績を調べていた。
昨年度のコンクールは大阪府大会で金賞。今年度は見事大阪府大会を突破して、全国とはならなかったが関西大会で金賞を獲得している。指導は非常に厳しいそうだが、この結果を突きつけられれば文句は出てこないだろう。
「会って話せたらいいね」
「うん、でも本番でわちゃわちゃしてるし、他の子もいるから難しいんじゃないかな?」
前の中学について、これ以上掘り下げるのはやめておこう。深く訊いたところで俺にとっても宮本さんにとっても、得になるとは思えなかったのだ。
その後、俺は耳が千切れるかと思うような寒さの中チャリンコをこぎ、なんとか無事にマンションまで帰宅する。
「ただいまー」
ドアを開けると同時に、部屋の中から温められた空気がどうっと漏れて俺の身体を包む。この感覚の何とも気持ち良いことか.
マフラーとコートを脱いで学ラン姿になった俺は自室の衣装ダンスからスウェットを取り出し、ちょうど母さんが夕飯の準備をしているリビングへと向かう。そして赤々と熱を放つハロゲンヒーターの前に立って学ランを脱ぎ始めると、ついでにテレビのリモコンを押したのだった。
ちょうど画面に映し出されたのは、関西地区のローカルニュース番組だった。
「さて、野球といえば甲子園、サッカーといえば冬の国立と高校生たちの目指す大会がありますが、今日はちょっと変わった青春の舞台を目指す高校生を追いました。この時期、全国の吹奏楽部ではある大会が行われています」
「お!?」
突如飛び出してきた吹奏楽というワードに、中途半端にズボンを脱いでいた俺はトランクス丸出しのまま着替えの手を止めてしまった。
「ここ兵庫県立浜風高校はかつて全国大会にも出場したこともある県内有数の吹奏楽の名門です。2月のこの時期、彼らが音楽に青春を燃やして挑むのは関西アンサンブルコンテストです」
夏のコンクールならいざ知らず、アンサンブルコンテストを取り上げるなんて珍しいな。
「いいなぁ、うちにも取材こないかなぁ」
まあこういうのって大抵は強豪校だもんね。着替えの真っ最中であることも忘れて、俺はつい腕を組む。それと同時に、腰より少し下でとどまっていたズボンがついにずり落ち、ペイズリー柄のトランクスとじじくさくすね毛の伸びた俺の生足が丸見えになってしまった。
「ほらあんた、いつまでそんなカッコしてんの! さっさとズボン履き替えなさい!」
キッチンから母さんの怒号が浴びせられる。俺は慌てて跳びあがり、スウェットに足を通したのだった。
翌日、放課後の練習が始まる直前のことだった。
「皆さんにご連絡があります」
ミーティングの開始と同時に、手島先生が俺たちの前に立って開口一番、俺たちに告げる。
いつもと変わらないにこやかな笑顔に部員たちはイヤな予感を抱きつつも、じっと黙って先生の話に耳を傾けていた。
「実は明日、吹奏楽部に京滋新聞の取材が来ることになりました」
「ええ!?」
まさかの展開に部員19人、全員の声が見事に重なる。
「え、取材とか初耳!」
「いきなりすぎません!?」
「何でうちなんでんすか?」
「たぶんだけど、今まで無名だったクソみたいな吹奏楽部がいきなり関西行くってなって、珍しいから取材してみようってなったんじゃないかなぁ?」
興奮に部員たちが取り乱す中、比較的冷静な松子が分析を述べる。さすが部内一の強心臓の持ち主だ。
しかしお前、自分でクソみたいなって言って悲しくならね? そこはもうちょっと言葉選びなさいよ……。
「それでいっしょに系列局のテレビの取材も来るみたいです。皆さん、身だしなみはきちっとお願いしますね」
部室はまたしても「どええええ!?」と驚きの声に包まれる。それもさっきより数段、驚きの度合いも増しているようだ。
新聞に飽き足らず、テレビなんて……昨日取材こないかなーなんて思ったばっかりなのに、まさか本当にこんな機会がやって来るなんて。俺、予言者の素質あるんじゃないかな?
「いいじゃんいいじゃん、私らのアピールチャンスだよ」
「ふ、不安です。緊張します……」
こういう思わぬ事態に直面した時こそ、その人の本質が露わになるのだろうか。うきうきとテンションを高める者もいれば、不安で震えあがってしまう者、まったく動じず平然としている者など反応は様々だ。
「砂岡ー、寝ぐせ直しなよ?」
そんなまったく動じないタイプの代表たる松子が、いつものように俺をからかう。
「もちろん。もしものために明日は櫛も持ってくるか」
「それならOKだね……あ、前歯に青のり付いてるよ」
「たこ焼きなんて食ってねえよ!」
そしていつものようにくだらないやりとりを交わしつつも、俺はちらりとチューバの席に目を移した。
目に映ったのは椅子に腰かけたまま俯いて、固まったままの宮本さんだった。前髪が垂れて目元は見えないものの、前で組んだその手はわずかに震えていることを俺は見落とさなかった。




