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第二章その3 練習の鬼

「あーもう、毎日練習だなんてせっかくの連休が台無し!」


 そう文句を垂れながらも、誰よりも早く登校していた徳森さんはトランペットのロングトーンに勤しんでいた。


 今日はゴールデンウィーク1日目。世間はお休みだが、部活に汗を流す中学生にはこういう時こそ長時間練習できるチャンスだ。


 休みの3日間は毎日が練習。だがその時間は決して長くはなく、午前だけで終了する。


 強豪校では連休と言えばすべてマル1日練習に充てるのが当たり前だが、生ぬるい雰囲気に浸かってしまったここの部員たちにいきなりそんなハードなスケジュールを課してしまえば、せっかく雰囲気が上向いたにもかかわらずぽっきりと折れてしまう。時間をかけて、少しずつ練習のレベルを上げていこうというのが手島先生の狙いだった。


「松子、なんだか嬉しそうだな」


 コントラバスの弓に松ヤニを塗りながら『序曲「祝典」』を口ずさむ松子に、ユーフォのピストンにオイルを垂らしていた俺はつい声をかける。いつも能天気そうな顔だが、今日はより一層浮かれているようだ。


「今日はねー、練習終わったら午後からみんなでコナンの映画見に行くんだよ。楽しみー」


 松井の表情が笑顔で崩れる。部活に出ながらも、友達同士ゴールデンウィークを満喫しているようだな。


「あああれな、犯人は――」


「ダメ、言っちゃダメ!」


 途端、ものすごい剣幕で止めに入る松子。まあ俺もまだ見てないし犯人なんか知らないんだけど。


「おはようございます」


 他の部員たちも続々と集合する。あんなに初々しかった1年生たちも、5月に入ればすっかり慣れ切った顔だ。


 2003年度、最終的に新たに入部した1年生は11人になった。これで部員は25名。つい先日の14人に比べれば、躍進ともいえる大幅増だ。


 もちろんパートも充実し、バンドの編成は現在このようになっている。


フルート 2

E♭エスクラリネット 1

B♭ベークラリネット 3

バスクラリネット 2

アルトサックス 1

テナーサックス 2

バリトンサックス 1

トランペット 3

ホルン 3

トロンボーン 2

ユーフォニアム 1

コントラバス 1

パーカッション 3


 以前に比べればすべての音域で人員が増加している。ホルンやバスクラ、トロンボーンは現役部員が3年生ひとりだけだったので、後継の1年生ができて本当にラッキーだ。


 それにしても、やっぱりチューバはゼロのままか……。クラリネットあたりからひとり、コンバートしてくれないかなぁ?


「今日は基礎練とパート練中心ね。明日、合奏やるからそれまでに弱点克服しておくようにね!」


 定刻になって全体に連絡事項を伝えるや否や、藤田部長は自らもフルートを手に取り練習を始めた。


 俺も松子も、廊下に出て楽器を鳴らし始める。やっぱり狭い室内よりも、少しでも音が拡散する場所でやった方がいい。


 そして吹きこんでは時折お茶を飲んで小休止を挟んでいると、あっという間に1時間半が経過していた。


 そろそろパート練か。松子や筒井先輩といっしょに、出だしのメロディーラインそろえないと。


 よっこいしょと譜面台と楽器を持ち上げる。そしてふと、とある妙なことに気付いたのだった。


「部長、一度も休んでないな……」


 そういえば今日の練習が始まってからというもの、部室から聞こえるフルートの音はほんの一瞬たりとも途切れていない。1年生はまだここまでしっかりした音が吹けないので、音の主は部長で間違いないだろう。


 楽器を吹くのは思った以上にエネルギーを使う。いくら体力自慢であっても、たまに休みを挟まないととてもでないが身体を壊す。


 楽器と譜面台を手に持ったまま、俺は開け放たれたままになっている部室をちらりと覗き込んだ。


 そこにいたのはやはり藤田部長だった。椅子に座って譜面台に向き合った彼女は、一心不乱に、じっと楽譜を眼鏡越しに睨みつけながらひたすらフルートを吹き続けている。


 特に力を入れているのは後半クライマックスの16分音符のスラーのようだ。本当にどうやってこれほど素早く正確に両手の指を回転させているのだろう。基本的に右手の3本のピストンだけで演奏するのが染み付いたユーフォ吹きには、左手まで使う木管の動きなど到底真似できない。


 そんな部長の練習風景は鬼気迫る様子で、他の部員には近寄りがたい雰囲気さえも醸し出している。


「ちょっと藤田ー、話あるんだけどー」


 その時、ちょうど副部長の筒井先輩が部長の名を呼びながら部室に入っていった。なんとなく、俺はその背中を目で追った。


「藤田ー、ちょっと藤田ー」


 だがいくら呼んでも、部長は気付いていないようだ。


 しびれを切らした筒井先輩は、ぐっと腰を屈める。そして部長の耳元に顔を近づけ、大きく息を吸い込んだのだった。


「ふ・じ・た!」


「うわぁ!」


 びくっと身体を震わせる部長。お下げが跳ね上がり、ちょっとかわいい。


「え、え!? あ、筒井くん、呼んだ?」


「さっきから何度も呼んでるわよ。ところで明日の合奏なんだけどー」




 練習を終えて帰宅した俺は英語と数学の宿題をささっと終わらせ、あとはずっとリビングのテレビでゲームに没頭していた。


「モルド・ゲイラって弱いのに、BGMはカッコいいよなぁ」


 うん、何度繰り返しプレイしても風タクは良いものだ。


 だがボスを撃破した直後のこと、台所で夕飯の準備をしていた母さんが「敏樹ー」と俺を呼んだ。


「ちょっと卵買ってきてくれるー?」


「えー、今から?」


「買い忘れてたのよ。ほら、好きなアイス買ってきていいから」


「わかったよー、もう」


 俺はゲームを中断し、母さんから財布を受け取って家を出た。まあ近くのスーパーだし、部屋着のジャージでいいでしょ。


 玄関を出ると、眼下には田園を貫く幹線道路、それに沿うように立ち並ぶビルや住宅街がわっと広がる。所々で木々が鬱蒼と生い茂っているのは、そこに神社があるからだろう。


 そして平坦な田園のずっと向こうに琵琶湖がちょっとだけ見え、そのさらに向こうでは太陽が比良山系に沈みかけていた。


 滋賀県南部に位置する草津市は、人工密集地と広大な農村が混在する町だ。駅近くの中心街は昔からの商店街や官庁街が集まって賑わっているが、少し外れればだだっ広い田んぼと畑が延々と続いている。


 俺の自宅はマンションの8階だ。父さんは転勤の多い仕事のため、一軒家を購入しようとまでは踏ん切りがつかない。だがここは築10年も経っていない新しいマンションなので設備も新しく、生活自体は非常に快適だ。


 自転車に乗った俺は住宅街を抜け、まだ稲が植えられたばかりの田んぼ道をひた走る。最寄りのスーパーは最近できたばかりだそうで、周囲は田畑に囲まれているのだ。


「アイス何買おうかなー。やっぱりジャイアントコーンかスイカバーか。ああでも、あずきバーも捨てがたい」


 中空を眺めながらチャリンコを漕いでいた、そんな時だった。


「ん?」


 耳をなでる不思議な感触に、俺はブレーキをかける。


 フルートの音だ。どこからか風に乗って、優しいフルートの音色が聞こえている。それも聞き覚えのある、最近はどんな時でも頭の片隅にあるメロディーだ。


「これって……『序曲「祝典」』?」


 俺はアイスのことなど頭から吹っ飛び、音を辿って自転車をUターンさせた。


 どうやら田んぼの真ん中に聳える、大きな家の方から聞こえているようだ。興味に負けた俺は、まっすぐそちらの方へとチャリを走らせる。


 農家だろうか、古風な造りの立派な母屋は重要文化財に指定されてもおかしくない風格があり、そこらの住宅よりも大きな納屋の軒先には玉ねぎが吊るされている。


 どうもこの家から聞こえてくるようだが……家に近づいた俺は自転車の速度を落とし、ゆっくりと前を横切った。こういう田舎の農家では、生垣や塀を設けないことも珍しいことではない。


「あ!」


 そしてとうとう音の主を見つけ、俺は立ち止まった。納屋の陰に隠れるように、直立して譜面台と向き合うフルートを口に触れさせる人物。それは眼鏡に三つ編みおさげの、小柄な女の子だった。


「部長!」


 俺は大きな声で呼んだ。途端、少女はえっと顔を上げ、「砂岡くん!?」とこちらの存在に気付く。


 そう、部活が終わってもなおフルートの練習に精を出す、我らが藤田部長だった。

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