第十九章その3 あけまして2004
「お、敏樹君、明けましておめでとう」
「おめでとうございます」
マンションの部屋を出て吹きさらしの廊下を歩いていた時のことだった。ちょうど外出から帰ってきたお隣のおじさんがエレベーターから出てきたのだ。
「これから初詣かい?」
「はい、ちょっと熊野神社まで」
熊野神社は最寄りの神社で、マンションからでも歩いて行ける距離にある。
実は今日、吹奏楽部の面々とこの時間で落ち合おうと約束をしていたのだ。正月でそれぞれの家庭での予定もあるためそんなに長居するつもりは無いが、せっかくの冬休みを部活以外の目的でも過ごしたいというのがきっかけだった。
ちなみに両親はリビングのこたつで根っこを張っている。特に父さんは普段の仕事が忙しいだけに「今年は寝正月じゃあ!」とテコでも動かない意思を示していた。
表通りから少し入り込んだ住宅街の中、こんもりと木々の膨れ上がった鎮守の森が現れる。神社の敷地は住宅街の中にあるとは思えないほど広く、また古来から人の手が極力入れられないように残されてきた森には、この土地本来の植生が残されているらしい。
いつもは静かな神社も、この時ばかりはひっきりなしに参拝客が出入りしていた。
「あ、砂岡! あけおめー!」
そんな神社の石鳥居の傍で、見知った顔がこちらに向けて手を振っている。
2004年、初めて顔を見た吹奏楽部員は松子だった。すっと背の高い弦バス奏者は真っ赤なダッフルコートに白いマフラーを巻いて、もこもこの手袋で元旦の寒さに対抗していた。
「おっすあけおめー。初松子だな」
そう言って俺は手を振り返しながら歩いていると、松子の後ろにもう一人、小さな影が動いているのに気付いたのだった。そしてその人影は歩いてくる俺に向かって、軽く一礼して「あけましておめでとうございます」と挨拶したのだった。
「あ、あけましておめでとう。えっと、たしか……」
そのおかっぱ頭に見覚えがあった俺は、必死で名前を思い出す。しかしいきなりのことでぱっと出てこないので言葉に詰まっていると、松子がにししといつものごとく白い歯を見せて話し出したのだった。
「うん、妹の結月だよー」
そうだそうだ、結月ちゃんだ。松子の妹で姉以上のピアノの天才、一度家にお邪魔した時にばったり出会ったことがあったな。
「ほら結月、この人がユーフォの砂岡だよー。あだ名はバカ岡」
「余計なこと教えんな! と、どうしてまた妹さんといっしょに?」
「うん、親が初売りセールで京都行っちゃってて、家にウチと結月しかいなくてねぇ。で、結月中学では吹奏楽部入りたいって言ってたから、せっかくだし連れてきたの」
「砂岡先輩、よろしくお願いします」
改めて頭を下げる結月ちゃんに、俺は「そんな畏まらなくていいよー」と返す。
クリスマスに開催されたアンサンブルコンテスト県南部予選で金賞を受賞した俺たちは、1月中旬の県大会目指して冬休みも練習の日々を送っていた。
とはいえさすがに年末年始になると話は別だ。この年末は12月27日が土曜、そして正月も1月4日が日曜なので、この9日間は学校も閉鎖されてしまい校舎に入れないのだ。
そのため俺たちは各自で楽器を持って帰り、そして今でも2日に1回の頻度でこの寒さの中河原まで移動し、そこで金管八重奏の練習会を敢行していたのだった。
青春だねぇ、なんて言ってる場合じゃねえぞ。寒風吹く中では金管楽器はすぐ冷えるし、地面からは冷気が立ち昇ってくるしで1時間もいればマジで凍え死にそうになる。この前なんて練習の最中に突然雪がぱらついてきて、10分も経たない内に解散になったこともあったくらいだ。ホント、金管だからこそできる無茶だよこんなの。
だが1日音を出さなければ、3日分遅れると思え。かつて西賀茂中時代に羽鳥先輩にそう言われた俺はその教えをしっかりと胸に刻み、とにかく短時間でもよいので毎日練習を継続させることを心がけていた。
松井姉妹と合流した俺は、一足先に神社の参道を歩く。観光地ではないので屋台は出ておらず、社務所前のテントでおみくじや破魔矢が売られているほどだが、近隣住民の集まった神社は思った以上に賑わっていた。
本殿の賽銭箱に5円玉を放り込み、しっかりと二礼二拍手一礼で神様にお願いする。当然、アンコンで良い結果が出ますように、と。
「あ、砂岡くん、松子ちゃん!」
参拝を終え、順番待ちの列を外れて歩いていた時のことだった。境内の砂利をざっざっと踏みながら、ひとりの少女がこちらに小走りで近づいてきたのだ。
その声を俺が聞き間違えるはずが無い。初宮本さんキタコレ!
「あけましておめでとう」
白いコートに薄いピンクのマフラー、そしてオニキスのように艶のある漆黒のロングヘア。いつもとは違う彼女の見た目に、俺は「あけましておめでとう!」と威勢よく返した。
「みやぽん、あけましておめでとう!」
松子も元気に新年の挨拶を返す。だが妹の結月ちゃんは、「えっと」と顔を困らせていた。
「部活が一緒の友達だよー。この子チューバやってるんだよー」
姉が解説を加えると、妹は「ああ」と頷いて納得した様子を見せた。
「そうなんですか、てっきり砂岡先輩の彼女か何かかと」
「ぶふぅ!」
新年早々不意打ちの爆弾発言に、俺は色々と吹き出してしまった。コーヒーでも飲んでいたら、それは芸術的なマーライオンが完成していただろう。
そんな俺たちのやり取りを間近で見つつも、宮本さんはツッコむこともなく「あはは」と口元に手を当てて笑っていた。
その後、宮本さんもお参りを済ませたところで俺たちはベンチに座って話し込んでいた。県大会のこともあるが、この時の話題の中心はもっぱら松子の妹についてだった。
「結月ちゃんは吹奏楽部入りたいんだよね? 楽器は何やりたいか決めてる?」
「実はあまり。ピアノ以外の楽器、やったこと無いので」
「ウチ、家に弦バス持って帰らないからねぇ」
「それならほら、ユーフォとかどうだ? 吹きやすいし、メロディーも裏打ちもあって飽きないぞ」
俺はにぃっと笑顔を近づけ営業をかける。てか来年度ひとりでも1年生がうちのパートに入ってくれないと、ユーフォが3年生の俺ひとりだけで後継者いなくなっちまうからな。
「ユーフォってオーケストラにありませんよね? 私、できればオケでも使える方がいいです」
しかし結月ちゃんはあからさまにイヤそうな表情で間髪入れずにきっぱりと断ったので、俺はなすすべなく「ぐは!」と精神エネルギーの半分近くをえぐり取られてしまった。つまり悲しいかな、ユーフォはハナっから選択肢に無いということだ。
「ウチもいつかオケにも出られるようにってコントラバス選んだからねぇ。でも結月なら大丈夫、きっとどんな楽器だって弾きこなせちゃうよー!」
松子が妹の頭をすっと優しく撫でる。途端、これまで何を考えているのか無表情だった妹も、少し頬に赤みが差した。
「じゃあ結月ちゃんも弦バスいくか?」
その姉妹仲の良さを見て俺が口を挟むが、すぐさまふたりは声をそろえて「それはイヤ!」と即答したのだった。
うん、姉妹で同じパートは俺も絶対にやめといた方がいいと思う。これは松井家だけでなく、よっぽどのことが無い限り一般的な意味で。
「おーっす、あけおめ!」
そんなこんなで俺たちが話し込んでいたところに、またまた聞き覚えのある声がずんずんと近づく。徳森さんが弟を連れてやってきたようだ。
「皆さん、あけましておめでとうございます」
さらに江口さんや宇多さんら1年生組も合流する。そしてものの10分も経たない間に、新年の神社ではいつものメンバーが顔を合わせることになったのだった。




