第二章その2 俺、ユーフォやめます
やがて4月も半分ほどが過ぎ、新入部員もある程度が確定する。1年生が帰った後、彼らから希望の楽器を聞き出したアンケート用紙を集計していた部員たちは、にっへっへと不敵な笑みを浮かべながら用紙を眺めていた。
「もう8人が入部届出してくれたみたいだよ」
「結構増えましたね」
今の吹奏楽部は幽霊部員を除くと3年生7人、2年生7人だ。もしこれ以上増えなかったとしても、3学年で22人の編成ができる。十分とは言えないが、それなりの曲が演奏可能だ。
「これで低音も層が厚くなるね!」
「やったぞ松子ぉ!」
俺と松子の低音パートはぐっと親指を立てる。ああ、仲間が増えることがこんなに嬉しいなんて。
「あのさ、ふたりとも……その、言いにくいんだけど……」
だがそこに藤田部長が遠慮がちに声を割り込ませる。俺たちは気楽にも「何すか?」と返した。
「チューバもユーフォも、第1希望にも第2希望にもひとりも書いてないっぽい」
俺と松子の時が止まった。しばらくふたりそろって石化したように固まった後、思い出したように超早口で訊いた。
「ひとりもですか!?」
「こんなにいてですか!?」
俺たちの問いかけにも、部長は無言で頷くばかり。
しーんと静まり返る部室。やがて俺と松子は立ち上がり、部室の窓から外に向かって大声で叫び始めたのだった。
「みんなー、低音は争いの無い平和な世界だよー!」
「平和主義者しかいない、幸せな世界なのよー!」
男と女の声が校舎に響く。だが俺たちの声は、グラウンドのさらに向こうに広がる一面の田園風景に虚しくかき消えていくだけだった。
ちなみにトランペットはというと、8人中5人が第一希望だったらしい。
「じゃあ砂岡、鍵、返しといてね」
徳森さんが部屋を出る。夕日に染まった部室に残された俺は、今日の練習でユーフォに着いた指紋を拭き取りながら「またねー」と彼女を見送った。
ギャル子こと徳森さんは、あの一件以降まるで人が変わったようにトランペットに打ち込んでいた。最近は朝早くに登校して、部室の鍵を借りて基礎練に没頭している。以前はこんなこと、一度として無かったらしい。見た目や言動はアレだが彼女は部員の中でもかなりの影響力を持っており、触発されて仲良しの女子数名も朝の練習に付き合っているようだ。
このセーフティネットとすら呼ばれていた吹奏楽部に、大きな変化が生まれ始めていた。
5月の吹奏楽祭に向けて『序曲「祝典」』の練習も順調に進んでいる。パート分けするほどの人数はいないが、同じリズムを刻む者同士で集まってハーモニーやタイミングを合わせるのは当たり前の光景になった。他の先生からも「吹奏楽部、なんかうまくなったね」と言われたことがあるので、実際にメンバーの腕はこの短い期間でもぐっと向上したのだろう。
けれど、それでも……。
俺はユーフォをケースにしまった後、思い立ってチューバのケースを開けた。
重さ10kg近く。管の長さはなんと940cm。チューバと一緒に並べると、楽器の中では大き目のユーフォですらミニチュアに見えてしまう。
俺は不意にチューバのマウスピースを取り出し、口に押し当ててバズイングを試した。
ユーフォよりもさらにひと回りでっかいカップ。普段自分の吹きなれているサイズと違うだけで、とんでもない違和感を覚えてしまう。
やがて俺はチューバを片付けると、通学用のリュックを背負い、部室の鍵を閉める。向かったのは職員室だ。
「失礼します」
職員室ではまだほとんどの先生が残っていた。もう生徒はほぼ全員が下校しているのに、明日の授業の準備や小テストの採点に取り組んでいるのだろう。先生、毎日お疲れ様です。
そして入室と同時に、顧問の手島先生の姿を探す。ちょうど奥の方でノートパソコンにかたかたと打ち込んでいる先生の姿が見えたので、俺はそこまで歩いた。
「先生、鍵返しに来ました」
「あら、ありがとう」
俺に気付いた先生は、部室の鍵を受け取る。そして「また明日ね」とご褒美に天使の笑顔を向けてくれるのだった。
さあもう家に帰る時間だ。外は暗くなり始めているし、お腹も減ってきた。
だがどういうわけか、俺は鍵を返した後も先生の傍を離れることはできなかった。
いや、原因は分かっている。そうだ、言うなら今しかない。
俺は腹をくくり、ついに口を開いた。
「あの、手島先生」
意気込んだ割に、出てきたのはずいぶんと小さな声だった。だがそんな俺のただならぬ心境を感じ取ったのか、先生は「どうしたの?」とこちらに身体を向ける。
「実は……その……」
心配そうな目を向けながら、先生はじっと待つ。なかなか踏ん切りがつかなかったが、俺は今一度息を整えてさらに続けた。
「俺、ユーフォやめてチューバやろうかと思うんです」
先生は眉ひとつ動かさなかった。代わりに一瞬の間を置いて、「どうして?」と訊き返す。
「うちの吹奏楽部にはチューバがいません。低音ではユーフォよりも、チューバの方が大事ですから」
今、うちの吹奏楽団で一番の問題はチューバがいないことだ。たとえ楽器がボロかろうと、全体を下支えする低音がいないのは痛すぎる。
それならば基本的に同じ構造で、指使いも同じユーフォの俺がチューバをやるのが理にかなっているのではないか?
そう考えて、俺は覚悟を決めて先生に進言した。だが返ってきたのは、意外な返答だった。
「うん、そうよね。チューバがいないのは困るよね。でも私としては、砂岡君の提案は呑み込めないかな」
「え?」
俺はきょとんと眼を丸くする。先生はまるで俺の心の内側を見透かしているように、ふふっと口元だけ笑みをこぼした。
「砂岡君にとって、ユーフォやめるのは本心? ずっとユーフォ吹いてきて愛着ある砂岡君は、チューバになって満足できる?」
「それは……やっぱりユーフォ吹き続けたいですね」
「でしょ。だからそっちの方が砂岡君にとっても、部全体にとってもイイと思うの。大丈夫、チューバがいなくても音楽は成立するわ」
俺は「はあ……」と歯切れ悪く返す。たしかにそうではあるのだが、バンド全体を考えるとどうも釈然としない。
だがその時の俺は不服の感情よりも、より大きな安心感に満たされていた。良かった、これからもずっと気兼ねなく堂々とユーフォを続けられるぞという、そういった想いだ。
「それにね、うちの部に今必要なのはコンクールで良い賞を取ることじゃない。それより大切なのは、自分たちでも楽器をこんなにうまく吹けるんだっていう自信よ。そのためにはまず、やりたい楽器を好きなだけ吹いてもらわないと」
再び、先生は俺に例の天使の微笑みを向ける。その顔を見ていると、俺は自分が実にどうでもいいことで悩んでいたように思えてきて、急に気恥ずかしく感じたのだった。