第十八章その3 追い込みの時期に
「はい、もう一回!」
放課後の音楽室、金管八重奏は半円形に椅子を並べて『もう一匹の猫「クラーケン」』の練習に打ち込んでいた。
「ホルン、ピッチずれてるぞ! もっと合わせて!」
一旦演奏が途切れたところで、俺はマウスピースを口から離して声を張り上げる。ホルンパートの1年生ふたりは「は、はい!」と慌てて楽譜にペンを入れた。
このやりとりを目を丸くして眺めていたのは徳森さんだ。だいぶ寒くなってきた今の季節でも、きわどいミニスカートとだぼだぼのルーズソックスは1年365日ちっとも変わらない。
「砂岡、いつにも増して熱心だね。何か変なモン食べた?」
「食うか! てか当たり前だろ、オーディション近いんだし」
わずか1枠のアンサンブルコンテスト出場を賭けた部内オーディションもいよいよ今週土曜。もう残り1週間を切った今、部員は誰もが目の色を変えて各自の曲に向き合っていた。
当然、俺もアンコン出場のためにめらめらと燃えている。だが俺がここまで張り切っている理由は、それだけではなかった。
理由は明白、日曜日に東寺町高校の演奏を聴いたことだ。充実したカリキュラムに全国大会常連の吹奏楽部と、俺にとってあの高校は魅力にあふれていた。
あの高校に通いたい。そのためには自らの生活そのものを見直さなくてはと、俺は躍起になっていた。
あそこは近畿でも有数の難関校、入試を通るためには早い内から勉強に精を出しておくに越したことはない。
だが勉強だけではない。吹奏楽でも成果を出したいと考えていた俺は、日々の部活についても一日一日全力投球で挑まなくてはと心がけていた。
転校してきてから今日までの7ヶ月間は様々な出来事に追われていたものの、思い返してみると本当にあっという間に流れていってしまった。これから引退までの1年弱は、もしかしたらもっと早く過ぎ去ってしまうかもしれない。
仮にめでたく東寺町高校に入学できたとしても、吹奏楽部に入ればあのハイレベルな演奏についていかなくてはならないのだ。そのためには今の内から基礎能力を徹底的に鍛えるため、1秒も無駄にせず練習に打ち込む必要があった。
休憩時間、俺は音楽室を出てトイレへと向かった。
その途中、通りがかった廊下の窓際では工藤さんらサックス三重奏が集まってアンコンの練習に励んでいた。難度の高い『パッション』を、それぞれ高さの異なる3つのサックスで音を重ねて紡ぎ出す。
刻みの多い複雑なリズムにも関わらず、タテの線がよくそろっている。3人のそれぞれが出だしのタイミングを互いに理解して身体にしみこませているからこその演奏だ。
他のパートもオーディションに向けて頑張ってはいるが、現時点では彼女たちの演奏が頭一つ抜き出ていた。華やかなサックスの音を晒されると、今のまま金管八重奏で挑んでも落とされてしまうのではと焦燥感をあおられてしまう。
ええい、何を怖気づいているんだ!
俺は自分の頬をパシンと叩き、喝を入れなおす。俺が目指すのはもっと上のレベルだ。これくらいの障壁、乗り越えられないで東寺町なんぞ行けるものか!
その後トイレから戻った俺は、練習が再開するや否や気付いたことを臆せず口にした。
「ペット、音詰まってる。もっとまっすぐ。ボーンももっと力強く!」
あの演奏に打ち勝つには、心を鬼にして金管パートを律していかねばならない。そのためには時に語調を強め、半ば怒鳴るように声を荒げるのも躊躇しなかった。
練習後、水道でマウスピースを洗っていた時のことだ。
「お疲れ様」
隣の蛇口にチューバの大きなマウスピースを持って宮本さんが現れたので、俺は「あ、お疲れ」と返す。俺たちはふたりで冷たい流水にさらしたマウスピースにスワブを通し、管の中の水分を拭き取る。
「ねえ砂岡くん、最近疲れてない?」
その最中、彼女は唐突に尋ねてきたのだった。
「オーディション近いからね、練習しなくちゃな」
「ううんごめん、そういうのじゃなくって。イヤなことがあったというか、イライラしているように見えるんだ」
「そう? 普段からこんな感じのつもりなんだけどなぁ」
「普段の砂岡くんならあそこまでずけずけ言わないよ。まずこれを言ったら相手はどう思うだろうって、考えるワンクッションははさんでいる。でも今日はどうも焦っているというか、もっとうまくならなくちゃって力み過ぎている気がする」
マウスピースを拭いていた手が止まる。俺は何も言い返せずに固まってしまった。
そんな俺に、宮本さんは小柄な身体を寄せ、そしてぐっと顔を近づける。
「ねえ、話せるなら教えてくれない? 私、砂岡くんがひとりで何か抱え込んでるの見てるととても辛い」
長いまつげに囲まれたつぶらな瞳が、じっとこちらに向けられる。凛々しくも優しいその眼差しに見つめられ、俺はこの子に隠し事は通じないなと観念してしまったのだった。
「うん、実は……」
俺は東寺町高校のオープンキャンパスに参加したことを話す。そしてあの演奏のレベルに到達するには、今からでも日々頑張らなければとても追いつけないとも。
「あはは、私には考えもつかないレベルの高い悩みだなぁ」
屈託なく笑う宮本さんに、俺は「いやいや、宮本さん上手いじゃん」と弱々しくツッコんだ。
「ううん、吹奏楽じゃなくって勉強のこと。私、部員の中じゃ2年で一番成績悪い自信あるもん」
「その自信は持っちゃダメ」
どうも最近、俺の中の宮本さん像がどんどんと音を立てて崩れていっている気がするぞ。
「今から高校のこと考えて一生懸命になるのはすごくイイことだと思うよ。けどね、みんなが砂岡くんみたいにすぐにスイッチ切り替えられるわけでもないし、吹奏楽にかける情熱だって本当のところどれくらいあるのかわからないよね」
そんな俺の戸惑いなど知る由もなく、改めてこちらに顔を向ける宮本さん。その顔は俺が内心を打ち明けたことを嬉しく感じているかのようだった。
「それにほら、私が前にいた中学もそんな感じだったから。勝つことだけに意識が向きすぎて、他に大切なものも全部無視しちゃいそうな気がして、そういうの砂岡くんにはやってほしくないなって思ったんだよね」
俺ははっと息を呑んだ。宮本さんは去年の夏のコンクールで、過度に勝利を目指す部活に所属していたと聞かされている。その時はお互いに足の引っ張り合いが日常茶飯事で、雰囲気は最悪だったそうだ。
その時と同じ空気を、自分自身が気付かぬ内にカサキタにまで持ち込んでしまっていたのだ。これは完全に、彼女のトラウマになっている歪な勝利至上主義と同じじゃないか。
「特にアンサンブルはひとりの実力でどうにかなるってもんじゃないんだから。自分一人だけ突き進んでも周りが合わせてくれるとは限らないよ。それよりは他で手こずっている子がいたら、押し上げてあげるってところが砂岡くんの良さじゃないかな?」
諭されて、俺は胸の内がかあっと熱くなる。
「そうだね、ごめん、なんからしくもないことしてた」
そして顔を伏せながら、ぼそぼそと言葉を返す。その時、視界の端に映っていた宮本さんは顔をふふっと微笑ませた。
「謝る必要はないよ、砂岡くんはみんなのこと思って頑張ってくれてるんだから。そのことはみんなちゃんと気付いてるからさ。だから砂岡くん」
視線を背ける俺の前に無理やり割り込むように、背伸びした彼女は再び顔を近付ける。
「勝とうね、オーディション!」




