第十八章その1 吹奏楽の祭典
「ああー、緊張してきた」
薄暗い舞台袖、カサキタ中の19人は落ち着かない様子で本番前最後の一時を過ごしていた。手のひらに「人」の字を書いたり、修行僧のように凛とした面持ちのまま目を閉じて瞑想に耽ったり、気の紛らわせ方は十人十色だ。
今日はいよいよ市民音楽祭当日、午前の今の時間は市内各所の中学校の吹奏楽部が順にステージに立って演奏を披露している。
会場は滋賀県立草津文化芸術会館。約700席のホールを擁する施設で、草津市内では最大級の収容能力を誇っているそうだ。
中学の後には高校、そして社会人吹奏楽団の演奏も予定されている。観客のほとんどは出演者の家族やOBではあるが、子供に音楽を聞かせるという体験をさせたいのであろう小学校低学年くらいの親子連れの他、見るからに熱心そうな吹奏楽ファンの男性がじっとプログラムを読み込んでいたりと様々だ。
「まあまあ、今日は気楽にいこ!」
固くなった部員たちに、部長の徳森さんが努めて明るく呼び掛ける。
「来てるって言ってもどうせ先輩なんだし、そんなに緊張しなくていいよ!」
「どうせ先輩って、扱いが雑だな」
さっきチューニング室に移動するためロビーを移動している最中、私服姿の筒井先輩が「あんたたち、気合入れてきなさいよ!」と手を振ってくれていた。いつぞやの予告通り、なんとか勉強に一区切りつけて俺たちの応援に来てくれたようだ。
筒井先輩だけではない。藤田前部長やホルンのぽっちゃり先輩、バスクラの先輩など、この10月で引退した3年生全員が連れ立っていた。受験の追い込みで忙しい時期のはずなのに、後輩のことが今でも気になるようだ。
先輩方がいなくてもこの部活は大丈夫ですから、安心して受験勉強に専念していやがれ。演奏をもってそう伝えることが、本日俺たちに課されたミッションだった。
ちょうどひとつ前の中学校が『ガリバー旅行記』を演奏しているのが聞こえる。世界的に有名なスウィフトの小説を題材に、主人公の旅した国々を趣の異なる4楽章で表現した組曲だ。
ここの学校は木管のハーモニーが上手い。その見事な演奏を間近で聞かされ、カサキタ木管パートの面々は戦々恐々といった表情で固まっていた。
「最初のところ、大丈夫でしょうか……」
1年のクラリネット奏者が緊張で震える。彼女は出だしの音合わせにどうも自信が無いようだった。
「気にしなーい、気にしなーい」
そう言いながら近づいてなだめるのは、アルトサックス2年の工藤さんだった。
工藤さんは不安げな後輩の前に立つ。そして次の瞬間、なんと自らの両手で相手の両頬をぺしんと叩くように当て、そのままぐにぐにとこねくり回し始めたのだった。
「ダイジョーブダイジョーブ、75%パーフェクトデース。だからリラックスリラックスー」
どいうわけか胡散臭い外国人みたいなしゃべり方。1年生の柔らかい頬がふにふにと、まるでお餅のようにほぐれている。
「それ、パーフェクトじゃないですよー」
いつもはきゃぴきゃぴと垢ぬけた先輩の放つ突然の奇行に驚きつつも、後輩は大声で笑い出してしまいそうなのを必死で押さえてツッコミ返す。さっきの緊張は、すっかりどこかに消えてしまっていた。
そうこうしている間にもひとつ前の演奏が終了したようだ。カーテンの向こうから明かりとともにパチパチと拍手の音が漏れ、俺たちは改めて列を整える。
「続きましては笠縫北中学校吹奏楽部による『吹奏楽のための民話』」
アナウンスが鳴り渡ると同時に、集団の先頭に立つ松子は弦バスを抱え上げて進み始めた。
拍手に迎えられながら、俺たちは順々にステージ上の椅子に腰を下ろす。思えば今日は3年生が抜けて初めての本番だ。1、2年生だけだとただでさえ広いステージが余計に大きく感じてしまう。
やがて全員が席に着いたところで、いつも通り白のブラウスと黒のロングスカートと上品な出で立ちの手島先生が入場すると、より一層大きな拍手が沸き起こった。
先生が指揮台に立ち、タクトをかまえる。ほぼ同時に、俺たちもマウスピースを唇に触れさせた。
そして演奏が始まる。よし、出だしのフォルテはそろった。中低音と高音が交互に吹き鳴らされ、壮大な物語の始まりを感じさせる。
冒頭が終われば、どこか物悲しさを孕んだ主旋律をそれぞれの音域ごとに順繰りで演奏する。この繰り返しにより、特徴的なフレーズを観客に飽きをこさせないように印象付けるのだ。
そんな盛り上げるだけ盛り上げておきながら中盤はテンポも落ちて、まるで静かな夜を歩くようなしっとりとした曲調に一変する。ここではクラリネットら木管楽器のハーモニーが重要になるのだが、先ほどの工藤さんの謎のおまじないのおかげでか木管高音部隊は一糸乱れぬ重なり合いを披露していた。
やがて朝陽が昇るかのように曲に勢いが戻り、序盤の主旋律が再度繰り返される。譜面は前半とほとんど同じなのだが、中盤の谷を越えた後に聞くとまるで違った印象を感じてしまうだろう。
そして再びすべての楽器が参加しての盛り上がりを迎え、その熱量を保ったままフィナーレへと突入する。
まさに一曲、壮大な旅の行程を音楽に落とし込んだかのような抒情詩だ。
フィニッシュの直後、盛大な拍手が吹き荒れる。20人足らずの小規模バンドとは思えない演奏に、観客はすっかり没入させられていた。
観客に一礼し、出てきた方とは反対側の舞台袖へと次々に撤退する。そして観客から見えない位置まで引っ込んだところで、「いよっしゃあああ!」と見事に演奏を終えた喜びを爆発させたのだった。
「よ、良かったー、吹けたー」
[やったね、私らでもできたよ!」
クラリネットの皆さんが互いに手を打ち合わせる。楽器ひとつひとつの音量が小さく他の仲間と音を合わせねばならないクラリネットパートにとって、結束の強さは何よりも重要だ。
「砂岡先輩」
移動中、声をかけられて振り返る。見ると俺の1歩後ろをくっつくようにして、トロンボーンの宇多さんがつかつかと歩いていた。
「おと……父が一番前の席で見てくれていました。あんなに驚いた顔見たの、初めてです」
そして紅潮した満面の笑みをこちらに向け、彼女は興奮を抑えるように話したのだった。ここまで笑った顔、コンクールで優秀賞を取ったとき以上かもしれない。
「それに兄も来てくれてたんですよ。父とはわざと2人分席開けて座っていたのですけど、親子でまったく同じ顔していました」
「そうか、良かったね」
「はい!」
きらっきらに目を輝かせる宇多さん。彼女はきっと今、吹奏楽を選んで心の底から良かったと実感してくれていることだろう。
一旦屋外に出た俺たちは、楽器を持ったまま写真撮影を済ませる。
全員での集合写真とパートごとのグループ撮影を終えたところで先生の「はい皆さん、集まってください」の声に注目した。
「皆さん、お疲れさまでした。楽器を片付けてトラックに積み込んだ後、今日は最後まで残っていていいですよ。せっかくの機会なので上手い人の演奏がどんなものか、是非身近に感じてください」
「いよっしゃ!」
俺は無意識の内にガッツポーズを作っていた。高校や市民団体のハイレベルな演奏もさることながら、今日は淡海吹奏楽団という国内屈指のアマチュアバンドが最後に待っているのだから楽しみで仕方がない。
「ふう、これで明日は一日休みですね」
パーカッションのたくちゃんが両手のマレットを軽く振りながら、たまった疲れをどっと吐き出すようにして言った。いくら評価されないとはいえ、本番の演奏で普段以上にエネルギーを消費したようだ。
「私、明日も部室で練習するよ。みんなはどう、来ない?」
先生の話が終わったところで、徳森さんが金管パートの面々に振り返って尋ねる。アンサンブルコンテストの部内オーディションも間近に迫った今の時期、本来なら行かないという選択肢は無い。
「あ、ごめん。俺、明日ちょっと用事あるんだ」
だが俺は申し訳ないと手を振りながら肩をすくめて徳森さんの提案を断った。当然、周囲からは「ええ!?」と驚きの声が上がる。
「珍しいねぇ、吹奏楽抜いたらスケベしか残らない砂岡に用事って」
はえーと驚嘆する松子に、俺はすかさず「お前にとって俺はどんな風に映ってんの?」と訊き返す。
「砂岡くん、どんな用事なの?」
そんな松子とは対照的に、まっすぐ瞳をこちらに向けて首を傾ける宮本さん。
汚れの無い無垢な視線が突き刺さる。そのズキズキとした痛みを誤魔化すべく、俺は「ああ、ちょっとね」とぼかして返した。
さすがにここで話すのは気が早すぎると言われるだろうな。明日、東寺町高校のオープンキャンパスの予約を入れているだなんて。
※今回登場した滋賀県立草津文化芸術会館は現在草津市に移管され、草津市立草津クレアホールと改称されています。
参考音源
『ガリバー旅行記』
https://www.youtube.com/watch?v=vwYQZXpg9lk&list=RDvwYQZXpg9lk&index=1




