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第十七章その3 気が付いたんです

 月曜の朝。ぞろぞろと登校してくる生徒たちの姿を眺めながら、俺は廊下の窓から外に向かって基礎練習のロングトーンに勤しんでいた。


 最近は自由参加の朝練にも、ほぼすべての部員が顔を出している。8時30分には各自教室にいなくてはならないため、7時30分くらいにここに来て準備と片付けを除いた40分くらいで集中的に練習に打ち込むのが日課になっていた。


「砂岡先ぱーい」


 そこにトロンボーンと譜面台を持った宇多さんが現れて声をかける。リスやハムスターにも似た丸っこく黒い瞳は、いつも以上に朝の光を反射させていた。


「隣で吹いてもいいですか?」


「どーぞー」


「ではお邪魔しまーす」


 そう言って宇多さんは譜面台をセットし、トロンボーンに息を吹き込む。朝一ながらまっすぐな良い音だ。彼女の演奏技術は1年生全体でもトップクラスだろう。


「昨日、あれからずっと考えていたんです。そしてようやく気付いたんです、先輩の言った通りだって」


 一通りの基礎練メニューを終えた直後のことだっただった。俺も宇多さんもちょうど音を鳴らしていないタイミングを見計らったように、彼女はぼそっと呟いたのだ。


「そうなんだ」


 続きを吹こうと思っていたが、俺はすっと楽器を下ろす。こちらが話を聞く姿勢を見せたその瞬間、宇多さんはへへっと恥ずかしげな笑みをこぼした。


「私、どっちも頑張った結果、両方とも失うのが怖かったんです。だから勉強を言い訳にして、吹奏楽でうまくいかなくても仕方ないよねって予防線張ってたんですね」


「まさかそこまで考えていたなんて」


 俺はあんぐりと口を開いて彼女の顔に目を向けた。もっと単純なものかと思っていただけに、俺の方がびっくりだよ。


「実は私の兄、受験に失敗しているんです。妹の私から見てもすごいって思うくらい勉強できたのですが、受験当日に風邪ひいちゃって。家族も落ち込んでいましたが、一番辛いのは兄だから、みんな仕方ないよって慰めたんですね。ですがそれが兄にとっては逆にショックだったみたいで」


「ショック? なんで?」


「仕方ないよって言われて、これまで自分の築いてきたものを否定されたように感じたんだと思います。そこからきっともう一生期待されることはない、自分は親に見捨てられたんだって思うようになってしまって。今思い返すと下手に気を使って慰められるよりも、何やってんだってゲンコツのひとつでも喰らっていた方が気が楽だったのかもしれません。それから兄は京都の私立高校に進学したのですが勉強にも身が入らなくなって、家族との関係もギクシャクしちゃって」


 宇多さんが言葉を詰まらせ、手の甲で目をごしごしとこする。俺は何も口をはさまずにそのままを見届けると、目を赤くした彼女は再び話し始めたのだった。


「そんなことがあったものですから私、兄の分まで頑張らなくちゃってヘンに力み過ぎていたのかもしれません。文化祭も終わったんだから塾の時間もっと増やさなくちゃって。もっと吹奏楽に打ち込みたいって気持ちを、そうやって無理矢理押しとどめていたんだと。ですから先輩、ありがとうございます!」


 そこで彼女は改めてぺこりと頭を下げた。


「私、塾の時間減らします。実はお母さんも心配していたんです、あんた増やし過ぎよって。だから昨日演奏会に来てねって言ったら、じゃあ塾は大変だから減らしなさいって」


「そうか、なんかよくわからないうちに宇多さんの力になれていたならそれで嬉しいよ。それに宇多さんみたいな上手い子がいるのは、部活にとっても良いことだからね」


「もぅ先輩、おだてるの上手いんですから!」


 朝のホームルーム前、登校してきた他の生徒たちが廊下を歩いているところだったので俺は慌てて相手の顔を上げさせる。ちょうど俺たちの後ろを通っていた男子生徒が「何だアレ?」といった目を向けてきたが、そのままつかつかと歩き去ってしまった。




 その日の放課後、俺たち金管八重奏は音楽室を借りて『もう一匹の猫「クラーケン」』の音合わせに専念していた。


「なんか宇多、すっごい上手くなってるね」


 通しで一曲を合わせ終えたところで、徳森さんが驚きの声をあげる。土曜の練習に来なかったのにどうして、と目が語っていた。


「ありがとうございますぅ」


 そんな部長に宇多さんはちょっと申し訳なさそうな声を返す。


 人数が少なく中低音が目立つこの曲は、トロンボーンの演奏ひとつで評価ががらりと変わってしまう。宇多さんのように安定したボーン奏者の存在はアンサンブルに必要不可欠だ。


 あとついでに、きょぬーちゃんがいれば俺にとっても目の保養になるからね!


「皆さん、練習頑張っていますね」


 その時、音楽室の扉がガチャリと開けられる。顧問の手島先生が入ってきたのだ。


「てっしー、おはよー!」


「先生、こんにちは」


「皆さんの演奏は職員室にもよく聞こえてきますよ。金管の華やかな音のおかげで、残業している他の先生からも応援されているみたいだって好評です。それと徳森さんと砂岡くん、練習が終わったらちょっと来てください。駅前クリスマスイベントの曲目について相談しましょう」


 俺と徳森さんが「はーい」と返す。先生はにこりと微笑むと、再び音楽室から出て行ってしまったのだった。


「もうクリスマスの曲決めるんですか?」


 早速宇多さんが口にすると、他の金管メンバーも「みたいだね」と沸き立つ。


「ははは、これを決められるのは部長と副部長の特権だぞ。みんなはどんな曲がいい?」


「もちろんペットが目立つ曲でしょ!」


 徳森さんが手にしていたペットを高らかに掲げる。この人、放っといたら『トランペット吹きの休日』とかマジで選びそうだ。


「そりゃ部長だけでしょーが。宮本さんは?」


 俺はくるりと首を回し、椅子に腰かけるチューバ奏者の宮本さんに話題を振った。だが宮本さんは特に明確にこれがやりたいというものは無いようで、少しの楽器を立てたまま間うーんと考え込んでしまったのだった。


「私はどんな曲でもいいよ。でもせっかくだし、クリスマスらしい楽しい曲がいいんじゃないかな」


「そうなるとポップスか童謡あたりがぴったりじゃないでしょうか。ですが時期も時期ですし、そこまで負担にならない方がいいですね」


 乗っかってきたのはホルンの江口さんだった。長く伸びた前髪に半分隠れた眼鏡を直しながら淡々と話す。


「3年も引退して人数が少ないですし。それにアンサンブルコンテストも控えているので、出場する人はこっちに本腰を入れられないかもしれません」


「江口ぃ、そんな弱気になるなよーぅ」


 そんなリアリストっぷりに不満を垂らすように、徳森さんはぶーっと頬を膨らませて割って入った。


「うちのメンバーなら簡単な曲選ぶ必要無いって。もっとガンガン攻めて攻めてきゃいいんだよ。それにアンコン行くのは私ら金管八重奏だから。今から楽しみだよ、余裕ぶっこいてた工藤がオーディションで泣き面晒すのがさ」


「徳森先輩、黒いオーラを隠す気がまったくありませんね」


 下品な笑みを浮かべる徳森さんに、江口さんがぞぞっと身を震わせる。勤勉を美徳とする彼女にとって、徳森さんは理解の範疇を超えた存在なのだろう。

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