第十六章その4 学生の本分?
翌日の放課後も、俺たち金管パートは音楽室に集まっていた。今日も今日とて金管八重奏『もう一匹の猫「クラーケン」』の練習だ。
「じゃあまずはテンポ80で最後まで通してみよ! そこからインテンポに上げていくよ」
メトロノームのゼンマイをカリカリと回す徳森さん。誰が推すまでもなく彼女は金管八重奏の先頭に立って、みんなをぐいぐいと引っ張っていくリーダーになっていた。
「あのー、すみませーん」
そこになんとも間延びした声があがり、準備を進めていた全員が一瞬固まる。声の主はトロンボーン1年生の宇多さんだった。
「実は今日から毎日、塾に行くことになってー……すみませんがー5時で帰らせていただきます」
「え、ああ、いいけど」
気の抜けてしまいそうなふにゃふにゃした発音のせいだろうか。さすがの徳森さんも強く反論することもできず、こくんと頷いてしまう。
「ありがとうございますー」
カチカチとリズムを刻むメトロノームに合わせ、楽器をかまえる宇多さん。そしてチューバの宮本さんとタイミングを合わせながら、出だしの八分音符を奏で始めたのだった。
そこから気になったところを少しずつ、何度も繰り返してメンバー同士タイミングや注意事項を共有する。人数が少ないと同じパートの者同士で合わせる必要が無い分、個々人の技量が演奏の出来不出来に直結してしまう。人数で誤魔化せていた多少のずれも、少人数では傍目からバレバレになってしまうのだ。
そんな恥ずかしい目に遭うのは絶対にイヤだ。俺たちは他のパートの演奏に耳を傾け、自分がどう音を出すのか、どのタイミングで息を吸って吐き出すのかを実際に確認しながら、事細かに譜面に書き込んでいく。
時間のことなどすっかり忘れてしまうくらい、この曲に向き合っていたせいだろう。宇多さんが「あのー」とぼそぼそ呟きながら手を挙げた時、俺たちは一瞬「何事!?」とびくっと震えあがってしまった。
「あ、5時だ」
俺は思わず口にする。見ると壁にかけられた時計の短針は、5の数字を示していた。
「もうそんな時間か……じゃあ宇多、気を付けて行ってきてねー」
「ありがとうございますー」
宇多さんはトロンボーンと譜面台をそれぞれ片手に持ち、申し訳なさそうな様子でその場を離れる。そして小走りで音楽室を出ると、楽器を片付けに部室に向かって行ったのだった。
「宇多さん、勉強熱心ですね。もう十分ってくらい賢いのに」
ホルン1年の江口さんが眼鏡のずれを直しながらぼそりと漏らす。
「そうなの?」
「はい、宇多さんの成績がすごく良いのは1年の間じゃ有名です。1学期の中間期末で両方とも学年1位取ったみたいですし」
「すげえ!」
その場にいた全員がどよめいた。特に俺たち2年生は。まさか学年首席がうちの部にいたなんて。
俺自身も全体で見れば上の方にいるとは思っているけど、それでも学年1位なんて夢のまた夢だよ。
「てかさ、宇多の家ってあそこでしょ、宇多内科」
少しイラついているのだろうか、やや粗暴な口調の徳森さんの一言に、俺はええっと忙しく首を回す。
「お医者さんなの?」
「うん、うちの家族、病気になったらまずあそこ行くもん。インフルエンザの注射打つときはいつも行ってるし」
なるほどお医者さんの家の子となれば、昨日の高級車も納得だな。親御さんもきっと勉強熱心なのだろう。
「それにしてもこれからどうしよう? とりあえず7人で続ける?」
チューバを抱きかかえながら、宮本さんが不安げに徳森さんに尋ねる。だが徳森さんは躊躇う間も無く「ううん」と首を横に振った。
「宇多ならオーディションに影響出ないように頑張ってくれるっしょ。仕方ない、ここから先は帰るまで個人練ね。アンコンもだけど、市民音楽祭の方も練習しといてよー」
リーダーの言葉に「はーい」と返す金管パート一同。そこからはいつも通り、各自別々の場所に移動して各々気になる部分の練習に打ち込んだのだった。
廊下に出て練習していると、別のグループが音を合わせているのがあちこちから聞こえる。ふと耳を立てると、少し離れた部屋でサックス三重奏が『パッション』を練習している音が響いていた。
冗談抜きに、このまますぐコンテスト本番に出てもおかしくないほどのサウンドが出来上がっている。他のパートが楽譜通り吹くのにすら四苦八苦している中で、彼女らはすでに曲を自分たちのものにしているようだった。
「あ、砂岡先輩!」
今日の練習を一通り終えて部室に戻った俺に、スネアドラムを叩いていたたくちゃんが声をかける。彼は来月の市民音楽祭で演奏する『吹奏楽のための民話』の、出だし部分のリズムを任されているようだ。
「さっき宇多さんが帰っていきましたけど、何かあったんですか?」
「ああ、宇多さん塾なんだって」
「ええ、あの人もう十分勉強できるのに。これ以上賢くなっても仕方ないのになぁ」
たくちゃんの見せた反応は、江口さんとまったく同じだった。彼女が学年レベルで有名だってことは、疑いようのない事実みたいだな。
次の日、今週最後の帰りのホームルームが終わるや否や、俺は部室へと直行した。
今日は『吹奏楽のための民話』の合奏だ。少しでも早く楽器を準備して、合奏までの個人練習の時間を確保したい。
「砂岡先輩、先輩」
部室でユーフォのケースをぱかっと開けていると、誰かが俺を小声で呼ぶ。目を向けると、パーカッションのたくちゃんがずらりと並ぶ打楽器の向こうでちょっとちょっとと手招きしていた。
その異様な雰囲気に俺は首を傾げながらも、無言のままそっと近付く。そしてなぜか男ふたり、ティンパニの陰に隠れるようにしゃがみこんで便所タバコでも吹かしているかのようにぼそぼそと小声で話し始めたのだった。
「すみません、実は昨日兄ちゃんから聞いたんですけど」
兄ちゃんというのはもちろん、この前引退したばかりのトロンボーンの筒井先輩のことだ。
「実は宇多さんの家、けっこー複雑らしいんですよ」
「複雑?」
「はい、宇多さん、今高校2年のお兄さんがいるらしいんですね。兄ちゃんが中1の時に3年だったそうです。部活は陸上部で接点も無かったそうなんですが、めちゃくちゃ勉強できるって全校でも有名だったそうなんですよ」
「へえ、すごいな」
兄妹で秀才とは羨ましい。素質も家庭環境も、どちらも優れていたのだろうな。
「そうなんですよ。だから先生も生徒も、みんな石鹿高校の合格は間違いないって思っていたそうです」
「石鹿高校?」
「あ、ご存知なかったですか、滋賀県じゃ一番の進学校ですよ。毎年京大とか東大にどかどか合格してます」
「そうなのか、野球の強い高校なら一通り覚えたけど、どこが偏差値高いかはまだ全然チェックしてなかったな」
「野球はひとまず置いといて。実はその宇多さんのお兄さん、合格確実って言われていたのに石鹿高校に落ちてしまったみたいなんですよ」
「え、マジで!?」
つい大きな声を出してしまい、俺は慌てて口を押さえる。良かった、他の部員は誰も気付いていないようだ。
「はい、当時はちょっとした事件だったみたいですよ。担任の先生と進路指導の先生が、直接家まで謝りに行ったとかなんとか」
「そこまで?」
「だからご両親もショックだったと思います。きっと妹の宇多さんはリベンジの意味でも期待されているんだろうって、兄ちゃんが」
そうか、あの子も変なプレッシャーかけられてるんだなぁ。うちはそういうの何もなくって、本当に良かったよ。
「そりゃ大変だなぁ、家の方針なら俺たちがどうこう言えないし。とは言っても……まだ中1なんだから大目に見てほしいな、勉強は学生の本分だとは思うけど」
もし俺が今すぐに吹奏楽取り上げられて塾に連行されるとしたら、家には帰らず学校にテント張って暮らしだすかもしれないな。
「でもたくちゃんありがとう。宇多さんのこと、少しだけど知れた気がするよ。ほらあの子、あんまり悩みとか顔に出さないから」
「そういう意味では部長はいいですよね。顔見れば何考えてるかすぐわかりますし」
たくちゃんがくくっと笑いをこぼしたまさにその時だった。
「あんたたち、私のこと呼んだ?」
ティンパニー越しに、徳森さんがぬっと俺たちを覗き込む。
「うわ部長! いえいえ、何でもないっす!」
「てかこんなトコで何してんの? 弟がよく部屋の隅っこでうずくまってう〇こ我慢してるんだけど、あんたたちも?」
「汚ねーな、おい!」
一応は花の女子中学生なんだから、ちったぁ恥じらいってモンを持て!
立ち上がった俺は「さ、準備準備ー」とわざとらしく声に出しながら、開けっ放しのユーフォのケースの前まで移動する。俺とたくちゃんが身を屈めて話している間に、部員はほぼ全員が集まっていた。
だが妙だ。いつも合奏となれば誰よりも早く来ているはずのあの子が、この日はまだ姿を現していない。
「あれ、宮本さんは?」
きょろきょろと辺りを見回す。そんな俺の様子に気付いたのか、アルトサックスの工藤さんがマウスピースにリードを固定させながら顔だけをこちらに向けたのだった。
「ああ、みやぽんなら数学の追試だって。この前の中間テスト、マジでヤバかったから」
「マジかよ……」
知りたくもない衝撃の事実を聞かされ、俺は虚しい笑いを浮かべながら立ち尽くすしかなかった。やっぱり部活にしろ勉強にしろ、互いに悪影響出ない程度で頑張ってもらうのが一番だよ。




