第十六章その3 宮本さんは絶望のあまり考えるのをやめた……
「よし、全員揃ったね」
机を下げた音楽室に金管パートの面々が半円形で並んでいるのを見て、トランペットにして部長の徳森さんはこくりと頷く。そして電子チューナーで音を合わせると、「最初からいくよ!」と楽器をかまえなおしたのだった。
金管八重奏のアンサンブル練習だ。『もう一匹の猫「クラーケン」』の楽譜が配られたのはつい昨日だが、互いにどんな曲かを理解するためにはまだ上手くなくてもよいのでとりあえず一度合わせてみる必要がある。
「よろしくお願いします」
ホルン1年生の江口さんも気を引き締めた顔を見せ、マウスピースを唇に当てる。コンクール前は部内で一番下手だった彼女も、今では1stホルンとして金管の主力メンバーに数えられている。
机の上に置いた三角形のメトロノームを96のテンポに合わせ、カッチカッチと針を振れさせる。
「じゃあうっちゃん、準備ができたら合図してね」
チューバをかまえた宮本さんはそう言ってトロンボーン奏者に顔を向ける。
「はい、わかりましたー」
うっちゃんこと現在部内唯一のトロンボーンパートにして1年の宇多早苗さんは、あまり真剣味の感じられないやや間延びした声で返した。長いボーンを持ち上げる際、トレードマークのツインテールがふわっと揺れるものの、耳の下あたりでくくっているおかげか幼い印象はまったくない。
メトロノームの音に合わせて身体を揺らし、大きく息を吸い込む宇多さん。その動きを注視しながら、宮本さんは楽器に息を吹き込んだ。
低く鋭い、割れんばかりの音で八分音符を刻むトロンボーン。それを下支えするように、チューバが9拍に渡る長いロングトーンを響かせる。
この曲の冒頭はまるで何かが近付いてくるような、チューバとトロンボーンの低い響きから始まる。力強く、それでいて美しく音をまとめることが肝要だ。
3小節目からはホルンやユーフォも乗っかり、6小節目にはトランペットの高音も加わってようやく役者が出揃うと、いよいよ曲の軽やかでコミカルな主題に突入する。飼い猫の気まぐれな振る舞いに翻弄されながらも、仕方ないなと許してしまう飼い主の感情がおどけた旋律に込められているようだ。
「ストップストップ! 宇多、もう一度最初のとこ吹いてみて」
ある程度吹いたところで曲を止めた徳森さんが、トロンボーンに指示を出す。
「ふえぇ、はーい」
やや舌足らずな返事をこぼしながら、宇多さんは一人で出だしの数小節を奏で始めたのだった。
「あのさ、もうちょっとタンギングつけてキレのある音出せない?」
「わかりましたー」
徳森さんの指摘を受けて、宇多さんは再びマウスピースに口を触れさせて息を吹き込む。先ほどよりも鮮明で、一音一音がすんなりと耳に入ってくるほど軽快になっていた。
しゃべり方からはトロい印象を受けるけども、宇多さんは物事の呑み込みが非常に早い。演奏の腕もなかなかのもので、本当にまだ半年しか楽器に触れていないのかと疑ってしまう。
ちなみにこの宇多さん、身長は高くも低くもないのだが、1年生とは思えないくらいにでかい。それこそ現2年生の誰と比較しても。
え、どこがって? 健全な男子ならどこに注目してしまうか、言わんでもわかるでしょーに。
普段の演奏では全員が指揮者を向いているので、隣の人がどんな様子で演奏をしているかなど気にすることもない。だが指揮者の立たないアンサンブルコンテストではメンバーが扇形に並ぶので、互いの演奏する姿が嫌でも目に入ってしまう。
腕を前後させてスライドを伸縮させる度に、制服の上からでも揺れる揺れる。その圧倒的なボリュームに、俺だけでなく居並んだ女子部員も全員が目を点にしていた。
宮本さんに至っては、さっきから譜面には一切目を向けずにずっと宇多さんの方をガン見している。そして時折ちらっと下の方に目を向けると、その都度絶望に打ちひしがれた渇いた笑いを浮かべるのだった。
「まだ問題点だらけだなぁ、うちの金管」
部活が終わり、部屋の鍵を返しに職員室に向かう途中、俺は固くなった肩をこんこんと拳で叩きながら呟いた。
本当ならもっと練習したいのに、これ以上残っていたら先生や用務員のおっちゃんにドヤされる。そろそろ陽が沈むのも早くなってきたので、学校全体で部活の時間を短縮しているのだ。
「仕方ないよ、楽譜配られて1日しか経ってないんだから」
隣に並んで階段を下りる宮本さんが苦笑いで返す。いつもより表情が暗い気がするが、そのことには突っ込まないでおこう。
「それにアンコンの練習もだけど、市民音楽祭に向けても頑張らないとね」
「そういやそうだった。こうも立て続けに行事が並ぶと、どれから手を付けたらいいのか悩んでしまうな」
今日はアンコンの練習に専念してしまったけども、『吹奏楽のための民話』の方もちゃんと練習積まないとな。11月中旬の市民音楽祭では、うち以外にも草津市内の中学校や高校、一般市民団体が演奏を披露する。コンクールのように評価されないとはいえ、その道に通じた奏者たちが集まる故に恥ずかしい演奏は絶対にできない。
2階の職員室前の廊下を歩いている時だった。ちょうど職員室の扉がガラリと開き、中からよく知った顔が出てきたのを見た俺たちは、おっと表情を緩める。
「あ、萌衣ちゃん!」
「よっ、みやぽん、ついでに砂岡っち!」
職員室から出てきた萌衣ちゃんことアルトサックスの工藤さんは、俺たちにぱたぱたと左手を振って見せる。
そういえば宮本さんと工藤さんは同じ2年3組だったな。パートは違うけれども、親しげなのは普段からクラスでいっしょに過ごしているからだろう。
そんな彼女の右手には、アルトサックスのハードケースが引っ提げられていた。
「サックス持って帰るの?」
「うん、まだまだ気になるところあるからね。うち、田んぼの真ん中の一軒家だから夜に吹いても近所迷惑ならないんだ。だから先生に持って帰っていいかって許可もらってたの」
いいなぁ、マンション暮らしだとユーフォなんぞ鳴らそうものなら即刻苦情の大行列だよ。
なおアルトサックス本体の重さは2kgちょっとだが、ケースを含めると7kgを超える。そのため近距離ならともかく、10分以上かけて家に持って帰るとなるとなかなか大変だ。
部室の鍵を返却した後、俺たちは3人で連れ立って昇降口へと向かった。パートも違うのでこれまで工藤さんとはあまり接点が無かったが、話してみると明るくポジティブで人付き合いに長けた子であることはすぐに感じ取れる。
やがて昇降口を出て、校舎の外に出た時のことだった。
「あれ、誰かいるよ?」
めざとく何かに気付いた工藤さんがじっと目を細めるので、つられて俺と宮本さんも同じ方向に視線を向けてしまう。目に付いたのはすっかり陽も落ちて宵闇が辺りを包むこの時間、玄関前のロータリーで立ち尽くす女子生徒の姿だった。
「あれ、うっちゃん?」
その正体を見抜いたのは宮本さんだった。名前を呼ばれたのが耳に入ったのか、ぼうっと立っていた宇多さんもこちらに気付き、「せんぱーい!」と手を振り返す。
「まだ帰らないの?」
「はい、実はもうすぐ……あ、来た」
宮本さんの問いかけに答えようとしたちょうどその時、宇多さんは顔を正門の方に向けてしまった。煌々とライトを焚いた黒塗りの乗用車が一台、学校の敷地に入ってきたのだ。
車は宇多さんの目の前で、横付けになって停止する。
「お母さん、ありがとう」
そう言いながら宇多さんは後部座席のドアを開けた。
「早苗、時間が無いから早く乗りなさい」
車の中から聞こえた女性の声に、宇多さんは「ごめんねぇ」と申し訳なさそうに答えた。
「まったく、今週は塾の模試もあるんだから、部活もほどほどにしときなさいよ」
バタンとドアが閉められるなり、車はすさまじい加速で発進する。なんだか忙しない親子のやり取りを、俺たちは無言のまま見届けるしかなかった。
そして走り去る後姿を見て、俺は確信した。さっきはよく見えなかったのでまさかと思っていたけれども、あのエンブレムは間違いない。
「今の車……ベンツだったな」
口周りの筋肉がわなわなと震える。あの1台だけで、うちの親父の愛車が軽く5~6台は買えてしまいそうだ。
「うっちゃん、お金持ちなんだね」
宮本さんの笑顔も、ぎこちなくひきつっていた。たまに街中で高級車が走っているのは見かけるけれども、まさか同じ学校の同じ部員にその持ち主がいたなんて。
「にしても模試とか、うっちゃん真面目に勉強してるんだね。私、中1の時はろくに勉強してなかったよ……今もだけど」
「今もって……宮本さん、この前のテストどうだったよ?」
「砂岡っち、知らないの? みやぽん、国語はまあまあなんだけど、それ以外は――」
「ダメ、それ以上はよくない!」
慌てて工藤さんの口を押さえる宮本さん。俺なんだか最近、宮本さんに対するイメージがどんどん変わりつつある気がする。




