第一章その6 吹き切った男
「来ないね、徳森ちゃん」
翌日、演奏本番5分前。体育館には昨日入学したばかりの1年生120人が集められ、その目の前では防具を身に着けた剣道部が「めーん!」と竹刀を打ち合わせいた。
今日は部活紹介、俺にとってはこのメンバーで初めての演奏本番だ。ステージの上にはすでに椅子やドラムセットがスタンバイされている。朝、早めに登校した吹奏楽部員によって準備されたのだが、その時も徳森さんは姿を見せなかった。
「来たら来たでやってもらうし、来なかったら俺がやる。それだけのことだよ」
本番までのこの時間、吹奏楽部員は各自楽器を手に持ちながら舞台袖で時間が来るのを待つ。その間、俺はずっと人差し指から薬指までの3本の指をとんとんと動かしていた。
自分からやると言い出した『花唄』のソロパートだ、下手な演奏はできない。
昨日は誰も使っていなかったトランペットをひとつ借り、夕方遅くまで残って練習に打ち込んでいた。
トランペットソロの間はユーフォがいなくてもなんとかなる譜面で本当に助かった。最初はユーフォを吹いているものの、直前で楽器を持ち換えてソロだけを吹いたとしても曲としては成立する。
だがトランペットのマウスピースは、ユーフォニアムに比べてずっと小さい。指使いは同じとはいえ、その演奏感覚は全く違う。そんな吹き慣れないペットの練習に、遅くまで付き合ってくれた手島先生には感謝感謝だ。
加えて大切な楽器を素早くかつ静かに、安全に持ち換えるための方法を考案する必要もあった。だから今日ステージ上の俺の椅子の両隣には、ペットを置くための椅子とユーフォを置くための椅子があらかじめ準備されている。
「はい、剣道部の皆さん、ありがとうございました。それでは続いて、文化部に移ります」
司会進行の生徒会役員が、ちらりとこちらに目を向ける。
「まずは吹奏楽部の紹介です。皆さん、ステージにご注目ください」
俺たちは一斉に、舞台袖からつかつかと歩み出た。
楽器といえば小学校でのリコーダーや鍵盤ハーモニカくらいしか経験の無い子が大半の新入生たちからは、突如現れた金銀ピカピカの楽器たちに「おおっ」と好奇の声があがる。
そう、最初は物珍しさで結構食いつくんだよ。だが本当に関心を向けられるのは、ここできっちり演奏してからだ。
指揮者の手島先生が前に立ち、観客の生徒たちにぺこりと一礼する。そしてタクトを掲げると、部員たちは一斉に楽器を構えた。
そしてワン、ツーの合図を声を出さずに送ると、木管の3連符により『花唄』の演奏が始まったのだった。
去年流行った曲だけに聞き覚えのある新入生も多いようだ。互いに嬉しそうな顔を向けて「TOKIOだ!」と話しているのが見える。
だが多少マシになったとはいえ、演奏の出来自体は決して褒められたものではない。実際に最初は良かったものの、しばらく時間が経つと生徒たちの顔にも退屈の表情が浮かび上がってきているように思えた。
そしてついに、問題のソロが迫る。ここを吹き終えて……今だ!
俺はユーフォから口を離し、右隣の椅子の上に素早く、音を立てないように下ろす。そして上半身をひねり、左隣の椅子の上のトランペットを素早くつかみ上げたのだった。
慣れない小さなマウスピースに唇を当て、俺は思いきり息を吹き込んだ。
体育館に鳴り響く、トランペットの爽やかな高音。同時に、ステージをぼうっと眺めていた新入生たちがはっと身を起こし、一斉にこちらに顔を向けたのがタクトを振る先生越しに目に付いたのだった。
ベルが上を向いているユーフォニアムとは違い、トランペットの音は観客までまっすぐに届く。元々他のメンバーに合わせて音量を抑えるように言われていた俺だが、ソロでは思う存分吹いていいよ、とお墨付きをいただいている。
1年生にとって金管のこの響きは新鮮だったようだ。そこから俺が楽器をユーフォに持ち換えて以降も、多くがじっとステージに目を向けている。
そして演奏が終了した。途端、1年生からわっと拍手が沸き起こる。ふざけた誰かが「アンコール!」と叫んでいるのが聞こえ、俺たちはほっと安堵の顔を互いに見せ合った。
「私たち吹奏楽部はこのような楽器を演奏して、夏のコンクールに出場しています。興味ある方は、是非4階まで来てください!」
他の部の紹介もあるので、部長は手短に説明を済ませる。そして軽く頭を下げると、またしても拍手が上がったのだった。
「吹奏楽部の皆さん、ありがとうございました。それでは続いて、美術部の紹介です」
「すごいよ砂岡くん! 大成功だよ!」
放課後、1年生がいなくなった体育館で吹奏楽部員がステージ上の椅子やパーカッションの撤収作業を行なっている最中、ニコニコスマイルの松井さんが俺に声をかける。
「いやーいけると思ったんだけど、うまくいかんもんだね」
一応間違えずに演奏はできたものの、とても満足できるような音ではない。徳森さんの音色に比べれば、なんだか曇っている気がする。やっぱり本職のトランぺッターには敵わないか。
「そんなこと無いよ、1年生みんな楽しんでたもん。去年のウチら、あんな感じにならなかったよ」
そう話しながら、俺と松井さんはふたりがかりでシロフォン、いわゆる木琴を体育館の外へと運び出す。こいつを階段を使って4階まで持ち上げるのは、なかなかに大変だ。
「よいしょっと」
「砂岡くん、もっと高く持ち上げて!」
えっさほいさと一段ずつ階段を上がるふたり。そしてようやく4階まで運び上げた時、俺たちは部室の方が妙に騒がしいことに気付いて目を向けたのだった。
なんと、部室の前に生徒たちの人だかりができている。かなりの大勢、20人……いや、30人くらいはいるかもしれない。性別も女子が多いものの、男子もそれなりに混じっている。
「ごめんね、楽器運び終わってからね!」
集まった生徒たちにそう言い聞かせるのは藤田部長だ。
「部長、どうしたんですか?」
俺は声をかけた時だった。
「あ、あの先輩だ!」
ひとりが俺に向かってびしっと指差す。その途端、集団がわっと移動を開始し、たちまち俺の目の前まで迫ってきたのだった。
「トランペット、吹いてみたいです!」
「私も吹奏楽やってみたいです。トランペット、吹かせてください!」
なんと全員、部活見学希望のようだ。
あまりの事態に、俺は「え、ええ?」と声をあげてしまう。喜ぶべきシチュエーションではあるのだが、むしろ今の俺にとっては困惑の方が大きい。いや、トランペット教えてくれって言われても、俺も昨日から吹き始めたばかりだし……。
「あ、徳森ちゃん、おかえりー!」
松井さんが階段の方に手を振る。見るとそこには、昨日持ち出したトランペットのケースを手に提げて、ばつが悪そうな表情を浮かべて徳森さんが立っていたのだった。
「ちょうどよかった! トランペット吹きたいって子がほら、こんなに!」
変なジェスチャーで訴える松井さんをスルーし、徳森さんは俺たちの脇を横切る。そして部室の前でじっと険しい顔を向ける部長の元まで近寄ると、深く頭を下げたのだった。
「部長、ごめんなさい……」
しおらしく消え入りそうな徳森さんの声。部長は「こういうこと、もうしないでね」と一言だけ告げた。
「ありがとうございます」
徳森さんはもう一度頭を下げる。そして次に、「砂岡」と俺に向き直ったのだった。よく見ると、その目は少しばかり涙で濡れている。
「あんたには迷惑かけたわ、ごめんね」
「ああ、気にしなくていいよ。それよりさ、せっかくだから新入生にペットの使い方教えてあげてくれない? 俺じゃよくわからんし、まだ体育館の片づけ終わってないんだ」
「う、うん」
俺はとりあえずこの場を彼女に任せることにした。さっき運んできたシロフォンも、まだ廊下に置きっぱなしのままだもんな。
役割を振られて徳森さんも落ち着いたようで、「新入生、ちょっと音楽室まで来て。トランペットのこと教えるから」といつもの調子を取り戻す。
そして1年生を引き連れた彼女とすれ違う、ほんの一瞬のことだった。
「私の方が……もっとうまく吹けるもん……」
確かに彼女がそう呟いたのを、俺の耳は聞き漏らさなかった。だが俺はそれを聞かなかったことにして、さっさとシロフォンを部室へと運び込んだのだった。