第十三章その3 復活の松子
金曜の放課後、部室はここ数日で一番の賑わいを見せていた。
「松井ちゃん、よく戻ってきたね!」
「あんた本当にもう痛くないの?」
素直に喜んだり懐疑心を露わにしたりとその顔は様々だが、ほぼすべての吹奏楽部員が集まって、にへへとばつの悪そうな笑いを浮かべる松子を取り囲んでいたのだった。
「みんな迷惑かけてごめんね。思ったよりも早く治っちゃいました!」
見せつけるように、グーパーグーパーと手を開いて閉じてを繰り返す。そう、月曜に腱鞘炎が発症してからわずか4日で、彼女は部活に復帰したのだった。手首から指先にかけてはまだテーピングが施されているが、それでも発症当初と比べれば見違えるほどスムーズに動いている。
そんな松子と部員たちの様子を、俺は愛用のユーフォにオイルを挿しながら遠巻きに眺めていた。
その後の個人練習の途中のことだった。トイレのため松子が部室を離れたところで、俺もそっと席を離れる。
「松子!」
そして近くに誰もいないことを確認すると、階段の踊り場に誘導して小さく尋ねたのだった。
「お前、本当に治ったのか? 完治まで3週間って言われてたのに、いくら何でも早すぎるだろ」
俺は詰問するように尋ねた。自分でも感じが悪いなと思うほど強い口調だった。
「うーん、砂岡には話してもいいかな」
そんな俺の語気にもへへっと笑いを見せながら、松子は俺の鼻の先にすっと左手を差し出す。
「痛み止め注射、打ったの。痛み止めって言う割にめちゃくちゃ痛かったのは嘘つきだと思ったよ」
「大丈夫なのか、それ?」
「しばらくは大丈夫だよぉ」
「しばらくはって、それ過ぎたらどうなるんだよ?」
すかさず質問を重ねる。だが松子はふふっと微笑むばかりで、何も答えなかった。
俺は直感した。こいつ、また無理して大切な何かを隠しているな。
「みんなに話そう」
部室に戻ろうと振り返った俺の腕に、「待って!」と松子がつかみかかる。ふと見ると、松子はまっすぐこちらに真っ黒な瞳を向けていた。
「ウチはもう妹に見せつけるための演奏をしようだなんて思わない。でも自分が満足できるだけの意地くらいは張りたいよ。これは部のためクラスのため、何よりも自分のため。ウチがやりたいって思ってやってるだけだよ」
俺の腕をつかむ松子の手に、ググっと力がこもる。
「だからこのことは、みんなには黙っといてくれない? 大丈夫、ウチなら腱鞘炎にかかっても、完璧に演奏もドラムメジャーもこなせるくらいの自信はあるから」
一体どこからその自信は湧いてくるんだと疑問に思うが、一点の濁りも無い彼女の眼には有無を言わせぬ説得力があった。
「わかった。けど部長と先生にだけは話しておく。それだけはわかってくれ」
妙な威圧感に気圧されて、俺ははぁとため息とともに松子の腕を振り払った。
「うん、ありがとう!」
途端、松子はぱあっと明るい光を放つかのように満面の笑みを見せた。本当にころころ表情の変わるヤツだと、俺は二重の意味で呆れてしまった。
「でも絶対、無茶だけはするなよ。それだけは約束してくれ」
「ガッテンショーチのスケ!」
ガッテンショーチのスケって、21世紀の女子中学生が使うワードじゃねえな……まあ松子だし、今さら感もあるか。
その後、手島先生が指揮台に立って合奏練習が行われる。
たくちゃんが高速かつ正確にボンゴのビートを刻む。単に正確な音を鳴らしているだけでなく拍ごとに強弱や緩急をつけて、まるで一連の音に喜怒哀楽の感情がこめられているようだ。
「みんな驚くくらいうまくなってるねぇ」
「松井先輩がいない間も、ずっと練習続けてきたんで」
アゴゴベルをかまえてぽかんと立ち尽くす松子に、たくちゃんがドヤ顔を向ける。
この日は松子の身体を気遣ってか、合奏も比較的手心を加えた穏やかなものだった。インテンポでもそろってきた『エル・クンバンチェロ』も、ちょっとゆっくりめの指揮で音を合わせる。
「いいですね、松井さんがいるおかげで音に厚みが戻っています」
手島先生もやっぱこれだねとご満悦の顔を部員たちに見せる。小物パーカッションの印象的な演出はもちろん、コントラバスの低音の響きがひとつあるか無いかだけで音楽の印象はだいぶ変わるものだ。
「いやーそれほどでもーありますよー」
松子がそう言い放った途端、部室がどっと笑いに包まれる。この手のキャラが許されるのって、一種の才能だよな。
「あのさぁ」
合奏が終わった後のことだった。みんなで楽器の汚れを落としているところで、ルーズソックスがトレードマークのトランぺッター徳森さんがよく通る声で部室全体に呼びかけたのだ。
「せっかくだから松井の復帰を祝って、明日練習終わってからみんなでどっか遊びに行かない? ちょうど午前で終わりだしさ」
コントラバスのケースを松子が「え?」と顔を上げる間に、他の部員たちが「さんせーい!」と一斉に声をあげる。
「そうね、松井は迷惑かけたんだから強制参加ね」
筒井先輩もトロンボーンのスライド管内にガーゼを突っ込みながら松子にじろりと目を向けた。さすがの松子もオネエの凝視には敵わないようで、嬉しいやら恐ろしいやら、作り笑いにも似た何とも言えない顔で「え、ええ」と頷いていた。
「じゃあどこ行こう?」
「映画はこの前みんなで行ったとこだしねー」
明日の行き先について部員各々が話し合う。
「それならー」
そんな部員たちの会話に乗っかるように、主賓の松子がするすると手を挙げた。
「ウチ、久しぶりにバッティングセンター行きたい!」
「お前はせっかく治った傷をまた広げるつもりか?」
目を細める俺の突っ込みに、松子は「ですよねー」と手を引っ込める。もし左手にボールでもぶつけようものなら、今度は弦バス奏者生命にかかわるな。
「ボウリングならどう? 左手に負担はかからないよ」
部長がフルートを磨きながら提案するが、すぐに筒井先輩が「ダメダメ!」と首を横に振った。
「砂岡の魔球が怖いわ。前はなんとか生き延びられたけど、次はマジでタマ取られるわよ」
「あの、辛い過去をほじくり返すのはやめてください……」
無慈悲な流れ弾を受けて、俺は涙声で手を伸ばす。
「じゃあそうなると……」
チューバの表面にラッカーポリッシュを塗っていた宮本さんが、天井を見上げてしばし考え込む。そして思いついたように、目を光らせて部室を見回したのだった。
「カラオケ、行かない?」
「行こう!」
俺は即答した。ぶっちゃけ彼女の提案なら僕、どこでもお供しちゃう!
「そうね、手も使わないしいいかもね」
筒井先輩はじめ3年生メンバーもおおむねカラオケ案には賛成のようだ。
「そうだねぇ、ウチも久しぶりに思いっきり歌いたいね」
松子もその手があったかというようにポンと手を叩く。この流れならカラオケで決まったも同然だな。
その時ふと金管の方に顔を向けた俺は、「おや?」と首を傾げてしまった。どういうわけだろうか、この会の発起人である徳森さんが、トランペットを手に持ったまま愕然とした表情で固まっていたのだ。




