第十三章その2 天才の姉
「合唱の練習はどうしたの?」
「ああ、今日はCD使ったよ」
俺を家に上げた松子は、紅茶を淹れると言ってキッチンでお湯を沸かしていた。
その合間に彼女がカウンターに並べているのは、ガラス製のおしゃれなポットに繊細な花の絵が描かれたティーカップ、缶に入った高そうな茶葉と、我が家では絶対に使いそうにない用具一式だ。
俺は席を離れ、壁際のリビングボードを眺める。そこにはガラス戸の中に、何十ものトロフィーや盾がぎっしりと並べられていた。
ピアノコンクール関西支部大会最優秀賞、某楽器メーカー主催のコンテストの全国大会金賞……ピアノ業界についてほとんど知らない俺でも、マジかよと驚愕してしまう内容ばかりだ。
だがそこに打刻されている名前は、ほとんどが松井結月だった。松井遥香の名前が記されたトロフィーは全体の5分の1も置かれておらず、その内容も県大会5位とか支部大会参加賞とかで妹と比べると見劣りしてしまう。
「すごいでしょ、うちの妹」
いつの間にか横に立っていた松子が、俺と同じようにトロフィーを見つめてふふっと笑いかける。
「確かにすごいなこりゃ……天才かよ」
「その通り、あの子は天才だよ。5歳のウチがピアノを弾いているのを横で見ていただけで、曲をそのまんまコピーできたくらいだからね。ホントお姉ちゃんも鼻が高いよ」
「さすが音楽姉妹だな。松子だってうちの部活じゃ、音楽のセンスはずば抜けてるじゃないか」
「ウチくらい県内どころか市内でもごろごろいるよー。でも結月は別、そこらの上手い人が寝食を削って努力しても、絶対に追いつけない存在だからさ」
松子は金ぴかに輝く栄誉の証に目を向けているものの、その瞳はぼうっと虚ろで焦点も合っていないようだった。
その時、台所で火にかけられていたヤカンがピーッと甲高い音を鳴らして蒸気を噴き上げる。
「あ、沸いた沸いた」
俺と松子は小走りでキッチンまで移動する。この笛吹やかんの音って、人間を本能的に焦らせるよな。
相当ちゅんちゅんに沸かしたのだろう、ガスを止めてもなおやかんはぐらぐらと煮立っていた。
ガラス製のポットに茶葉をそのまま入れ、そこに熱湯を注ぐ。そしてしばらく待ってお茶の成分を抽出させたところで、別に用意しておいた陶器のポットにしっかり色のついた紅茶を移し替えるのだ。
その際に松子は右手にガラス製のポットを持ち、左手はもうひとつのポットの上で茶こしを添える。しかし左手がまだ痛むのだろう、松子の手の動きはぎこちなく、ぷるぷると震えていた。
「あ、持ちにくいなら俺やるぞ」
「いいよいいよ、砂岡は座ってて……あ!」
だがやはり自由が利かないようだ。流水を受け止め切れず、ポットの中に茶葉がどばどばと落ち、しかも跳ね返った熱湯がカウンターの上にこぼれてしまった。
「ほら言わんこっちゃない」
ポットを置き、布巾でカウンターを拭く松子に俺は口を尖らせる。
「松子、お前頑張りすぎだ。いくら吹奏楽部やクラスのみんなのためだからって、そこまでお前ひとりで抱え込む必要はないぞ」
「違うよ、そんなんじゃ」
カウンターを拭く松子の手がピタリと止まる。聞く側の力が抜けてしまいそうな普段の声色とは異なり、思わずびくっと震え上がってしまいそうな重みのある声だった。
つい自分の口が本音を漏らしてしまったことに驚いたのか、慌てて松子はスマイルを取り繕う。
「ウチじゃお姉ちゃんらしくできることなんて何もないから、珍しく色々と頑張ってみたんだけど……これじゃだめだよねぇ」
顔は笑っているが、あたふたと振り回す手までは抑えきれないようだ。
だが俺は何も答えず、じっと黙っていた。とうとう松子は根負けし、はぁと深くため息を吐いたのだった。
「この年齢で知りたくなかったなぁ……天才って本当に無限の青天井なんだって」
思った通りだ。
松子にとって大切な、可愛い妹。それは誇るべき自慢のタネであり、同時に敵いようのないライバルでもあるのだ。
いや、ライバルという土俵にすら立てていないのかもしれない。自身をはるかに上回る妹の才能は、松子の心の中で常にコンプレックスとして横たわっている。
だからピアノでは負けたとしても、他のことで負けたくはない。その一心に駆られ、パーカッションもドラムメジャーも嫌な顔ひとつせずノリノリで引き受けてくれたのだ。
だからこそ辛さを押し隠しているような今の彼女の表情を見ると、俺自身もいたたまれない気持ちに襲われてしまう。
「俺、お前の演奏好きだぞ」
たまらず俺は言い放った。聞いて松子はきょとんと目を丸め、「え?」と固まる。
「よくは知らないが、お前の妹がすごいのは多分そうだ。でも俺たちにとって松子は松子だ、弦バスもドラムメジャーもピアノもできる、吹奏楽部の松子だ。仮にもっと音楽の才能があるやつがいたとしても、代わりが務まるわけがない」
突然何を言い出すのかと訴えるような目をこちらに向ける松子。だがしかし、その身体は俺の話に耳を傾けているようで、何も言い返そうとしない。
「変な連中勢ぞろいの吹奏楽部も2の4も同時にまとめられるのはな、お前のキャラと演奏の腕のおかげだ。俺たちがここまで団結できるのは、お前がいるからだよ。他に代わりはいない。だから松子、お前の妹はすごい。けれどお前もすごい、たったそれだけのことだ。だから変に対抗心燃やし過ぎて、自分を追い込もうとするな」
心赴くままにざっとまくしたてたところで、俺はようやく口数が多くなりすぎたかなと気まずさを覚えて口を噤んだ。対する松子は完全に呆気にとられたように、口を開いて固まったまま微動だにしなかった。
「なんか……説教臭くなっちゃったな。うん、今の忘れて、マジで」
やべえ、めっちゃ気恥ずかしい。俺はかっと顔が熱くなるのを感じ、手で目を覆って顔を背ける。
よりにもよって松子相手に何言ってんだ、俺!?
だがその時、俺の耳をすんすんと鼻をすする音が撫でる。顔を上げると、瞳に涙を浮かべた松子が目をごしごしと拭っていたのだった。
「ありがとねぇ。そう言ってくれると……ウチも嬉しいよ」
そしていつも聞いていたあのなんとなーく安心感を覚える声を漏らす。
俺はへへっと苦笑いを浮かべながらも、心中ではほっと安心していた。良かった、松子がほんのわずかでもいつもの調子を取り戻してくれたようで。
「ごめんねぇ砂岡、紅茶時間経ちすぎちゃった」
そう言って松子は目をこすりながら、カウンターの上に並んだティーセットに視線を落とす。茶葉を入れたポットをそのままにしておいたせいで、だいぶ色も濃く抽出されていた。
「すぐに作り直すね」
「いいよいいよ。そのまま淹れてよ。俺、コーヒー飲みまくってるからか普通の店とか自販機の紅茶だと物足りなくてさ。むしろ渋みが強く出てるくらいのが好み」
「そ-なの?」
首を傾けながら、松子はティーカップに紅茶を注ぐ。そして8分目くらいまでがやや赤色の強く出過ぎてしまった紅茶に満たされたところで、俺はカップを手に取ったのだった。
「蓼食う虫もなんたらかんたら。つまり俺が虫、お前タデ」
「タデはひどいよ、せめて胡蝶蘭くらいないと」
「さすがに自分を高く買い被りすぎ……あー、うめぇ」
うん、やっぱりこれくらい渋いと飲みごたえがあるねぇ。俺将来、ビールとかめちゃくちゃ好きになりそうな気がする。
世間一般ではまずい味だろうが、自分にとって絶品の味を味わって楽しむ。そんな俺を見つめながら、突如どういうわけか松子はぷっと吹き出したのだった。
「ははは、こりゃみやぽんの気持ちもなんとなくわかるよ」
不意を突かれた俺はカップを大きく傾けてしまった。胃やら気管やらにざばっと紅茶が流れ込み、一瞬の後に逆流する。
「な、なんでそこで宮本さんの名前が出てくるんだよ!?」
ゴホゴホとむせながら、俺は力なくツッコみ返す。だが当の松子はにししと白い歯を見せつけると、100点満点のスマイルをこちらに向けるばかりで何も言わなかった。




