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第十三章その1 ひとりいない

「みんな、朝早くからありがとう」


 翌朝、いつもより早くに集まった松子を除く部員たちは、指揮台の上に立った三つ編みお下げの藤田部長にじっと顔を向けていた。


 昨日は松子の発症と阪神リーグ優勝決定のダブルパンチで一睡もできなかったのだろう、手島先生も目の下にクマを作りながら部長の傍らに立っている。


「松井ちゃんのお母さんから聞いたんだけど、完治までだいたい3週間はかかるみたい」


 部長がそう告げるなり、部室のあちこちから深いため息が上がった。


「そんなに重症なんだ」


「ちょうど文化祭始まる頃じゃないですか」


 松子の身体の心配、学園祭の心配、それらが入り交じった複雑な感情が渦巻く。


「ウチらが意地張ってこの曲やりたいって言ったから……」


 筒井先輩をはじめとする3年生はひどく落ち込んでいた。部員の負担を顧みず、曲を選んだ者としての責任を感じているのだろう。


「こんなの結果論ですよ。誰も予想できなかったのですから、ご自身を責めないでください」


 ホルン1年の江口さんがフォローを入れる。だが3年生はなおも視線を落としたまま、後悔の念に苛まれていた。


「ですがこのまま何も対策を立てないわけにはいきません。もしもの場合に備えて代わりのドラムメジャーを立てたり……曲を変更することもあり得ます」


 嫌な雰囲気に包まれる中、先生が腕を組んで淡々と述べる。


 反対意見は挙がらなかった。ドラムメジャーもパーカッションも、いずれも松子だからこそこなせた役割。彼女と同等以上のパフォーマンスが可能な部員など、他にいないのだ。


 昨日今日の出来事だけで、俺たちはあいつがうちの部にとっていかに不可欠な存在であるかを痛感させられていた。


「最悪の場合は想定しておいた方がいいけど、私たちはそうならないように祈ろう。今できるのは、松子ちゃんが治るのを待つだけだよ」


 その日、松子は朝練に姿を見せなかった。それだけではない朝のホームルームの時間になっても、2年4組の教室に登校して来なかったのだ。


 チャイムと同時に担任のおじいちゃん先生が出席簿を開き、クラスメイトの名前を読み上げる。


「松井ー……は今日欠席だ」


 先生がペンで印を入れると、にわかに教室がどよめいた。


「ええ、松井が!?」


「あいつ小学校の時から学校休んだの見たこと無いぜ」


「先生、松井さんは……無事なのでしょうか!?」


 男子は騒ぎ立て、女子は今にも泣き出しそうな目で担任に尋ねる。松子が学校を休むのは、天変地異レベルの大災害らしい。


「安心しなさい、ちょっと病院行くだけだ。大したことはないと聞いている」


 腱鞘炎自体はありふれた症状なので、その面から言えば大したことはない。


 しかし楽器奏者としては死活問題だ。俺のような吹奏楽部員は、あいつがどれほどショックだったか気が気でなかった。




 放課後、部活を終えた俺はそのまま家には帰らず、自転車で松子の家に立ち寄っていた。


 授業で配られたプリントを持ってきたのだ。同じクラスで部活も同じだからとおじいちゃん先生に頼まれたのだが、これはある意味ラッキーかもしれない。あいつがどんな様子か、この目で見ることができる。


 昨日に続いて再び松子の家を訪れた俺は、一呼吸整えてからインターホンを押す。機械からピンポーンと音が鳴り、家人に来客を伝える。


 だが反応がない。1分ほど待ったものの、家の中からはうんともすんとも返ってこなかった。


「出かけてるのかな?」


 悪いとは思うが、俺はガレージを横切って敷地に侵入し、掃き出しから部屋の中を覗き込む。たしかこの位置はリビングだったかな?


 そこで俺は立ち止まった。部屋の中に置かれたグランドピアノの前に座り、ピンと美しく背筋を伸ばしたまま、流れるような指の動きで鍵盤を叩く松子に目を奪われてしまったのだ。


 飾り気の無いショートボブにヘッドホンをはめ、左手を膝の上で休めながらも、右手は見事な跳躍を決めている。音は出ていなくとも、長い経験に裏打ちされた高い技術が秘められていることは一目見ただけでわかった。


「松子!」


 俺は窓ガラスをこんこんと叩く。さすがの松子もこれには気が付いたようで、慌ててこちらを振り向いた。


「砂岡、どーしたの!?」


 ヘッドホンを外し、掃き出しの鍵を解錠する。一連の動作の最中、彼女はずっと左手を庇っていた。


「ほら、今日のプリント。理科の先生、ここからテスト出すってさ」


「あ、ありがとー。ちゃんと勉強しないとねぇ」


 そしてほっと安心したように、差し出されたプリントを受け取ったのだった。


「ピアノ……弾いてたのか?」


「うん、せめて右手だけでも感覚忘れないようにってねぇ」


 ばつが悪そうな笑いを浮かべる松子に、俺は「無茶するなよ」と釘を刺す。こいつ、無茶するのが常態化してしまっているからな。


「ねえ砂岡さぁ」


 そして長居は申し訳ない、こいつの顔も見たしミッションコンプリートかなと思っていた時のことだった。いつもふわふわしている松子の声に、不意に重みが感じられる。


「退屈だし、ちょっと上がってってよ」


 俺はぽかんと固まってしまった。だが同時に内心では、不覚にもドキリと動揺してしまっていた。


「……いいの?」


 少し間を置いて、俺はだれもいないよなと家の前の道路にちらちら目を遣りながら訊き返す。昨日はあんなに早く帰れと急かしていたのに、どうした気の変わりようだろう?


「お父さんまだ仕事だし、お母さんさっき買い物行ったばっかりだし……妹もピアノのレッスンだからさぁ」


 なるほどそういうことか。俺はひとり納得し、小さく頷いた。


「ほんならちょっくらお邪魔しちゃおうかな」


 俺はそう言うと小走りで玄関に向かった。こいつに元気出してもらえるなら、最近仕入れた一発芸のいくつかでもお披露目してやろう。

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