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第十二章その4 笑顔の裏に

「すみません、カサキタ吹奏楽部の藤田と言います。今そちらに遥香さんはいらっしゃいますか?」


 練習後、職員室前の公衆電話の前に立った藤田部長が、受話器に向かって話しかける。通話先は松子の自宅だ。


 その周りには俺を始め、部員たち全員が集まって人垣を作っていた。みんな松子のことが心配なのだ。


「あ、松井ちゃん? 体調は……え、腱鞘炎!?」


 部長が表情をひきつらせるのを見て、俺はすぐさま頭を抱えた。


 よりにもよって、今きちまったのか。


 腱鞘炎とは手首に起きる炎症のことだ。音楽家やスポーツ選手など、手に負担のかかる動作を日常的に繰り返している人に多く発症するらしい。


 思えば松子のヤツ、普段のコントラバスに加えて助っ人のパーカッション、さらにマーチングのドラムメジャーに合唱コンクールのピアノ伴奏にと手首を酷使してばかりだった。


 いつも表向きはへらへらしているので大丈夫だろうとは思っていたが、まさか心の奥底で抱いていた一抹の不安がこんな形で的中してしまうとは。


「ええ、はい……はい、ありがとうございます」


 やがて部長は受話器を置いた。チーンと音が鳴り、取出口からテレホンカードがすっと飛び出す。


「松井ちゃん、今は家で安静にしてるみたい」


「良かった、入院ではないんですね」


 ほっと一安心する一同。


「うん、でも様子見ておきたいから、私これからお見舞いに行くよ」


 けれども予断は許さない。真剣な面持ちの部長が言うと、すぐさま部員たちが反応する。


「私も行きたいです!」


「あ、あたしも!」


 学年関係なしに声をあげる部員たち。バンドの低音として皆の演奏を支え、同時に部活のムードメーカー兼潤滑油であった彼女がいかに慕われていたかがよくわかる。


 しかし部長は「ちょっと待って」と彼女らを制した。


「みんな心配だって気持ちはよくわかるけど、こんなに大勢で行ったら迷惑だよ。行けるなら2、3人、同じパートまでにしよう」


 告げられるや否や、俺と宮本さんに全員の視線が注がれた。コントラバスと同じパートといえば、低音のユーフォとチューバがそれに当たる。


「ふたりとも、時間大丈夫?」


「ええ、俺は平気です」


「私も」


 俺も宮本さんも即答した。確認した部長は頷くと、すぐに「ねえ、みんな」と全員に呼びかける。


「私たち3人で行くから、みんなはもう下校しておいて。松井ちゃんの様子とかいつ戻れそうかとか、明日みんなに話すから」




 松子の家は学校からほど近い、新興住宅地の一軒家だった。小さな庭をすべてコンクリートで覆ってガレージにした、比較的新しい構造だ。


「みんな来てくれてありがとう」


 インターホンを押して玄関から現れた松子のお母さんに通され、俺と部長と宮本さんの3人は家の中に上げられた。


 屋根まで達する吹き抜けと大きな窓のおかげで、太陽光がさんさんと降り注ぐ広々としたリビングには、一般家庭では珍しいグランドピアノが大屋根を開いて置かれていた。ピアノ教室でも開いているのかと思ったが、教本などは置いてないのでそういうわけではなさそうだ。代わりに近くに置かれたガラス製のキャビネットには、トロフィーや盾がぎっしりと並べられている。


 2階への階段はそんなリビングの中にあった。お母さんは2階の一室のドアをこんこんとノックし、「遥香、吹奏楽部のみんなが来たよ」と呼び掛ける。


「うん、通してー」


 聞き慣れたボイスが返ってくる。部長はドアノブを握り、がちゃりと扉を開けた。


「松井ちゃん!」


 走り出したい気持ちを抑えながら、俺たちは部屋の中にぞろぞろと進み入る。


 ちょっと変わったカエルのキャラクターやバイオリンやトランペットなど様々な楽器を象った置物の飾られた部屋の中、パジャマ姿の松子はベッドに座り込んで楽譜を読んでいた。


「みんなぁ! ありがとう!」


 そしていつもと変わらぬ陽気な表情を向ける。だがその左手には痛々しくサポーターが巻かれ、その下では皮膚がきつく引っ張られてテーピングされている様が見て取れた。


「ほら、これお土産」


 俺は手に持っていた小さなビニール袋をすっと突き出す。途中コンビニで買ってきた、ビッグサイズの焼きプリンだ。


「あ、ありがとう! よく覚えてたね、ウチがプリン好きなの」


「うん、松子ちゃん合宿の夜に話してくれたの思い出してね。ねえ、体調はどう?」


「うん平気だよ! みやぽんも心配かけてごめんね」


 左肘をぺしぺしと叩きながら答える松子に、部長は「痛みはない?」とさらに尋ねた。


「はい、大丈夫です。こんなのすぐに治して、部活に戻ってみせますよ!」


「無理するなよ」


「ごめんね松井ちゃん、私たち松井ちゃんひとりに負担かけすぎちゃった」


「いえいえ、怪我したウチがアホなだけですから、謝らないでくださいよ」


 終始明るく振る舞う松子だが、俺たちが見抜いていないわけがなかった。こいつ、絶対わざと元気に見せているんだと。


 俺と部長は宮本さんに松子の話し相手を任せ、一旦ふたりで部屋の外に出る。そしてリビングのテーブルで、手を組んだまま項垂れていた松子のお母さんの元にそっと歩み寄ったのだった。


「あの、すいません」


 部長が小さく声をかける。お母さんはゆっくりと目をこちらに向けた。


「遥香さんは大丈夫だとは言っていますが……実際のところ、治るのにどれくらいかかるとお医者さんは言っていましたか?」


 お母さんは視線を逸らしつつ、ぼそっと答えた。


「早くて……3週間だそうです」


 俺と部長は大きく目を開いて顔を向け合った。おいおい、文化祭本番ギリギリじゃないか。


「うちの子、あれで頑固なところあるから平気そうにしているけど、ものすっごく痛いはず……」


 話しながら、お母さんは顔をテーブルにうずめてしまった。


 途端俺も悔しさがこみ上げ、自分で自分の頬をひっぱたきたい衝動に駆られる。あいつがこれまでもかなり無理してきたであろうことは、クラスも部活も同じ俺自身が既に勘付いていたのに。適任だからとあんなに負担のかかる役割を数多く引き受けて、どれもこれも全力で取り組んでいたのをすぐ近くで見てきたのに。


「もぅお母さん、余計なこと言わないでよぉ」


 俺がぐっと握りしめた拳をぷるぷると震わせていると、突如バタンと扉が強く開けられる音が家の中を駆け巡る。見上げると、吹き抜けの2階から松子がこちらを覗き込んでいた。顔はいつものへらへらとした調子だが、言葉の端々から刺々しさが感じられる。


「ウチは大丈夫だからさ、気にしないでってば。ほらほら、みやぽんもせっかくの午後休みなんだからどっかで遊んできなよ」


 そう言って松子は宮本さんを背中から小突きながら、ずんずんと階段を下りる。15cm近く身長の違う宮本さんは、松子の勢いに圧されてあっけなくリビングまで退散させられたのだった。


 その時だった。何の前触れもなく、じゃじゃーんとピアノの和音がリビングに響いたのだ。


 何事と、全員が同じ方向に顔を向けた。そこで俺の目に映ったのは、椅子に腰かけてグランドピアノの鍵盤を叩くおかっぱ頭の女の子だった。


結月ゆづき! お客さん来てるのよ!」


 お母さんがずんずんと近寄る。


「あー、でも休みの日この時間になるとピアノ弾かないと落ち着かなくって」


 振り返ったおかっぱ頭の少女はお母さんにぼうっとした顔を向けて答える。まるで「それがどうかしたの?」とでも言いたげだ。椅子に座っているので正確にはわからないが、宮本さんよりも小柄に見える。


 もしかしてこの子が、松子の話によく出てくる妹か?


「あ、お気になさらず。長居するのも申し訳ないので」


 俺は両手を振りながら口をはさむ。それを見て結月ちゃんと呼ばれた少女は「ほらーお客さんもああ言ってるし」と俺を指さした。


「ごめんね、ウチの妹、すぐピアノ弾きたがるから。また明日、学校でね!」


 俺たちの視界を塞ぐように、松子がすっと割り込んだ。そして俺の背中をぐいぐいと押して、強引にこの場から移動させる。


 そして玄関まで押し出された時のことだった。リビングからなんとも美しい、繊細ながら芯のあるピアノの音色が聞こえてきたのだ。


 驚いたことに、曲はリストの『ラ・カンパネッラ』だった。もしあの妹が弾いているのだとすれば、世界的な難曲を小学生にして完璧に弾きこなしていることになる。


 しかも正直に言っては何だが……以前松子が楽器屋で演奏したものよりも格段に上手かった。


「ほらみんな、またね!」


 最後はまるで突き飛ばすように、俺たち3人を家の外に押し出す松子。そして俺たちがアスファルトの上でふらついている隙に、玄関の扉を固く閉ざしてしまったのだった。

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