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第一章その5 いきなりピンチです

「えー、新入生の皆さん、えー本日はご入学おめでとうございます」


 校長の「えー」は入学式でも健在だった。新入生も保護者の皆さんも、笑いを堪えるのに必死だろうな。


 始業式の翌日、笠縫北中学の体育館では厳かな雰囲気に包まれての入学式が執り行われていた。


 その間ずっとパイプ椅子に座って式が終わるのを待っていた俺は、明日の演奏本番に向けて頭の中で楽譜を開いていた。そして右手の人差し指から薬指まで、3本の指をリズミカルに動かしながら身体に動きを叩き込む。


 もし出会った人が手持ち無沙汰な時に妙に指を動かしていたとしたら、「吹奏楽部でしたか?」と尋ねてみるといい。かなりの確率でイエスと返ってくるだろう。




 半ドンで授業が終わったその日、俺はまっすぐ部室へと向かった。他の部員たちも本番一日前となればさすがにお尻に火が点いたようで、手早く楽器を取り出して練習に取り掛かっている。


 そして個人練習もそこそこに、俺たちは合奏の準備を進めた。ハーモニーが不十分であろうと明日は本番、とりあえず今の状態で当たって砕けるしかない。


「先にチューニングやっておこうか」


 職員会議で遅れるという手島先生に代わり、眼鏡と三つ編みおさげの藤田部長が指揮者を務めてのチューニングが行われる。


「明日は本番だからね、はりきっていこう!」


 部長の指示に従い、クラリネット、サックスと部員が順に音を鳴らしていく。


 ちなみに余談だが、オーケストラにおけるコンサートマスターのように、吹奏楽ではオーボエがチューニングの基準となっている。オーボエは管の抜き差しにより音程が調節できないので、他のメンバーがオーボエ奏者に合わせるという形式を取るのだ。なおこの吹奏楽部のようにオーボエがいない場合は、代わりにクラリネットがその役を務めることが多い。


 木管のチューニングが終わり、いよいよ金管パート。トップバッターはトランペット、ギャルっぽい見た目の徳森さんだ。


 彼女の黄金色のトランペットから鳴り響いたのは、実にまっすぐできれいな音。だが、他の奏者よりどうも低い。


「徳森ちゃん、もっとクラの音聞いて」


 部長の指示で徳森さんは再び音を鳴らす。だがどうもこうもなかなか合わず、他の部員よりも何倍時間をかけても、うおんうおんという音のうなりは一向に収まらない。


 その内に徳森さん本人もいらいらして強く足踏みを始めたりと、不穏な空気が漂い始めていた。


 やがて部長は一旦音を鳴らすのを止めた。


「ねえ、合奏前にピッチ、合わせた?」


 そして詰め寄るような物言いで、徳森さんに問い質したのだった。


「そんなの、今やればいいじゃないですか」


 部長の指摘に、徳森さんは面倒くさそうに返す。一見穏やかな部長もさすがにこの態度にはカチンときたようで、さらに問い詰める。


「今日、合奏まで練習何してたの?」


「ふつーに友達とおしゃべりしてて、さっきここに来ました。そしたら今日いきなり合奏だったんで、チューニング合わせる時間ありませんでした」


「だめだよそういうのは。合奏の間は個人練習ができないんだから、みんなの時間を削ってるって自覚持って!」


 部長は語気を強めた。かなり頭にきているようだが、これでもだいぶ抑えているのだろう。


「もっとちゃんとやろうよ!? 明日本番なんだからさ!」


「あっそ!」


 だがそんな部長の叱責を受けた途端、徳森さんはトランペットを手に持ったまますっと立ち上がる。


「そんなにやりたいなら、やりたい人だけでやればいいじゃないですか! 私、そこまで本気でやろうとか思ってないんで!」


 そして彼女はつかつかと歩き出すと、壁際にあった自分のトランペットのケースを乱暴に持ち上げる。


「徳ちゃん、ちょっと待ってよ!」


 他の部員の制止にも聞く耳持たず、やがて彼女はケースごと部室から出て行ってしまったのだった。


 ぴしゃりと強く閉められる引き戸。しばらくの間、嫌な静寂が部室を包む。


「やーねえ、またあの子へそ曲げちゃったわよ。あれは2、3日練習に戻って来ないわね」


 最初に口を開くのは俺以外の唯一の男子、トロンボーンの筒井つつい先輩だ。話し方はオネエではあるが、これでも歴とした男性である。


「また、やっちゃった……」


 冷静さを取り戻して沈み込む部長を、3年生のホルンの女子が「あれはあの子が悪いわ、気にすることないよ」と励ます。


 どうやら徳森さんのこういった行動は今に始まったことではないようだ。部員たちも「やれやれ、またか」と呆れた顔を互いに見せ合っている。


「ねえ、ほっといていいの?」


 俺はくるりと後ろを向き、コントラバスを構えている松井さんに尋ねた。


「うーん、ああいうの珍しいことじゃないからねぇ、いつも何日かしたら戻ってくるから。それに追いかけても、今の徳森ちゃんには話通じないと思うよ」


 そう話す松井さんの口調は、努めて明るく振る舞っているように見えた。長年の付き合い故、よくわかっていることも諦めていることもあるのだろう。


「でも、今回はちょっとまずいんじゃない?」


 3年生のバスクラリネット奏者が気まずいようすで声をあげる。その指摘を受けて2秒ほど経って、藤田部長は「あっ!」と顔を上げたのだった。


「そうだった、徳森ちゃん、ソロあるんだった!」


 この『花唄』は終盤、4小節のトランペットソロがある。曲が最高潮に盛り上がったところでのメロディーラインと実に美味しい役柄だが、あれが無くなってしまえばこの曲の魅力はがくんと落ちてしまうだろう。


「今から曲変えるの、できる?」


 部長は慌てて皆に尋ねる。だが部員たちは、全員黙り込んだまま下を向くばかりだった。


「どうしよう……今から代役立てるとか……」


「あの、すみません」


 藤田部長の顔がみるみる青ざめていくのを見て、俺は我慢できず恐る恐る手を挙げた。


「トランペット、ソロだけですが代わりに俺が吹きましょうか?」


 途端、全員が「え!?」と声をハモらせてこちらに視線を向ける。


「できるの!?」


 部長は驚きと期待とで身を乗り出しながら俺に訊いた。


「ユーフォとペットは運指うんしがいっしょですし、4小節だけなら楽譜見なくてもいけます。徳森さんが嫌がると思うので、他のペットを使わせてもらえるなら」


 話を聞いて、部長は他の部員全員の顔をぐるりと見まわす。そして誰からも反論の声が上がらないのを確認すると、「砂岡君!」と両手を合わせて懇願したのだった。


「ごめん、お願い!」

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