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第十一章その3 暑いと腐る?

「ユーフォ、チューニングずれてますよ。ちょっと音が高くなっています」


「先生、暑すぎてピッチが上がりまくりです。これ以上2番管抜いたらすぽって落ちます」


 合奏の最中にもかかわらず、俺はチューナーに電源を入れて譜面の前に置き、管を少し抜いてチューニングB♭ベーを鳴らした。液晶画面の中で針が振れる。やがてちょうど真ん中でぴたりと静止したところで、「OKです」とサインを返したのだった。


 気温の高い夏場は空気が膨張し、密度も小さくなってしまう。空気も振動しやすくなるため、通常よりも高い音が出てしまうのだ。


 だからこそ金管パートの奏者は管のスライドを、木管パートはマウスピースと楽器の接合部を少し抜き、管全体を長くしていた。管楽器は長ければ長いほど音が低くなる構造であり、音程を合わせるために管の一部を抜き差しして長さを調節できるようになっている。


「この暑さだもんねぇ」


 弓を手にしていた松子はぐでっと肩を落としながら、開け放たれた窓の外にちらりと目を向けた。


 雲ひとつない青空に、焼け付くように輝く太陽が浮かんでいる。今年の夏は全国的な日照不足と取り沙汰されていたけど、その反動でか9月になってようやく遅れて夏がやって来たような気がするよ。


 風もほとんど吹き込まない猛暑下の校舎での合奏は、拷問と言っても差し支えない。特に立ちっぱなしの弦バスやパーカッションはかなりしんどいだろう。


 だが暑くてやる気出ないので練習もお休みです、とは言えない。今週末はいよいよ本番、公民館まつりだ。


 公民館まつりには地元小学校のPTAや老人会など多くの団体が関わっているそうで、予想以上の人の入りが見込まれている。俺たちは昼飯前、屋外の駐車場に設けられたイベント広場で10分弱のステージを任されている。


 演奏する『Mugen』と『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は2曲ともそこまで難しくはない。だがみんな知っている有名な曲であるだけに、下手な演奏をすれば悲しいほど目立ってしまう。コンクールほどかっちりしなくても良いのでミスなく丁寧に、だがノリノリで吹くことが肝心だ。


 浮き上がった汗が肌を濡らし、体温以上に温まった楽器にべたっと汗が付く。こりゃ後でしっかり拭き取ってやらないとな。




 夕方、合奏が終わった頃には、俺たちは干からびてからっからのメザシになっていた。


「あーしんどかった。暑すぎてちゃんと練習したって気分があんまししねぇ」


 俺は水筒をほぼ垂直に傾けて、中に残った最後のお茶を喉に流し込む。2リットル近く入るビッグサイズなのに、もう空っぽになってしまった。母さん、いつも大量に麦茶作ってくれてありがとうね。


「うん、あっという間だね。まだコンクール終わったばっかりって気分なのに、もう次の本番だもんね」


 宮本さんもこの暑さには参ってしまったようで、ベルを下にしてチューバを床に立てると、ウサギのマスコットが描かれたタオルで額や腕の汗を拭っていた。


「私、もうちょっと残って練習する」


 どこからそんな元気が湧き上がってくるのやら、部員たちがゾンビのようなうめき声をあげる中、徳森さんはトランペットと譜面台を持って席を立ったのだった。


「とくちゃん張り切ってるね」


 疲れて椅子にもたれかかっていたクラリネットの2年生が声をかけると、徳森さんはよくぞ聞いてくれましたと言いたげに振り向いた。


「うん、本番弟が見に来るから、カッコよく演奏してるとこ見せてあげなきゃじゃん。じゃ、そういうわけで部室の鍵開けといてねー」


 そう言い残して部室を出る徳森さん。ぐったりとした部員たちは「いってらっしゃーい」と手を振るばかりで、誰も後に続こうという気力すら湧き上がってこないようだ。


「ホント、とくちゃん弟君ラブだよね」


「でもわかる、とくちゃんの弟めっちゃ可愛いんだもん」


「うん、前に見たことあるよ。5歳でもう金髪に染めちゃって、かわいいの」


 木管の女子がひそひそと話す。さすが徳森家、ある意味英才教育だな。


「みんなも家族見に来るの?」


 不意に宮本さんが周りの部員に尋ねると、松子が頷き返した。


「うん、ウチは妹来るよー。あの子、中学ではもう吹奏楽部入る気満々だよー」


「マジかよ」


 俺はあんぐりと口を開けた。


「来年うちの部活、お前がふたりになるのか? もう動物園だよ」


「しっつれーだなー、ウチだって家じゃ徳森ちゃんみたいにお姉ちゃんやってるよー」


 むっと頬を膨らませる松子。しかしこいつならろくでもないことばっか妹に教えていそうだな。


「じゃあ砂岡は?」


「うちは来ないよ。むしろ来てほしくない」


「ええ、せっかくの機会なのに?」


 宮本さんも訝しげに尋ねる。


「実はうちの両親、母さんが昔ピアノやってて父さんが大学でマンドリン部だったからふたりとも耳が肥えてんのよ。おかげで演奏聞いたらテンポずれてんぞとかピッチ合ってないぞとかステレオでダメ出ししてくるわけ。そんなんだから、やがて息子は親に演奏を聴かせなくなりましたとさ」


 乾いた笑いを浮かべる俺を見て、松子と宮本さんは互いに歯切れの悪そうな顔を向き合わせるしかなかった。


「そういえば……先輩、文化祭の曲どうなったんですか?」


 この微妙な空気を吹き飛ばすためだろう、宮本さんはちょうどクリーニングロッドにガーゼを巻き付け、トロンボーンの長いスライドに突っ込んでいた筒井先輩に思いついたように尋ねる。


「ないしょー。でもきっと満足してもらえるわよ」


 しかし先輩は管の中を掃除しながら、ふふっと色っぽく笑うばかりだった。


 10月の文化祭で何を演奏するかは3年生が決める。選曲会議はずっと前に終了し、楽譜も既に注文し終えているそうだが、下級生はそのラインナップを1曲も聞かされていなかった。


「部長ならアニメの曲入れてきそうだね。部長かなーり腐ってるから」


 コントラバスの表面をクロスで拭き取りながら、松子があっけらかんと発言する。


 途端、指揮台の前で水筒に口を付けていた藤田部長がぶふっと吹き出し、ホルン1年の江口さんがギラっと眼鏡を光らせて「え、部長どんなカプお好きですか?」と嬉しそうに尋ねた。


「ど、どうして知ってるの!?」


 部長がゴホゴホとむせながら腕を伸ばす。しかし松子は「えへへ、ないしょー」と満面の笑みで返すばかりだった。


 あーでも確かに、よくよく思い返してみたら一度部長の部屋に上がったとき、本棚にメジャーどころの週刊少年誌から地元の本屋じゃ売ってないようなマイナー月刊誌の連載作まで漫画がぎっしり並んでいたもんな。部長の主戦場はあのどこかなのかな?


 それにしても松子の情報収集能力やべえな。俺もうっかり下手なこと言わないようにしとこっと。


「ねえ、腐ってるって、どういう意味?」


 俺ははっと跳びあがり、慌てて振り返った。なんと宮本さんがきょとんと眼を丸めて、首を傾げながら松子に尋ねている!!!


「ああそれはね、男と男が」


 何の迷いも躊躇いもなく、ぺらぺらと話し出す松子。


 これはまずい!


 俺はすぐさま楽器を構え、持てる力のすべてを込めてマウスピースに息を吹き込んだ。


 何の音を鳴らしているのか自分でもわからない全力の大音量。ブオオオッと汚い爆音が鳴り響き、ン部室にいたすべての人間が「何だ!?」と反射的にこちらを振り向く。


 至近距離でユーフォの大音量を耳にぶちこまれたせいか、松子は「砂岡ぁ!」と耳を押さえながら叫んだ。


「どうしたのさいきなり、うるさいよ!」


 うっさい、お前は黙ってろ!


「宮本さん」


 ぎゃーぎゃーと文句を垂れる松子は無視して、俺は唖然としたまま固まる宮本さんにぼそっと声をかける。


「知って得することは何ひとつないよ、むしろ知らない方が幸せ」


「そ、そうなの? じゃあそうしとく」


 意味は分からずとも少なくとも俺の想いは伝わったのだろう、宮本さんはこくこくと頷く。


 ふう良かった、純粋無垢な吹奏楽部の天使に、危うくいらん知識を植え付けてしまうところだったぜ。


 なんだか今の一瞬だけでめちゃくちゃ疲れた。俺はユーフォを抱きかかえたまま、ぐでっと全身を脱力させる。


 ふと目線を前に向けると、部長が今にも泣き出しそうな顔で『グッジョブ』と親指を立てていたのだった。

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