第十章その2 来年こそ、絶対に!
お盆休みも終わろうというある日、俺たち一家は広島を発って滋賀へと戻った。そしてその日の夕方には、俺は汚れを落としてすっかりピカピカになったピエールをソフトケースに移し替えて家を飛び出したのだった。
ここ数日間楽器を触っていなかったせいで、さっきから吹きたい吹きたいと手がうずいて仕方ない。楽器を吹くのが習慣化してしまったら、毎日少しでも吹かないとどうにも落ち着かないのだ。
向かったのは、思いっきり音を鳴らせる河原だった。
慎重に土手を降りた俺は、ケースを開いてユーフォを取り出す。そして軽くバズイングで口を唇を馴らすと、楽器本体につないで腹の底から息を吹き込んだ。
稲穂の海に鳴り渡る大音量。久々に聴いたせいか、自分の音であっても以前の5割増しでよく響いているように感じられる。
楽器に触れる喜びに、俺は基礎練をさっさと切り上げて持ちネタの『星条旗よ永遠なれ』を頭から演奏した。やっぱ外で吹くならこの曲だよ、去年の体育祭のマーチングに向けて徹底的に叩き込んだ甲斐あってか、今でも頭で思い出すより先に指が動いてくれる。
そういえば今年の体育祭は、カサキタでもマーチングを復活させるんだったな。松子がドラムメジャーと聞くと言いようの無い不安に駆られるが、あいつはああ見えて合奏ではくだらないミスはほとんどしないし、何よりもすっと細身で背が高いから行進で見栄えがする。その点に関して言えば、この人選は適材適所と言えよう。
そんなマーチングでどんな曲を演奏するのかと楽しみにしながら、俺は一曲を吹き終える。どんなもんだいとマウスピースを口から離し、にっとしたり顔を浮かべたその時のことだった。
「砂岡くん、ノリノリだね」
不意に後ろから声をかけられ、俺は慌てて振り返った。なんと河原のベンチに、愛用の金色チューバを抱え込みながら宮本さんが座っていたのだ。
「い、いつからいたの?」
「星条旗吹き出してすぐくらいから。邪魔しちゃ悪いかなって、そっと土手下りてきたの」
そう言って宮本さんは悪戯っぽく笑って返す。大音量で吹いといてなんだが、今さらながら妙に気恥ずかしさがこみ上げてきたぞ。
「宮本さんもここに来てたんだね」
「うん、昼間は暑くてとても練習どころじゃないから、午前と夕方に吹きに来てるんだ」
そう言って宮本さんは大径のマウスピースに唇を触れさせると、チューバ特有の低音を河原に響かせる。休み期間中も毎日練習を続けてきたのだろう、彼女の音はコンクール前と比べても遜色なくクリアに聞こえた。
「そういえば広島帰省したんだって? どうだった?」
「うん、爺ちゃんも婆ちゃんも元気だったよ。お土産のもみじ饅頭、部活再開したら初日に渡すわ」
「わあありがとう。私、お饅頭大好き!」
宮本さんのためならもみじ饅頭くらい100個でも200個でも買ってきてあげるよ。
「で、実はさ……」
俺は抱えていた楽器を少し下げ、唐突に切り出した。声色の変化を読み取ったのか、宮本さんも吹いていたチューバを傾けてこちらに顔を見せる。
「行ってみたんだ、前の中学。みんな県大会突破して、中国大会に向けて頑張ってたよ」
「そっか、本当に強いんだね、砂岡君の学校」
「うん、みんなめちゃくちゃ上手かった。贔屓目無しで見ても、支部大会で金賞取れそうなくらい」
話しながら、俺はぐっと強く楽器の持ち手を握った。あの時の想いがまたしても蘇る。
「でも演奏聞いてたら、何で俺ここにいないんだろう、何でいっしょに吹けないんだろうって、すっごい悔しく思えてきたわけよ。めちゃ怖い先生に怒鳴られても、毎日遅くまでへとへとになるまで絞られても、それでもいっしょに練習してコンクールに出たいって」
楽器を持つ俺の手は、ぶるぶると震えていた。目の奥がじわっと熱を持ち、喉がからからに乾いたような感覚に襲われる。
「俺も関西……行きたかったよ……」
コンクール直後はそれほど思わなかったのに、今さらになってはっきりと言える。そしてもっと効率的な練習をすれば良かったとか、後悔の念が耐えきれないほどに押し寄せてくるのだ。
宮本さんはそんな俺を見つめながら、しばし黙り込んでいた。同情するような、少し突き放したような、どうともとらえられる不思議な表情で。
だがやがて彼女はふうと重いため息を吐くと、消え入りそうな声で話し始めたのだった。
「砂岡君、実は私もこの前ね、大阪の友達に会いに行ったんだけど……去年まで私の通ってた中学、今年は関西行けたんだってさ」
そう言ったところで再度こちらに顔を向けた宮本さんは、なんとも自虐的な笑みを浮かべていた。
「私もその時はすごいね、良かったねって素直に喜べたんだけど……今は逆、去年と同じで府大会止まりだったら良かったのにってすっごく性格悪いこと考えてる。県大会終わったときはカサキタも上手くなったし、今のレベルならこれで十分だろうって思ってたけど、でも結局それって単なる負け惜しみというか、自分自身にそう言い聞かせて無理矢理納得してるだけだったんだよね。そして気付いたの、今ははっきりこう言える」
話し続けるうちに、徐々に宮本さんの語気は強まる。そして最後に、すうっと息を吸い込んだ彼女は、叫ぶようにしてこう言ったのだった。
「私も関西、行きたい!」
ぜえぜえと息を切らす宮本さんを前にして、俺は硬直したように立ち尽くしていた。流れる水の跳ね返る音と、虫やカエルの鳴き声が不自然なほど大きく聞こえる。
驚いた。音楽に関しては部内で最もシビアで現実主義者である彼女が、こんなにも熱い想いを内面に秘めていたなんて。コンクールの結果発表でもあんなにクールに振る舞っていたのに。
「宮本さん!」
気が付けば自分から湧き上がる激情に任せ、俺はベンチの前まで歩み寄っていた。この子なら今の俺の気持ちを、まっすぐに受け止めてくれるだろうと、確信を抱きながら。
「来年は絶対行こう、関西!」
「うん!」
彼女は嬉しそうに頬を紅潮させると、強く頷いた。
転校当初はのんびり楽しく吹奏楽ライフできるよと思って入ったこの部活だったのに。いつの間にやら俺はかつての、いやそれ以上に激しい闘志をたぎらせていたのだった。




